スイス建国記念の日に思う…
今日8月1日は スイス建国記念日で祝日。
この日は何故だかわからないが、郊外の農家などでは、有料ブランチを催す習わしがあるようで、
ボク等は友人のKalt牧場へでかけた。
なんせ、ジュラ山脈方面なので電車を乗り継いで山の中腹の駅で下車、そこに牧場主のTomasが車で迎えに来てくれた。
牛たちが夏の間アルプで生活しているので空いている牛舎を利用してブランチのテーブルが50人分用意されていた。
Kalt牧場自家製のパンから始まり、各種ジャム、スモーク肉、チーズ、ケーキ、ゆで卵、ローシティ、スープ等など
ビュッフェ形式でテーブルに並べられ、食べ放題となっている。
それぞれテーブルに参加者のネームプレートがおいてあって、ボク等の隣にスイスドイツ語圏の中年女性の友人同士2人が座った。
食事も美味しく、隣席の女性等とも話が弾んで楽しい時を過ごしたが、ボクの横に座った女性は昨年、弓道の師範に会うために日本に行ったという話
あたりから特に弾んでスイスの弓道の普及ぐわいや、弓道そのものについていろいろな話を聞くことができた。
偶然なのかどうか?わからないが、たまたま袖触れ合う人々が日本文化に何だかの形で興味を抱いている人であることが、面白い。
と同時に、3月23日、4月25日、27日のブログに書いた問題・・・(特に禅をベースにした日本文化をこき下ろすフランス系知識人が存在する、という問題)
と同様のことが、先日行ったストラスブールでニコルが買った『俳句』のフランス語の本の序文にも、口汚い表現で日本文化の根源的なところをこき下ろすような文章を
発見してニコルは憤慨していたので、再びボクの心の中でこの問題が再燃していたので、なおさらこういった日本文化から何かを学ぼうとしている人に出逢うと面白くなるのだ。
この問題のことで、ボクはふと思ったのだが、これら日本文学などを学ぶ知識人達は日本文化を学んでいく内に一つの大きな壁にぶち当たるのではないか。
特に俳句や和歌、短歌など古ければ古いものほど禅的な香りが濃くなっていくに連れ、これら外国人知識人にとって理解不能なものが増えていく…というようなどでかい壁にいつか
ぶち当たるってしまうのではないだろうか。
まして、不立文字(言葉や文字では理解不能)の禅となれば、言葉を介してなんでも理解してきた知識人達にとって、勉強する道半ばで、不立文字みたいな世界観に出会った時
それに真正面から対峙するのでなければ、拒否の一手に陥るのはわからないではない。
しかし、だからといって禅をこき下ろせば、それは即日本文化の根底を否定することになるだろう。
西洋の学者、知識人達はこの辺のジレンマをどう対処するのだろうか。
いま、案外『 Haiku 』はヨーロッパで注目されている。ツイッターでもフランス語で俳句を楽しむグループがあって最近ボクもメンバーになった。