卒論「『無名抄』の執筆意図 」第二章(2/4)

第二章『無名抄』の特色


第一節『無名抄』の特色

 まず、『無名抄』の特色を考えてみる。『無名抄』の特色として、
(あ)過去の出来事を注釈するにとどまること
(い)自己顕示が強く、自讃譚が豊富に記されていること
(う)数寄に関する話が多くあること

が挙げられるだろう。

 (あ)については、長明は『無名抄』において、自身の意見を述べる際にも、詳しく先人の例を述べており、自己主張が極端に少ないという意味である。同世代の歌論書と比較すると、その特徴がよくわかる。例えば、定家の『毎月抄』では、

哥の大事は詞の用捨にて侍るべし。詞につきて、強弱大小候べし。それを能々見したゝめて、つよき詞をば一向にこれをつゞけ、よはき詞をば又一向に是をつらね、かくのごとく案じかへし〳〵、ふとみほそみもなく、なびらかに聞きにくからぬやうによみなすがきはめて重事にて侍るなり。

と、自身の主義を述べるにとどまっており、なぜそのようにするべきであるのかが述べられていない。対して、引用した『毎月抄』と同じく、和歌の言葉遣いに言及する『無名抄』では、

歌はたゞ同じ詞なれども、続けがら・いひがらにてよくもあしくも聞ゆるなり。彼の友則が歌に、「友まどはせる千鳥鳴くなり」といへる、優に聞ゆるを、同じ古今の恋の哥に、「恋しきに侘びて玉しゐまどひなば」といひ、又「身のまどふだに知られざるらん」といへるは、只同じ詞なれどおびたゝしく聞ゆ。是は皆続けがら也

と、詳しく例を引いて述べている。松村はこのことに対して、

具体的典型的な事実談を提示することによって一般読者(といっても、歌よみを志望する者たちであろうが)を説得してゆくという解説パターンは、以下の八十にのぼる諸段においてもほとんど変わっていない。読者は、ほとんど事実からくる迫力によって、端的に長明の言わんとすることがらにうなずかされてしまうのである(1)

と評している。松村はさらに、長明が和歌に関する方向性を伴った理論的な方法、自己の歌人的立場を明確にうちだすという姿勢をとっていないことを指摘する。たとえば、『無名抄』四十九話「代々恋歌秀歌事」では、

今、これらに心附きて新古今を見れば、わが心に優れたる歌三首見ゆ。いづれとも分き難し。後の人定むべし。

と、断定を回避している。さらに、六十八話「近代歌躰事」では、結びで

しかあれど、まことには心ざしは一つなれば、上手と秀歌とはいづ方にもそむかず。いはゆる清輔、頼政、俊恵、登蓮などがよみ口をば、今の世の人も捨て難くす。今様姿の歌の中にも、よくよみつるをば謗家とても譏る事なし。(中略)されば一方に偏執すまじきことにこそ。

として、第三者的な中立の位置から身を投げ出すことはなかったとする。

 (い)については、他の歌論書と比較して、筆者が自分自身の体験を直接に語りかける話が頻出するということである。『無名抄』七十八話中、長明自身の歌が証歌として取り上げられている話も数に入れると

三話「隔海恋事」、      五話「晴歌一見人事」、
十一話「せみのを川事」、   十二話「千載集事」、
十三話「不可立歌仙教訓事」、 十六話「ますほの薄事」、
十七話「井手款冬蛙事」、   三十五話「艶書古歌事」、
四十話「榎葉井事」、     四十一話「歌半臂句事」、
四十七話「案過して成失事」、 四十八話「静縁こけ歌事」、
五十一話「歌人不可証得事」、 六十六話「会歌姿分事」、
六十七話「式部赤染勝劣事」、 六十八話「近代歌躰事」、
七十「故実の躰と云事」

があげられる。

 『無名抄』と同傾向の雑談的・随筆的な傾向を持っている『袋草紙』、『正徹物語』でも、著者自身が登場したり、自己の歌を語っている章段は数話であり、これほど多くはない。歌学書の筆者は言説を採録する立場にあるため、言説の外側に位置し、筆者本人が一話の主人公となったり、自己の歌について語ったりする例は稀である。

 (う)については、節を改めて詳しく述べる。


第二節『袋草紙』の数寄

 また、『無名抄』の特徴として、作歌論にとどまらず、歌語や歌詞の用法、歌枕や名所旧跡についての説話、歌人評、歌体論と、実に雑多な内容を有することは、先に述べた。中でも、『無名抄』は「数寄」と呼ばれる、和歌に偏執する人々の説話を多く載せる。このことについて、松村雄二は「全体的な統一感という点からいえば、清輔の『袋草紙』雑談部あたりの性質にならっているといってよさそうである」(1)としている。ここでは、『無名抄』がその体裁を参考にしたと思われる藤原清輔の『袋草紙』雑談部と比較して『無名抄』における特徴の一つである「数寄」について考えてみたい。

 『袋草紙』における歌人の数寄説話は、上巻に集中して現れる。顔が青白かったために「青衛門」のあだ名があった孝善は、少し愚かしいところがあったので、平服の際「私は勅撰集に入集した歌人なのだから、そのようなあだ名で呼んではいけない」といっていた話の後に、「昔より道を執するは興ある事なり」として、以降和歌に執着した人々の逸話を伝える。紹介される人物は実に三十人を超え、清輔の博識ぶりを伝える。しかしながら、『袋草紙』が伝える「道を執する」人々は、『無名抄』の数寄人とは異なり、「嗚呼」といわれるような、人に笑われる愚かしさ・狂気を有しているのである。

 「嗚呼」を秘めている人々の話を取り上げてみると、

(イ)顔が青白かったために「青衛門」のあだ名があった孝善は、少し愚かしいところがあったので、平服の際「私は勅撰集に入集した歌人なのだから、そのようなあだ名で呼んではいけない」といっていた話。
(ロ)九十日ある春を三十日しかないと和歌に詠んだことを指摘され、そのことを苦に死んでしまった長能の話。
(ハ)以言と斉名に文章生登用試験で作詩が課された際、具平親王が以言だけに助言をしたことを死ぬまで恨んでいた斉名の話。
(ニ)第三者によって自詠が褒められた手紙をわざわざ貰いに行き、錦の袋に入れて宝にした範永の話。
(ホ)明らかに劣っている自詠に執心して、判者に温情をかけてくれるよう頼んだ匡房の話。
(ヘ)月を見るために寝殿の南庇を閉めなかった輔親の話。
(ト)歌枕として有名な長柄の、橋造営時の鉋屑、また井堤の蛙だという干からびた蛙の死骸を、互いの土産とした節信・能因の話。
(チ)源経兼が国司だったとき、証拠不十分のため訴訟を受け付けなかった者をわざわざ呼び返した。不憫に思い何か物をくれるのかと思ってしぶしぶ蛙と、歌枕の説明をされたという話。
(リ)能因が小食で副食物を食べず、ご飯にふりかけのようなものをかけて食べていた話。
(ヌ)和歌六人党の内輪もめの話。

などを挙げることができる。能因に関しては、「嗚呼」の逸話が目立ち、特に(リ)に関してはもはや和歌と関係のない悪口のようにも思える。かといって能因に関して、「嗚呼」の面ばかりを記しているわけではない。『袋草紙』には、和歌の名所の前で下馬した能因に習って、俊頼や国行が下馬したり、身なりを整えたりする話があり、清輔はこの話に対して「殊勝の事なり」という評語を付けている。しかし、この話もどこか「そこまでするか」といった、秀歌に対する能因の狂気を感じ、前後の話との連環も相まって「殊勝の事」とは素直に感じにくい。

 「数寄」と「嗚呼」の関係については、三木紀人の論(5)に詳しい。三木によれば、「数寄者」という呼称は、時代によって意味が異なり、元来は「明るく軽やかで無責任な女たらしに対して、多少批判的なニュアンスを帯びて投げかけられた」が、それが中古から中世にかけて「自閉的でマニアックな者たちに冠せられるようになった」とする。そして、

歌壇の中心にいる人々は、いかに多くの情熱を持ち合わせていても「数寄」とはほとんどよばれていない。「数寄者」とは、孤猿風の暗さに隈取られているか「嗚呼」の趣があるか、いずれにせよ、どことなく異端な感じがある者を呼ぶ名だったのだろう。西行・長明の中に入るが、明らかに「狂気」の持ち主である定家が含まれないのはそのためかもしれない(5)

と「数寄」を定義している。『宇治拾遺物語』では「すきぬる物は、すこしをこにもありけるにや」(第十五ノ五)と紹介されており、「数寄」という概念は、現代でいう「マニア」や「オタク」というようなマイナスな意味も有していたと考えられる。

 数寄者を同情的に見ていた清輔も、決して積極的に数寄者に賛同していたわけではなかったことが、『袋草紙』の説話配列から見て取れる。『袋草子』上巻では、和歌の「道に執した」人々、即ち数寄者を紹介する話群ののち、和歌における盗作や失敗談、失敗した際の心得などの雑談が続く。そしてまた歌人の話に戻るのであるが、今度は公任の三船の才の話や、当意即妙に秀歌を詠んだ伊勢・永実の話が載る。常に滑稽さや狂気さを感じさせる数寄の人々の話とは異なり、いずれも巧みに歌を詠んだ人々で、どれも晴れがましい逸話である。それらの話のあとで、清輔の自讃譚が語られる。伊勢・永実に続き、清輔自らも当意即妙に和歌を詠んだ話と、「このもかのも」という歌語について、誰も思いつかなかった先例を訴え、歌合に勝った話である。見事な連環の構成であり、自讃譚がより効果的に映えるようになっているが、ここで注目したいことは、清輔が自身の自讃譚を「道に執した」人々の話群の中に置かなかったことである。感心な点もあるが、愚かしさが目立つ数寄者の話群と、手放しに評価することができる歌人の話群。この二つの話群のうち、自讃譚を後者に配置したことは、清輔が歌人として、数寄者たちよりも自身が高い位置にいると自負していたことを表しているのではないだろうか。それが言い過ぎだとしても、清輔は自身を積極的に「数寄者」と同列には語らなかった、ということはできるだろう。清輔は「能因の下馬の逸話」が示すように、数寄者に対して同情的であり、理解を示してはいたが、決して自身を「数寄者」とは呼ばず、一線を画していたのだった。


第三節『無名抄』の数寄

 対して『無名抄』はどうだろうか。『無名抄』は、

(ア)十六話「ますほの薄事」
(イ)十七話「井手款冬蛙事」
(ウ)二十八話「俊頼歌傀儡云事」
(エ)七十六話「頼実数寄」

において「数寄」の語を用いている。

 それぞれの内容を要約して見てみると、(ア)は、雨の日に歌人同士が集まって話をしていると、「ますほの薄」とはどのような薄なのかという話題になった。すると一人の老人が、摂津の渡辺にいる僧がこのことについて知っていると聞いたという伝聞を伝えた。これを聞いた登蓮はあわてて雨具を借り、雨の中を出掛けようとするのでその訳を聞くと、登蓮は今すぐその僧にますほの薄の話を聞きに行くのだと答えた。一同はあまりの突然さに、雨の上がるのを待ってから出掛けることを進めるが、登蓮はもし雨が上がるまでの間に、その僧が死に、もしくは私が死んでしまうかもしれないから、と反対を押して出掛けて行き、その薄について詳細を聞くことができた。非常な数寄者といえる。登蓮はこの薄の詳細を大切にしていたという。のちにこの薄についての知識は、三代目の弟子である長明に引き継がれることになった、という話である。

 (イ)は、「井出のやまぶき」「井出のかわず」という、有名な歌語を実際に見聞してきた人の話を聞いた長明が、ぜひ自身も井出を訪ねて実際に見聞きしてこようと思っているうちに、行かないまま三年の月日が経ってしまった、という回想譚である。最後に、登蓮が雨の中をあわてて飛び出したこととは比べようもない怠慢さであり、今の世の中の人は、昔の人に比べて数寄に対
する志と情趣が衰えている、という評語をつけている。

 (ウ)は、傀儡が俊頼の和歌をうたうのを俊頼が聞いて、自身の歌が広く人口に膾炙することを喜んだことをほめたたえる。また俊頼の話を聞き羨ましく思った永縁正僧は、琵琶法師に物を与えて自詠の和歌を方々で歌わせたので、世の人々は「有難き数寄人」とほめたたえた。さらに道因法師は、またこのことを羨ましく思って、今度は物も与えずに盲人たちに自詠の和歌を歌うように強要したので、世間の笑いものになった、という話である。

 (エ)は、源頼実は大変な数寄者で、自身の寿命のうち五年を献上する代わりに、秀歌を詠ませてくださいと住吉明神に祈願した。そののち数年たって重い病気にかかり、加持祈祷をしたときに、下女に住吉明神が乗り移って、頼実が以前「木の葉散る宿は聞きわく事ぞなき時雨する夜も時雨せぬ夜も」という秀歌を詠めたのも、以前住吉明神に祈願したおかげであり、今度はいくら治療の加持祈祷をしても助かることは難しいだろうという話である。

 これらの説話を見ると、『袋草紙』との大きな違いに気づくことができる。すなわち、『無名抄』で取り上げられている数寄は、『袋草紙』で取り上げられている数寄に比べて、滑稽さや愚かしさを感じさせず、数寄とは一線を画していた清輔とは異なり、長明は数寄にあこがれ、数寄を目指していたことなどである。『袋草紙』での「数寄」と、『無名抄』での「数寄」とには、隔たりがあるようだ。これらの違いは、どこにあるのだろうか。詳しく見ていく。

 (ア)の話において、登蓮の行動は、和歌の知識を得るために、不確かな情報を頼りに、雨天をも辞さずすぐさま出掛けていくという「真摯さ」「ひたむきさ」が「数寄」と定義されている。また、(イ)の話は(ア)の話の裏返しで、和歌の知識を得る手がかりを聞きながら、三年間も放置している長明自身を反省するという、「怠慢」が「数寄ではない」と定義されている。これらの数寄者には、『袋草紙』にあるような、「孤猿的な暗さ」「嗚呼の趣」などは感じられない。登蓮は和歌の知識を得るためならば、雨も、無駄足を踏むことも厭わない。その行為には努力や根性、情熱などといった形容がふさわしく、ひたむきな明るさがある。暗い「数寄」と明るい「数寄」、両者にはとても大きな隔たりがあり、同じ言葉とは思えない。

 また(イ)において、「登蓮が雨もよに急ぎ出けんには、たとしへなくなん」と、数寄者登蓮を尊敬し、自身も数寄者の列に加わりたいと考えている。(ア)においても、登蓮がつきとめた「ますほの薄」の正体について「この事、第三代の弟子にて伝へ習ひ侍るなり」と、自己と登蓮との繋がりをわざわざ注記している。数寄にあこがれ、自らも数寄者を名乗る長明の数寄観は、数寄と一線を画していた清輔の数寄観とおおきな隔たりがあると言えるだろう。

 (ウ)の話では、自詠を世に広めるために努力を惜しまなかった永縁が「いみじかりける数寄人」と称賛されている。それに対して、自詠をただ歌え歌えと責め立てた数寄者敦頼入道は、世の人の笑いものになっている。一見清輔と同等の、愚かしさを感じさせる数寄観を思わせる。しかし笑われている対象は、敦頼の方法であり、自詠を広めたいという目的ではない。笑われてはいるものの、敦頼の志は、永縁と同様「いみじかりける数寄人」と評することができるだろう。ここにも、努力や情熱を至上とする長明の数寄観を見て取ることができる。

 (エ)の話は、『袋草紙』にも同様の話が収録されている。『袋草紙』では、頼実が住吉明神に命と引き換えに秀歌を詠ませてくださいと請願し、ほどなく「木の葉散る」の和歌を詠んだが、評判は上がらなかった。その後また住吉明神に参詣し、同じ請願をしたところ、夢に「すでに『木の葉散る』という秀歌をよんでいる」という神託があり、この夢を見たのち、人々は一斉に「木の葉散る」の歌を褒め称えた。また頼実自身は六位の時に夭折した、という内容である。『無名抄』の話とくらべ、『袋草紙』では頼実の死の記述が少なく、また、神託の後急激に和歌の評判が上がる記述など、住吉明神の不思議な神徳が強調されている。『無名抄』と同様に、頼実の死を詳しく記す話は、『今鏡』に収録されている。そこでは、『袋草紙』の話よりも、臨終の様子が詳しく物語られ、頼実が和歌への情熱ゆえに命を落としたことがより印象に残るよう書かれている。長明はここでも情熱の描写をより重視し、『今鏡』の話を採用したものと思われる。

 また、木下華子は『無名抄』における連環を指摘している(6)。「頼実数寄」(七十六話)の話の前に配置されている「五日かつみ葺事」(七十四話)は、橘為仲陸奥在任のころ、五月五日に軒先に菰をつるしていることを疑問に思い問うと、在所の庄司が、昔藤原実方が在任だったころ、この地方には菖蒲がないことを聞いて、五月五日には菖蒲の代わりに菰を軒先につるすように指導したことから、この風習が生まれたと答えた話である。また「為仲宮城野萩」(七十五話)は、その為仲が上京の折に宮城野の萩を長櫃十二個に入れて持ち帰ったために、今日ではそれを見物しようと大勢の人が集まったという話である。これら二話は様々な説話集に収録されているが、木下はその中でも、長明がより為仲の和歌へかける情熱を記述した説話を収録している、とする。そしてこの三話が、「歌詞・歌枕への情熱」(七十四話、七十五話)から、「和歌への執心と行為の非日常性へ」(七十六話)へと連環していることを指摘し、「常軌を逸する、いわば典型的な」数寄のあり方である頼実の行為に結び付けることで、『無名抄』では数寄を「和歌への強い情熱が、歌枕・歌語への興味、秀歌願望という形をとり、現実に常軌を逸脱するほどの行為として結実したもの」と定義しているとする。

 長明は数寄と、和歌の理想を分けることなく、数寄こそが、歌人として目指すべき境地であると定義づけた。そして、長明自身も『無名抄』における代表的数寄者である登蓮の、三代目の弟子として数寄者の系譜に身を連ねた。

 『袋草紙』にみられるように、数寄者を他の優れた歌人とは一線を画さず、特別扱いしない点に、『無名抄』の大きな特徴がある。長明にとって、数寄には特別の思い入れがあったことがうかがえ、自身が数寄者であることを記さずにはいられなかったことがうかがえる。ここに『無名抄』執筆にいたった一因が存しているのではないだろうか。

 なぜ長明は好評ばかりとは言い難い数寄の概念を再定義し、自らをその流れの中においたのだろうか。次に数寄とかかわりの深い『発心集』から、長明の数寄感を追っていきたい。