感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

第164回芥川賞雑感-連帯と超越性

最近の文学シーンは、シスターフッドや男子バディものが流行っているのだという(鴻巣友季子シスターフッド、男子バディ…文学ではせめて連帯を!」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/78793)。「シスターフッド」はフェミニズムの観点から『文藝』2020年秋号が特集を組んで話題になったが、男子バディなるものもあるとは知らなかった。この流行には、性別にかかわらず連帯モードを読みたいという欲望があるのだろう。

カルチュラル・スタディーズが明らかにしたように、そもそも近代文学とは、国民という連帯-「想像の共同体」-を想像的に作り出すメディアとして機能してきた。そしてそれは文学の負の遺産として批判されてきた。前回の話を繋げるなら、文学史の記述もまた、国民相互を結び付け、国家の権威化に奉仕してきたわけだ。

最近流行っている連帯モードは、少なくとも目指されるところはそれとは違い、むしろ国家-もしくは資本制経済-を相対化する中間共同体的なものへの想像力と親和性が高いだろう。それは「シスターフッド」がフェミニズムによって取り上げられていることからも明らかである。

今月は、柄谷行人がNAMを想起させる『ニュー・アソシエーショニスト宣言』を、吉永剛志が『NAM総括-運動の未来のために』を刊行する。山田広昭が『可能なるアナキズム―マルセル・モースと贈与のモラル』を昨年9月に先陣を切るように刊行し、独自の連帯の可能性を模索していることも付記しておきたい。ちなみに昨年、労働者が出資と運営に携わることを保証した労働者協同組合法が成立している。

NAMは、柄谷の発案のもと、国家と資本に対抗する中間共同体として2000年に設立されたが、03年に解散した。文学でもゼロ年代の前半はアナキズムや中間共同体的なものに対する可能性にスポットが当たった時期である。文芸誌が批判されたり、そのオルタナティブが模索されたりした。この動向は、ウェブのブログ・カルチャーと文学フリマなど同人誌カルチャーが背景にあった。しかしこれもゼロ年代後半にかけて拡張するトレンドとはならず、むしろ文芸誌の一局集中体制が強化したと言える。

柄谷は「政治か文学か」という2分法の問いを立て、終焉した文学を切断して政治運動を開始したのだが、文学が政治と離縁し文芸誌体制に純化したように見えたのは、1980年代以降のたかだか2・30年間くらいの現象でしかない。文芸誌界隈だけを見ていれば―商業誌の性格をより強める最近の文芸誌はなおのこと―、「政治と文学」という問題が現われてこようはずもないだろう。参考文献問題とセクハラ問題はあったが。文芸誌は重要なピースだが、それにとらわれすぎない方がよい。

ゼロ年代の前半はと言えば、王殺し・父殺しが盛大に行われた時代でもある。詳細は「純文学再設定+」(『文学+』02号)に書いたが、村上春樹海辺のカフカ』、島田雅彦の『彗星の住人』から始まる無限カノン3部作、阿部和重シンセミア』はその代表的な作品である。

いうまでもなく、王殺し・父殺しにはその禁忌を実行した兄弟姉妹たちがいる。村上『騎士団長殺し』(17)が私と免色渉のシニアなバディを組織し、島田『スノードロップ』(20)が皇后とジャスミンシスターフッド、阿部もまたシスターフッドの『ピストルズ』(10)を経由しつつ、『オーガ(ニ)ズム』(19)では作中人物・阿部和重とラリー・タイテルバウムとの凸凹バディ―阿部の息子をくわえると家族―が組まれた。ゼロ年代前半に王殺し・父殺しを決行した村上・島田・阿部の10年代は、より分かりにくくなったターゲットよりも連帯にスポットを当てていたと言えば牽強付会だろうか。

近々、第164回芥川賞の選考がある。福嶋亮大は「今の文芸誌の中心は50代、下手すると還暦以上」(「「炎症する私」の文学空間」『新潮』20・1)と文学の高齢化をややシニカルに指摘しているが(『らせん状想像力』にも同様の問題提起がある)、今回の候補者の平均年齢は30ジャストで、皆20から30代、宇佐見りんに限っては21である。昨年の芥川賞受賞者・遠野遥をふくめ若い世代が出てきており、代謝はそれほど悪くない。世代の問題を出すなら、深刻なのは文芸批評なのだが。

文学で共同体を扱うとすれば、何より家族が定番であろう。家族は、文学作品ではレンタル家族的な形態など様々な家族が模索されてきたが、基本的には、互酬性―贈与と返礼―に基づいた連帯である。父殺しも家族を舞台にして行われてきた。今回のノミネート作も、砂川文次「小隊」以外は家族の物語だ。

「小隊」は、北海道に攻めてきたロシア軍と自衛隊が交戦するという仮想現実的な物語だが、フォーカスが当たる小隊はまさに連帯の関係にある。ただしその相互の結び付きは、自衛隊として雇われている(雇用の契約関係にある)期間限定なのだから、資本制の交換経済に基づいた関係(要は労働力商品)でしかなく、軍隊式のブラザーフッド的な熱い友情が語られるわけではない。

とはいえ、「小隊」は連帯モードに魅力があるわけではない。ロシア軍が理由もなく攻めてきた理不尽な状況に翻弄される隊員の組織的な戦闘シーンをリアルに描写するところ―作家は元自衛官だそうだ―にこの作品は注力しており、いわばワンアイデアで勝負する作品である。俯瞰的解説を抑制した描写の技巧性が卓越しており、文学の多様性を存分に確認できた。

木崎みつ子「コンジュジ」と尾崎世界観「母影(おもかげ)」は、互酬的家族の閉鎖性に傷付く子供たち―「コンジュジ」は性虐待、「母影」は私小説的貧困―にフォーカスが当てられる。文学では馴染みのある設定だが、「コンジュジ」は、架空のミュージシャンを登場させ、その男性ミュージシャンとの親密な関係を妄想上に育んで自己を守るという転生的プロットがユニークだった。行文がやや単調に感じたが。

「コンジュジ」は推しの話とも言えるが―家族関係の傷を推しとの関係が補填する―、宇佐見りん『推し、燃ゆ』はアイドルに対する推しを主題にしている。

アイドルの文学的利用については、内藤千珠子が「被傷性」の観点からアプローチしているが(「予定された損傷を疑う-『奴隷小説』『路上のX』と現代日本の帝国的暴力」『思想』20・11)、超越性という観点もある。物語がアイドル視点だと、被傷性にフォーカスが当たり(綿矢りさ『夢を与える』07、桐野夏生『奴隷小説』15、朝井リョウ『武道館』15)、ファン視点になると超越性にフォーカスが当たる(松田青子『持続可能な魂の利用』20、『推し、燃ゆ』20)。ちなみに、島田雅彦の「天皇萌え」(斎藤環)によって書かれた『スノードロップ』は、皇后をめぐる被傷性と超越性の両方に支えられている。

もちろん、超越性という言葉は誤解を招きかねない。ここでは超越性という言葉を用いたが、王殺し・父殺しを成し遂げた後は、超越性なき時代の超越性と言った方が適切だろう。

超越性なき時代の超越性―平成文学的な主題―としてのアイドルの文学的利用を考察する上で無視できないのは、『前田敦子はキリストを超えた』ではなく、阿部和重の『グランド・フィナーレ』(05)にほかならない。『グランド・フィナーレ』では、亜美と麻弥という二人の女児とロリコン男の、小児性愛をイメージさせる関係が後半の主要プロットを構成する。この女児については、辻希美加護亜依のアイドルユニット・W(ダブルユー)との近接性が、作家本人と佐々木敦との対談で言及される(『阿部和重対談集』)。また、中島一夫は、少女を天皇に見立て、PC批判的な文脈から読み解いた(『収容所文学論』)。以上により、この作品もまた被傷性と超越性の両面を抱えていると言える。

大江健三郎以後だと思うが―ただし谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫の系譜も無視できないが―、日本の近代文学での超越性に対するスタンスは、対幻想的な性的関係が混在しがちである。大江の『セヴンティーン』(61)が天皇をめぐって表現した、政治と性の交雑体―エロ神々しい―としての超越的なものだが、このように超越性が対幻想的な連帯でつねに相対化される事態は、日本的とも戦後民主主義的とも平成的とも言えるだろう。

阿部に戻ると、被傷性と超越性を抱えたアイドルの問題―『グランド・フィナーレ』を頂点とする『シンセミア』『ニッポニア・ニッポン』『ピストルズ』―を切り落とし、最新作『オーガ(ニ)ズム』では、前述した通り男子バディと家族に向かった。

神町3部作の最後を飾る『オーガ(ニ)ズム』の可能性は複数ありうるだろうが、気になるのは、阿部が継続的に考察していた政治と性の交雑体―エロ神々しい―としての超越的なものが、『オーガ(ニ)ズム』では希薄化したという1点である。このことは、阿部和重のなりすましとして登場する金森年生の小児性愛がアヤメメソッドによって禁止されていることからも分かる。

神町3部作の超越的審級にある―それが明らかになるのは2作目『ピストルズ』だが―異能集団のシスターフッド菖蒲家は、『オーガ(ニ)ズム』では、物語の黒幕として後景化する。菖蒲家は圧倒的な資本と超能力を用いて物語の作中人物―日本政府のみならずバラク・オバマすら―をコントロール下に置き、作中人物もそれに抵抗しようとするのだが、ほぼ無力だ。そもそも菖蒲家の資本と超能力がどう世界に介入しているのかその実態が曖昧なのである。それは、神町3部作に陰に陽に影響を与えてきた、磁気嵐が異常気象をもたらすような気候変動の問題とほぼ変わらない。「オーロラっつうことはこりゃあれか、ベテルギウスが爆発して磁気嵐になったのか―」(761ページ)。

『オーガ(ニ)ズム』の超越的なものは、『ニッポニア・ニッポン』の鴇=天皇や、『グランド・フィナーレ』の少女=アイドル、『シンセミア』のアメリカ=田宮家のような、性と政治、禁忌と欲望が交雑する対象ではない。菖蒲家は環境化し―小児性愛の禁止とともに―、その結果、実にPC的とも言える日米男子バディ―日本の属国性は『シンセミア』から変わらないが―を軸にしたアットホーム(互酬的)な関係が際立つことになる。

王殺し・父殺しがバラク・オバマとによってここでも再演されるが、『シンセミア』での田宮家の放逐と比べると儀式化しているように見える。これは『海辺のカフカ』の神話を背景にした父殺しを反復しているとも言える。

通俗文学史的に見るなら、大江における息子の誕生は超越性探求への志向を強めこそすれ、とどめることはなかったが、阿部の息子誕生は、超越性への欲望の禁止を促し、ホモソーシャルな連帯に対する志向を強めたという見方もできるだろう。

いずれにせよ、王殺し・父殺しの儀式的反復に見られる閉塞感は、村上春樹『1人称単数』(20)と村上龍『MISSING-失われているもの』(20)の、過去や不在をめぐる、複雑化と洗練を極めはする回想の形式に感じたものと似ている。

宇佐見の『推し、燃ゆ』に戻ると、この作品における、推しとの関係のプロットは、互酬的で閉塞的な家族のプロットを相対化するという意味を持つ。彼女のデビュー作『かか』も、家族を相対化するために熊野詣と称した家出のプロットが配されていた。

『推し、燃ゆ』に描かれるのは、推しには見返りを求めない贈与をする閉鎖的な関係だが(「見返りを求めているわけでもないのに、勝手にみじめだと言われるとうんざりする」)、その関係には「一定のへだたり」(『文藝』20・秋、30-31ページ)が確保されている。デビュー作の『かか』では弟「みっくん」に呼びかけるというスタイルを採用したが、その理由を作家は「家族だけど他者」「共通の感覚がありながら、一方で、冷静な視点を持った他者」(「未熟でねちっこい「私」と共に」『新潮』20・1)というアイデアから説明している。宇佐見はまだ2作だが、彼女の作品の魅力は、「私」を立ち上げるときのこのような関係性への配慮にあるのではないか。

乗代雄介「旅する練習」は、彼のスタイルが完成しきったことを示すような作品で、これはもう乗代節とでも言うほかない。この作品の人間関係も互酬的な家族関係に基づいたものだが、厳密に言えば、サッカー好きの姪と小説家の叔父とのロード・ノベルである。姪はサッカーの練習を、叔父は風景のスケッチを練習しながら鹿島まで旅をする。現代版「奥の細道」。

乗代の作中人物は家族関係を採用することが多いが、核家族的な強い結び付きではない、言い換えればゆるい結び付きの親族の連帯を描く。その地縁血縁的関係はいっけん反動的・閉鎖的に見えるが、ゆるやかに開放的だ。親密にして客観的、閉鎖的にして開放的。だから、鹿島アントラーズを介して第3者(みどりさん)を受け入れもする。そもそもこの作品が、姪との関係を、未来の誰かに向けてささやかにスケッチされたものなのだ。

 しかし、これら記憶がいくつかの場所に、文がこびりつくようにしばらく残留するのであれば、ちっぽけながらもこうして紙碑を建てている私だけの幸福ではあるまい。何の拍子かこの灰色文献が、ここを歩き慣れる誰かの思い出を先々で呼び起こし、もっと単純にかつてあった植生や鳥の生態の参考になるかも知れない。その時、ほんのついでにカワウを慮って土手を下った少女の影が形を取るなら、私はどんなに嬉しいかわからない。(『群像』20・12、69ページ)

乗代的連帯。あえて交換様式の言葉を用いるなら、商品交換的な関係ほど自由度が高くはなく、互酬的な関係ほど閉鎖的ではない中間共同体の1つの形がここにはある。

今回の芥川賞の一推しである。ただし、「旅する練習」の最後は、多くの読者に感動を呼んだそうだが、唯一興ざめをしてしまった。不在なり犠牲者を立てた服喪のプロットは乗代的連帯から最も遠いものではなかったか。

第1回荒木優太賞受賞作「いい子のあくび」(高瀬隼子)が◎とすると*1、「小隊」△+ 「コンジュジ」△+ 「母影」△ 「推し、燃ゆ」〇 「旅する練習」〇+ としました。どれも大変面白かったです。

*1:連帯糞くらえ的な高瀬作品は、客観的な視点(監視カメラ)からも回収されない、関係の割り切れなさ-「これは、割に合っているんだろうか。ちょうどいいことだろうか。」-を、全方位配慮しなければいけないケア労働者的な観点から描いた力作である。

純文学私的回顧2020

今年は24のタイトルをブログに投下できた。ブログを始めた2005年が23なので、それを上回る。文字数は圧倒的に減ったとはいえ。37と最もタイトルが多い08年はゼロ年代批評の活況が頂点に達した時期だったと記憶する。とはいえ、文学の批評は、ライトノベルケータイ小説の流行にとりあえずアクセスしつつ、手の打ちようがないといった感じではなかったか。

個人的には、07年に、『文学+』の同人と読書会と称する飲みが始まり、博論が受理されたが、08年には子供ができ、コンビニではなくスーパーのバイトを辞めて仕事に就いた年で、以降ブログから離れ、Twitterに乗り換えた時期に当たる。

最初は、Twitterから距離をとるためにブログを再開した程度だったが、とっかかりとして文芸誌や文学賞を話題にしたのは、あいた時間で読み書くトレーニングにもなった。同人誌などの話も書きたいが、どういうフレームを作ればよいのか悩む。先週末は、太田靖久が企画編集をする文芸ZINE『ODD ZINE』展(かもめブックス)に足を運び、持っていなかった号も入手してコンプリート出来たのが、とりあえずよかった。

最近、文学史について大杉重男が通りすがり的なビンタをし、Twitterでも若干話が出ていた。それらにはなんの異論もない。また文学史が流行るなんてことは間違ってもないはずだが、文学史について自分の思うところを補足しておきたい。

大杉は、直近のブログ(http://franzjoseph.blog134.fc2.com/blog-date-202012.html)で「最近の平板で凡庸な「文学史」の復活ぶり」を指摘し、「平成文学史」の記述を批判している。その理由を、「告白」の倒錯的な制度性―「告白すべきものがあるから告白するのではなく、告白という行為が事後的に告白すべきものを転倒的に生み出してしまう」―から説明する。告白すべき心理=真理は事後的に生起し、制度化する。文学史もこれと同じなのだから、「「文学史」を作って線引きすることそのものの転倒性を批判した『日本近代文学の起源』の精神そのものは忘れられてはならない」と。これはとても頷けるし、誰も異を唱えないのではないか。前回紹介した、平成文学史を記述した批評家・研究者もこの「線引き」に警戒していたように思う。

文学史の記述による「線引き」は、真理とそうではないもの―「純文学と通俗小説」「政治と文学」など―を分割する。それは作られたものにもかかわらず、作られた後には自明なものとして制度化する。

これを文学史本質主義的な側面だとするなら、文学史にはまた、プラグマティックな側面―教育・ガイド・運動として機能する―がある。私はその側面に注目している。

そもそも私たちが用いる言葉(という「線引き」)もこの両面がある。言葉は、それぞれ特定の意味(真理)をともなって構造化されているが(本質主義的な側面)、実際に使用される場面ごとに様々な意味・機能をになう(プラグマティックな側面)。

確かに、かつて文学史は、唯物史観に象徴されるような、真理なり理念を明らかにするという側面が重要視された。文学の歴史は、その記述をなぞっていくと、純文学として大衆文学等との関係から文学の真理―昭和初期の「純粋小説論」から平成の「エクリチュール」「文学=ジャンク」に至るまで―を創出する過程として見出すことができる。告白の内容が卑小なもの―「なぜいつも敗北者だけが告白し、支配者はしないのか」(『日本近代文学の起源』)―であればあるほどよかったように―花袋の『蒲団』?―、文学もまた自己を自虐的に語ることで延命をはかってきたのだ。壮大な正典・カノン批判があった2000年頃まで継続したその過程は、文学の真理を掘り下げ開示するという意味でいわば「告白の文学史」みたいなものであった。

他方、告白的な真理をともなわない文学史は、磯田光一の『戦後史の空間』(1983)あたりから頭角を現すとひとまず設定したいが、その磯田の『左翼がサヨクになるとき―ある時代の精神史』(86)は、左翼的な「政治と文学」の理念が機能しなくなる個人主義化した時代の文学史の記述―左翼系の言論から批判を受けて遠慮した筆致になっているが―を模索していた。そこで磯田が選んだのは主題の系譜学的な記述であり、平成文学史の多くもまたそれを倣うように主題先行型であることは前回述べた通りである。

いずれにせよ、文学史の記述にはこの2側面があるとし、それぞれを操作的に把握した方がよいのではないか。文学史本質主義への警戒はもちろんのこと、告白的な真理をともなわなければOKということにも当然ならない。それは、場合によっては、真理を追跡する文学史とは別種の問題点をともなうだろう。その教育的な配慮は鬱陶しさや胡散臭さを感じさせるだろうし、かといって運動がともなわなければ、個別主題に接点がない者には「平板で凡庸」にしか見えない。

内藤千珠子は編著『〈戦後文学〉の現在形』を刊行した際に、文学史批判を行った。「フレームには、両義的な力があると思います。「戦後」あるいは「戦後文学」というフレームを共有することで、可視化でき、明確になる物事がある一方で、フレームには排除の力や区切る力があって、異論が出にくくなる働きも起こります。「戦後文学」がジャンルとしてフレーム化されるときには、正典とそれ以外のものを分かりやすく区別するという力が働く」(『週刊読書人』12月4日号)と。この発言に異論はない。ただ、ここでは、文学史記述(フレーム=線引き)の両義性を正確にとらえているものの、その良い点をプラグマティックな側面に限定し、悪い点を本質主義的な側面に限定し、分割しているように見える。

しかし、この間には様々なグラデーションがあり、フレームが正典化することを警戒する前に、はたして自分たちのフレームに接点のない者を巻き込むことはできないのか、自分たちのフレームはどこまでを射程にしうるのか、鬱陶しさや胡散臭さを感じさせないかといった―政治的な―問いがありうるのではないか。それは「敗北者」というよりも、「治者」「支配者」の言説に近い。

狭小ながらも分断激しいSNSの文学クラスタを見るだけでも、なかなか絶望的な問題なのだが、文学関係者(もちろん他人事ではない)にとっては最も見たくない側面であることは間違いない。この問題は、文学史の記述のみならず、文学賞をはじめ、時評や書評、出版などジャンルのメタ言説の運用に当てはまるだろう。

この意味でなぜ大塚英志がこの20年ほど根気よく「教育」をやって来たのかが最近腑に落ちるようになった。鬱陶しさや胡散臭さのない言説などたかが知れている。などと私はブログでクレームを投げているだけなので、気楽といえば気楽なのだが。

『〈戦後文学〉の現在形』は、若干関わった程度の私がいうのも気が引けるが、「良質のガイドブックとしての機能」(「プロローグ」)と内藤が示す通り、場合によっては文学の正典すら知らない人にも向けた、教育やガイドとして読まれること―とはいえ価格が高いのだが―をもっと主張してよいと思う。だからこその正典化批判は有意味なものになるのではないか。

また文学教育という観点から、大塚の『文学国語入門』もあるが、西田谷洋『女性作家は捉え返す―女性たちの物語』も紹介しておきたい。両著とも、実用文や論理性が重要視される教育の現場でこそ文学の読解が重要になるという、文学ならではの逆説をきかせた、政治的な問いかけがある。西田谷の仕事は、文学作品の生成‐読解フレームは認知やイデオロギーで様々なバイアスがかかっていることを前提にし、それを解きほぐす営為であることは以前から一貫しており、この著書でも変わらない。

大塚と紅野謙介が国語教育について対談した記事が掲載された『早稲田文学』(2020年冬号)は、文学作品を取り囲む環境を主題にしており(「特集 価値の由来、表現を支えるもの―経済、教育、出版、労働…」)、個人的にはタイムリーであった。

これまた個人的な感想だが、『早稲田文学』はサイズ感がちょうどよくなった気がする。小型になった判型ではなくて、コンテンツが。渡部直己ショック以降の改変だと思われるが、以前は編集委員にビッグネームを寄せ集めたりグラビア仕立てにしたりしてインフレみを感じていたのだった。

文学における今年の注目は文芸誌の活況だったようだが、佐々木敦の文芸批評撤退宣言と入れ替わるように登場した、仲俣暁生の文芸批評家復活劇もあげておきたい。ゼロ年代の彼の文芸批評家としての仕事―『ポスト・ムラカミの日本文学』(2002)『極西文学論』(04)―は、純文学に情報環境やサブカルを導入するというゼロ年代批評的な―というより大衆文学との距離から自己を記述する純文学に伝統的な―文脈にあった。

2010年代後半の時評をまとめた新刊『失われた「文学」を求めて』も、危機や喪失、はたまた正典批判といった従来の文脈が生きている。それはタイトルにも現れている通りだが、今作はより政治的な発言が増え、仲俣固有の「編集者」視点が顕在化し、それがユニークなものにしているように感じた。仲俣が描く、「読む」「書く」と、それに追加された「作る」のトライアングルがどんなパンチライン―「ド文学」批判などはこのトライアングルあってこそのテーマセットだろう―を繰り出すのか楽しみだ。

2010年代は、内藤の「伏字的死角」(『愛国的無関心』2015)や木村朗子の「憑在論」(『その後の震災後文学論』18)、矢野利裕の「主題の積極性」(「新感覚系とプロレタリア文学の現代」『すばる』17・2)など使えそうなパンチラインは多数あったのだ(もちろん目立たなくてもよい批評・研究があった)が、大いに盛り上がったのは『美しい顔』と『百の夜は跳ねて』の参考文献問題と渡部のセクハラ問題だった。まあそれを含みこんでの文学ではある。

文学は「敗北者」の言説であると相場が決められてきた。それは文学しかフォローできない貴重な視点だと今も信じて疑わないが、やはり一面的な視点であることは、『文学+』2号の明治文学研究の座談会でも明らかになった。次回、大正文学研究座談会も、参加者の皆さんの深い知識とサービス精神で面白くなった。なんとか来年中には出すので、ぜひご一読を。

運動としての文学史

文学史がなんとなく注目されている。『週刊読書人』では、2週にわたって「文学史」の話題が記事に取り上げられた。12月4日号は、『〈戦後文学〉の現在形』(平凡社)の編著者(紅野謙介内藤千珠子成田龍一)の鼎談が1面を飾り、戦後文学史について議論があった。12月11日号では、荒木優太が、平成文学史の記述を試みた『らせん状想像力ー平成デモクラシー文学論』(福嶋亮大)を書評している。

文学史の記述はこれまで批判にさらされてきた。その批判は、一言でいえば、大文字の作家と作品を大文字の歴史的出来事にしたがって配分する記述の権威性に向けられた。上記鼎談にもその権威性に対する強い警戒が見られる。

そういった批判の文脈からだろう、1950から60年代には、これまでの歴史記述から漏れていた大衆文学史が積極的に記述されはじめた(鶴見俊輔尾崎秀樹)。また70年代には、作家でも作品でもない「読者」の視点から文学史の記述が試みられた(H.R.ヤウス『挑発としての文学史』1970、前田愛『近代読者の成立』1973)。

文学史とはジャンルのメタ言説の1つである。文学ジャンルのメタ言説には、他にも書評・時評・文学賞など多様にあるが、いずれもその権威性が批判されてきた。メタ言説には、内側には教育的機能があるが、外側にはガイドとして機能する。またマルクス主義に顕著に見られるように、運動として機能してきた側面もある。いずれにせよそれは権威化し、批判の標的にされたわけだ。

私の学生時代は90年代(平成最初の10年)だが、テクスト論が従来の作家論・作品論・文学史を方法論的にしりぞけ、カルスタこと文化研究が文学全般の制度の権威性にダメ押し的な批判をくわえた時代である。文学史に対しては誰もがアレルギー反応を示したものである。

2000年代に入ると、文学の研究や批評は、作家論と主題論に分化する。ここでいう主題論とは、ワン・テーマをめぐる系譜学的な記述であり、たとえば『〈盗作〉の文学史』や『〈獄中〉の文学史』などをイメージしてくれればよい。その先駆は『戦後史の空間』(磯田光一、1985)だろう。歴史は主題に分解され、各主題が系譜学的に記述される。実は作家論も編年体が多い。何をいいたいかといえば、文学史記述の欲望は作家論や主題論の形で延命しているのではないか。これを大文字の歴史から小文字の歴史へということも可能ではある。

他方、平成文学史は意外にもけっこうな数が刊行されている。上記した『らせん状想像力』をはじめ、『平成の文学とはなんだったのかー激流と無情を越えて』(重里徹也・助川幸逸郎、2019)、『未完の平成文学史ー文芸記者が見た文壇30年』(浦田憲治、2015)がある。それに『日本の同時代小説』(斎藤美奈子、2018)『ニッポンの文学』(佐々木敦、2016)もくわえてよいだろう。文学史に対するアレルギーは実は密かに解錠されているのだ。

とはいえ、これらもまた『戦後史の空間』と同様、各主題ごとに―女性作家やディストピアなど―記述された形式が多い。『らせん状想像力』は、「文学の中心的機能を「問題群」の提示」と見なすとし、「多くの問いかけを含んだ作家こそが重点的に論じられるべき」とする。この発言は、やはり平成文学史の記述を試みた矢野利裕の「主題の積極性」―手法よりも主題重視の作品が胎動していることに注目する―とも共鳴するだろう(「新感覚系とプロレタリア文学の現代ー平成文学史序説」2017)。

主題はメッセージ性を強く持つ。文学史の記述にあたってひとまず主題に着目すること。この動きは、メタ言説としての文学史を、再び教育的・ガイド的・運動的に機能させはじめた徴候ではないか。

先週、『文学+』3号に掲載する予定の「シリーズ・近代現代文学研究座談会 大正篇」の座談会をオンラインで開催した*1。楽しくまた勉強になった。同人の大石將朝が企画したこの座談会はまさに文学史の再考を期するものである。3号は他に、梶尾文武が主催する座談会、私が企画した座談会と、3本立ての予定。また書評も増やしたい。

私の座談会は「政治と文学」など文学史的な主題を検討する。文学史を現在進行形で記述するなら、文芸誌体制や同人誌文化をはじめとする「下部構造」が問われるべきであろう。ヤウス=前田愛の受容史は、マルクス主義文学とフォルマリズムを相対化する意図があったが、「下部構造」に対する視線はマルクス主義文学から継承しているといえ、それが前田の「音読から黙読へ」というクリティカルな文学史記述を可能にした。

文学の「下部構造」に対する視線は文化研究に継承されているはずだが、これは明治や大正に向かうばかりで、「ライトノベル研究会」の貴重な成果を除き、現代文学に適用された試しがほとんどない。というのも文芸批評がその役割を担っていたからだが、この伝統もゼロ年代前半の大塚英志あたりで潰えてしまった。このとき大塚と笙野頼子の間で起こった論争が不運だったのは、大塚には文学の立て直し―教育的・ガイド的・運動的―の意図があったにせよ、批判を受けている側にとっては、存在しないにも等しい権威として批判されていると実感されたことである。大塚は、当時過激に「文学批判」「文学終焉論」を打ち上げる批評家たちとはやや違った立ち位置にいたのだが。

ここでは「下部構造」を比喩的な意味で使っている。要は作品なりテクストの外部という意味である。たとえば大正期には、自分の表現(理想)と社会的ポジション(階級)―言ってることとやってること―のギャップに苦しむ作家がいる。純文学と大衆文学を右往左往する作家がいる。新聞などマスメディアに関わりながら、自分の表現を実現するために同人誌でチームを編成したり、個人誌を作る作家もいる。これらの軌跡を一言で運動といってよいなら、平成文学史から奪われたものはこの雑多な運動にほかならない。試しに筑摩書房刊『明治文学史』(中村光夫)『大正文学史』(臼井吉見)『昭和文学史』(平野謙)を開き、主題でしか語れなくなった平成文学史たちと読み比べてみればよいだろう。

主題は運動をともなっていた方がよい。はたしてこれはノスタルジーだろうか? マーク・フィッシャーは、資本主義リアリズム下の文化史・音楽史を記述するさいにこの問いを憑かれたように繰り返したのだった。

*1:そこで「なぜ文学史なのか?」という問いを頂戴した。実は批評・研究のテーマを文学史にしてから「なぜ文学史なのか?」という問いを頂くことが増えた。そこではだいたいこんな回答をすることにしている。特定の主題の枠組みを設けー今回なら「大正文学研究」ー、見えにくい問題系を可視化したいとかなんとか。要は教育・ガイド・運動的な側面にフォーカスした回答に落ち着くわけだが、そんな話を長々している最中に、いや待て、文学なんてどうでもよかったのではないか、自分はこんな善人ではないはずだという思いがよぎり、すこぶる恥ずかしくなる。けっきょく私の半面は、文学史を権威として批判するアイロニーが占めており、これはたぶんどうすることもできない。しかし雑誌作りを始め、寄稿依頼や座談会などで文学の話をしているうちにこのアイロニーが相対化されたことも実感としてあるのだが。

第2回「BFC」と新設「みんなのつぶやき文学賞」

週末は酒を飲みながらぼんやり読書をするつもりだったのだが、11月14日からTwitterのタイムラインが熱く、同期する話題が複数あったため、簡単に記しておきたい。

高村峰生が、「ハイカルチャーポップカルチャーの差」に言及したツイートが話題となり、一部批判も受けていた。「「ハイカルチャーポップカルチャーの差なんてないんですよ」という主張は、当然差があると思われているところでは意味があるが、もともと差がないと思われているところでは、単に迎合的になる危険性がある。なので、自分も状況に応じて使い分けている」(11月14日)。この発言に異論はない。私も状況に応じて高村と同じような使い分けをするように思う*1

他方、同じ日に倉数茂がブンゲイファイトクラブBFC)をめぐるツイートで重要な発言を投下したが、これはさほど注目されていない。「BFCの意味みたいなことを考えているんだけど、コンテンツ(資本主義はつねに作品を流通可能な商品に変えていく)化した文学をあらためて遊戯の場に引き下ろした、というところだと思う。遊戯と生成の場。」(11月14日)。倉数は、連投ツイートにおいて「文壇の権威分配のためのシステムである文学賞」にも言及している。

BFChttps://note.com/p_and_w_books/n/ncafcebf86663

問われているのは、カルチャーの質(ハイかポップか)ではなく、カルチャーの運動性である。この観点から見ると対立軸も当然変わってくるだろう。さしあたり、静的なカルチャー―場合によっては権威化しコンテンツ化する―と動的なカルチャーの差といってよいかもしれない。

11月14日前後のTwitterのタイムラインはなかなか熱かった。ブンゲイファイトクラブ関連のまさにめまぐるしく生成変化する話題―1回戦ジャッジに対するジャッジをはじめ落選展のフォローやレヴューの応酬など―が断続的に投下され、また、Twitter文学賞の後継となる「みんなのつぶやき文学賞」のアナウンスが連投された。

みんなのつぶやき文学賞https://tbaward.jp/

15日はプレイベントとして発起人5名―若林踏・橋本輝幸・矢野利裕・倉本さおり・長瀬海―による座談会が配信された(現在も視聴可能)。彼らは各々推薦図書を挙げたが、どれも海外文学をはじめ文壇的なコンテンツに乗りにくい作品を意図的に選択していた。むろん、誰もが知っているような作品など紹介しないというプロ意識があってのことだろうが、運動というものは至極単純にも、こういう反権威的なところ―彼らが意図していたかどうかは問わなくてよい―からしか生まれてこないはずである。

そういえば、発起人の矢野の『コミックソングがJ-POPを作った-軽薄の音楽史』(2019)は、文芸・演芸を運動的・身体的な側面から考察していたことも記しておきたい。

ただし、生成変化といえば聞こえはよいが、運動には仕組みの設定や運営など地道な裏方作業が欠かせない。運動の設計思想も同様である。Twitter文学賞は、創設当初のTwitterアーキテクチャーと豊崎由美の思想がマッチしたことによるものだったはずだ。小説・短詩・評論なんでもありのブンゲイファイトクラブの仕組みは、西崎憲というアイコンの文学カルチャーに対する思想が反映しているといってよい。むろん当初の設定が次々と改変されるのが運動の一側面でもある。

来るBFC第3回は、ジャッジにも興味があるのだが、BFC関連のタイムラインを見ていると、ボコボコに返り討ちを食らいそうなので、現在は新参のファイターとしてマイクロ評論―ただの書評?―を構想中である。

カルチャーというものは、程度が上のように見えるものも、下のように見えるものも、いずれにせよ無駄な浪費・運動なのだろう。近代が始まった頃にはそれがまだ見えていたのかもしれない。

道楽と云えば誰も知っている。釣魚をするとか玉を突くとか、碁を打つとか、または鉄砲を担いで猟に行くとか、いろいろのものがありましょう。これらは説明するがものはないことごとく自から進んで強いられざるに自分の活力を消耗して嬉しがる方であります。なお進んではこの精神が文学にもなり科学にもなりまたは哲学にもなるので、ちょっと見るとはなはだむずかしげなものも皆道楽の発現に過ぎないのであります。(夏目漱石現代日本の開化」)

 

*1:この問題は、「ハイ」と「ポップ」の〈差〉以上に、現在ではカルチャー〈間〉の「文化の盗用」に関わってくる。あるカルチャーに配慮なく研究・批評をすると、迎合的というよりも、端的にパージされたりウザがられたりするリスクがあるだろう。このブログ記事も水を差すものではないかと危惧している。参考記事➡PC批判と文化的盗用 - 感情レヴュー、16日追記。

第2回ブンゲイファイトクラブ雑感

まずはTwitterから。『有島武郎―地人論の最果てへ』が絶賛発売中の荒木優太が「物語の社会反映論の流行」として最近の文学の傾向―社会の役に立とうとする文学―に警鐘を鳴らしている。荒木は『週刊読書人』で書評を担当しており、この1年間は文芸誌を最も読んでいる1人のはずなので、実際に嘆かずにはいられないそういう傾向があるのだろう。

このブログでも、政治的社会的な「主題の積極性」(矢野利裕)の流行について何度か話題にしている。だから荒木の発言には共感するところもある。

他方、私は、「主題の積極性」について少し違った見方をしている。言い換えれば、「主題の積極性」を「物語の社会反映論」や「社会的有用性」とは違った側面から検証したい。言葉の効用という側面である。最近このブログで話題にしている呼びかけ問題・2人称問題・パラ(メタ)テクスト問題はこの言葉の効用問題に収斂するといってよい。

文学では、言葉の追及と言葉の効用の2面が対象になることが多い。言葉の追及とは、世界をいかに認識(構成)するかが問題になるが、言葉の効用は、世界にいかに伝えるか・世界といかに関わるかが問われる。

文学史的にみると、この言葉の追及と言葉の効用の相補関係は、モダニズム以降(1920-30年代)の問題といえるだろう。ざっくりといえば、形式主義論争があったモダニズムは言葉の形式的な追及が行われ、その後の「文芸復興」の時代では言葉の効用の方にシフトした。「純粋小説論」(1935)の横光利一が「純文学にして通俗小説」を提唱した背景には、形式追求型の純文学に、エンターテインメントにおける言葉の効用を接続するという発想があったはずである。

実は私は文学クレーマーになる前から文学研究者でもあるのだが、専門領域はモダニズムとそれ以降の表現についてである。「文芸復興」時代の言葉の効用問題を、横光=ベタなリアリズム(説教型)、川端康成=イロニーの戦略、谷崎潤一郎=ユーモアの戦略の3パターンに分けて論じた記事を紹介したい。
https://sz9.hatenadiary.org/entry/20070803/1186152771

もちろん、言葉の形式的追及と言葉の効用が問われる時代を明確に二分できるわけではない。そもそもモダニズムも、読者の質の変化に対応する運動だった。大衆化・匿名化した読者にいかに伝えるかが問題になり、そこで内容よりも形式が重要だと提唱したのが横光である。「同一物体である形式から発する内容と云うものは、その同一物体を見る読者の数に従って、変化している」(「文字について―形式とメカニズムについて」1929年)。

言葉の追及と効用の関係は、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』と『哲学探究』、柄谷行人の形式の諸問題と『探求』との関係にパラフレーズしてもよい。物語論もまた、構造主義から認知物語論への展開がある。いずれにせよ、「主題の積極性」には「物語の社会反映論」や「社会的有用性」には還元できない原理的な問題が内在している。

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第2回ブンゲイファイトクラブが開催中である。40人―発表者はファイターと呼ばれる―の作品がトーナメント方式で勝ち上がっていく方式だが、ジャッジする側もファイターによってジャッジされる。作品は原稿用紙6枚程度、活字であればジャンルは問わない。

note.com

この文学賞のキモはジャッジもジャッジされるというところだが、ジャッジ問題はなかなか悩ましい側面がある。ジャッジも評価にさらされるべきだという発想で選考過程をオープンにした事例は『早稲田文学』の新人賞(2001年)があり、最近だと『すばる』のすばるクリティーク賞(2018~)がある。

ブンゲイファイトクラブの方式はこの民主的な発想の徹底形態といえる。ただ、ファイターは必ずしもジャッジする経験値があるわけではないので、そこの非対称性が際立つことになる。つまりファイターによるジャッジの恣意性であるが、まあそこも含めて楽しめばよいのだろう。

ジャッジとファイター、評者と創作家を関連させる試みは他にもある。『群像』が2003年に「現代小説・演習」という企画を行ったことがある。批評家と小説家のコラボ企画で、批評家がお題を出し、そのお題を受けて小説家が創作をするというものだ。仲俣暁生舞城王太郎の回は単行本にもなった。最近の文壇は主題の積極性が求められているので、書評家と小説家で同じような企画をしてもよいのではないか。

ブンゲイファイトクラブの作品はどれも楽しめるが、私の推しは、如実の「メイク・ビリーヴ」(Gグループ)と由々平秕の「馬に似た愛」(Fグループ)。「馬に似た愛」は、樋口恭介「字虫」(Dグループ)と迷った。両方とも可能世界的なフィクションなのだが、「字虫」がそのボケを押し通すのに対して、「馬に似た愛」は最後に話者がツッコミを入れる。私はSFよりも純文学読みだから、どうしてもそういう自意識的な手付きに甘くなる気がする。「字虫」のリアリズムと比べると、「馬に似た愛」のオチを付けようとする仕草はロマン主義的なわけで、そこは弱さとジャッジされる部分でもある。

「メイク・ビリーヴ」は、話型としてはナンセンスだが、テプラというモノボケで、小説とも短詩(ポエムならぬテプラ詩?)とも見えるクロスオーバーなジャンル形式に踏み込んでいる。異種格闘技をよしとするブンゲイファイトクラブに相応しい作品でもあろう。最も推したい作品である。

他にも、死のグループであるCグループの和泉眞弓「おつきみ」、倉数茂「叫び声」、Dグループの蜂本みさ「タイピング、タイピング」、Eグループの東風「地球最後の日にだって僕らは謎を解いている」など好きな作品が複数あった。「叫び声」についてはFACEBOOK青木純一と激論(?)を交わした。第3回は私も参戦してみようかな。もちろん評論で!

第42回野間文芸新人賞雑感

10月は「LGBTQ+展」―「Inside/Out─映像文化とLGBTQ+」(早稲田大学演劇博物館)―と、「死刑囚表現展」(松本治一郎記念会館)があった。前者はまだ開催中だが(https://www.waseda.jp/enpaku/ex/10407/)、後者は3日間のみの開催で、急ぎ足を運んだ。

両展は多様性の社会的包摂を考えさせられるものである。とくに問題なのは「死刑囚表現展」であろう。「LGBTQ+展」を積極的に評価する人たちも、「死刑囚表現展」となると、なるべくなら見ないで済ませておきたい話題ではないか。

「死刑囚表現展」は2005年から催されている企画だが、今年は植松聖死刑囚の出展があってメディアが取り上げ、話題になった。初日は狭い展示室に400人ほどの来場者があったという。私も初体験だった。興味を持った直接のきっかけは、SNSで1部話題になった、円堂都司昭の報告である(https://ending.hatenadiary.org/entry/2020/10/23/194347)。

ポケモンのパロディ「死刑廃止Getだぜ!」(山田浩二)や、安楽死を積極肯定する「より多くの人が幸せに生きるための7項目」(植松聖)などの自己顕示欲の圧が強い、挑発的な作品の展示が、「死刑廃止」を訴える企画の意図に反するのではないかと円堂は戸惑いを見せる。

私が見た感想はといえば、そういった表現はほんのわずかであり、企画の意図に反する表現も排除せずに展示する主催者に好感を持った。とはいえ、被害者をはじめ、死刑廃止に関心のない人たちのことを考えると、円堂の戸惑いは共感しうるものである。

悪ふざけなのか、死への恐怖で心が不安定なのか、社会への敵対心か。そこらへんが気になるものの、出品者一人ひとりがどんな罪を犯したのか、刑務所で最近はどんな生活ぶりなのか、精神状態は、といった周辺情報はない。かといって、周辺情報に関係なく作品自体を鑑賞せよというのも違うだろう。死刑囚だからここへ出品できるという前提がまず明らかなのだから、その肩書抜きで観るのは不可能だ。

円堂は周辺情報の不足を批判する。探せばないことはないのだが、想定される戸惑いや懸念をおりこんだ説明が十分ではないことは確かである。当該表現展と長く関わってきた『創』編集長の篠田博之によるレポートへのリンクも置いておく。リンク先からは、表現展に展示された1部作品に対する、選考委員の講評動画も視聴可能である(https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20201031-00205698/)。

とはいえ、「死刑廃止Getだぜ!」のメッセージは、特に説明もなく、私たちに投げ付けられたままだ。社会の幸せのために不要なものをクレンジングすべきと提言する死刑囚の作品を、死刑廃止展に展示するという、ルネ・マグリット的(?)なメッセージ―「これはパイプではない」―を前にして、私もまた立ち止まらざるをえない。

もちろんそれは悪いことではない。問題なのは、何かを伝えることの困難さである。『創』編集長のレポートにも見られるように、関係者も今までにない反響に戸惑っているようである。

ところで、最近の文芸誌は各巻ごとに強い主題を持たせる傾向にある。作家も政治的社会的な主題を作品に導入しがちである。主題があるということは、誰かに何かを伝えたいということだろう。

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野間文芸新人賞の発表があった。主題の積極性は、芥川賞三島賞でも存在感があったが、今回のノミネート作はさらに際立っていた。5作とも権力関係が物語を推進する。内藤千珠子は最近「被傷性」「損傷性」というキーワードを用いて作品分析を展開しているが、ノミネート作の主題もこの観点から整理することができる。

三島賞にもノミネートされた宇佐見りん『かか』は、家族内の女性をめぐる「被傷性」、崔実『pray human』は女性(もしくは家族内子供)の「被傷性」の主題が見られる。両作品は、誰かに何かを伝えるという2人称スタイルである。

また、ヘイトが過激化する近未来を描いた李龍徳『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』は、在日朝鮮人・韓国人の「被傷性」、青鞜に影響を受けた女性たちの歴史を描く谷崎由依『遠の眠りの』は、女性の「被傷性」、紗倉まな『春、死なん』は、家族内の老人と妻の「被傷性」となる。

紗倉まなの単行本の帯には「現役AV女優が描く」とあり、被傷性と無縁ではない職業の肩書きを作品の周辺情報―パラテクストーに積極的に位置付けている。他も、女性や在日韓国人などの立場性が有意な情報となる作品である。

もちろんそういった周辺情報抜きにして作品を読むことも、原理的には可能だ。しかし、政治的社会的な意味付けはたえず読む行為に侵入する。

ゼロ年代は、政治的社会的な意味付けを排除して言葉そのものの動態に身を委ねることをよしとする保坂和志の小説論が一定の影響力を持った。しかしたとえば「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた」(『未明の闘争』)式の破格の表現は、読者に特定の読み方を要求し、読者を選別するある種の政治性を持っている。この政治性を無視すると、普遍性の罠に陥るだろう。自分の作品を前にして戸惑う読者に、「とにかく読め」だの「嫌なら読むな」という権利は当然あるが、「あなたが間違っている」とは言えない。

言葉は、構造的・形式的に意味が決定されているわけではない。使用時にそのつど意味が決定され、場合によっては発話者と受信者に行為を促す。意味の決定と行為の促し―言語ゲームともスピーチアクトとも言い換えてよい―には使用時の文脈が深く関与するが、とくに重要なのは権力関係である。

『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』の世界観設定では、公的文書での通名使用が禁止されている。本名の使用は、社会的不利益を助長する。また日本での韓国語の使用は敵と味方の選別として機能し、最悪、性被害や暴力が発動する様が描かれる。そもそも、『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』のキャラクターたちは、最後の「テロ」にいたるまで、自分の発話や行為がどのような意味をもたらし、社会を動かすのかに意識的であり、そのブラグマティックな想像力が物語を推進するものだった。「聞こえる距離で、あえて韓国語を使ったのは最後にした挑発だ」(38)。

「あなたが私を」という書名にも示唆されている通り、言葉の使用は、そうとは明示しなくても(3人称を装っても)、私たちを当事者として1人称と2人称の関係に置く。言葉は私とあなたの関係―告発か命令か要望か勧誘か依頼か警告か約束か―を切り結ぶ。

そういう意味で周辺情報としてのパラテクストは重要な役割を持っている。『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』というスピーチアクト的なタイトルにくわえ、メッセージ性の強い帯文(在日作家のメッセージを含む)を交えたタイポグラフィカルな装丁は、主人公・太一が誘導する仕掛けのように、読者を誘い込むだろう。

『遠の眠りの』は全篇3人称による抑制された語り口だが、帯―パラテクスト―に「女たちよ、目ざめよ。」とある通り、言葉の、場合によっては政治的になるプラグマティックな側面に意識的である。主人公の絵子は家父長的な家族の在り方に疑問を持つ。その疑問を整理し、勇気を与え、自立を促す役割を果たすのが、訛りのない「書物の言葉」である。

らいてうの思想もさることながら、絵子は朝子の言葉遣いに気を取られていた。独特の話し方だった。前にも思ったが、訛りというものがない。なんだろう、これは、と考えて、本の言葉だ、と思い当たった。目の前にいるこのひとは、書物の言葉を話している。/ほうやの、と相槌を打とうとしたが、やめた。(66-7)

一方、その「書物の言葉」を自在に操ることは、教育を受けられなかった者に対する奢りにも転じる(122)。

物語は、絵子の人生を彩る「杼」と「舟」の機械的・日常的な往復運動のイメージを緯糸に、戦争がもたらす日本と大陸の行き来と、「少女歌劇団」の子供たちが強いられた男と女の入れ替わりが経糸になって織られる地図/織物として私たちの前に広げられる。

個人の意思をこえた日常の反復と歴史の推移が、抑制された叙述によって描かれる。そこから女性の痛みや諦め、静かな怒りのメッセージを私たちは受け取るだろう。受賞作『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』の、自意識全開の末に発動する壮大なアイロニーとは真逆である。私はこの2作で迷ったが、どこかで真面目になり切れない―政治的メッセージなど関係なくふいに言葉の細部・魅力にさらわれる瞬間がある―『遠の眠りの』を推していた。『遠の眠りの』がユーモラスかというと微妙だが、『あなたが私を』と比べると触知できる抜け感が刺さる。

『かか』だけではこの2作に及ばないと感じるが、2作目の『推し、燃ゆ』を読んで、この作家の比類ないセンスを知れたので―2作読まないと伝わらない周辺情報もあるのである―また別記したい。

純文学論争再論

批評という営為は―私に限っては今はクレーマーに甘んじているわけだが―場を作ることだと思っている。

最近、Twitterで「ジャンル間の階級制の問題」(小谷真理)が話題になった。事の発端は、村田沙耶香川上弘美笙野頼子ら純文学に属するとされる作家のことを、フェミニズムSFとみなしてもよいのではないかといった議論にある。

純文学と、SF等のエンターテインメント文学の関係。両ジャンルは、これまで様々議論されてきたが、2000年前後の純文学論争(平成純文学論争とする)の頃に斎藤美奈子が放った発言―「かつての文学なり純文学が持っていた地位の高さはもうない。ディレクトリが一個下になった。ミステリー、ホラー、あるいはSFがあるように純文学がある」(『群像』2001・3)―に象徴されるように、「ジャンル間の階級制の問題」は解決されたはずだったが、必ずしもそうとはいえないという見方もあるようだ。

平成純文学論争は、主に笙野頼子と男性批評家の対立だった。文学の終焉だの限界だのを言い募る男性批評家の一神教的な否定神学に対して、笙野が切り返したのは、ジャンルを総動員した多様性である。「面白い事に一神教のかたまりのようなミステリーから越境してくる桐野夏生氏はミステリーのコードを拘束と感じる場合があると書いて論争を起こした。SFダメ論争が前の私の「ドン・キホーテの「論争」」と呼応したようだった事を思い出す」(『徹底抗戦!文士の森』2005)。

当時ジャンルの限界・見直しが議論されていたのは純文学だけではない。興味深いのは、従来のコードから比較的自由ではなかったのが男性であるのに対して、ジャンルの可能性を模索していたのが主に女性―ミステリは『白蛇教異端審問』(2005)の桐野夏生、SFはジェンダーSF研究会(2000年発足)の小谷真理ら―だったという点である。私を含む男性批評家―私に限っては今はクレーマーに甘んじているわけだが―は、この時期、純文学(の終焉)からサブカルチャーなりライトノベルへの移行―批評文脈でいえばポスト『批評空間』―にばかり目がくらんでおり、彼女らの動きが見えていなかった。今回のTwitterでの議論も女性が中心である。

『新潮』の10月号では、高橋源一郎佐々木敦の対談があった。ポスト『批評空間』の、文学における批評的言説を担った2人といってよい。話題の中心は、佐々木が文芸批評を「降りる」という話から、小説(=純文学)と批評の定義に及ぶ。

彼らの純文学の定義は、上記斎藤の状況分析―他のジャンルと同じ特殊なジャンルの1つ―を前提しつつ、「他のどのジャンルにも収まらない」(佐々木)「何でもありのジャンル」(高橋)だという。このような文学観は、2人の読者には馴染み深いものだろう。

彼らは、「ジャンル間の階級制」を真っ先に批判するだろうが、純文学以外のジャンルをコードが限定的なジャンルだとみなしているのではないか。しかし、ミステリは決められたコードに従うべきだとする男性批評家に対して、そのようなジャンルの縛りを批判したのが桐野夏生だった。

むろん、自分が関わるジャンルがなるべく自由であってほしいと願うのは自然なことであるが、自由の主張はしばしばコードの縛りを意識したことによるものである。「人はさまざまな可能性をいだいてこの世に生まれてくる。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、しかし彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚くべき事実である。」(小林秀雄「様々なる意匠」)

純文学作家になったからには、言葉が不慣れな子供を歓喜させる絵物語は披露できないし、コアなSFやミステリファンをうならせる仕掛けに没頭しえないし、キャラクターの魅力にばかりこだわってもいられない。次作から5・7調に転じることもできない。小説は理論上自由であるとしても、現実的に出来ることは圧倒的に限られている。

高橋と佐々木の文学ジャンル論には、「可能性」が豊かに語られる半面、この「驚くべき事実」がない。また彼らはそれぞれ自身の批評家から小説家への転身について説明するが、その説明には不可抗力的な要素が見られず、自由意志のもとに行われたかのようである。

要は、高橋と佐々木には、歴史があまりないのである。ジャンルの技術に対する目配せは誰よりもあると思われる2人だが、その技術論は歴史をともなっていない。だから高橋のこれまで多く発表された文学論は、小説作品を詩やマンガと同列に語ることに屈託がない。佐々木は、「私」の問題を扱う際に文学史を参照するし(『新しい小説のために』)、小説論を展開する際に隣接ジャンルを参照するが(『これは小説ではない』)、それらの議論は歴史の固有性ではなく原理論に収れんする力学が働く。

私は彼らを批判しているのではない。歴史を主題とすることが多かった『批評空間』後の文学における主要な2人の批評的言説を説明している。

私が、ときに「純文学=叙述・ジャンル小説=物語・ライトノベル=キャラクター」と3ジャンルの規則を説明したり、純文学を「自意識・叙述・主題・物語」の4象限から説明したりするのは、文学史を語るために必要だからである。しかし、原理論的に考えたい人にはひたすら胡散臭いだろう。

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純文学のコード=規則について話したが、次に制度面の話をしておきたい。上記Twitterでの議論の際に豊崎由美が、作家はデビュー誌など出自に縛られることに悩むという趣旨のツイートをしている通り、制度と規則は複雑に絡みあっている。

佐々木は、純文学を文芸誌に掲載される作品と定義している。おおむね首肯するが、文芸誌に掲載されない作品は純文学ではないということを意味しない。

とくに大正から昭和の初めにかけては多様な同人誌文化があり、中には相当程度の影響力を持つ雑誌があった。しかし、戦後になると文学の社会的影響力の地盤沈下が起こる過程で次第に商業メジャー文芸誌の寡占状態になるのは事実だ。

文芸誌のコンテンツがディスられることは、前世紀末から『批評空間』界隈ではしばしば見られたが、その制度面を大掛かりに批判したのは大塚英志である。彼の批判は、文芸誌が代表する純文学は、サブカルに補填してもらうほど深刻な不良債権なのだという現状認識を持ち、自立すべきというものだった。そんな文芸誌=純文学批判に対して、文学の多様性を守るという観点から反論したのが、前述の笙野にほかならない。

多様性から批判された大塚も、文芸誌体制に依存しない多様性―その形になったものが文学フリマだが―を組み込もうとしていたわけで、彼の〈近代的責任主体の再起動〉なる評語はネオリベとも相性がよく私には理解できないが、実は笙野と大塚の間には対立するほどの違いはなかった。いずれにせよ、たいていの文学論争は不毛なものだが(不毛だからこそ味わい深いのだが)、こと平成純文学論争の中でも笙野と大塚の論争に限っては、すれ違い続けたものの、有意義な争いだったと思う。

佐々木は、最近作『絶体絶命文芸時評』で倉本さおりと対談をしている。そこでこの10年ほど文芸誌を主戦場に批評を組織した経験を踏まえ、文芸誌体制について多くを語っている。

佐々木は、純文学は文芸誌に掲載された作品である旨を主張しつつ、文芸誌が「文化事業」「メセナ」であることに肯定的に言及している。大塚がそれに居直るなと否定的に語った側面である。

いずれにせよ、文芸誌が利益度外視の文化事業であることはそれほど重要ではない。出版社が自由な経営判断で続けるなり、降りるなりすればよいのではないか。

そこそこ重要なのは、純文学は文化インフラの主要なジャンルという側面である。例えば純文学の作品は教科書に載り、図書館に収載されやすいという事実を見ればよい。初等教育から大学文学部までの教育、図書館、評論・研究(メタ言説)のリファレンス、海外への翻訳ルート等を文学の文化インフラと定義しておこう。これらの文化インフラは純文学がほぼ占有している。ということは、現在純文学を一手に引き受けている文芸誌がほぼ独占している状態だ。文芸誌に載るということは、商業ベースに乗るというだけではなく、文化インフラにも登録されるということを意味する。そしてこの文化インフラは、歴史的に、文芸誌だけが培ってきたものではない。

私たちは、ジャンル小説ライトノベルなどエンターテインメント文学に言及しようとすると、図書館には置いていない等、アクセスの困難さに突き当たる。島田雅彦林真理子はほぼ同期だが、前者のアクセスのしやすさに対して後者は圧倒的に不利な立場だ。

斎藤は、〈各ジャンルのディレクトリは平準化した〉と述べた。ジャンルの価値観は確かにそうなった(?)が、インフラレベルはまだ歴然とした格差がある。むろん以前と比べるとずいぶん相対化されたとはいえ、社会的な扱いとしては、消費財のみの側面が強いエンターテインメント文学に比して、文芸誌=純文学は消費財文化財を併せ持つ。言い換えれば、文芸誌による、消費財(商品)としての選別排除が文化財としての選別排除にも深くかかわる。

以前は『文學界』に同人誌評があり、文化インフラのおすそ分けをしていたが、今はそれもなくなった(「同人雑誌評」1951~2008年、現在は『三田文學』)。

文芸誌に参入すれば文化インフラにフリーライドできる。内側にいれば当たり前の環境だが、外から見ると同じ文学をやっていても羨望の環境のように見えるかもしれない。同じ税金を払っているというのに! エンターテインメント文学のメタ言説なんてAMAZONレビューや口コミ、リアル書店での展開くらいしかないわけだ。要はマーケットだが、それは一過的なものでしかない。エンターテインメント文学も今後さらに本が売れなくなれば、この厳然たる階級制にクレームでもしたくなるのではないか。あるいは、純文学内部においても、商業ベースでリニューアルを進める文芸誌に対して、掲載されない・広告してくれない作家は階級内差別を感じているかもしれない。