My Lonesome あずにゃん

けいおん!!」がいよいよ終盤に差し掛かり、はっきりとHTTメンバーの卒業が意識された構成になってきた。22話で確信したのは、こりゃあもう「けいおん!!とか空気系で萌え豚がぶひーの演奏シーンが軽い」とかこれまで積み重ねられてきた無数の言説とかマジどうでもいいわーってことで、これはもう名作として評価していいんじゃないか。俺は極端に物語性の有無によって作品を評価してしまう人間なので、やっぱり「エヴァ」やら「グレンラガン」やら「とらドラ」やらが好きだったりするわけだけど、「けいおん!!」が教えてくれたのは空気系的日常の積み重ねがあると、卒業を迎える時には嫌でも物語を引き連れてきてしまうので、バカにされまくってきた第一期も壮大な前フリだったと思えばまあそれでいいような気がしなくもないよね。
とは言え、卒業の瞬間に物語性発動!みたいなコンストラクチャーはすでに「あずまんが大王」でやられていたわけで、演出やら運びやらの差異はあるにせよ、基本的には反復にしかなってないのも事実。けどまあ、パーフェクトな再現前なんか無論ありえないわけで、余剰が絶対に生じるんだけどそれはやっぱり中野梓さんにひとえにたくされた要素なんじゃないかと思うという話なのだった。
あずまんが大王」の場合卒業しても「これからもみんな一緒でなんも変わらへんよ」って話で、ちよちゃん、大阪、とも、よみ、神楽、榊はみんな幸福になったメデタシメデタシである。「らき☆すた」になるとこの幸福パワーが増幅されて、なんか卒業して別々の大学行ったけど、「さながら私ら背景ですぜ」とか言ってやさぐれてたみさきちとか峰岸さんとかまで仲間に入ってきて、幸福の輪が広がる(原作込みの話ね)。これもまたメデタシメデタシである。そんでもって「けいおん!!」。どうやらみんなサクラサいたらしく、おんなじ大学に通えてメデタシメデタシと行きたいわけなんだけど当然あずにゃんはハブられてるのであんま目出度くないわけだ。いや、そんなことは誰が見ても明らかすぎるんだけど、あずにゃんの残念っぷりは結構凄いものがあるよという話をちょっとしてみたいのだった。
先にロマンティシズムに浸ったアナリシスというか、俺たち視聴者も登場人物としてカウントするような最近流行りの手法を使っちゃおう。とりあえず澪、唯、ムギ、りっちゃんはもういいわけだ。ちょー幸せなわけだ。女子大に行ってまたバンドやって「ここが私たちの武道館っすわ!」とか言ってればハッピーなので問題ない。すごろく的に言えばアガったキャラである。で、俺たちはどうか。ここで言う俺たちってのはオタクだという自覚を少なからず持ってる人にとりあえず限定しちゃおう。多分その意識がなければキャラの卒業をさみしがるようなメンタリティは持たないはずなのでまあ問題ないっしょ。俺たちは似た経験をしたことがある。「あずまんが大王」が終わる時だ。波状言論スタッフで現在エロゲーライターをやっている佐藤心さんが「おまえらはこれからも一緒かもしれないけど、俺たちは取り残されるんだよ!」という名言を残したという話が一部で出ている(間違ってたら佐藤さんごめんなさい)わけだが、これは全面的に正しくて、俺たちは去っていくちよすけ達の背中を眺めてボーゼンとするしかなかった。箱庭よグッバイだったのだ。
しかし「あずまんが」の4巻が出たのは2002年のことだ。なんかもう大昔だ。具体的にはニコニコもツイッター精子だったくらいに古い話だ。んで俺たちはそこから8年以上経った場所で息をしてる。これだけ時間が経てばいろんなことが変わる。具体的にはオタクって言葉の意味もちょっとは変わる。マニアは属性を表し、オタクは共同体を表す。こんなことが言えちゃうくらいには変わったんじゃないかと思う。マニアってのは単に「すっげえ好きな人」だ。エヴァマニアは使徒の名前とか必死こいて覚えたりエヴァの身長にこだわったり、とにかくデータ収集と設定資料集の作成が大好きな人だ。けれどエヴァオタクは違う。とりあえず2010年を基準点にすれば違う。オタクってのは「すっげえ好きで、しかもそれを使ってなんか生産しちゃおう」とか考える人だ。この場合の生産ってのはそんなに深い意味は持ってない。同人誌やSSの描き手/書き手はもちろん、ちょっとした感想をネットにあげる人だって含めちゃっていい。そして「生産」というのはコミュニケーションだ。場を持つことでようやっと機能するコミュニケーションだ。そして俺たちはニコニコで二次創作やったりツイッターで語り合ったりしちゃえる世界に生きている。
2002年にはオタクはオタクになれなかった。はてなダイアリーだってなかったし、2chがコミュニケーションツールとして満足なものだったとは考えにくい。チャットとかはあったけど、それでも今ほど誰でもいつでもライトにウェルカムな雰囲気ではなかった。友達を見つけるのも結構大変だったのだ。教室で「あずまんが」の話をできる友達がいればそれはラッキーだったのだ。基本的にあの頃のオタクは孤独だった。宮台さんは96年以降にスーパーフラットな世界が来たって言ってるけど、それはすげえでかい空間での話で、学校とか局所的に見ていけば全然嘘で、タバコ吸って洋楽聴いてクラブ行ってる奴の方が偉かった(きっと今も偉い気がするけど俺はオッサンなのでもうわからん)。だから「けいおん!!」時代の俺たちは幸せだ。「卒業」されても、ニコニコで「別パターン」に出会えたりもするし、ツイッターで議論したりなぐさめあったりすることもできる。トモダチ最高、俺たちはもはやあんまり動物ではなくて、結構ハッピーにオタクやってられるのだ。
だからこそ問題はあずにゃんあずにゃんだけが孤独。仲良し四人組にも入れなくて、俺たちオタクみたいに友達もいない。ジュンちゃんと憂はなんか違う。たまに意図的にやってるのかってくらいあの二人が怖くなる時がある。ジュンちゃんはまだいい。部活が違って、あんまHTTコンテクストを理解してないだけで、そんな突飛なことはしてない。でも憂は怖い、ホント怖い。あの娘はマジで唯のことしか考えてないように見える。お百度参りやって、ライブ行って、チョコケーキ作って、替え玉やって、全部全部お姉ちゃんのためだ。あずにゃんはそこにいない。憂の視界にいない。いや、ここまで書くといささか大げさだろうか。けど、少なくとも憂ちゃんは中野さんの孤独を理解してあげることなどできないのです。彼女はHTTメンバーの一人と家族なんですから。家族、これ最強ですよ。順調に行ってる家族形態ってちょう強いですよ(でも現代日本で順調すぎる家族とかそんななくて、だからこそ非嫡子率50%超のフランスみたいに事実婚が当たり前の空気にした方が少子化とかも防げそうだよねとちょっと脱線)。対してあずにゃんには部活しかないのだった。そして部室ですら、残りのメンバーは勉強(仲良く)、自分だけぽつねんと練習という疎外感を味わうことになる。
My Lonesome Azunyan.
物語内でも物語外でも孤独なあずにゃん。目押しのやりにくい台のスイカみたいなもんだ。彼女は幸福な「けいおん!!」世界から取りこぼされている。だからもうラストシーンは一つしかないんだ。来年の春、大学の正門前、意気込むあずにゃん、迎えるHTTメンバー、「これからもずっと一緒だね!」。別に俺はハッピーエンド至上主義者でも中野梓信者でもないので、この結末にならないと血管がキレるとかではないんだけど。それ以外のルートは実はバッドエンドだよねってことくらいは言ってみてもいいんじゃないかと思った。「思い出なんていらないよ」と歌うならほんのちょっと遠い未来が「今」になった瞬間に誰かの願いが報われてもいいんじゃないかなくらいは考えるけどね。