The Spirit in the Bottle

旧「小覇王の徒然はてな別館」です。movie,comics & more…!!!

神は己の中にあり 沈黙−サイレンス−

 これまで実話であることを謳った超常ホラー映画等の感想ではしつこいぐらいに「フィクションの題材としては超常現象は大好きだけど実在するものとしては全く信じていない」というようなことを書いてきた。これは読む人に対して「僕はこういうスタンスですよ」と明らかにするためでもあるが、自分自身で自身のスタンスを再確認するためでもある。そりゃ小さころ(といっても中学生ぐらいまで)は信じていたこともあったのだが、今は完全に懐疑的。でもそういう態度で映画が楽しめないかといったら全くそんなことはない。
 これは宗教(ここでいう宗教は神宗教)でも同様で、僕は積極的に無宗教であろうと努力している。実家は浄土真宗でもしかしたら僕も自分の知らぬ間に檀家扱いされているかもしれないが、基本的にはどの宗教も信じていない。実家は神棚があって正月はそこにお供え物をし、お盆には寺(の墓場)に行き、クリスマスはケーキを食べるような節操のない(ある意味日本の典型のような)家庭だったのだけど(極めつけは両親は日本共産党支持者である)、逆に特定の宗教を押し付けられることもなかったのでその点では良かったと思う。この無宗教であろう、というのは逆に「他の人の宗教はできるだけ尊重しよう」という意味でもあって、自分は信じないけれど、信じている人をバカにしたりはしないように(努力)している。
 そんな宗教心のない僕だから、はっきり言って強い信仰心を持つ人の心というのは理解し難くはある。でもそこにロマンを感じたりをすることもあるわけで、今回はそんな神への信仰とロマンの物語でもある。遠藤周作の小説をマーティン・スコセッシが監督した「沈黙−サイレンス−」を観賞。

 17世紀中頃、ポルトガルリスボンに日本で宣教に従事していたフェレイラ神父が拷問にあって棄教した、という知らせが届く。棄教の知らせが信じられないフェレイラ神父の二人の弟子、ロドリゴとガルペは真実を確かめ、また日本での宣教のために日本へ赴くとを決めた。マカオで棄教した日本の漂流民であるキチジローの手引で長崎から日本に入国する二人。そこでは弾圧に負けず幕府に見つからないように信仰を続けるキリシタンたちがいた。二人は潜伏し、二人を匿う村人たちに儀礼を施しながらフェレイラの消息を辿ろうとする。やがて幕府の手が村に伸び、彼らをかくまったモキチやイチゾウは信仰を捨てなかったため拷問によって殺される。二人はふた手に別れフェレイラを探す。やがてロドリゴはキチジローの裏切りで幕府に捕まり棄教を迫られる。頑なにそれを拒むロドリゴだったが、やがて彼のために拷問にあうキリシタンや、棄教して今は沢野忠庵と日本名を名乗るフェレイラと出会い揺さぶられる。なぜこれほどひどい目にあっているのに神は救いをもたらさないのか。そして決断の時が…

 原作は遠藤周作が1966年に発表した小説で、日本国内のみならず世界20ヶ国語以上に翻訳されていて、20世紀の、キリスト教文学の最高傑作とも言われるそうだ。僕は遠藤周作というとまず竹中直人のものまねとかが思い浮かんでしまうのだが、遠藤周作自身キリスト教徒としての強い想いとそれ故に信仰に揺れた時期とがあってそれらがこの小説には込められているという。
 小説のモデルは実際にあった出来事で、フェレイラ神父が棄教したのは1633年。この時信仰を捨てずに殉教したのが、天正少年遣欧使節で有名な中浦ジュリアン天正少年遣欧使節の4人もその後帰国して禁教令が出る中で様々な人生を送っている)。ロドリゴ神父のモデルはジュゼッペ・キアラでやはり棄教して岡田三右衛門なる日本名を名乗る事になったのも史実通り。
 一般に現在「隠れキリシタン」というと「江戸時代に弾圧を逃れて密かに信仰を貫いたキリシタン」というイメージであるが、厳密には「カクレキリシタン(学術用語としては全部カタカナ)」は明治以降禁教令が解かれ、欧米の宣教師がやってきてもカトリックに戻ること無く江戸時代を通じて行われてきたもはやカトリックのものとは別の独自の信仰、教えが長い時を経て変わってしまったり、本来隠れ蓑のはずだった菩薩信仰(観音菩薩をマリア像にに見立てていた)などが混じったもの、を貫いた人々のことを指す用語なのだそう。現在でも一定数いるらしい。後は「踏み絵」も本来は「絵踏み」といって絵踏みのために用意したキリスト画などのことを「踏み絵」という。

 映画はフェレイラが長崎で信徒の壮絶な拷問を見せられるシーンから始まる。貼り付けにしたキリシタンに温泉の熱湯をかける。崩れ落ちるフェレイラ。フェレイラを演じているのはリーアム・ニースン。後述するがガルペ神父をアダム・ドライヴァーが演じていることもあり、堕ちたジェダイという言葉が脳裏をよぎる。「スターウォーズ」とは逆ではあるのだが。
 主人公のロドリゴを演じるのは「アメイジングスパイダーマン」シリーズ」のアンドリュー・ガーフィールド。彼のまるで少女漫画にでも出てきそうな風貌、そして33歳とは思えぬ童顔からある意味彼は理想を多い求める人の象徴である。その純粋さ故に苦しみもがく。
 もう一人のガルペにはアダム・ドライヴァー。「フォースの覚醒」では堕ちたジェダイカイロ・レンを演じていたが、ここでは最後まで信仰を貫くき結果として死を遂げる(あれを殉教とまでいえるのかはちょっとわからない)。「フォースの覚醒」の感想では「特にへんてつもないイケメン」とか書いたけど、よく見ると結構ユニークなルックスで、純粋そうなガーフィルドに比べると柔軟に、いざというときのサバイバル能力もありそうに見える(とはいえ一部のシーンで彼のほうが信仰に凝り固まってると見受けられる部分もあるが)。裸になるシーンも有るのだが、あれですね、結構ひょろっとしたタイプでアンガールズの3人目ッて感じ(ひょろっとした長身で特徴的な容貌の人を見るとすぐアンガールズの3人目って形容してしまう)。日本が舞台の物語のため主要となる外国人キャストはこの3人(後はイエズス会のヴァリニャーノ神父でキアラン・ハインズが出ている)だけ。実際に当時宣教師やキリシタンの間で使われていた言葉はポルトガル語だろけどそこは英語を基本に時々ポルトガル語の単語(パライソとかパードレとか)が混じるという形。通辞以外でも農民や武士が英語ペラペラなのはまあ映画としての都合。
 日本側のキャストは通辞に浅野忠信。名前こそないただの通辞(通訳)だが、きちんとキャラクターとして独立していている。
 原作における遠藤周作の分身とでも言えるのがキチジローで、演じているのは窪塚洋介。キチジローは家族が棄教せず焼き殺されたなか一人だけ生き残ることを決めた人物で、その後も何度も絵踏しては生きながらえ、ロドリゴの前に現れる。ユダのような人物と言われるが、ある意味彼を通して神はロドリゴに語りかけるような存在。何度も転向を繰り返し、最も信心が薄い人物のように思われた彼が最後の最後で見せかけの棄教をしていても実は一番しっかり信仰心を持っていたのではないかと思わせる。神は己の中にあり。
 そしてイッセー尾形演じる井上筑後守。この井上という人物は一応実在の人物で、元キリシタンという説もあり遠藤周作の原作ではその説を採用しているそうだ。つまり実は彼もフェレイラと同等の人物である。映画ではその部分が語られないが、その分純粋悪のような悪役としての魅力にあふれる。拷問や処刑など極悪なことをしておきながら、顔色一つ変えず、自分の行為を正当化するのに弁舌爽やか。イッセー尾形はここ最近の作品ならばタランティーノの「イングロリアス・バスターズ」におけるクリストフ・ヴァルツのランダ大佐、「ジャンゴ」のサミュエル・L.ジャクソンの奴隷頭スティーブンに匹敵する存在感のある悪役だろう。しかも死なないし反省することもない!彼の怪演を観るためだけでも観賞の価値はあると思う。
 その他、キリシタンとして小松菜奈加瀬亮が夫婦役として、最初にロドリゴが匿われる村の農民として塚本晋也などが出ている。個人的には片桐はいりが出てきてアダム・ドライヴァーとユニークなルックスのツーショットが観られたり、あるいはキリシタン弾圧の役人として菅田俊が出ていて、アンドリュー・ガーフィールドと並んだ時に「仮面ライダーZXとスパイダーマンだ!」とか変な部分で楽しめた部分もありました。
 後は、これは海外の人が観てどう思うのかは分からないのだけど、牢番としてちょっとだけ出ている青木崇高が一瞬の登場でも非常にチャーミングで強い印象を残したのだった。

 日本のキリスト教の歴史は(オカルト的な「キリストの墓が日本に!」的なのを除けば)1549年にフランシスコ・ザビエルによって宣教されたのが最初、とされる。そこから約半世紀は日本の歴史上でも最もキリスト教が受け入れられた時代であり、特に九州の一部はキリスト教王国の様相をなしていた。これには当時戦国時代で統制を取れる中央政府室町幕府や朝廷)が機能していなかったこと、群雄割拠の時代であり、各国の領主は外国との貿易(とりわけ鉄砲関連)に熱心だったことなども挙げられているだろう。ただ一部の大名はた単に実利だけでなく熱心なキリシタンとなり、大友宗麟小西行長高山右近などは熱心なキリシタンとして知られた大名である。特に大友宗麟キリシタンのための王国の建設を目指したこと、高山右近は秀吉の禁教令に従わず日本からマニラに追放されたことなどで外国でも有名である。
 劇中では「日本の風土にキリスト教は合わない」という人物がおり、似たような言説は今でも言われることがある。でも実際は決してそんなこともないわけで、キリスト教が日本で根付かなかったのは、ローマ帝国初期の皇帝が弾圧したのと同じように、日本の階級社会を脅かすと判断した権力者、豊臣秀吉や徳川将軍が弾圧したからに他ならない。
 映画では井上や通辞、あるいは「こっちも面倒くさいからさ、ちょこっと絵を踏んでそれで、終わりにしようや」みたいなことをいう役人など、一見すると日本側が寛容に理詰めで棄教を迫っているようにも見える。これが外国人が観てどう思うかはまた別なのだが、日本人が観て「棄教しないキリシタンや宣教師が悪い。自業自得」というような印象を持つものもいるかもしれないし、実際にツイッターなどで「キリスト教が悪い。やはり日本にはキリスト教は合わない」みたいな感想をしている人もいた。そりゃキリスト教にも古くはアレキサンドリアでの女性数学者ヒュパティアを虐殺した事件や、悪名高い十字軍、あるいは南米での布教など、虐殺する側に回った歴史もあるのだけれど、この件に関しちゃ純然たる被害者だと思う。初期の禁教令に関して「布教は日本を植民地化するための布石」みたいな意見もあるけれど、本気だったら禁教令が出ようと武力行使したと思うのでほぼ眉唾だと思う。日本をさして「沼」という表現が使われるがこれは日本の風土と言うより人の心のことなのだ。
 
 棄教したものの評価は哀れだ。キリスト教側からは裏切り者扱いされ、日本側でも棄教を迫っておきながら、最後まで信念を貫けなかったとして軽蔑もされたという。原作小説の「沈黙」は発表当時は棄教した側の立場を描いたことでカトリック教会から攻撃もされた。実際のフェレイラやキアラがどういう心情だったのかは想像する他ない。自身への拷問ではなく、すでに棄教を宣言したのに宣教師が棄教しない限り拷問が続き、自分の信念のために他のものが酷い目に合うのに耐え切れず棄教した、という描かれ方がされている。遠藤周作が救い上げたのはそういうどちらからも見放されたものたちだ。
 スコセッシは自身も経験なカトリックであり、キリストの生涯を描いた「最後の誘惑」を監督した後、やはり賛否両論の中カトリックの神父に渡されて原作と出会ったという。以来28年間映画化を模索し続けていた。主に台湾でロケが行われた本作はその執念ともいえる出来になっている。美しい風景と凄惨な拷問シーンは決してこれみよがしに強調されるわけではないが強い印象を残す。冒頭の熱泉をかける拷問やモキチたちに対する押し寄せる波を利用した拷問など、その美しい自然を利用した拷問もある。

 ちなみに本作「沈黙」はすでに1971年に日本で篠田正浩によって映画化されている。脚本には遠藤周作自身が関わっている。ここで面白いのはフェレイラを演じているのが丹波哲郎ということ。


 ほぼ同じシーンなんだけど、棄教して憑き物が落ちたように割りとさっぱりした趣もあるリーアム・ニーソンのフェレイラに対して、苦悩するキリストかラスプーチンかのような風貌の丹波哲郎のフェレイラ。日本版の方は口でロドリゴに棄教を勧めながら、信仰を貫くことを期待している風もある。見比べるのも一興。

 映画のチラシに記されていたもの。「長崎二十六聖人の殉教」が「江戸時代初期」ってなってるけど、これに関しては1597年の出来事だからおもいっきり豊臣政権(豊臣秀吉)による弾圧事件。確かに江戸時代のキリシタン弾圧は壮絶で過酷に過ぎたけれど、この発端ともいえるこの事件を江戸幕府のせいにされるのは良くない。悪いのは豊臣秀吉!なんどでも言っていいけど豊臣秀吉は過酷な重税、無意味な外征、理不尽な粛清と為政者としてやってはいけないことばかりやっているので日本史上でもまれに見る暴君!

 ラスト近く沈黙を破りロドリゴに語りかける神さまですが、是非そのシーンをサミュエル・L・ジャクソンに変えたMAD動画とか見たいです。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 明治維新を迎えて日本のキリスト教禁教は廃止されたが、すぐではない。最初は江戸時代の方針を貫いて禁教とし、出てきたキリシタンを弾圧したが、諸外国からの抗議によって禁教令は廃止されたのだ。結局この国を解き放つには過去幾つかの事例でそうだったように、外圧しかないのかもしれない。