風は柔らかになつた。僕の心は険しいままくるまれてゐる。柔らかいもので。(夕ぐれと夜との独白)

ほんとうに晩年のよろよろした爺さんになった吉本の写真で見たんですが、吉本の自宅の書斎で山のような書物に囲まれてお爺さんの吉本がいるんですが、目の前の壁に大きな綺麗な外人女性のポスターが飾られていたんですよ。たぶん吉本が惹きつけられた写真なんでしょうね。柔らかいものでくるまれるという言葉で、その大きな写真とともに書斎にいる晩年の吉本を思い出しました。

春の嵐だ。窓の内側で何が愉しかつたらう。窓の外で風と雨がつのつてゐる。僕は待たうとした。期待のうちにかけられた運命は素速い速度でふるえてゐる。そして僕は何を不安のなかから追出すことが出来たらうか。僕の望んでゐた通り精神は飛翔をやめてしまつた。僕はじつとしてゐる。(夕ぐれと夜との独白)

こういう文章はなにかの模倣なんだと思いますが、なんの模倣だかわかりません。リルケとかかな。国籍不明ですよねイメージが。ヨーロッパの古い町っぽいところで若者が窓の内側で物思いに沈んでいるみたいな。しかし吉本は佃島出身のこてこての下町っ子。だからこういう無国籍のイメージに憧れるんだと思います。昔の日活の映画みたいなものですよね。小林旭が馬に乗ってギターを背負って現れるみたいな。そんな奴、この日本のどこにいるんだ?っていう。しかし吉本の苦しみは現実を高い抽象の次元で捉えて思考することからやってくるもので、その部分は下町の描写では描けないんだと思います。それは無理ですよ、寅さんが部屋で抽象的な思索に耽っているようなものだから。いきなり階段の下からおばちゃんが「寅〜ごはんできたよ〜降りといで」とか声をかけるような世界でねえ。だから言語によって西欧風の無国籍なイメージのなかにいるようにすれば、「運命が素早い速度でふるえてゐる」というような心象も描ける。立原道造とか芥川龍之介とか堀辰雄とかの文体も同じ理由があるんだと思います。後進国が先進国に憧れておこなう文化的な振る舞いですね。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。

今まで解説してきたことをまとめますと、吉本が精神の病、その病のなかの病ともいえる分裂病についてどういう考察をしているかを取り上げたいわけです。そのために吉本が現在の精神の問題を大きくはどう考えていたかを把握したいわけです。現在の社会をどうとらえているか。すると吉本は存在倫理ということを晩年に言っていたことがわかります。この存在倫理は普遍倫理とも言い換えることができるもので、現在の市民社会で流布されている善悪の基準よりもずっと巨大な規模の倫理を指し示す概念です。吉本はどうしてもそれが問題になると言って亡くなっていったわけです。

存在倫理という概念を吉本が提出したのは、阪神淡路大震災とオウムサリン事件が起こった1995年以降です。この存在倫理という概念が考え出された吉本の時代状況への考察と時代的な精神の考察を掘り下げていけば、現在の精神病についての吉本の見解も解説できるはずだと思います。やけに遠回りしているように思われるでしょうし、実際興味にかられて遠回りしているわけですが、やがて的に当たるので気長にお付き合いください。

特にオウムサリン事件に対する吉本の発言が大きな吉本への非難の合唱を引き起こしました。ここで吉本から決定的に離れていった読者やメディアや知人友人たちも多くいたわけです。吉本はうっかり発言したわけではなく、そういう結果を覚悟して発言しているわけです。吉本は時代の節目でそのような腹をくくった発言をする。そして波が引くように吉本から去る人たちがいる。そういう人たちはまだ吉本に関心をもち、その考えを追いかけているような連中を吉本信者などと罵倒します。しかしいずれが正しいかはやがて時代の進展が明らかにするでしょう。

吉本の麻原彰晃に対する見解は、ほかのオウムについて発言をしたマスコミのキャスターや弁護士や学者や評論家や芸能人ともまったく異なっています。それらの人たちより吉本ははるかに麻原彰晃を高く買っています。

「うんと極端なことをいうと、麻原さんはマスコミが否定できるほどちゃちな人ではないと思っています。これは思い過ごしかもしれませんが、僕は現存する仏教系の修行者の中で世界有数の人ではないかというこらい高く評価しています」(吉本隆明「オウムが問いかけるもの」)

ここまで言っている。いわば全マスコミと文化人に喧嘩を売っています。この発言の真贋を問わなければ吉本の解説は成り立ちません。吉本はすべてを賭けてこの発言をしているからです。吉本は麻原に会ったことがあるわけではありません。吉本の麻原への評価は麻原の著作である「生死を超える」にあるのでしょう。「生死を超える」の詳しい評価はあとでやるとして、吉本はこの本を読んで、麻原をちゃちな人ではないという確信を持ったということです。

さらに吉本の麻原への評価は、麻原の信者を惹きつける魅力にあるのだと思います。惹きつけられなければ日常生活を捨てて共同生活をする信者の生活に飛び込むことはないわけでしょうからね。私たちはマスコミが流した麻原の映像から麻原のイメージを作っています。でぶでぶと太ったひげもじゃの男が女性信者にかしづかれている映像とか、例のしょ〜こ〜、しょ〜こ〜という選挙活動の映像とか。これはまともな人間じゃないな、そんな男に従っている連中も洗脳されて頭がおかしくなってるんだろうというように。つまりちゃちな男に洗脳されたちゃちな連中というふうに見下しています。

そのちゃちなオウム真理教団が数々の事件を引き起こした。特にオウムサリン事件は無差別殺人事件だから自分には直接関係ないと思っていた人たちも刺激したわけです。もしかしたら自分が乗っていた地下鉄にこいつらはサリンを撒いたかもしれない!というように。

吉本のオウムサリン事件への見解は「これは人間を殺傷する行為としては、もう最大次元に極端な所まで一挙に飛躍させちゃったことを意味していると思います。これはどんなに誇張しても誇張しきれないほど、やっぱり重要な問題を孕んでいると思います」(吉本隆明「より普遍的な倫理へ」)というものです。吉本を非難したい人たちから見れば、ここに至ってもまだちゃちな麻原を評価するのか!というはらわたの煮えくり返ったような怒りにつながったでしょう。

ここまで述べたように一方に吉本の麻原彰晃の修行者としての評価と、そのしでかしたサリン事件への評価という観点があると同時に、オウム事件をとりまく時代状況に対する本質的な洞察や状況的な洞察があるわけです。その一番原理的なものは、国家というものも宗教の最終的な形態に過ぎないという見解だと思います。この論点は2001年の9.11アメリカ同時テロ事件への吉本の見解の解説でも書きましたが、要するに国家も国法(憲法)を教義とする拡張された宗教だとみなすことのできるものだ、という考察です。そして原則的にいえば宗教は宗教の上に立つことはできないと吉本は述べています。そしてとても重要なことを述べています。

「『国家』という『宗教』が、何はともあれ市民社会の上に立ちたい願望のあげくに一定の共同幻想(規範)を造りあげているように、どんな宗教も市民社会を超越したい欲求と、個々の市民の内面(こころのなか)に規範(戒律)をうち立てたい願望を持っているものだ。『国家』という『宗教』やそれ以外の宗教は、その超越的な部分で、市民社会の規範を超えた部分を必ず形成している。別の言い方をすれば、市民社会の善悪の慣行に違反する可能性をいつでももっているものだ。たとえば市民社会の市民が、誰も生命を失いたいとも思わず、戦争をしたいともかんがえないのに、国法を介して市民を戦争に介入させ、生命を殺害させるような悪をなすことができる」(吉本隆明産経新聞は間違っている})

ここで述べられているのは、国家も宗教も市民社会の規範を超えた規範をうち立てたがっているし、そうした超越的な規範を形成している。国家にとって戦争と戦争を可能にする法的なしくみはその市民社会の規範から超越した規範の典型である、ということです。ここからサリン事件の考察と存在倫理の考察につながっていきます。それは次回で。