遠くから透かしてみればいつの時代にも冬なんて無いんだ。

『棺のない死体』だったか『首のない女』だったか、クレイトン・ロースンも、講談社版のジュブナイルでしか見つからず、学研の「カイウス」シリーズで謎解きの渇きを癒していた時代。年に一度出るかでないかの都筑道夫の新刊をご馳走のように舌なめずりしていた時代。
占星術殺人事件』を古くさいと一蹴していた時代を冬と言わずば、どの時代が冬だったのか。遡って、乱歩の大人向けの作品を探して、近隣の街中、古本屋を駆けずり回った頃(その頃はそれくらい巷に小さな古書店があったのだが)は、彼にとってはどんな季節だったろう。
やっと見つけたと思えばパラフィンにくるまれ高校生では買えそうもない値段で手の届かない書棚に並んでいたりする。
三面記事を引き延ばしたような屑でもなんでもよくて、読めさえすればよいものだったら、何時の時代も街中に渦巻いて暑苦しいぐらいだった。だから冬ではなかったというのだろうか。
翻って我が身を省みる。
若い読者に無造作に面白そうな本を推奨すると、あちこちで品切れ本が出てきてしまう。自分の手許にあれば、勿論もう探しはしないし、永遠に品切れになることもない。飢餓感にとらわれながら、きつい眼差しで先行者を見据える彼らにとっては、自分も冬を感じなくなった、生温く満足してしまった老人に過ぎなくなっているのかも知れない。