2012-02-05
安定期
暴れまくる理紗の体がふっと止まったのは40分も過ぎた頃だった。
クッション、ティッシュの箱、マグカップ、本、香水の瓶、リモコン、コート、携帯電話、マフラー…
ありとあらゆる物が散らばっている。
香水の瓶が割れなくてよかったな。健司はそう思いながら、理紗お気に入りのDiorの香水を鏡台に戻し置いた。
「なにか飲む?」
なるべく優しく聞こえるように細心の注意をはらって声をかけると、理紗は涙を拭ってこくりと頷いた。
「紅茶。ローズヒップのまだ残ってる?」
「あるはずだよ」
「じゃあそれで」
「待っててね」
健司は、ぼうっとしている理紗をソファに座らせる。
そして彼女に気付かれないようにそっと割れたマグカップの破片を拾った。
後で掃除機をかけておこう。音がうるさいかもしれないな…、そんな事を考えながらキッチンへ向かう。
理紗が投げたマグカップが割れた事はなるべく隠しておきたかった。
それは彼女お気に入りの物で、毎日愛用していたからだ。
ヒステリーを起こして割ったと知ったらきっと凄く悲しい顔をするだろう。
洗いものをしている最中に自分の不注意で割ったと言おう。健司はそう決めた。
冷蔵庫の中から2リットルの水のペットボトルを出し、それをやかんに注ぐ。
そしてガスコンロに置いたやかんを火にかけた。
設定を強火にして、そのまま前に立ち尽くす。
健司と理紗が同棲して、もうすぐ1年が経とうとしていた。
最初はよく泣いたり機嫌が悪くなったりする彼女を見て、ストレスがたまっているだけなんだろうと思っていた。生理とか。
同棲する前は、理紗がこんなに不安定になる女だとは知らなかった。
しかし健司の戸惑いをよそに、理紗は毎日何かしらの要因で泣いたり機嫌が悪くなる。
それは良くもならないが、悪くもならなかった。
彼女の作る料理はとても美味しかったが、
今日みたいに暴れたりした日は台所に立たせるのが危なっかしいので健司が作ることが多い。
理紗は販売の仕事をしているので不定休だが、今のところ仕事は休まずに行っている。だがそれも今のところと言った感じだ。
やかんの湯はまだ沸騰しない。
紅茶に適する温度、正しい淹れ方があるんだろうなとは思ったが、健司はいつも珈琲でも紅茶でもお湯を沸騰させていた。
理紗と別れる気はない。
付き合って1年、同棲して1年。
まだ逃げられるかもしれない。そう思うことはある。
今現在、理紗に対して何の感情もなかった。可愛いとも愛しいとも思わない。セックスも暫くしていない。
その代わり怒りも感じないし、寂しさも感じなかった。
理紗が実際に部屋で暴れるようになったのは、半年ほど前の事だ。
その時は健司も彼女を心配し、原因は何なのかと聞いたりしてみたが、事態が変わることは無かった。
それから3ヶ月後の事だ。
健司は同じ会社の派遣社員である杉田郁乃と関係を持つようになった。21歳。5つ年下だ。
きっかけも理由もわからない。ただ、理紗との生活に於けるストレスが原因だと言ったらすごく陳腐に聞こえる気がした。
理紗は健司と同い年の26歳。
年齢なんてたいして気にした事は無かったが、郁乃と親密な関係になってからは彼女の若さを眩しく感じるようになった。
杉田郁乃の事は別に好きではない。
付き合ってもいない。理紗と同棲している事も伝えていない。
郁乃に恋人がいるのかどうかも知らない。
本当に何となく、たまにセックスをしているだけだった。
営業回りの健司に対し、派遣の郁乃は社内勤務だ。
勤務中に電話で話す事は多いが、実際に仕事中に社内で顔を合わせることは殆ど無い。特に気にもならなかった。
やかんの湯が沸騰して蓋は震え、中身はぐらぐらと音をあげている。
火を止め、ローズヒップティーの葉を真っ白なティーポットに目分量でいれた。
そして熱湯をなみなみと注いでいく。
ティーポットとカップを適当にふたつ持ってキッチンを離れた健司は、理紗のいるソファに戻る。
ガラステーブルにそれらを置くと「少しおいたらきっと飲めるよ」と言った。
こくりと頷く理紗は、ぽろぽろと涙を流している。
情緒不安定な彼女には慣れている健司は、動じることなく黙って彼女の頭を撫でた。
「私いつかボケて、同じ事何度も言って、あなたを怒って、あなたを苛つかせるわ。」
膝の上には本が乗っている。本屋のカバーがかかっているから何の本かわからないが、きっとこれを読んでいたのだろう。
「何度も同じ事言う口煩い女だとか、呆れられたりするんだと思う。それはもう止められない」
理紗の話を遮らないように、小さくうん、とだけ答える。
「愛しているわ、これなら何度でも言える」
目にいっぱい涙を溜めて理紗が微笑む。
そして照れたのか、そのままそっぽを向いた。
突飛な女だ!さっきまであんなに暴れていたくせに、ちょっと休めばすぐこんな事を言ったりする。
健司のジーンズのポケットでは携帯電話のバイブが着信を知らせている。杉田郁乃かもしれない。
今日、お互い暇だったら会おうかと話していたのだ。
「そういえば健司、今日笹田さんと飲みに行くんじゃなかったの?」
「ああ」
着信音が聞こえたのかもしれない。理紗は健司の大学時代の先輩の名前を口にした。
「準備しなくていいの?」
「いい」
今はおまえといたいや。その一言は飲み込む。
いくら付き合っても理紗はよくわからない女だ。あまり心を開きすぎても怖い。
健司は、付き合って同棲までしている彼女に対しこんな事を思うのが本当に情けなかったが、そう思ってしまうのは仕方のない事だった。
「笹田さんにはメール入れとくよ」
ティーポットから注がれたローズヒップティーは、濃すぎるくらいの紅色をしてふたつのティーカップをいっぱいにした。
