マーク・ボランの「Mind Tree」(3)- パリへの放浪。魔法使いに出会って魔法を伝授されたという話とは?


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パリへの放浪。魔法使いに出会って魔法を伝授されたという話とは?

▶(2)からの続き:15歳の時、パリに放浪の旅に出ます。きっかけはナショナル・シアターで知り合った俳優のリッグス・オハラとの会話だったようで、2人は一緒にパリに渡りました。15歳とはいえ売り込みに失敗したマークにとってこのパリへの旅は、マークの空想癖とファンタジックでダークなイマジネーションを大いに刺激したようです。マークはことあるごとにパリで、魔法使い(ザ・ウィザード)と出会い、5カ月の間、フクロウや大きく白いシャムネコと一緒に過ごし魔法を伝授されたので、自分には魔法の力があると信じるようになっていきます。「信じることこそ力」ということもありますので、以下の様なマーク一流のビッグトークと誇張の中にマークの信念のあらわれ方がみれるエピソードでしょう。「パリの魔法使い(ウィザード)から魔術から呪術、錬金術を学び、独りになる必要性を感じ、イタリアのローマまで足をのばし、「自己発見」しようとローマ近郊の森に入り2週間ほど滞在し、ロンドンに戻ってからも2年間の間、時間があれば魔術関係の書籍を読んでいたんだ」と。

The Wizard
ある日のこと、森の中を歩いていたら 自分こそ魔法そのものという一人の男に遭いました
とんがり帽子をかぶって 素敵なことをいっぱい教えてくれました
人が笑ったり泣いたりするのはどうしてなのか知っている
どうして人は生まれどうして死ぬのかも
亡霊のような影法師が彼につきまとっていました
彼は物音ひとつ立てず森の中を通り抜け
彼の戸口で待ち受けるのは黄金の鷲たち
床の上では猫たちやコウモリたちが遊び回っていました。
その瞳に銀色の日の光が射し込んだかと思うと 
魔法使いは背中を向けて
大空の中に溶け込んで行ってしまいました

出典:『ボラン・ブギー』シンコーミュージック 1986年刊

ランボーボードレールのように路上の観察者だった

ファースト・シングルがまさに「ザ・ウィザード」だったことを思い出しても、すでに『ナルニア国物語』などファンタジー・フリークだったマークが、リアルなパリの世界で、マークの「マインド・イメージ」のうちに生き続けることになる”何か”を「発見」したことは間違いないでしょう。ストリートの喧噪が好きで「観察」眼があったマーク(マークがユダヤ人だったことを思い出してほしい。都会生まれのユダヤ人は、写真家ケルテスやフランクやアーバスのように路上の「観察」からはじめた)が、大好きだったパリで何も獲なかったわけがないのだ。まるで手品師のように、路上にあるものなら何でも歌に変えていくことだってできた程のマークだ。そしてシンガーとは、見たものや心に感じたものを歌にする手品師であり、魔法使いなのだから。パリの後ローマに行ったという話も、ローマがかつてサーカスやピエロの都の一つだったことをおもっても(『フェリーニのローマ』や『道化師』)、その道行きが本当なのか、それともスピリチュアル・ジャーニーだったのか、もはや判然としなくなってきます。
パリ行きは魔法使いとの出会いだけがいつもエピソードとしてあげられますが、マークはパリの詩人たち、ランボーやベルレーヌ、ボードレールやポール・バレリーらの詩世界にも入れ込んでいました(彼らの詩はストリートを歌っていた!)。ということはマークのなかにある「マインド・イメージ(心の絵)」は、ファンタジーの「空想力」や魔法使いの「イマージュ」、それに詩の「宇宙」と路上の「観察力」が<化学反応>を起こし、そこにチャック・ベリープレスリー、ディランらのサウンドが流れ込み、マーク独自のリズム=コズミック・ファンタジーが駆動することになったわけです。そしてそこにモッズ・ムーブメントやスウィンギング・ロンドンの香りの「ファッション・センス」を身にまとえば後に「グラム・ロック」とも呼ばれるムーブメントの入口に立つことにもなるわけです。

何度もレコード会社のオーディションを落ちる

パリから帰国してから、マークは魔術的空気に包まれていたようで、夜中にチェルシーのキングス・ロードを歩いている時、ルーグという女の子と出会い、彼女から「魔法のネコ」をもらっています。マークはそのネコに女の子の名前にちなんで「ルーグ」と名づけ、いつもマークと一緒にいるようになったといいます。この「魔法のネコ」はマークのインスピレーションの源泉になります。実際どれほどのものだったのかはわかりませんが、ネコは古代エジプトの時代から、あの世とこの世を橋渡しする動物とされてきたので、非日常的感覚に敏感だったマークが、魔法のネコ「ルーグ」からインスピレーションを受けることがなかったと逆に言い切れることはできないでしょう。
翌年(18歳の時)、シンガーソングライターとして売れだしていたキャット・スティーブンスとアコースティック・デュオを組んでいます。すぐに解散することになり、マークはソロのシンガーソングライターとしてEMIレコードのオーディションを受けます。前回のオーディションで一度落ちた曲「ユー・アー・ノー・グッド」での再挑戦でしたが、曲のタイトル「ユー・アー・ノー・グッド(君はよくない)」とすげなく落ちました。しかし、マークにしてみれば、そちらこそ「ユー・アー・ノー・グッド(君はよくない)」だったにちがいありません。マークは、自分に「魔法」をかけるがごとく、自分の世界を強く信じだしていたことは間違いありません。マークは間違いなく「マインド・イメージ」が人の何十倍も強い人物だったに相違ありません。かてつ少年の頃、心の中に沸き上がってくるイメージやアイデアを粘土をこねくりまわして、その粘度にそうした「ヒラメキ」を移し(映し)とり、それを「絵」だと言っていたことを思い出して欲しい。マークは自分が歌っている姿を「絵」として、強烈な「マインド・イメージ」として保ちつづけることができたとおもわれます。

一緒に夢を実現させようと動いた男

マークの「マインド・イメージ」には、自身のイメージもしっかりと描かれていたようです。マークは若い頃から服装を気にしていましたが、スエードのモスキート・ブーツ(チャリング・クロス・ロードのミレッツで購入)とか、薄手のコーデュロイのパンツとかこだわるようになっていました。お気に入りのレザーのコートとシャツは、デザイナーのジョン・マイケルと取り引きしたもので、マークがいつも着て宣伝をする条件でもらいうけたものでした。
マークはヴァン・モリソン率いる「ゼム」や、ポップス・グループ「ザ・ナッシュビルティーンズ」の広報の仕事をしていたマイク・ブランスキのオフィスに意を決して出向きます。この時、マークは物語、詩、曲と、とにかくいろいろと書いていましたが完成している曲はあまりなかったといいます。できていた曲は「ウィザード」ほか幾つかくらいで、マークは粘度をこねるように、気にいるまでどんどん詩や曲を書き直していく(こねていく)タイプだったので完成形をすぐに求めなかったようです。
ブランスキはマークがアイデアを豊富にもち、音楽的センスも野心もあり、カリスマ性も充分にあると判断します。ブランスキは会社にマークの可能性を打診しましたが、会社側はのってくれません。するとブランスキは会社に辞表をだし、マークと一緒に夢を実現させようと動きだしたのです。それはマイク・ブランスキ自身の野心でもあり夢でもあったにちがいありません。ブランスキはマークと契約を交わします。そして2人はなんと一緒に暮らしはじめるのです。
みつけた場所はマンチェスター・ストリートの地下フラット。家賃週8ポンド。リヴィング、キッチン、ベッドルームが2つある当時としては贅沢な部屋だったといいます。ブランスキは、マークにイケてる名前を考えだします。フランス人ファッション・デザイナーのマーク・ボハンの名前をヒントに、同じファースチネームのマークのMarkをMarcにし、マーク・ボハンのBohanをBolanにし、直感から、oの上にウムラウトをつけたのです。どうやらマークはすぐにこの名前を使ったのではなく、セカンド・シングルをだした後にマークの判断で使いだしたようです。ともあれ2人はデッカ・レコードとかかわっていたプロデューサーに会いにいきます。最初は結果はでませんでしたが、無名で才能ある新人を探していたデッカ・レコードがマークに興味をもったのです。

デッカ・レコードと契約。ぱっとせず契約も切れる

1965年(18歳)、デッカのスタジオ(演奏はスタジオ・オーケストラが担当)で「ウィザード」など数曲を録音。デビュー・シングル「ウィザード」が11月に発売されます。ヒットはしなかったものの一部の評論家の注目を浴びます。半年後にセカンド・シングルをリリース。この間、「ジ・オブザーバー」紙で働いていた仲良のよかったジョージ・メリーが宣伝に一役買ってくれたり、どんな小さな記事でもよいからと載せてもらっていました。そして雑誌「クイーン」のインタビュー、人気TV番組の「レディー・ステディー・ゴー」に出演することになります。それをきっかけに10代半ばの女の子がマーク・ボラン・ファンクラブをはじめます。マークはブランスキとミドルセックスに住む女の子に直接会いに行き1日を一緒に過ごし、ファンクラブの会員に送るのに必要な写真やニューズレターを用意したりしました。けれども会員はなかなか増えません。ブランスキがマークのマネージャーになっている間に、2度しかコンサートを開いていないことを考えれば当然かもしれません。▶(4)に続く-近日up