小説小道 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-06-17

総合小説について

| 23:18 | 総合小説についてを含むブックマーク 総合小説についてのブックマークコメント

1Q84』のブログレビューを読んでいると、読後の深い感動が、だんだん寂しい気持ちに変わってきた。他人の感想を読めば読むほど松林の霧のように寂寥が濃くなってくる。

その理由を論理的に考えてみると、『1Q84』が著者の意図通り、総合小説として「成功」しているからではないかと思う。

世界中がカオス化する中で、シンプルな原理主義は確実に力を増している。こんな複雑な状況にあって、自分の頭で物を考えるのはエネルギーが要るから、たいていの人は出来合いの即席言語を借りて自分で考えた気になり、単純化されたぶん、どうしても原理主義に結びつきやすくなる。

(中略)小説家は表現しづらいものの外周を言葉でしっかり固めて作品を作り、丸ごとを読む人に引き渡す。そんな違いがあるだろう。読んでいるうちに読者が、作品の中に小説家が言葉でくるみ込んでいる真実を発見してくれれば、こんなにうれしいことはない。大事なのは売れる数じゃない。届き方だと思う。

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20090616bk02.htm?from=yolsp

つまり、村上春樹さんは、『1Q84』の読者に自分の頭で考え、自分の言葉で語ることを求めている。実際、ネット上では、多くの人が否定肯定様々な感想を自分の言葉で書いているように思う。まったく『1Q84』は多様な読み方を許容すべく書かれた上出来の総合小説なのである。

そして、多様な感想がネット上に溢れること自体がこの小説の成功を傍証している。おそらく、並行世界の設定に既視感を感じる、という批判的な意見さえも著者に予定されていた総合小説の一部分なのだ。その手腕には凄まじいものがあると思う。ある人には、新鮮な小説であり、またある人には反対に既視感のある小説に感じられ、ある人には、チャレンジングな小説で、ある人には退嬰的小説である。ある人には小説を読む喜びを再発見させ、またある人にとっては、長すぎて読み通せない小説だというーーさすがに熟練の技術を言わないわけにはいかない。

だが、いったい読者が自分の言葉を持つとはどういうことだろうか? そしてそれは、本当に「善い」ことだと言い切れるだろうか? 確かに、カルト原理主義に対抗する文学として、自分の言葉を獲得するように読者を導くのは、著者の意図するところで、それは「成功」しているだろう。けれども、自分の言葉を獲得させられた無数の読者は、無数の真実を抱えたまま、お互いに通じる言葉を喪失している。

つまり、何が言いたいかというと、『1Q84』は読者をバラバラにしてしまう物語ではないか、という疑念である。総合小説として傑作であるがゆえに深まっていく断絶があるのではないか。感動的な読書体験をすればその分だけ深まっていく、深い井戸があるのではないか。そして、そのような深い井戸からは、もはや月はひとつも観測されないだろう。

そういうわけで私は、まるで今バベルの塔が崩壊したのを見たような寂しさを感じたのだ。皆が、自分の言葉で自分の真実を語っているーーそれは現代のカオスを中和するものではなくて、カオスそのものを生成している。総合小説は、逆説的に失敗しているように思われる。なぜなら、読者をバラバラにする総合小説は、カルト原理主義田圃を耕しさえしているかもしれないからである。

 

事実、私は、心にひとつの原理が掲揚されているのを確認した。もっとも、それは原理「主義」ではなくて詩であるけれど……

万葉集中にある、柿本人麻呂が高市皇子のために詠んだ歌に、私はその原理があるように思う。それは、魂と魂を結びつける長大な挽歌である。

柿本人麻呂長歌は、引用しきれないが(こちらのブログで読むことができます)この挽歌は、確かに魂と魂を結びつける文学だと思う。