The Spirit in the Bottle

旧「小覇王の徒然はてな別館」です。movie,comics & more…!!!

サウンド・オブ・サイレンス アーティスト

 無音の調べ。あんまり意識はしてなかったのだが今年は例年に比べてアカデミー賞関連の話題作を結構見ている。その中でも「ヒューゴ」と並んで「映画について語るために映画というジャンルそのものを起用している」というような作品、ミシェル・アザナヴィシウス監督作品「アーティスト」を観た。

物語

 1927年、ハリウッド。映画がサイレントからトーキーへ移り変わるその頃、二人は出会った。一人はハリウッドの大スター、ジョージ・ヴァレンンティン。一人は女優を目指す新人ペピー・ミラー。二人は出会い惹かれ合う。時代はトーキーへの転換期。サイレントこそ芸術と考えるジョージはトーキー製作へと切り替えた映画会社と手を切り自分で映画製作をする。一方ペピーは徐々にスターの階段を上がっていく。
 ジョージのサイレント映画とペピーのトーキー映画が同時に封切られジョージの映画は大コケ。いっぽうペピーは大スターとなっていた。一年後、いまや生活するのもままならぬジョージはオークションで自分の家財を売り払う。密かにそれを買ったのはペピーだった・・・

 サイレント映画というとまあチャップリンとかバスター・キートンとか思いつくのが普通かもしれないが僕の場合まずは「吸血鬼ノスフェラトゥ」と「カリガリ博士」そして「メトロポリス」。SFやホラーに偏ってしまう。言葉を喋らないサイレントと実際にセリフを喋るトーキー(以降)では当然演技のアプローチが違ってくる(厳密に言えば同じ「喋る映画」でも現在と1930年代のそれでは大分違うだろう。今名優と言われてる人がタイムスリップして過去に行っても評価されるかは分からない)。現代だとパントマイムを思い浮かべてもらえば分かりやすいと思うが言葉で説明できないと身振り手振りで表現するため大げさな動きになる。サイレントの頃はまだ舞台のほうが上等、という意識も強かったが当然舞台における演技ともまた違う。僕の好きなサイレントホラーはセットにもこだわり(いわゆるドイツ表現主義というやつである)サイレントならではの特色を上手く出していいると思う(これがカラーでトーキーだったら全然違っているだろう)。
 演技のアプローチが違ってくる以上、サイレントからトーキーへの転換期にはそこに上手く乗れなかった人たちも多かっただろう。現在我々がサイレント映画をDVDなどで見る時はそこには音楽がついてくるが本作「アーティスト」冒頭で上映されていた映画のようにサイレント映画には楽団がついており上映と一緒に演奏していた。彼らも職を失ったかもしれない。日本では弁士が映画の上映に合わせて解説をしていたが黒澤明監督のお兄さんは弁士だったがトーキーの登場によって職を失い、絶望して自殺を遂げている。この映画もそんな転換期に上手く乗り切れなかった役者の盛衰を描いている。
 この映画「アーティスト」はサイレント期をサイレント映画の表現で作品で画面のサイズも現在の16:9ではなく4:3であった。とはいえ例えばフィルムの傷みたいなものが再現されてたりすることのなく(タランティーノの「グラインドハウス」ではそのへんもこだわっていた)あくまでテーマを語る手段としてサイレントを採用したということだろう。なので後述するが純粋なサイレント映画の再現としてみた場合「反則」と思われるような部分もある。 
 主人公の大スタージョージ・ヴァレンンティンのモデルは一人は名前から分かる通りルドルフ・ヴァレンティノ。彼は自分の役目が分かっていたかのように1926年に亡くなっている。そしてもう一人は劇中の剣戟映画からダグラス・フェアバンクスだと思われる。フェアバンクスは1920年の「奇傑ゾロ」などで有名。余談だが「バットマン」においてブルース・ウェインの両親はこの「奇傑ゾロ」を観に行った帰り道に強盗にあって殺されたことになっている。「バットマン」の始まりは1939年だからそこから遡るとちょうど1920年ぐらいにブルースが子供時代を過ごしている計算。勿論ゾロがバットマンのモデルの一つでもあるからだが。ジョージを演じたジャン・デュジャルダンの容貌はよく似ている。本当に当時の俳優さんのようだ。
 ヒロインに当たるペピー役のベレニス・ベジョはあんまり当時の女優さんぽくはない(個人的印象だが)。その辺はそのまま古き我が道を行くジョージと新しい道を切り開くペピーの違いになってるような気もする。
 で、実はこの映画フランス映画なのだな。だからこの主演二人は主にフランスで活躍していて僕もこの映画で初めて知ったのだが、それが逆に本当に1920年代後半当時の人達に見える効果を促している。一方何人か出てくるアメリカの有名俳優たち、ミッシー・パイルジェームズ・クロムウェルジョン・グッドマンなどは逆に個性の強い風貌なため少し向いていなかったのではないか、という気もする。ところでマルコム・マクダウェルって冒頭少し出てきただけだったけど何だったんだろう。友情出演?
 ジョージにじっと付き従う二つの存在のうちの一匹(もう一人は運転手であるクロムウェル)犬のアギー(役者名)も演技が達者だったが少しあざとすぎたかな。まあ彼の演技もある意味サイレント映画的と言えないこともない。

 この映画は表現手段としてサイレントを採用している。サイレント映画はセリフを別のカットで表現するが当然全てのセリフをカット・インさせる分けにはいかない。そんなことしたら字だらけの作品になってしまう。当然直接表現されない部分が出てくるがこの映画に関してはそこが不思議なほど何言ってるか理解できるんだよね。物語の筋が単純である、ということもあるけれど。
 先述したとおり、サイレントは本来音楽もない。現在我らが見れるソフトに付いている音楽は当時も劇伴されたものかは分からない。「メトロポリス」では音楽の違うバージョンがあったりする。だから「アーティスト」劇中でトーキーの台頭を不安がるジョージの見る悪夢が音入り(しかしジョージは喋れない)というようなシーンは本来のサイレント映画ではありえない(勿論ラストも)。とはいえ技術的制約からこのスタイルを選んだのではなくあくまで表現手段としてサイレントを選んだのであるからそういうのは構わないと思う。「天国と地獄」や「シンドラーのリスト」において白黒の中に一部カラーが有るからといって「モノクロ映画として反則だ」という人はいない。そういうことだと思う。
 現在普通にカラーで撮れる時代にあえてモノクロで撮るということは当たり前の表現手段として認知されている。また特撮技術としては過去のものになったがストップモーションアニメも芸術的な表現手段として今でも十分通用している。今後はあえてサイレントを採用する映画も増えるかも。
 サイレントにこだわっていたチャップリンは映画「独裁者」の終盤で堰を切ったように長い演説をする。ラングの「M」では追い詰められた犯人がこれまた延々と自己弁護を繰り広げる。これらは現在では余り考えられない表現だ。トーキーに移り変わっての試行錯誤の結果かもしれない。

 ラスト、二人はタップダンスを踊りそのタップの音が響く。喋ることに躊躇することもない。もはや枷は外されたのだ。

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サウンド・オブ・サイレンス

サウンド・オブ・サイレンス

 個人的には「ヒューゴ」「アーティスト」にティム・バートンの「エド・ウッド」を加えて「映画の表現方法を利用して映画について語る映画」三部作と勝手にくくりたいと思う。
エド・ウッド [DVD]

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