「胎内=再生の場」(2005年)

「胎内=再生の場」

なぜこの戯曲は、『防空壕』というタイトルではなく、『胎内』と名付けられたのだろう。
もちろん、『防空壕』より『胎内』の方が、芸術的にもアピール度においても、はるかにインパクトがあるのは間違いない。イメージも広がるし、単に太平洋戦争後の日本の一瞬を捉えた作品から、普遍的なテーマに繋がりもする。そして、何よりピンとくる。フィットしている。
でも、なぜ『胎内』なんだ?
母の話など、はっきり言ってほとんどない。大自然(マザー・ネイチャー)の話でもない。まったくの偶然に"防空壕"に閉じこめられた男女三人の、衰弱していく様子を描くことに撤しているだけだ。
なぜ『胎内』?
戯曲を読み返しながら、演出を考えると同時に、僕はずっとそのことにとらわれていた。

舞台美術や衣裳のプランが固まり、照明のイメージ、音響のイメージが定まって、いつものように上演台本の作成に入った。
僕は、常に既製作品の上演にあたって、上演用のト書きに書き直した台本を作る。その際、台詞もすべてコンピュータに打ちこむことにしている。
俳優が台詞を覚えることに比べれば大した作業ではないが、それでも"読む"という行為だけではなく、"書き写す"という行為を行うことによって、少しでも台詞を肉体化することができるのではないかと思っているからである。
なんでここをカタカナにしたんだろう?なんで前に出て来た時は漢字だったのに、今度は平仮名なんだろう?呼び名の変化、言葉づかいの変化、「……」と「──」の使い分け、様々なところにヒントがある。
"写経"の気分でもあり、これを通過すると、ずいぶんと作家が近づいてきたような感じがするのだ。

すると、あることに気がついた。
この『胎内』の台詞は、巧妙に会話形式にはなっているが、なんだか独り言=自問自答のようなのだ。
突然、自分のことに思い当たった。何かが"わかる"というのは、自分のことに思い当たることだったりするものだ。
以前、僕は芝居作りに行き詰まり(閉塞感)を感じていたとき、マサル(勝)とスグル(秀)という二人しか登場しない芝居を書いた。どこだかわからない部屋の中に二人はいる。出入り口はあるのだが、見えない壁があるらしく、何度も出ようとするがそれに跳ね返される。
その部屋の中で、二人はいつまでもいつまでも喋り続ける。それは会話のようではあるが独り言だ。僕自身の独り言=自問自答なのだ。
それを書くことによって、僕は過去を思い返しながら、未来を模索していた。再生を考えていた。
そして、その芝居のタイトルを、僕は『NAKED』と名付けた。『NAKED』=『裸』だ。
なんか似てる──僕はおこがましくもそう思った。

三好十郎は、この『胎内』を書くことによって、ある種の"再生"を果たそうとしたのではないか。
胎内とは再生の場だ、そう考えると、いろいろなことが腑に落ちた。
とても日本的な、それでいて普遍的な世界観。
そして、激しく"生"を求める強いエネルギー。
だからこそ、この戯曲には希望があると僕は感じるのだ。

21世紀を迎えて5年、今こそ日本にも世界にも、真の再生が必要な気がする。

鈴木勝秀(suzukatz.)

『ドレッサー』(2005年) 「Nowhere Man」 〜Isn't he a bit like you and me ? ヤツはちょっとあなたやぼくに似てないか?〜

『ドレッサー』(2005年)
「Nowhere Man」
〜Isn't he a bit like you and me ? ヤツはちょっとあなたやぼくに似てないか?〜

"ドレッサー(dresser)"という仕事は、日本語に直すと"衣裳方"ということになるのだろう。だが、このロナウド・ハーウッドの戯曲の中に描かれているドレッサーは、どうも"付き人"というニュアンスの方が強いようだ。
実際、ドレッサー=ノーマンは、座長以外の衣裳に関して何も仕事をしていない。しかし、座長に関しては、衣裳、ヘア・メイクだけではなく、身の回りの世話すべてをしている。影のように座長に寄り添い(ときには、実際に黒子としてプロンプもこなす)、スケジュールをすべて把握し、あらゆることを気遣い、道化のように笑わせ、励まし、座長の成功こそを自分の生き甲斐としている。夫人よりもはるかに献身的である。
まさに、座長という存在があって、はじめてドレッサー=ノーマンは実在できるかのようだ。裏返せば、座長の存在が消えたとき、それはドレッサー=ノーマンの存在も同時に消えることになる。

ノーマンの行動を支えているのは"貢献欲"だ。
人間にはいくつもの欲望があるが、中でも"貢献欲"は、それが満たされると最も快感を得られる欲望だと言われる。
愛する人のために、子供のために、親のために、尊敬する上司のために、会社のために、国のために、地球のために、正義のために、神のために……
そして、自分以外の何かの"ため"の行動は、どんなことでも正当化され、エスカレートする。実体のない自分をどんどん拡大していくことによって、さらに快感を得ようとする。

劇中、ノーマンは何度も"友だち"の話として、自分の過去を語る。
そこでイメージされるノーマンは、ジョン・レノンが「Nowhere Man」で描き出した空虚な人物像そのものである。座長に仕え、舞台裏を支えようと熱心に動き回るノーマンとはまったくの別人。"貢献"すべき何かがないと、こうも生命力を失うものなのだ。何か(誰か)に支配されることが、彼の生きるエネルギーになっている。

では、そのノーマンの貢献の対象となる座長はどうだろう?
ノーマンにとっては、"絶対"であり、唯一無比の存在だが、座長は座長で、何かに支配されているという感覚を拭い去れない。その何かとは、シェイクスピアであり、ナチスであり、観客であり、時代であり、彼を取り巻くすべてのようである。ノーマンを支配し、劇団を支配し、ある意味観客をも支配しながら、座長は自分自身こそが支配されているように感じている。
彼もまた「Nowhere Man」の一人なのである。
そしてそれは、座長夫人にもマッジにもアイリーンにもあてはまる。

われわれ人間は、社会の中でしか生きられない。個人は相対的にしか存在できない。そして、そこには必ず、支配=被支配の関係が生まれる。だが、それは簡単に逆転してしまう脆いものなのだ。
だからこそ、その関係を守ろうと必死になる。自己を維持できなくなるのが恐いからだ。そして貢献欲によって補強された支配=被支配の関係は、さらに強度を増し、硬直化し、ただひたすらどちらかが倒れる日を待つことになる。
だが、たとえどちらかが倒れても、残された者に解放感はない。あるのは、無力感、虚脱感だけである。
そして残された者は、再び「Nowhere Man」へと逆戻りする。

人は何か(誰か)から必要とされていたいのだ。
それはとても滑稽であり、とてつもなく切ない。
この『ドレッサー』が単なるバックステージ物の喜劇としてではなく、普遍的な輝きを放ち続けるのは、まさにその切なさが描かれているからだと感じている。

ノーマンはあなたであり僕でもあるのだ。

鈴木勝秀(suzukatz.)

『ヤバくなったら逃げろ!』

『ヤバくなったら逃げろ!』

 

自転車のロードレースでは、積極的にレースを引っ張ることを「逃げる=Breakaway」という。

さらに一緒にレースを活性化させるために、先行した選手同士で協力することを「逃げに乗る」という。

そして、一番長く遠くまで「逃げた」選手は、表彰され賞賛される。

自転車レース界では、「逃げ」は積極的行為なのだ。

だが近年、日本では「逃げ」を別の呼び名に変えようとする動きがあるようだ。

それは日本語の「逃げる」という言葉に、ネガティブなイメージがあるためである。

と言うより、日本人の中に「逃げる」という行為が、悪いこととして定着しているからではないだろうか。

逆に、諦めなければいつか夢は実現する!とか言って、「逃げる」ことを抑制する。

その結果、苦しいことを我慢したり、嫌いなことをやり続けたり、いるのがつらい場所から離れられない。

だが、紛争地帯をあげるまでもなく、逃げなきゃ死ぬときもある。

体が死んだらおしまいだが、精神的にも人は死ぬ。

そして逃げずにいるために、精神的に死んでる人はかなりいる。

ダ・ポンテの生涯を調べていて一番強く感じたのは、ダ・ポンテは自分を危うくする状況から逃げ続けたということだ。

逃げの天才。

それも今から200年以上も前に、イタリアの田舎町チェネダに生まれ、ヴェネツィアからウィーン、ウィーンからロンドン、ニューヨークにまで逃げ延び、最終的にニューヨークに30数年も居住しコロンビア大学の教授にまでなったのだ。

行く先々で、イタリアオペラを定着させようと、正攻法、搦め手を問わず精力的に動き回り、同時に女性問題、借金問題を繰り返しても、一向に懲りることのない精神力。

ダ・ポンテの生き様を見ていると、積極的に逃げようよ、という気分になってくる。

ここじゃないどこか──僕はいつもそれを考えている。

 

本日はご来場、誠にありがとうございます。

で、「ダ・ポンテ!ダ・ポンテ!ダ・ポンテ!」では、みなさんどうぞよろしく。

 

鈴木勝秀(suzukatz.)

 

Boys always work it out

Boys always work it out

 

アナザーカントリー。

少年はいつでも、ここではないどこかに憧れる。

同性愛、共産主義──大人たちが忌み嫌うものに惹かれる。

そして拒絶される。

だから苦悩し、反抗し、葛藤する。

だが、住めば都なんて老人の戯言だ。

現状に満足したら、それは若さを放棄したことになる。

ここではないどこか、現在ではない未来のどこか。

少年たちは、そこに生きる。

結果など、どうでもいいのだ。

 

鈴木勝秀(suzukatz.)

 

「A Cat Has Nine Lives」

「A Cat Has Nine Lives」

 

今回の『BOSS CAT』は、キャスト&スタッフを入れ替えての再演である。

初演は、2018年7月で、主演は京本大我

東京公演は、よみうり大手町ホールでわずか3日間、大阪公演もシアター・ドラマシティで4日間であった。

もっと長くやりたかったなあ──。

とは言え、とにかく念願の再演がかなったのだ。

それもこれも、あの初演があったおかげである。

大我くん、ありがとう!

そして、初演をまったく引きずることなく、『BOSS CAT』に新たな息吹を吹き込んでくれた檜山ネコ、ありがとう!

 

ところで、どうして「念願の再演」なのかと言えば、実は当初から『BOSS CAT』は9回再演しよう!、と勝手にプランしていたからである。

「ネコには9つの命がある」というセリフを入れたのは、9つの『BOSS CAT』を作ろう、というプランがあったからなのだ。

では、なぜ9回なのか?

 

イギリスには、「A Cat Has Nine Lives.(ネコには9つの命がある)」という諺がある。

僕は中学生のときに、ジョン・レノンの「Crippled Inside」の歌詞で知った。

シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の中にも登場するし、映画や海外ドラマでもよく使われているので、かなり一般的なものだと思う。

実際の会話の中では、簡単にはくたばらない、という意味で使われることがほとんどで、個人的にとても好きなフレーズである。

そして、初演のパンフレットに、こんなことを書いた。

 

「この芝居は、その……"バカ芝居"です。出てくるのはバカばかり。ネコは当然、王さまだろうが、姫だろうが、全部バカです。ですがここ数年、僕は自分もバカのひとりであることにようやく自覚がでてきました。以前は控えめに言って、自分はわりと利口なんじゃないか、と思いながら生きていたかもしれません。ですが人類全体がバカの集まりであることは、何と言うか、とても救いがあるような気がしています。"歌って踊って芝居して......どっこい今日も生きている" 本来、人間は強い。何があろうと生きていこうとする。しぶとい生き物なんです。」

 

というわけで、『BOSS CAT』はあと7回再演するつもりである。

あと15年くらいかかるのか?

う〜ん、簡単にくたばってたまるか!

 

本日はご来場いただき、まことにありがとうございます。

しぶとく生き抜きましょう!

鈴木勝秀(suzukatz.)



「正攻法」/『夏の夜の夢』演劇集団 円

「正攻法」

 

僕は演劇の一回性にこだわりがあって、創作カンパニーは公演が終わったら、その都度解散するのが望ましいと思っている。

個人的に、創作の継続はあくまで個人の問題なのである。

それに集団の維持はどうにも荷が重すぎる。

そんな僕ではあるのだが、演劇集団 円での演出は今回で4回目である。

どうも肌が合うらしい。

以前の西浅草の稽古場も現在の三鷹の稽古場も、妙に居心地がいい。

二十代の僕が十年間占拠していた早稲田大学演劇研究会と、雰囲気が似通っているからなのかもしれない。

それと取り上げて来た演目にも、共通点が多々ある。

いずれにせよ、僕は演劇集団 円の稽古場へやってくると、芝居を始めた頃の気持ちを思い出すのだ。

「芝居は遊びだ」

そして、稽古場は「仕事場」ではなく「遊び場」であるべきで、それを忘れてはいけない、と演劇を職業にした僕はときどき考えるのである。

 

さて、今回「遊び場」で、僕は「正攻法」で『夏の夜の夢』に立ち向かう、と言い放った。

では「正攻法」とはなんぞや?俳優陣は、考え込む。

もちろん、芝居における「正攻法」など存在するはずがない。

でも、演出家がそう言ってるので、俳優陣は考えざるを得ない。

しかし、僕が今回稽古場で具体的にやったのは、ソーシャルディスタンスを保つことだけである。

「近い」「離れて」「動くな」「向き合わない」

だが本来、抱き合ったり、掴み合ったり、もつれ合ったり、組んず解れつしながらの演技を、どうやって離れた場所で表現するのか?

俳優陣は新しい表現方法を考え続ける。

これまでの演技のあり方を見直し、検証する。

そして、いつの間にか、これまでと違った遊び方を発見し、稽古場は見事に「遊び場」としてのエネルギーを獲得していくのであった。

 

演劇に限らず、表現に制限・制約はつきまとう。

感染症対策というような制限・制約はないに越したことはないが、こうなっている現実からは逃れられるわけでもないし、演劇は現在とともになければならない。

だとしたら、この状況ですら前向きに捉えて、ポジティヴなエネルギーを発散するべきである。

そして、それこそが僕たち演劇人が発することのできるメッセージであるはずだ。

 

本日はご来場、誠に誠に誠に、ありがとうございます。

心より感謝致しております。

鈴木勝秀(suzukatz.)

 

「なぜかここで自己紹介」/『ピース』

私=スズカツの中には、演出家と作家と観客の3人が住んでいる。

演出家のスズカツは、かなりストライクゾーンが広く、ストレートプレイにミュージカル、コンサートにダンス、ウエルメイドに映画・小説・マンガ原作と、これまで舞台物でやらなかったジャンルはほぼない。上演台本も基本的に演出家のスズカツが書いている。だから、演劇の仕事の大部分は、演出家のスズカツがやっていることになっている。

それに対して、作家のスズカツは、驚くほどストライクゾーンが狭く、書きたいことにかなり偏りがある。もう35年もやってきて、『LYNX』と『シープス』と『ウエアハウス』、そして今回の『ピース』の元になる『セルロイドレストラン』の4シリーズをひたすら書き直し続けている。書き直すのは、時代感覚とかを意識しているわけではない。その時々の自分を反映させることを意識している。

また作家のスズカツは要求も強く、イメージに合った役者がキャスティングされないと本を渡さない。だから本を渡したということは、キャスティングに満足しているという証でもあるわけだ。特に、今回の橋本くんと英介さんの組み合わせに、作家スズカツは大満足、ゴキゲンさんなのである。

そうなると演出家スズカツは、今度はとても面倒くさい観客、3番目のスズカツを満足させなければならない。こいつは、普段、音楽を聴いてるかサッカーを見てるだけで、スズカツ作品以外ほとんど芝居を見ないで、ぼーっと暮らしている。そのくせ、自分は何でもわかっている風な口うるさいヤツで、しかも結構ミーハーでいつもキャストは大絶賛するのに、本にも演出にもダメを出したがる困り者なのだ。

ところが演出家のスズカツは観客のスズカツが大好きで、観客スズカツを喜ばせるために、いろいろ考えるのである。だが演出家のスズカツは、もともと「他力本願」をモットーにしているので、いろいろ考えてはみるものの、考えるだけで自分でどうにかしようとはあまり思わない。

「オレがゴチャゴチャ要求するより、はっしーと英介さん、それに吾郎くんとグレースさん──この4人に任せて、うまくいくように祈っていればいいのでは?願えば叶う。そうに決まってる、間違いない!」

というわけで、3人のスズカツはニヤニヤしながら、毎日楽しく稽古を見ているのであった。

ピース!

 

本日はご来場、誠にありがとうございます。

心より感謝致しております。

鈴木勝秀(suzukatz.)