2010-01-25
セカイ系と法
セカイ系とは何だろうか?
2010年代に入ったのを期に、あらためて考えてみたいと思う。
セカイ系のおおよその意味としては、よく言われているように、主人公とヒロインの日常的な問題が「世界の危機」のような非日常的で大きな問題に直結され、社会的な中間項が希薄化した物語のことである。有名なところでは『新世紀エヴァンゲリオン』『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』などがその典型だ。
言ってしまえば簡単なようだが、しかし、そこには今なお未解決な問題が積み残されているように思われる。
なぜそう思ったかというと、限界小説研究会編『社会は存在しない――セカイ系文化論』の笠井潔さんの巻頭論文「セカイ系と例外状態」を読んだからである。
セカイ系が抹消した「社会」とは、ようするに社会契約論的な近代社会である。
と笠井さんは書いている。
これは重要な視点である。なぜなら、セカイ系の問題が、単に現代のサブカルチャーの問題にとどまらず、もっと広い「近代社会の問題」に繋がっていくからで、つまり、そこには「セカイ系の起源がデモクラシーなのではないか?」という問いが含意されているはずだからである。
笠井論文では、題から伺えるように政治学用語の「例外状態」という概念をセカイ系の分析に導入している。ちょっと迂遠のようだが、「例外状態」について考えてみたい。
「例外状態」とは、カール・シュミットが『政治神学』の冒頭で「主権者とは例外状態に関して決断するもの」と簡潔に定義した際に言及した、主権にかかわる概念である。主権者は、政治共同体が危機に瀕したとき、緊急に法の停止(=例外状態)を決断する権力をもっている。法は、政治共同体が存続し続けてはじめて意味を持つのであり、それが消滅しよとする緊急事態において律儀に法律を守るのは主客が転倒しているという論理だ。つまり、法を一時停止して国を守るのが「例外状態」の発動であり、それを決断するのが主権者である。カール・シュミットはそう考えた。
戦前の大日本帝国憲法下の日本では、天皇が非常大権をもち法を停止する力を有していた。だからこそ、二・二六事件のような青年将校による「待つ」クーデターが起きたわけである。逆に考えれば、二・二六事件は天皇の非常大権の発動を前提にしていたわけだから、非常大権という法の臨界点でギリギリ法秩序の範疇に収まっていたと考えることもできる。
これは私のユニークな考えなのではなく、少なくとも三島由紀夫はそう考えていた。三島は福田恆存との対談で言っている。
三島 それで、クーデターという方法もね、つまり、ぼくはクーデターが法的にあり得ないと思うんですよ。(引用者注:戦後のこと)というのは、戒厳令がなくて、非常事態法がなくて、憲法停止の条項がなくて、クーデターを法的にジャスティファイ(正当化)するものがない。やっぱりクーデターをやるためには、戒厳令をこっちに引っ張り込まなきゃならない。昔の憲法ならば非常大権があったからクーデターをやった上で戒厳令をしく。クーデターを一たんやれば、あとは法的に、オートマティックにできるんです。それは北一輝なんかが考えたことで、三年間の憲法停止、その間の言論統制その他やるんでしょうが、しかしいまはね、まずクーデターやったら、その日に非常事態法をつくらなきゃならないんですよ。ぼくは、こういう面白い国はないと思う。万々一の可能性というものに対する法的規制が何もない。ですから、クーデターが起これば、完全なディスオーダー(無秩序)ですよね。
福田 つまり叛乱、革命だね。
三島 革命ですよ。クーデターとは言えない。現体制下においてクーデターを正当ならしめる法的規制がないんですよ。帝国憲法にはそれがあるんですね。二・二六の目のつけどころですよね。しかし今はそれもないんですよ。錦の御旗がない。
(中略)
三島 ぼくはそんなことを言うとあれだが、法学部を出ている人間なもんだから、法律というものに対する考えが非常に厳密なんだ。それで、戦前、つまり右翼と左翼を分けるものは、帝国憲法を利用するか利用しないかという問題なんだ。左翼の革命は、帝国憲法を全面的に否定するわね。そこから出発する。右翼の場合は、北一輝やなんかが考えたことは、帝国憲法を利用することですよね。帝国憲法の枠内で革命ができるという考えですよね。(中略)いまの憲法を相手にしますと、つまりわれわれがやっていることと、左翼がやっていることと、大きな目で見ればおんなじになっちゃうんだよ。
福田 おんなじになっちゃう。
三島 そうすると、ぼくにとって天皇という問題がむずかしくなってくる。つまり完全転覆ということならば、ロジックは簡単ですよ。そんなら左翼とおんなじことをやることになるんですね。その場合、いまの状態にある天皇を、もう一度帝国憲法に返すという法的操作が要る。しかし、それは一度ぶっつぶしたところから回復しなきゃならないんでしょう、当然。
ここで興味深いのは、帝国憲法を否定して社会変革を考えるのが左翼で、帝国憲法を利用して社会変革を考えるのが右翼というとらえ方だ。
「例外状態」=非常事態を法の外に置くか内に置くかは、三島が言うように対立しているようでしていない。結局のところ、それらはどちらも国家のカオスで「法を維持する暴力」と「法を措定する暴力」を止揚しようとしているからだ。この対立の止揚こそ、革命でありクーデターなのである。
だから、セカイ系とは「法を維持する暴力=法を措定する暴力」の等式が成り立つ、社会契約論的な社会が抹消された例外状態を描いた物語だと言えるだろう。
笠井論文には、「群衆」についても触れてあった。
セカイ系を語るうえで「群衆」への考察が不可欠なのは、社会契約論的な近代社会を構成しているのは、我々のような群衆であるからで、セカイ系は世界の危機に乗じて「社会」を抹消する群衆のためのニヒリスティックな物語である。
ゆえに、セカイ系は、戦後のある時期のサブカルチャーから生まれた想像力ではない。
たとえば、戦前の関東軍が見た満蒙の青空と、三島由紀夫が敗戦後見たという「絶対の青空」とセカイ系のアニメによくある青空は、デモクラシーの、群衆の青空なのである。
私には、セカイ系の主人公たちが、まるで青年将校か関東軍の参謀のように見えるし、青年将校や関東軍の参謀は、セカイ系の主人公のようである。
昭和陸軍の軍人が、国家的な危機意識から「政体」を希薄化させ天皇という「国体」に理想を直結させた想像力は、セカイ系と言ってさしつかえないと思う。彼らは「国家の非常事態」を自ら判断し、クーデターを起こしたり、「世界最終戦争」に備え満州国を建国したりした。
一方で、日露戦争後や関東大震災のさい現れた「群衆」も、国家の急に対して日比谷焼打事件をおこし、不逞鮮人というデマゴギーに突き動かされていた。彼らの想像力もデモクラシーに根拠をもったセカイ系の一種なのではないかと思う。
こう書くとセカイ系を否定しているように思われるかもしれないが、しかし言いたいことはそうではなくて、「我々はセカイ系的なものから逃れられない」ということである。デモクラシーはやめられないし、群衆をやめることもできないからだ。
デモクラシーがセカイ系の起源なら、日本以外にも似たような物語があってしかるべきではないか? と問われれば、もちろんそうだと答えたい。
例えば、2008年公開されたコミックの『バットマン』を映画化した『ダークナイト』は、まさにアメリカ製のセカイ系映画だった。
バットマンは、ゴッサム市民を守るために日夜悪と戦っているヒーローであるが、『ダークナイト』では地方検事ハービー・デントと協力してマフィアと戦うことになる。しかし、素顔を晒して合法的に悪と戦う地方検事ハービー・デントこそ、ゴッサム市民の真のヒーローだと考えたバットマンは、ヒーローを引退しようと考える。だが、そうは問屋が卸さなかった。ハービー・デントは、ゴッサム・シティを「カオス」にしようとするジョーカーに敗北し悪に魂を売ってしまうのだった。そこでバットマンはヒーローにカムバックし、また悪と戦うことになる。
この映画で特徴的なのは、ハービー・デントという法的権限のあるヒーローが出現したことで、バットマンがヒーローを引退しようかと迷い、しかもその法的権限のあるヒーローも社会を自然状態に戻そう意志するジョーカーによって悪の側に落ちてしまうところである。
バットマンがジョーカーを退治しようとしてなかなか退治できないのは、ヒューマニズムからではなくて、彼が本質的には憲法制定権力(=法を措定する暴力)の亡霊であり、カオスを欲しているからである。ジョーカーが自然状態を引きおこしてくれないと憲法制定権力の亡霊たるバットマンの出番がない。そして、地方検事ハービー・デントのような「法を維持する暴力」も落ちぶれてくれないと彼は活躍できない。それでも、この映画が最終的にバランスしているのは、バットマンが「ダークナイト」として悪役を引き受けて、「法を維持する暴力」を守ったところにあるだろう。
『ダークナイト』がアメリカ的なセカイ系の想像力であるといえるのは、バットマンが法的プロセス抜きにしてゴッサム・シティの非常事態を判断し「悪」に対して暴力をふるうヒーローだという基本的な構造もさることながら、ジョーカーとバットマンのどちらも自然状態を欲する「法を措定する暴力」という意味で同一であることだ。彼らは、アメリカ建国の父たちの亡霊なのである。
今後、2010年代以降、セカイ系はどのように展開していくのだろうか?
ここでひとつ予想を立ててみたいと思う。私が予想しているのは、セカイ系が内戦を描いていくのではないか?ということである。そのヒントになるのは、1997年に公開された『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』だ。
このアニメ映画で主人公が所属している特務機関ネルフは、日本政府から「特務機関ネルフの特例のよる保護の破棄及び指揮権の日本国政府への委譲」を宣告され、戦略陸自に強襲される。これは一種の「世界的内戦」であると言えるのではないか。
つまり、それまでは使徒の来襲という「例外状態」がネルフを主権者として振る舞うことを許していたが、いったん使徒が現れなくなったことで、日本政府が国連直属の特務機関ネルフから主権を回復しようとして起きた「世界的内戦」の物語だといえるだろう。
だから、内戦系の物語は、ある意味ですでに描かれている。けれども、エヴァンゲリオンに決定的に欠落しているのは、天皇という存在である。*1もし、本格的な内戦系の想像力をシナリオとして結晶化させようとするなら、天皇に直面しなければ、本格的な内戦にはならないだろう。南北朝の動乱を書いた『増鏡』を下敷きにしたようなSFがあれば、本格的な内戦を描けるのはずだと思う。実のところ、私はそんな小説をいつか書いてみたいと思っている。自衛隊が朝敵になり、萌え天皇と恋闕を回復するような物語である。
最後に付けくわえると、2010年代のセカイ系を考えるうえで重要だと思われるのは、やはりデモクラシーとネットとの関係である。
ネットが表象する迅速な「世論」と、旧来のメディアを経由して構築されている「世論」との狭間で、セカイ系は内戦系として駆動されていくのではないかと漠然と予想している。新聞は総力戦に向いているけれども、インターネットは、内戦やテロに向いているメディアである。そういうメディアの特質も、内戦系を惹起するように思われる。ちょっとエントリーが長くなりすぎたのでこのへんで。。
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セカイ系、例外状態から関東軍参謀たちへ飛ぶ話題の流れで、やはりセカイ系に分類されていたPCゲーム「マブラヴ オルタネイティブ」の萌え天皇と反乱軍の恋けつエピソードを思い出したんですが、「天皇に直面しなければ本格的な内戦にはならないだろう」の課題に答えるのは劇場用作品やテレビシリーズでは難しそうな・・・。「増鏡」を下敷きにしたようなSF、楽しみにしております。
今年が保田與重郎の生誕百年というのはこちらで見て初めて知ったんですが、彼の「やぽんまるち」の、モデルであるだろうシェンキヴィッチ「クオ・ヴァディス」の、ローマ炎上を見降ろしながら歌うネロのエピソードにはあった歴史性をスコンと抜いて「歌」と「世界没落」を直結させる手つきもどこかセカイ系的な中間項の希薄化思い出させるのではないかと思えておりました。
「マブラヴ・オルタネイティブ」は原爆が投下されず、日本帝国が続いている可能世界の話なんですが、地球全体が地球外生命体の侵略に直面している総動員体制下でありながら、日本の軍部が「国体」護持のためにクーデターを起こす、しかしそれはただ単に一国主義的な視野の狭さではないんだ、と作り手が示そうとして懊悩しているのがゲームからも感じられるような出来になっていて、なかなかに面白いものでした。
小説小道さんの指摘読んでいて気づかされたことなんですが、「やぽんまるち」だけでなく保田なら「満蒙」や、三島の「弱法師」、あるいは石原莞爾の「最終戦争論」の質疑応答における「最終戦争は怪光線をもって戦われるのではないか?」のくだりなども政体、あるいは兵站などの中間項欠いたまま「国産み」や世界没落が自我のすぐ隣にヌッと在って、「最終兵器彼女」「イリヤの夏」と似た触感ありますね。「エヴァンゲリオン」の「ヤシマ作戦」が那須与一の「屋島」だけでなく「古事記」の「八洲島」にかけられているネーミングとも重なるのか。
保田與重郎については、以前、映画「リング」シリーズの脚本家の方に会う機会あって、その時「やぽんまるち」の話になったんですが、「音程を持たないツツミの楽曲で聞く者に恐怖を生起させるとは!」と畏怖まじりに話しておられて、保田の日本浪漫派時期の著作、昭和初期の思潮を示す歴史的記録であるにとどまらない、現在進行形の恐怖表現として生々しく読まれていると思い知らされました。
90年代以降の皇道主義をめぐるSFというと、野阿梓「バベルの薫り」や海猫沢めろんの「零式」思い出すんですが、エンターテイメントとして面白く読めたものの、ともに皇道主義の根拠づけの無さが暴露されるところで終わっていて。笠井潔が上げていたカール・シュミット-ハイデガー的な根拠なき決断主義にこじつけるわけではないんですが、「恋けつ」とはそもそも他のものによる根拠づけを必要とするものでなく、根拠づけの無さの暴露によって物語が終わるものではないと思えていました。
小説小道さんのアプローチがどのようなものになるのか、楽しみにしております。