脱原発デモの方向性

身内の不幸があり実家に帰っていた。

ナイーブになっている事もあり、それと関係しているのか体調もすこぶる悪く、日記を書く気力が無いというのが正直な所である。


ただ何となくネットサーフィン(?)していた所、下記のようなブログの記事を発見した。

st43さんのブログ「四十三庵」より

脱原発デモを見ていたら自分が原発推進派だと気づいた」
http://d.hatena.ne.jp/st43/20110924/1316831612

ブックマークのコメントにも書いたが、極めて秀逸な記事である。

この記事でst43さんが怒っているのは、脱原発という考え方では無く、それを唱える側の言動についてである。

実は私もこのデモには違和感を持っていた。同時期に起こった「フジテレビデモ」などは、既にデモの動機の時点で破綻している為、論ずるに値しない。それに比べれば、脱原発デモの場合は動機自体はまだしっかりしていると思える。そもそも、3月11日の福島における甚大な事故を目の当たりにして、原発そのものに対して何らかの恐怖、忌避感を覚えるのは当然であると言える。ただこのデモでは、糾弾する相手が国、電力会社であり、果たしてそれが正しいのかという疑問が残るのである(勿論、福島第一原発事故の責任が東京電力にあるのは当然だが、このデモ隊の目的は「脱原発」であり、事故そのものについて追及をする事を主としていない。原発事故と脱原発は基本的に別問題である)。

st43さんは、次のように語っている。

ーーーーー引用開始
どうして東電も国も原発廃止に踏み切らないのか?
それは我々日本人が必要としている電力がそれだけ多いからだ。
莫大な電力需要を賄うために、原発という「必ず荒廃と犠牲をともなう」ものが必要なのだ。

原発推進派の主張はまるで、
「悪の東電・政府がコストカットのため原発という悪魔を使い続けて、市民の生命を脅かしている」
「自分たちは被害者だ!」
と言いたげだが、結局その原因はあなた方にあるのだ。
ーーーーー引用終了

その通りだと思う。そもそも原発は国民や企業の電力需要の高まりを受けて建設に踏み切った訳で、極端な話国民が原発によって賄っている分の電力をカット出来るのであれば、原発を使う必要は確かに無くなるのだろう。
デモ隊が国や自治体に原発を即時停止せよなんて主張して、はいそうですねと止められれば誰も苦労はしない。「生活レベルの低下」「電力使用料UP」と言った利用者側に負担が発生する事について、国民の理解を得る必要があるからだ。「脱原発」を達成出来るか否かの鍵を握っているのは、我々日本国民である。

要するに脱原発デモ隊の目的が文字通り「原発の廃止」であるのなら、それを訴える相手は日本国民であるべきではないのか?

デモ隊は次のように主張すべきである。

 「貴方達国民が電力を余りに無尽蔵に使いすぎた為、それに応える為に危険な原発を造らざるを得なくなった。結果取り返しのつかない事故を起こしてしまっているでは無いか。原発さえ無ければこんな悲惨な事故は起きなかった。どう責任を取るつもりなのか?今すぐにでも全原発を停止させなければならない。その為には、貴方達が電力使用を抑える必要がある」

これを日本国民に訴え掛け、世論を動かす。そして国民がそれを実践する。その効果を具体的な数字で提示出来て初めて、国に対し「原発やめろ」と訴える事が出来るのである。そして国民の電力需要という足枷が無い以上、原発廃止に乗り出す事が可能であるはずだ。国民の能動的な行動で国が動く。これぞ正に「民主主義」の体現と言えるだろう。


「フジテレビデモ」は意味そのものが無い。「脱原発デモ」は訴えかける相手を履き違えている。