ブログの引越

svelandski2018-08-31

旧暦 7 月 21 日 先負 乙未 八白土星 Arvid Vidar V35 25406 日目
 
はてなダイアリー」から連絡が来て、これまでのサービスは 2019 年春までで終了するとの通知あり。「はてなブログ」へ移行してくれとのことでしたので、それなら早く引っ越した方が良いかと思って善は急げで今日、突然、引っ越しました。引越しと言っても業者を呼んだり荷物をまとめる手間がないのが助かります。いつかかうなるのではないかといふ予感はありましたが、やはり、といふ思ひです。愚痴をこぼせば、これまでの「はてなダイアリー」の機能で僕は何一つ不自由がなく、負荷も軽くて良かったのです。「はてなブログ」は、あれやこれや色々な機能が豊富に揃ってますよと宣伝されて来るのですが、僕には不要な機能ばかりです。技術が進歩するとこれまで便利だった使ひ勝手が使用できなくなることも時々あります。これを機会にもうブログはやめようかといふ気持ちも随分働いたのですが、自分との対話をネットの向かう側に残すことは、僕個人にとってそれなりに意味のある日課の一部にもなってゐるので、もう少し続けてみようかと思ひます。これまでに書き続けた 3737 日分の記録がうまく移転できれば良いのですが、できなかったらボツでも仕方ないかと思ってます。あれはいつのことであったかなと、自分の昔のことをネット上で検索できなくなるのはちょっと辛いですけどね。
引っ越した先の URL は
https://sveski.hatenablog.com/
です。

プログラミング教育の是非

svelandski2018-08-30

木 旧暦 7 月 20 日 友引 甲午 九紫火星 Albert Albertina V35 25405 日目

昭和時代の日本の高度成長期に自動車やテレビが一般家庭に普及し始めた時、これからは自動車の構造をしっかり勉強しなければいけないとか、テレビは何故映るのかしっかり勉強しなければいけないとか、まして義務教育でそれらの知識を教へなければいけないなどと言ひ出す人は居なかった。そんな知識はなくとも生活の中に溶け込んで来るレベルのものでなければ一般市民に受け入れられないからである。それなのに、この頃は、AI の時代に備へてプログラミングの教育を小学校の義務教育にすべきだとか、ヘンなことが言はれてゐる。そんな知識がなくても使ひこなせるレベルのものでなければ製品として出回るのは失格なのである。ソフトウエアの中身がどうなってゐるのかなといふことを学ぶのではなく、この様な高度な技術が身の回りに寄せて来た時にどの様に自分たちは対処すべきかを考へられる様にすべきである。そのためには小学生のうちは読み書きと計算がしっかりできる様にしてやりさへすればもうそれで良いのだ。あまり勉強の間口を広げては害があるばかりと思ふ。どうしてもプログラミングの勉強をやりたい子に、「するな」とまでは言はないけれども。

善く生きるといふこと

svelandski2018-08-29

水 旧暦 7 月 19 日 先勝 癸巳 一白水星 Hans Hampus V35 25404 日目

毎日家に居てダラダラと生きると、人生これでも良いのかなと思ふ。特に気圧の低い日には己の元気も低下する気がする。将来機械文明がますます進んで人間のやる仕事がなくなって来ると、この様にダラダラと生きる人の数が増えるかもしれない。この頃目につく人の生き方の一つの傾向は、「生きてゐること自体に価値がある」みたいな考へ方だ。無理をせずに自然体で生きる。それは競争社会に傷ついた人々、もしくは忙しすぎる現代人たちの反省から生まれた態度かもしれない。基本的にはその様な考へ方に僕自身も同意したいと思ふ。ではあるのだが、やはりそれだけではいけない気もする。ソクラテスは、「一番大切なことは、単に生きることではなく、善く生きることである。」と言った。将来、仕事を見つけられない状況になったらどうしようと心配する人も居るかもしれない。でも、「善く生きる」といふシンプルなことを心がければ道は開けるのではないかといふ気もするのだ。それがどんな生き方を指すのかは無論自分で考へないといけないのだが。そんなことを思ひながらもやはり今日も僕はダラダラと日を過ごしてしまふ。

夏の最後のバラ

svelandski2018-08-28

火 旧暦 7 月 18 日 赤口 壬辰 二黒土星 Leila Fatima V35 25403 日目

中学2年生の時の音楽の時間であったと思ふ。「庭の千草」を習った。もちろん日本語の歌詞で教はったが、外国曲である。同じ曲がラジオから流れて来た時、曲名を直訳すれば「夏の最後のバラ」となることを知った。日本の家の整理をした時、同名の書籍が本棚にあった。父が読んだのだと思ふ。昭和44年に朝日新聞社から出てゐて、著者は大原總一郎(当時のクラレ社長)である。随筆集であるが、遺稿集ともなってゐる。巻末の年譜を見ると、58 歳で鬼籍に入られてゐる。先日亡くなったさくらももこさんも若くして逝かれたが、50代で逝ってしまはれるのはあまりにも痛々しい気がする。書のタイトルを考へたのは遺族の方であらう。僕は署名に惹かれてこの本をスウェーデンまで持って来た。随筆の中に二十年周期説といふ文章もあった。大原氏は3周期に満たずして逝かれたことになる。夕方散歩に出た時、バラを見たので、この本を思ひ出した。

青空文庫

svelandski2018-08-27

月 旧暦 7 月 17 日 大安 辛卯 三碧木星 Rolf Raoul V35 25401 日目

携帯小説といふアプリがあって、青空文庫はいつからかこのアプリの中で読むことができる様になった。今では作品もたくさん揃って、なかなか日本の本屋さんへ行くことができない僕は重宝する。と言っても、遅読ではあるし、何ほども読まないのであるが、何もやる気が起こらない日など、青空文庫から何かの小説をダウンロードして、横になりながら読むのもまた楽しみである。現代の作家の作品も読むべきなのかもしれないが、ひと昔前の本の方が落ち着くこともある。ハマってしまふとその日の予定が何もできなくなったりしてちょっと危険でもある。今日もそんな風に一日をダラダラとしてしまった。また、ダウンロードのランキングがわかるのも面白い。ちなみに今日見たところでの第1位は中島敦山月記」であった。その他、宮沢賢治芥川龍之介太宰治夏目漱石など人気が高い。いづれも無料で読むことができてしまふので出版関係の人たちは大変かもしれない。

「何故だろう」と思ふこと

svelandski2018-08-26

日 旧暦 7 月 16 日 仏滅 庚寅 四緑木星 満月 Östen V34 25400 日目

何事につけ、「何故だろう」と思ふことは大事なことと思ふ。でも、例へば「山のてっぺんを頂上といふ」といふ定義が示された後で、「何故山のてっぺんを頂上といふのだろう」と問ふてみてもあまり意味がない。高校の時の物理の時間に f = ma といふ公式を教はった。それを言葉で説明すれば「加速度の原因を力といふ」となる。これも力の定義を説明してゐるだけなので、なぜ、f = ma になるのかと言ってみても始まらない。りんごの実を枝から切り離すと、りんごの実はその位置に留まらずに下に向かって落ちて行く。それも最初はゆっくり、次第に速くなって落ちて行く。りんごの実にしてみれば加速度を感じたのであり、それは力を受けたからであると解釈する。物理学では力をその様に定義するので、日常会話で、「あの人は力がある」といふ時の「力」とは区別する。でも、万有引力の法則で、「二つの物体に働く力はその質量の積に比例し、距離の二乗に反比例する」と言はれると、「何故だろう」と思ふ。高校時代の物理の先生は「物理学はどの様に力が作用するかを説明する学問であって、何故そんな力が作用するかには答へない」と言はれて(昔の話なので僕の記憶違ひかもしれない)ずっと気になってゐたのだが、アインシュタインによれば重力は空間の歪みによることで説明されてしまふことが後年わかった。何事につけても「何故だろう」と問ひを発した時、「それはさういふものであるから、それ以上は説明のしようがないだろう」と答へられてしまふと、そんなものかなと思ってしまふ。物理学には、「さういふものですよ」と押し付けられる原理が多すぎるのではないか。「何故光速度一定であるのか」「何故エントロピーは増大するのか」「何故宇宙は限りなく膨張するのか」「何故ミクロの世界では位置と運動量を正確に示すことができないのか」などなど。これらの原理は、バラバラに成り立つ様に見えるが、僕らにはわからない、より根源的なひとつの原理から導き出される様々な現象の側面に過ぎないことはないのかと時々思ふ。

孫の子守

svelandski2018-08-25

土 旧暦 7 月 15 日 先負 己丑 五黄土星 Lovisa Louise V34 25399 日目

自動車で Stockholm へ行った。町では行事がある様で、道路はいつもより混んでゐた。孫はだいぶ色々なことが分かる様になったので見てゐると楽しい。例へば靴を履かせてもらふ時、すぐ近くのベンチを叩いてまづここへ座らせろと手で示す。トイレの照明のスイッチを自分で消したりもする。おしゃべりはまだだが、会ふたびに少しづつ進歩の様子が見えて、楽しいものである。