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感情レヴュー

2015-06-13 「3・11東日本大震災と文学」 このエントリーを含むブックマーク

1、『神様2011』

東日本大震災文学の世界にも大きな影響を与えた。この出来事に影響を受けて書かれた小説はいくつかあるが、数のレベルで多いと考えるか少ないと考えるかは見方によって異なる*1

日本はかつて1995年に阪神淡路大震災オウム真理教による地下鉄サリン事件という大きな出来事に遭遇したことがあるが、その際には多くの作家が沈黙を守ったことを考えると(当時の日本文学は現実の出来事を表現することに消極的であった)*2、今回の震災はより多く作家に表現を選ばせたのだということができるだろう。

むしろ、これまで社会的・政治的な話題に触れる機会を逸してきた文学が、この出来事をきっかけに語る一歩を踏み出すことができたという側面があると考えれば、震災文学が現実の社会と接点を持つ踏み台なり免罪符として受け入れられたともいえるだろう。

そのなかでもより早く発表され注目を受けた作品が、川上弘美の『神様2011』(講談社2011年9月)である*3

川上弘美1993年に作家デビューを果たしているが、その時のデビュー作が短編「神様」であった。本作は「神様」の2011年版ということになる。作品の構成は、まず1993年の「神様」が掲載され、その後に「神様2011」、そして最後に本作発表の趣旨を書いた「あとがき」が付されている*4

2011年の3月末に、わたしはあらためて、「神様2011」を書きました。原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段にかまえた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりもむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性をもつものだ、という大きな驚きの気持ちをこめて書きました。静かな怒りが、あの原発事故以来、去りません。むろんこの怒りは、最終的には自分自身に向かってくる怒りです。今の日本をつくってきたのは、ほかならぬ自分でもあるのですから。(『神様2011』「あとがき」)

東北震災の被害は、地震による津波の側面と原発事故の側面をあわせもっており複雑である。それぞれの作品もどちらに焦点を当てるかで大きく内容が変わってくるが、「神様2011」は原発事故に焦点を当てたものだ。

もともと「神様」の設定は、女性である一人称「わたし」と動物の「くま」が会話しながら森を散歩するという幻想的なファンタジーであるが、「神様2011」は原発事故後(作中では原発事故は「あのこと」と呼称されている)という設定が加えられ、それに対応して部分的に書き換えられたり書き足されたりして作られたものである。したがって、幻想的な設定に現実の生々しさが侵食された形になっている。「神様」と「神様2011」の同じシーンを抜き出してみよう。

  

遠くに聞こえはじめた水の音がやがて高くなり、わたしたちは川原に到着した。たくさんの人が泳いだり釣りをしたりしている。(「神様」)

遠くに聞こえはじめた水の音がやがて高くなり、わたしたちは川原に到着した。誰もいないかと思っていたが、二人の男が水辺にたたずんでいる。「あのこと」の前は、川辺ではいつもたくさんの人が泳いだり釣りをしたりしていたし、家族づれも多かった。今は、この地域には、子供は一人もいない。(「神様2011)

 

「いい散歩でした」

くまは305号室の前で、袋から鍵を取り出しながら言った。

「またこのような機会を持ちたいものですな」(「神様」)

「いい散歩でした」

くまは305号室の前で、袋からガイガーカウンターを取り出しながら言った。まずわたしの全身を、次に自分の全身を、計測する。ジ、ジ、という聞き慣れた音がする。

「またこのような機会を持ちたいものですな」(「神様2011」)

津波による被害は圧倒的な自然に向き合う無力な人間の悲劇になるが、原発事故は放射性物質という圧倒的な自然にくわえ、人間の犯した罪として自分と向き合わなければならない性質のものだ。「神様」と「神様2011」の関係はまさにそのような自己言及として、作家の「静かな怒り」から生み出されたものだということができる。

古川日出男もそんな作家の一人である。福島県出身の彼は、東北を舞台とした『聖家族』(集英社、2008年)という長編作品を書いていたが、震災を受けてその補遺となる『馬たちよ、それでも光は無垢で』(新潮社2011年7月)をいち早く発表した。「書け。私はこれを書け」。このときの彼を突き動かしていたのも同種の「怒り」だったろう。


2、「原発」と「原爆*5

とくに日本は、広島長崎原爆被害、第五福竜丸などの放射能被害を受けてきた歴史があり、それらを教訓として歩んできた。原爆関連の小説は戦後以来継続的に発表され続けている*6。それにもかかわらず、私たちは、原発功利性をとり、その恐ろしいリスクには沈黙したまま生きてきた、その代償が福島であるという思いが多くの作家にはある。

広島長崎原爆被害に古くからコミットし関連する著書もあるノーベル賞作家・大江健三郎は、2011年の3月28日の『ニューヨーカー』に「History Repeats(歴史は繰り返す)」というタイトルのエッセイを寄稿した。また、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に積極的な関与をし、小説作品やルポルタージュを発表した村上春樹は、6月10日にスペインカタルーニャ国際賞を受賞した際に「非現実的な夢想家として」というタイトルのスピーチを行った。

日本を代表する二人の作家が、原発事故という世界的に注目される出来事に対して自分の思いを語ったのだが、いずれにも共通しているのは、原発功利性・効率性に敗北して歴史から学ばなかった忸怩たる思いである*7村上春樹は、諦観しやすい日本人はもっと怒ってもよいという趣旨の発言をしている。

川上弘美もまた、「震災以来のさまざまな事々を見聞きするにつけ思ったのは、「わたしは何も知らず、また、知ろうとしないで来てしまったのだな」ということでした」(「あとがき」)というコメントをしている。

ドイツに拠点を置いて文学活動を行っている多和田葉子は短編「不死の島」*8で、東北震災後の日本を描いている。日本は3・11後も、けっきょく「怒り」を封じ込んで原発の稼動を黙認してしまった。その結果再び巨大な原発事故に見舞われ、世界から差別的に締め出された挙げ句日本は瀕死の状態にあるというSF的な設定だ。

3・11から3年以上が経過した最近の日本は、多和田の予想を裏付けるように再び歴史の教訓を忘れようとしているように見える。


3、『詩の礫』

震災から3年以上が経過した。

振り返れば、被災後まもない時期は、震災からの距離のとり方に試行錯誤しながら、様々な活動を行っていた作家たちの姿がうかがえる。

日本を代表する作家、大江健三郎村上春樹震災に関連したメッセージを世界に向けて発信した。また島田雅彦が呼びかけ人となって被災地を支援する「復興書店」*9を立ち上げ、多くの作家が賛同した。そこで各作家は思い思いのメッセージをウェブ上にアップし、無償で提供した自著の売り上げを、被災地への寄付金として当てた。

また文芸誌早稲田文学』は、作家に作品を募ってウェブサイトにアップし(英語版をはじめ部分的に韓国語版・中国語版もある)、それを読んだ読者に寄付金の提供を呼びかける等の活動を行った*10

英米向けの英語版と同時に発表された『それでも三月は、また』は、震災をテーマにした企画本だが、これも著者印税と売り上げの一部が震災復興の寄付とされた。こういった瞬発力を必要とする試みは他にも無数になされている。

「がんばろう、東北」「つながろう、日本」といったスローガンマスメディアやネットを通じて連呼され、日本全体の連帯が求められていた時期である。

なかでも特筆すべき活動を行ったのは、福島被災した詩人和合亮一だろう。彼は、被災してまもない六日後にtwitterから言葉を発信し、それ以後ツイートし続けた。被災する詩人として。Twitterの字数制限は詩というジャンルが本来的かつ伝統的にもつ定型性という特質とマッチし、彼のツイートする言葉は詩として自然に受け入れられた。また和合自身、一連のツイートを詩の新たな発信形態として位置付けていたように思われる*11

   

行き着くところは涙しかありません。私は作品を修羅のように書きたいと思います。(2011年3月16日4:30)

放射能が降っています。静かな静かな夜です。(2011年3月16日4:35)

あなたにとって故郷とは、どのようなものですか。私は故郷を捨てません。故郷は私の全てです。(2011年3月16日4:44)

私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れ着きました。(2011年3月16日5:34)

私は震災福島を、言葉で埋め尽くしてやる。コンドハ負ケネエゾ。(2011年3月18日1:06)

街を返せ、村を返せ、海を返せ、風を返せ。チャイムの音、着信の音、投函の音。波を返せ、魚を返せ、恋を返せ、陽射しを返せ。チャイムの音、着信の音、投函の音。乾杯を返せ、祖母を帰せ、誇りを返せ、福島を返せ。チャイムの音、着信の音、投函の音。(2011年4月9日23:19)

また、日本の詩は俳句連歌のようにコミュニケーションの一部として受容されてきたという特質があるが、twitter対話性はその点においても詩との親和性が高く、フォロワーリツイートが増えるたびに勇気付けられる和合の姿を読むことができるだろう。

他に詩のジャンルで注目すべきなのは、ni_kaのAR詩である。3・11以前からデジタル技術――スマートフォンデコメール機能や、複数の情報(画像・イラスト・文字・絵文字等)をレイヤー化するAR技術など――を駆使した詩をウェブ上で発信し*12、詩のジャンルに新しい可能性を開いてきた詩人だが、3・11における近親者の死を受けて、バラバラに離散する記号が、離散したまま同期している様を、3・11を鎮魂するAR詩として発表した*13

そもそも繋がれないものたちがいかに繋がることができるのかという問いがそこにはある。この問いは、メディアが安易に垂れ流す「つながろう、日本」という偽善的なメッセージへの批判でもあったろう。

被災地にいたからこそできた、修羅(死者)のごとく繋がりを求める言葉の強さ(和合)と、被災を共有しきれないからこそ模索するほかなかった、子供のように儚く繋がりを求める言葉の強さ(ni_ka)が、3・11をきっかけに詩の多様性として私たちの前に表現されたのである*14


4、未来と過去

震災から時間が経過するうちに、次第に、腰をすえて書かれた作品が発表されはじめる。被災から物語の構想を得て架空の物語が作られるようになったのである。一見、被害を物語の手段におとしめているように見られかねないこういった試みは、被害の影響がまだ生々しい時期であれば「不謹慎」「自己中心的」ととらえられたかもしれないし、実際にそのような評価を受けた作品もある*15

ただし、震災および震災後をテーマにした文学作品はおおむね高度な抽象化が施された作品ばかりなので、被害者感情に直接訴えるような傾向は少なかったといってよい。

作品の傾向として注目すべき点は二点ある。「未来への想像力」と「過去への回想」である(以下、「未来系」と「過去系」と呼ぶ)。

「未来系」に関しては、被災地支援のためにチャリティAVを制作するという物語を作品にした高橋源一郎の『恋する原発』(講談社2011年11月)をはじめ、原発事故後の日本の再生の道を家族の物語とともに語った福井晴敏の『震災後』(小学館2011年11月)など多数あるが、とくに目立つ傾向は、3・11よりも未来に舞台を設定したSF的な作品である。

例えば3・11以後もくり返される震災等の被害をこうむった、日本の世紀末的な惨状を物語の設定とするいくつかの作品、辺見庸の『青い花』(角川書店、2013年5月)や綿谷りさの『大地のゲーム』(新潮社、2013年7月)、佐藤友哉の『ベッドサイド・マーダーケース』(新潮社、2013年12月)などだ。

とくに日本は、1945年の終戦以来、放射能汚染後の世紀末を舞台にした作品が、サブカルチャーを中心に多く発表されているが(『ゴジラ』『風の谷のナウシカ』『AKIRA』『北斗の拳』など)、震災後の作品も戦後以来のかかる想像力につらなるものといえよう。ただしやや変化もある。

これまでのこういった想像力に支えられた作品が世紀末の否定性を単に抽象的な背景として活用する傾向があったとすると、震災後の作品に見られる傾向は、世紀末に辛うじて見出される「希望」(絶望の中に見出すほかない希望)が見られるところである。この変化の原因は、世紀末は遠い未来ではなく、いまや震災後の現実だという認識が前提にあるからだと思われる。

震災後』『大地のゲーム』『ベッドサイド・マーダーケース』は「子供」の存在が重要な役割を果たしている。絶望の中の希望はこの存在の影響が大きい。3・11以後最も精力的に東北震災コミットしている作家の一人、高橋源一郎は、以前から『「悪」と戦う』(河出書房新社、2010年5月)で子供を主人公にした作品を発表しているが、震災関連の短編「お伽草子」(「新潮2011年6月)と「アトム」(「新潮2011年7月)も子供が視点であった。

その高橋は、川上弘美の『神様2011』の改変についてこんなことを言っている。「ここでの、いちばん大きな違いは、「川原」に、人影がほとんどないことである。なにより、「子供」がひとりもいなくなってしまったことだ。わたしたちは、二つの作品、『神様』と『神様2011』を読み比べながら、「あの日」の後、いつの間にか子供たちが姿を消したことを知るのである。/幽霊のような子供たちが、わたしたちに話しかけようとしている、とわたしは感じる」*16と。この「幽霊のような子供たち」の存在とそれを感知することが、廃墟の中の希望として辛うじて指し示されているといえよう。

次は「過去系」の作品である。柴崎友香の『わたしがいなかった街で』(新潮社、2012年6月)や古井由吉の『蜩の声』所収の「子供の行方」(講談社2011年10月)などがそれだ。これらの作品は、関東大震災太平洋戦争など、かつての戦災や震災の記録・記憶にまでさかのぼる。

戦後の米軍占領下に混血児として出生したGIベイビーたちを主人公にした津島祐子の『ヤマネコ・ドーム』(講談社、2013年5月)もその一つである。1947生まれの著者は、戦後の日本を背景に、GIベイビーとして翻弄される彼らの人生を描いたが、この物語に深く影を落とす3・11以後の原発事故は、偶発的な事故ではなく、戦後日本が必然的にもたらした答えの一つであることが導き出される。

歴史と対話すること。日本の文学史はこれまで様々な戦争文学被災文学被爆文学を生み出してきた。記録として残されたこれらの作品と対話をすることで被災の今を生き延びることができる。高橋源一郎佐藤友哉も同じ時期にくり返し戦時下や戦後まもない文学作品太宰治や戦後派など)に言及していた。

ただし、対話には、答えのない問いを続ける覚悟がいる。長嶋有の『問いのない答え』(文藝春秋、2013年12月)はそんな格言を私たちに教えてくれる。本作は、twitterフォロワー同士が他愛のないテーマのもとに対話し続ける様が描かれている。そうして3・11以後の被災を各々生き延びているのである。

例えば最初に誰かが「なにをしたい?」という抽象的な問いを投げ、それに対してフォロワーが各自思い思いに回答を出す。「女教師を口説く」とか「今度こそ徹底的に殺るつもりです」とか。それらが出た後に出題者があらためて「三メートルの棒を譲り受けましたが、あなたはこれを使って『なにをしたい?』」と具体的な文脈を差し込んだ問いを提出すると、当初の回答の意図がずらされ、様々な再解釈がなされることになる。このように最終的な答えが回避される問答ゲーム(答えは対話=回答の文脈しだいでいくらでも変わる)が延々とやり取りされるのである。

お互いすれ違うばかりで、一見他愛のない趣味をめぐる彼らの対話。そこにはしかし、倫理的な覚悟が貫かれていることに気付かされることになるだろう。答えのない問いを続けることの覚悟を、である。


5、『想像ラジオ

いとうせいこうの『想像ラジオ』(河出書房新社、2013年3月)も対話によって構成されている作品だ。広島長崎被爆阪神淡路大震災の記憶が想起される本作のメインプロットは、ラジオのDJがリスナーと対話することによって展開する。このDJは津波によってすでに命を落としているという設定になっている。いわば死者の声、当事者の声を聞き、対話することができるかという問いがこの作品において賭けられているテーマである。

東日本大震災は、日本にいくつかの深刻な断層を作った。被害の当事者である東北(関東の一部や長野県栄村等)と、それ以外の地域の傍観者との間にできた断層。それにくわえ、原発事故がもたらした放射性物質の見えない恐怖は、関東を越えてそれこそ東日本一帯を包囲した。甚大な被害を受けた福島を基点に被害者・当事者性の濃淡が放射状に階層化されたのである。さらに複雑な点は、原発利便性を享受してきたこと(とくに東京電力福島原発の電力供給先の東京)が加害者意識をも重ね書きしたことである。

想像ラジオ』は、このように複雑な断層を負わされた関係性に何らかの接点を見出す試みであった。本作の構成は、メインプロットのDJとリスナーの対話パートと、サブプロットの1人称視点パートが交互に置かれた形になっている。1人称は著者本人がモデルになっており、「Sさん」と呼ばれる1人称「私」は震災ボランティアとして東京から被災地に赴くという設定になっている。

1人称視点による描写の場合、読者は1人称を自分の視点として物語にかかわるので(発話者との一体化)、共感しやすい。

それに対して、DJとリスナーの対話パートは、DJが「リスナー諸君」に呼びかける2人称視点である。発話者から「あなた」と呼びかけられる2人称視点は、読者を当事者として巻き込む性質を持っている。

しかし、東京にいる「私」(Sさん=読者)は、被災地の死者の呼びかけに当事者としてかかわれる自信がない。実際、Sさんと呼ばれる「私」は、周りの知人がラジオのような音声が聞こえるような気がするとおりにふれ言うのだが、自分は全く聞こえないことに戸惑い続けるのである。ただし「私」は死者との対話をあきらめてはいない。4章では「私」は身近な死者と対話することになる。そして最後の5章でついに「私」の言葉はDJに届くだろう。

頼もしいリスナー諸君。ここで皆さんに贈る最後の一曲です。

想像ネーム・Sさんからのリクエストでボブ・マーリーの『リデンプション・ソング』。救いの歌。胸にしみる名曲1980年ボブ・マーリー脳腫瘍で亡くなる前年に出たラストアルバムの、まさにラストソング。

今まで聴いてくれてどうもありがとう。

本当にさようなら、みんな。

もちろん最後の曲紹介は、僕の番組らしくエコーたっぷりで。

では『リデンプション・ソング』、どうぞ想像して下さい。

あ、その前にジングルを今までにない大音量で一発。あはは。

想ー像ーラジオー。 (『想像ラジオ』)

ついに死者は「私」の言葉(「Sさんからのリクエスト」)を受け取った。しかしこれはあくまでも死者の側から見た想像上の希望として示されているにすぎない。孤立し続ける1人称と繋がりを求める2人称。現実は誰もが孤独だが、死者を想像し続けることが自分の中に死者と分有できる「痛み」を見出すことではないか。しかしそれは死者に応え/答えを見出すことではない。そんな覚悟がここにはある。

古川日出男の『馬たちよ、それでも光は無垢で』は、震災一ヶ月後に原発がある福島浜通りに向かった著者本人の実話を、自作のキャラクターを交えながら小説として作品化したものである。ここでは、震災を表現するにあたって、あくまでも現実世界としてとどめたいノンフィクションの欲望と、それを物語の時間に流し込みたいフィクションの欲望との間で葛藤している様が描かれている。古川本人は「嘘を一個も書かないフィクション」という一見矛盾した言い方をしている*17

書け。私はこれを書け。そこに狗塚牛一郎がいたのだと書け。五人めが。私たちの五人めが。イヌにしてウシである『聖家族』の長男が同乗していたのだと書け。しかしそんなことを書いてしまったら小説だ。この文章が小説になってしまう。私には矜持がある、私はここまで一切嘘を交えなかった。私には逡巡はあっても嘘はなかった。この文章を決定的な″本物″にすることで私は何かの、やはり決定的な救済を望んだのだ。いまも望んでいる。それを鎮魂とパラフレーズする覚悟もある。これらは極限である。これら、原稿用紙にして九十枚余に達した″ある集積″は私の極限である。それでも。それでも? 書け。*18(『馬たちよ、それでも光は無垢で』)

古川の作品の特徴を一言で述べるなら、物語と現実世界(史実・土地)の相乗効果である。彼は作品を作るさい、現実世界(史実・土地)を導入して物語を活性化し、逆にその物語によって現実世界(史実・土地)に新たな視点・見方を導入し賦活することを目指す。現実も物語も救済するという方法。古川の故郷でもある東北を舞台にした長編『聖家族』はその方法の集大成でもあった。

その補遺となる『馬たちよ、それでも光は無垢で』が感動的なのは、現実世界の古川日出男を物語に初めて登場させた作品だからである。すなわち救済と再生の対象は東北の物語とともに小説家の彼でもある。

このとき古川に「それでも? 書け」と命じるフィクションの欲望は現実から逃避させる声ではない。逆である。物語の時間に流し込んでこそ古川は被災した東北を彼なりに嘘を一個も交えずに見つめなおすことができたのである。いとうせいこうが架空の死者の声を設定することでこそ被災地に向き合えたことと同じように。

*初出『世界文学比較研究』第48集(世界文学比較学会、2014年9月)

*1木村朗子の『震災文学論 あたらしい日本文学のために』(青土社、2013年)は、震災とくに原発事故に関して言及する作家・作品が少ないと指摘している。その原因を無意識的な言論統制としている。「あれほどの多くの死者を出し、そして間近に死をみつめた生存者があって、まだ避難を余儀なくされていたり、仕事や家を失ったままでいる人たちが大勢いるなかで、震災はそれ自体重い主題ではある。しかし作家が直面した書くことの困難というのは、そういうところにあるのではなかった。それはどうやら戦後に長い時間をかけて築かれた言論の壁のせいであった。震災後、その壁がむき出しに露わになって目の前に立ちはだかったのである。語るべきではないとされるタブーの筆頭に原発事故はあった。だから東日本大震災の災禍のうち、福島第一発電所メルトダウンと爆発については、速やかに自由言論の場から排除され、人々の口からも消されていった。なんという理由があるわけではなく、ただなんとなく言いにくいこととなった。いかにも日本流言論弾圧のあり方ではないか。こんなにも根深く、語ることの不自由が膠着していたとは驚くばかりである。」(236ページ)他方で「3・11以後、あらゆるジャンルで、震災あるいは福島の問題に関して、さまざまな発現や言説が非常にたくさん見られる」(高橋源一郎佐々木敦「『恋する原発』―処女作への回帰と小説家の本能」『群像』2012年1月号)という見方もある。

*2:当時の作家たちが阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に対して比較的沈黙を守ったことに対して、より積極的に自分の著述活動に還元したのが村上春樹である。彼は地下鉄サリン事件の被害者の声をまとめて『アンダーグラウンド』(講談社1997年)を、さらに加害者側の声を集めて『約束された場所で―underground2』(文藝春秋、1998年)を発表している。また震災をバックモチーフにした短編小説集『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社、2000年)も発表している。

*3:初出は『群像2011年6月号。

*4:初出は「神様2011」の後に「神様」「あとがき」の順。

*5川村湊の『原発原爆―「核」の戦後精神史』(河出書房新社2011年)は、映画やマンガ作品を参照しながら、核・原子力に影響を受けてきた戦後日本の文化を論じている。

*6原爆小説として戦後まもない頃に発表されたのが1948年の『夏の花』(原民喜)、『屍の街』(大田洋子)である。これらは直接の被爆体験者によって書かれた象徴的な作品である。ここでは原爆の凄惨な被害が小説的な加工を施されず直裁に描かれている。原爆投下後の被害を描いた1965年の『黒い雨』(井伏鱒二)以来、加害者の視点も導入した1981年の『HIROSHIMA』(小田実)、原爆SFの背景として利用した1990年の『治療島』1991年の『治療島惑星』(大江健三郎)、そして原爆被害を抽象化した2005年の『六〇〇〇度の愛』(鹿島田真希)に行き着く原爆関連小説の系譜は、原爆に関する認識が高度に複雑化すると同時に、抽象的な歴史に還元される様が確認される。

*7:「原発」の位置付けは歴史的に複雑である。大江健三郎は、『ヒロシマ・ノート』(岩波書店1965年)をはじめ「原爆」に関する多くの著述を発表しているが、「原発」に関しては当初から否定的だったわけではない。1968年の「核時代への想像力」(『各時代の想像力新潮社1970年)という講演では、核エネルギーを戦争のためではなく、平和利用することに関しては肯定している。こういった考えは当時の日本でマイノリティーだったわけではない。その後、「原発」を最初に大きく再考するようになったのは1986年のチェルノブイリ原発事故がきっかけだろう。

*8:『それでも三月は、また』(講談社、2012年2月)に所収。

*9http://fukkoshoten.com/

*10http://www.bungaku.net/wasebun/magazine/wasebunEQ.html

*11:一連のツイートは『詩の礫』(徳間書店2011年6月)として刊行された。

*12http://yaplog.ni-ka.net/

*13:「2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京http://yaplog.jp/tipotipo/archive/255

*14:他にも、平田俊子(「ゆれるな」)や柴田トヨ(「被災者の皆様に」)らが「震災詩」を発表したし、評論も小説も詩もこなす松浦寿輝は3・11に言及するさい何より詩を選んだ(「afterward」)。また、関東大震災のさいに詩を書いた金子みすずの「こだまでせうか」が3・11以後頻繁に流れたテレビCMで一躍注目を集めたり、岩手詩人宮沢賢治の再評価があったり、詩の朗読会やパフォーマンスが盛んに行われたりするなど、詩の世界でも震災に対するリアクションが多数あった。

*15:例えば、発表以来高い評価を得たいとうせいこうの『想像ラジオ』は、震災による死者がラジオのDJとなってリスナーに繋がりを求めるという設定の作品だが、そのいくぶん叙情的でもある物語に対して一部批判があった。

*16:『恋する原発』。

*17:『波』2011年8月号。https://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/306073.html

*18:「狗塚牛一郎」とは小説『聖家族』のキャラクターである。

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2012-04-29

[]ファミリーリセンブランスとしての私 柴崎友香論 12:26 ファミリーリセンブランスとしての私 柴崎友香論を含むブックマーク

 1970年代は日本文学の転換期に当たっている。それ以前は、「政治と文学」という戦後に打ち立てられた主題が、疑われつつも機能していた。作家たるもの政治的問題に積極的にアプローチしなければならないという強力な圧力があり、その一方で、政治にからめとられない個人の自由を肯定する立場があった。

 具体的にいえば、「政治と文学」という大きな主題が文学に打ち立てられ、しばしば議論されたのは戦後まもない1950年前後である。政治を前景化させ、その前衛(啓蒙的なツール)として文学を利用しようとした共産党系の立場があり、それに対して個人の自由と文学の自立を謳歌する(平野謙ら)「近代文学」系の立場があった。芸術のジャンルでも同時期に「リアリズム論争」があったが、これは文学における「政治と文学論争」と論点が重なっている。

 これ以降、直接議論されることはなかったとはいえ、1960年代までこの「政治と文学」という枠組みは各作家たちに共有されていたといっていい。戦後民主主義を愚直に肯定した大江健三郎にせよ、戦後民主主義をアイロニカルに批判した三島由紀夫にせよ、「政治と文学」という枠組みに依存していたのである。

 しかし、1970年前後にこの枠組みは組み換えられはじめる。「政治と文学」は機能不全を起こし、共有されるべき主題ではなくなる。その間隙に、内向の世代という新たな文学グループが登場することになる。古井由吉や後藤明生といった内向の世代に括られる作家は、文学の主題を個人の経験にまで切り縮め、ごく日常的な個人の主観を通して世界と関わるといういわば現象学的な方法をとったのである。

 内向の世代的な「私」とは、世界(政治)に組み込まれた(奉仕する)個人でも、世界に苛立つ個人でもない。彼らの描く「私」は、世界と直接交渉できるという発想を断念し、個人の主観を通してしか世界とは関われないという理解の上に立っている。たとえば古井の『杳子』(1970年)が問題にした世界とのコミュニケーション不全や、後藤の『挟み撃ち』(1973年)が問題にした出口のない自己言及性は、こういった新しい理解のもとに明確に方法化されたものである。村上春樹の初期作品が取り上げた、世界から解離した主体(「僕」)の有様も、内向の世代が切り開いた「私」の枠組みの延長にあるといえるだろう。

 いずれにせよ、内向の世代によって小説の中の「私」の有様は変わった。その一方で、この時期に「私」を取り囲む世界のとらえ方も変わったのである。それまでの世界は具体的な政治的問題や歴史的背景に紐付けされていた。しかし、1970年代に入ると、当時流行しはじめた構造主義の知見をもとに、世界を抽象化し、関係性(規則)の体系としてとらえるような作品が現れる。

 たとえば、1955年のデビュー以来、広島原爆や天皇制など戦後日本の固有の問題を積極的に扱ってきた大江健三郎は、1970年代に構造主義の理論を自作に導入した。大江は、作品のモチーフとなる歴史から固有性・一回性を剥奪し、規則的に反復する物語として作品に還元したのである。さらに1980年代になるとその状況はより徹底されることになる。たとえば『小説から遠く離れて』(1989年)の蓮實重彦は、1980年代に活躍する主要な作家の作品はどれもが「説話論的な構造」(関係性=規則の体系)によって物語の世界を作り込んでいるということを明らかにしたのだった*1

 以上の通り、1970年代の小説は、現象学的に還元された「私」と構造主義的に抽象化された世界とのカップリングで成り立っていたということができる。1970年代以降の文芸批評をリードした柄谷行人が、構造主義的世界(物語)に私小説を方法論的に導入したとして中上健次の小説を評価したのも、以上のような文脈があったからである。

 この時期中上は、物語の世界を関係の束として描写しながら、そこには還元できない「私」の問題をも扱ったのだった。構造主義を自作に積極的に導入した大江健三郎は、中上とは逆に、「私」の問題を関係の束へと回収しようとした。さらに村上春樹もまた、物語を語る上で構造主義的な世界と「私」の問題の関係を考えていた。村上は物語世界に対する視点の問題として「私」の問題を扱ったのである*2。彼らは、1970年代以降の文学の問題をそれぞれの仕方で引き受けたのだった。「私」の問題と世界の問題、ひいては「私」と世界の関係が、文学表現において注目を集め、従来のものから新たなフェーズへと移行したのが1970年代なのである。

   ***

 そこで本稿は、文学表現における「私」の問題を考えたい。そのためにはまず内向の世代が更新した「私」の表現を見る必要があるだろう。内向の世代は、1970年前後に登場したが、後藤明生や古井由吉など主要な作家のアーカイヴ(全集を含む)がいまだに整備されていないところからも分かる通り、それほど大きな注目を集めてきたわけではない。その理由の一端を挙げるなら、1970年代は、その前半こそ「私」の問題が盛んに取り上げられたとはいえ、後半から1980年代にかけては「私」個人よりももっぱら構造主義的な世界の方に話題が集まったからであろう。

 「私」をめぐる日常の瑣末な話題よりも、大きな世界を物語としていかに語るかが文学の問題だというわけだ。柄谷行人が、構造主義的(民俗学的)な物語に私小説を接続したとして中上健次を評価したのも、当時は構造主義的世界観が全盛の時代だからだということを述べている*3。そのような文脈においては、「私」の問題は構造主義的な世界の一項として組み込まれる程度のものにすぎなくなりつつあった。

 しかし、くり返せば、1970年代の前半は「私」の問題(自己表現)が再検討された時代であった。柄谷行人が近代日本人の「内面」の問題に新たな焦点を当てたり*4、内向の世代の古井を高く評価し*5、私小説作家の志賀直哉を新たな切り口から論じたりした*6のもこの時期である。平岡篤頼もまたフランス現代思想を援用しながら志賀直哉の「私」の表現を分析したし*7、この時期に批評家デビューを果たした中島梓の論点も当時の「私」の変容に影響を受けたものだった*8

 そもそも1970年代――とくに前半――の文芸誌に掲載された座談会や特集記事は「私」の変容に戸惑いながらも言及したものが多い。そしてこの時期の「私」の変容を顕著に結晶化したのが内向の世代なのであり、他にも「薫君」シリーズの庄司薫や「桃尻娘」シリーズの橋本治も重要な役割を果たした*9。もちろん三田誠広の『僕って何』(1977年)もある。しかしそれらの中でも、やはり内向の世代の「私」に対するアプローチが最も注目すべき文学表現だったといえよう。

 そしてそれから三〇年後、2000年に入ってからのゼロ年代もまた「私」の問題が更新された時代であった*10。たとえば、とりわけサブカルチャーのジャンルでにぎわいを見せた「セカイ系」――世界と「私」を無媒介に直結させる自己表現のモード――がそうだし、ミステリ界でも佐藤友哉や舞城王太郎といったいわゆる脱格系の作家が、自意識過剰な自己表現で注目を集めた。村上春樹や太宰治のアイロニカルな自己表現があらためて見直され、ライトノベルを中心に多くのフォロワーを生んだ。このような文脈にあって、「私」の問題と自己表現を最も注目すべき形で演出した純文学の作家が、柴崎友香と長嶋有である。彼らはその意味で内向の世代の再来だといえよう。

 ところで、日本の近代以降の文学において「私」の問題と自己表現が大きく問われたのは四度ある。一度目は最初に近代的な「私」と自己表現が確立した1910年代(明治40年頃)だろう。その成果を踏まえて私小説が確立したわけだ。次に二度目は、1920から30年代のモダニズムの時代である。この時代に、小林秀雄らによって、日本における近代的な「私」の脆弱性が、西洋由来の近代文学(の正統性)に比して問われることになったのだった。そして三度目が内向の世代である。彼らは、近代的な「私」の制度性を根本から疑い、いかなるものにも支えられていない「私」から表現を立ち上げようとしたのだった。

 たとえば、内向の世代の自己表現でしばしば指摘されるのは、自己の不全性と関係性の失調である。古井由吉は、自己が分裂・解離し、周囲の環境に滲み出してしまう作中人物をおりにふれ登場させる。後藤明生は、自問自答をくり返す語り口で自己分裂の有様を如実にさらけ出してみせる。古井の自己解離と後藤の自問自答は、世界(他者)との関係を欲望しながらたえず逸脱することを余儀なくされた自己の有様を端的に表現しているといえよう。古井の「私」が求めてやまない人間本質の獣性や女性性は最終的に出会い損ねることになるし、後藤の「私」はそもそも空虚であるという前提を堂々巡りするばかりなのである*11

 世界との関わりに違和を感じ、そこから立ち上げていく自己もまた次第にかつ微妙な形で異常さをさらけ出していくこと。これが内向の世代の「私」をめぐる表現だった。では、ゼロ年代に登場した内向の世代ジュニア――これが四度目の「私」の変容となるわけだが――はどうだろうか。それは、端的に言えば、自己の複数性と関係性志向とまとめることができる。

   ***

 これから柴崎友香を中心に論じるが、私(中沢)は以前柴崎を詳細に論じたことがある*12。そのときの議論の対象は『主題歌』(2008年)までだったので、今回はそれ以降の作品――『星のしるし』『ドリーマーズ』『寝ても覚めても』『ビリジアン』――を主に論じることにしたい。前回の議論とは異なった観点から論じるが、基本的に、前回の論点は今回論じる作品にも当てはまるし、今回の論点は前回論じた作品にも当てはまると考えていい。ただし、今回論じた作品にのみ妥当することもある。その場合はおりにふれその旨言及しておいた。それでは、以下あらためて柴崎友香を論じることにする。

 周知の通り、デビュー以来柴崎友香はその描写に定評があり、写真や映像など視覚表現との親和性がしばしば語られてきた。前回の議論もそこに注目したものだったが、ここで指摘したいのは、柴崎の描写は対象を客観的に描写することを使命とする説明(〜である)ではなく、例示(だいたい〜のように見える)としてとらえた方がよい、ということだ。しかしそれは単なる主観描写ではない。

 内向の世代は、世界との直接的な繋がり(客観描写)を断念し、「私」の視点から描写をすることを文学表現の使命とした。そのような主観描写を徹底すれば、誰にも理解・共感できないような独語的な描写に陥る危険性にさらされるほかない。

 しかし柴崎が描写に用いる例示は、理解・共感される最適解を目指すものである。それは主観でも客観でもなく、言葉の運用に関わっているといっていい。つまり主観や客観にとっての正確さではなく、適切に伝わるかどうかが問題なのだ。柴崎の描写が、純粋に言葉を操作しているというよりも、世界を切り取った写真や映像表現から言葉を立ち上げている――もっといえば一次素材としての写真や映像表現の相補的なナレーションなりキャプションとして機能している――ように見えるのは、正確さではなく最適解を目指す例示だからである。

 この場所の全体が雲の影に入っていた。

 厚い雲の下に、街があった。海との境目は埋め立て地に工場が並び、そこから広がる街には建物がびっしりと建っていた。建物の隙間に延びる道路には車が走っていて、あまりにもなめらかに動いているからスローモーションのようだった。その全体が、巨大な雲の影に入っていた。

 だけど、街を歩いている人たちにとっては、ただの曇りの日だった。

 今は、雲と地面の中間にいる。

 四月だった。

 二十七階だった。壁一面のガラスの向こうに、街の全体があった。(『寝ても覚めても』、2010年、河出書房新社、3ページ)

寝ても覚めても

寝ても覚めても

 二十七階の「雲と地面の中間」にいると、たとえば「雲の影」に見えるものが、「街を歩いている人たち」にとっては「ただの曇りの日」に見えるということ。対象にも主観にも過度に依存せず、状況や文脈に応じて適切な運用を目指すことが、柴崎の例示的描写であるということをひとまず確認しておこう。

    ***

 柴崎友香はデビュー以来、夢(虚構)と現実の往復や重ね合わせといったモチーフを物語に取り入れてきた。それは最近の作品になるほど、より積極的な形で現れてきている。『星のしるし』(2008年、文藝春秋)は、夢はもちろんのことUFOや占い、身近な人の死など非日常的なもののエピソードによって構成されている。短篇集『ドリーマーズ』(2009年、講談社)はタイトル通り夢の世界や超自然現象(霊視など)を体験した人たちのエピソードを寄せ集めた作品である。

ドリーマーズ

ドリーマーズ

 他方、『寝ても覚めても』はそういった非日常的なシチュエーションはほとんどない。ところが、柴崎の読者なら周知の通り、非日常を強く押し出した『星のしるし』や『ドリーマーズ』の方が柴崎作品の中ではむしろ異色作なのであり、日常の恋愛や職場・交友関係を淡々と描いた『寝ても覚めても』の方が柴崎的だとはいえる。

 しかしそうはいうものの、『寝ても覚めても』もまたタイトル通り、現実と夢の――あるいは複数の世界の――往復・重ね合わせを読み取ることができるのである。それはもちろん、大阪と東京を行き来したり(柴崎の文章はそもそも会話が大阪弁で地の文が共通語だが)、二人の男の間を行き来し重ね合わせる女性が主人公だったりするところからくる印象なのだが、それだけではない。

 最も重要なのは、カメラや携帯電話、テレビなどのメディア――とくにコミュニケーションや視聴覚の拡張として利用される――が多用されているという点である。これこそが柴崎作品にしばしば非日常性を導入し、複数の世界が重ね合わせられているような仕組みを演出している要因なのである。そしてこれはデビュー以来一貫したものである。

 逆に『星のしるし』と『ドリーマーズ』にはこういったメディアの利用が欠落しており、その欠落部分をUFOや幽霊といった非日常的なプロットや設定が代補するという形になっているのである。いずれにせよ、目指しているところは同じだといっていい*13

 ただし、非日常や複数の世界といっても、柴崎の場合、認識上の異化効果をねらったものではないし、主観の数に応じて世界の見方は多様にあるといった認識論的な多元世界をねらったものでもない。柴崎の「私」が経験する世界は、いわば運用上・慣用上の多元世界・可能世界なのである。そこでは、夢やUFO(宇宙人)や占いや幽霊や死は「私」の存在や認識を動揺させるものではなく、カメラや携帯電話やテレビやフライヤーと同じように、世界(との関わり)をより適切なものにするために存在しているのである。『星のしるし』からいくつか例を挙げておこう。

 「わたし、高校までO型と思ってた」

 「皆子、高校二年の生物の時間に、血の抗体を調べる実験のときに真実を知ってんで」

 わたしが説明すると、皆子は芝居がかった動作で大きく頷いた。

 「あのときはアイデンティティが揺らいだなー。あんたはほんとはよそのうちの子どもやの、とか言われたみたいな気分やった」[中略]

 「……ええかもな。それ。違う人生を体験できるかもわからんのや。どうやって調べるん、それ」

 「さあ、忘れた」

 「A型がええな、おれ。賢そうやん」(『星のしるし』111ページ)


 八歳のときに皆子は、サンタクロースがいる世界からサンタクロースがいない世界に移り住んだ。わたしはずっとサンタクロースがいない世界にいる。(『星のしるし』115ページ)

星のしるし

星のしるし

 血液型の違いやサンタクロースを信じる信じないによって世界を切り換え、「私」の、世界との関わりをより適切なものにすること。柴崎の盟友、長嶋有の場合だと、同世代ネタやあるあるネタによってこれを可能にしている。

 1972年生まれの長嶋は、ちょうど彼と同世代の読者が共感するようなネタを作中に散りばめることを得意とする作家である。しかしそれは無自覚に読者を制限しているわけではなく、意図的になされていると考えていい。たとえば『ジャージの二人』(2003年)では父と息子の世代間ギャップが、また『エロマンガ島の三人』(2007年)では、真性オタクと仮性オタクとの価値観のギャップ、男性オタクとノーマルな女性との価値観のギャップが、それぞれそれなりに調和しながら浮き彫りになる有様を、描出していた。長嶋の物語世界は、複数の趣味(価値観)の重なり合いによって成立しているのである。

 柴崎の『星のしるし』に戻ろう。この物語の主人公「わたし」は、祖父の死を経験したり、友人知人を通じて占いやカウンセリングを勧められたり、UFOの存在を唆されたりする。いずれにせよ、こうして新しい「わたし」の世界を一つ一つ切り開いていくのである。

 身元不明のカツオという青年が「わたし」の恋人の家に居着いたあげく、周りの人々に借金をして逃走するというエピソードも、他者が自分の世界に侵入してきたという話ではなく、自分の世界を拡張しに来た話として語られるだろう。カツオとの共生を「おもしろがって」いたのは誰よりも自分たちなのであり、UFOの存在を唆し、「わたし」に宇宙人の夢を体験させたきっかけを作ったのもカツオだったのだ。UFOの存在を信じなかった「わたし」は、宇宙人の夢を見て以降、UFOがいない世界からUFOがいる世界に移り住むことになったのである。「カツオに、言いたい。宇宙人がいるかもしれないっていう気持ちが、わたしにもわかったって。でも、とにかく今のところは、いないと思うけど」(『星のしるし』157ページ)。

 「わたし」にとってそれはいるかいないかが問題なのではない。かといって、いるべきだというような理念や信仰の問題ほど強くもなく、要は、(世界と関わる上で)いる方が気持ち的により適切だ(「わたし」の世界にとって都合がいい)ということなのである。

 とにもかくにも、このように思いもよらぬ形で宇宙人がいるかもしれないと思い、なんとなく世界がこれまでとは変わってしまったという不安を感じて家を出たあと、「わたし」は周りの世界を眺め回してこのように語る。

 がちゃっと音がして見上げると、三階の廊下に出勤するらしいスーツ姿が見えた。鍵を掛け、こちらを見ることもなくエレベーターのほうへ歩いていった。しばらく待つと、前の道路をその人が、やっぱりこちらを見ないまま駅のほうへ真っ直ぐに進んでいった。そのあとから、ラグビー部の名前の入ったスポーツバッグを肩に掛けた高校生が自転車で通った。それから、作業服のおじさんが通り、わたしと同じくらいの年の女の人が通った。誰も、わたしを見なかった。

 電車に乗って会社に行けば、柿原さんやきりちゃんや白井さんや、大勢の人に会える。実家に帰っても今は誰もいないけれど、父は蘇州に、母は徳島にいる。寺田町へ行ったら、朝陽に会えるし、玉造には皆子と岡ちゃんがいる。カツオは、どこかわからないけれど、どこかにはいる。もう会わないけれど、いる。祖父は、いない。でも、ここは祖父がいた世界で、祖父が見ていたのと同じ世界には違いない。そして、今はいなくなった。両方の下瞼に溜まっていた涙が、頬に落ち、膝にも落ちた。微かな重さと温度があった。

 もしかして、神さまに祈ったり願ったりするのは、こういう感じかもしれない、と思った。どこかで、自分を見ていてくれたらいいのにって思うような、そういうの。(『星のしるし』157‐158ページ)

 柴崎はこのそれほど多くはない文章の集合において、「わたし」の世界を見事に例示しきっている。要するに「わたし」にとっては、この世にあるものであれ関わりがなければ存在しないが、この世にないものでも関わりがあれば存在するのであり、かくしてこの関わりの濃度(のグラデーション)によって「わたし」の世界は構成されているということなのである。

 以上の分析から、柴崎の「私」は、日常の中のちょっとした非日常的なものを通して複数の世界に開かれている、ということが確認できたはずだ。ちなみに、内向の世代の後藤明生も、日常の中のちょっとした非日常にこだわる表現が多い。たとえば『挟み撃ち』は、失われた外套をめぐって様々な記憶が掘り起こされたし、「誰」(1970年)や「書かれない報告」(1970年)などの初期短篇には、団地生活の瑣末な日常の、見過ごしても害はないような細部にこだわる表現がしばしば見られた。しかし後藤の場合は、その徹底した非日常的な細部へのこだわりが「私」を世界から隔絶させ、内閉していく様が描かれたのである。そういう意味では柴崎の関係性志向とは逆であるということができよう。

 柴崎においては、「私」を起点にして、あくまでも世界の複数化が目指されていた。ということは、逆にいえば、複数の世界を通して「私」もまた複数化しているのだということができるはずだ。とりわけ柴崎が「私」の複数性を精力的に問題にしはじめたのは『主題歌』のあたりからである*14

 そこで柴崎は、「私」の複数性を問題にするに当たって、一人称「私」のナレーションを積極的に利用している。その方法が最も先鋭的な形で結実したのが『ビリジアン』(2011年、毎日新聞社)だ。二〇のフラグメンタルなエピソード(短篇)によって構成された本書は、主人公「わたし」の、小学生の頃から予備校生の頃までの過去回想という形をとっている。ただし回想は、年代順に秩序だって並べられているのではなく、およそ十年の時間の幅を行きつ戻りつ無作為に並べられている。興味深いのはこの時間の幅を編集するナレーションの性質である。これは『主題歌』で最初に採用されたナレーションであるが、より深化した形を本書で見ることができるだろう。

 朝は普通の曇りの日で、白い日ではあったけれど、黄色の日になるとは誰も知らなかった。テレビもなにも言っていなかった。[中略]

 「楽しそうやな」

 すぐうしろで愛子が言った。愛子がいたということは、朝七時に待ち合わせして商店街でスケートボードの練習をしていたときのことだったんだろうか。三日か、四日しか続かなかったし、結局わたしも愛子もスケートボードに乗れるようにはならなかった。

 「楽しそうやな、あれ」

 愛子は、わたしの肩越しにビールの人を見ていた。

 「うん、めっちゃ楽しそう」

 わたしも言った。酔っぱらいは街中にいたけれど、こんなに楽しそうな人は初めて見た。

 愛子はわたしの鞄に手を突っ込んで水筒をとり出し、勝手に飲んだ。

 「気が合うな」

 愛子は言って、水筒を戻した。あの赤いTシャツ、わたしは好きだった。でも、スケートボードの練習をしたのは中学一年のときだったから、やっぱりそのときに愛子はいなかったかもしれない。だって、あれは黄色の日だったし、黄色の日は小学校にいたのは間違いないのだから。(『ビリジアン』10‐12ページ)


 重いドアを開けると、湿気がわたしを取り囲んだ。梅雨だから曇っていた。夏至のすぐあとだからまだ明るかった。屋上には人はまばらだった。何曜日だったかわからないけど、学校に行ったあとだった。ベンチの間を行ったり来たりしていた鳩が飛び立ったので見上げると、頭上の広い空間はどこまでも空だけだった。白い雲の厚さにはばらつきがあって、斑になった隙間から夕方の色をした日差しが透けているところがあった。そのときはまだ屋上の端に小さい観覧車があった。その向こうに架かる虹の写真を撮ったのは、その八年後だった。

(『ビリジアン』58ページ)


 「何分?」

 犬を見つめたまま、愛子が言った。

 「八時五分」

 わたしは答えた。公園の横にはアパートがあって、その一階の部屋の窓越しに壁に付いている時計がよく見えた。十八歳までは目がよかったから、十三歳だったらなんにも不自由はなかった。(『ビリジアン』82ページ)


 わたしはひたすら掃き掃除をしていた。掃くのが好きだからで、箒が作る砂の模様が好きだからだった。窓側にはようやく日が差さなくなって、カーテンは全部開けられた。窓も全開になった。見えるのはブロック塀だけだった。そこから、ぬるい空気が塊みたいに教室の中に押し寄せてきた。これからまた暑くなる、みたいなことは、そのころはまだ思わなかった。十一歳だった。今日が寒いか暑いか、それだけだった。その日は暑くも寒くもなかった。晴れと曇りの中間だった。(『ビリジアン』151‐152ページ)


 「おれ、All I Really Want To Doがめっちゃ好きなんです」

 と言って、諸星はボブさんが歌うのと同じように、タイトルと同じその部分を「どぅうぅうぅー」と声をひっくり返して歌っていた。

 諸星に教えてもらって、わたしもその歌が好きだった。あんまりにもいい詩だったからワープロで清書して、それから十五年の間に十人に配った。(『ビリジアン』254ページ)

ビリジアン

ビリジアン

 このようにナレーションの「わたし」は、およそ十年間の時間の幅を行ったり来たりしながら、そこここに拡散している「わたし」の輪郭を繋ぎとめていく。このナレーションの作業が、「わたし」を二〇のフラグメンタルなエピソードに分離しながら緩やかに重なりあった自画像を構成するのに一役買っているのだといっていい。

 ここで重要なのは、この「わたし」のナレーションは、回想(記憶)の不確かさを通して「わたし」の自己同一性を疑ったり、無理に確保しようとしたりしてはいないということである。ここでの「わたし」は、ナレーション(メタレベル)の「わたし」が作中(オブジェクトレベル)の「わたし」の経験を回想しながら解釈するという垂直的な関係にはないということだ。ナレーションの「わたし」は「わたし」の根拠にはなりえず、複数の「わたし」を、そこに部分的な類似点なり接点を見出しつつ繋ぎとめるのみである。以下、角度を変えて、このナレーションが演出する「わたし」の性質について考えてみたい。

 哲学者のウィトゲンシュタインは、いかなるカテゴリーも、そのカテゴリーを構成する複数の要素に共通する性質があるという観念的な考え方を批判し、実際は、部分的に共通する要素の集合によってカテゴリーは構成されているという考え方を打ち出した*15。いわゆる「家族的類似性(ファミリーリセンブランス)」という考え方である。たとえば、家族というカテゴリーにおいては、家族全員に共通する要素があるわけではない。父と子供はおよそ鼻が似ており、母と子供は口のあたりが似ており、目元は両親とも似ているが子供は似ていない、等々というように部分的な類似(のグラデーション)によってしかカテゴリーとしてのまとまりは見出せないというわけだ*16

 それと同じように、『ビリジアン』の「わたし」も、ファミリーリセンブランスとしてのゆるやかな自己同一性(自己類似性?)が保たれているのであり、それを保つために、ナレーションの(回想する)「わたし」は、部分的に「わたし」を繋ぎとめる作業に従事しているのである*17。だから、ここでナレーションの「わたし」が試みているのは、単なる回想ではなく、与えられた(手元にある)「わたし」のアルバムをパラパラめくりながらそのつどキャプションを埋めていく作業――たとえば「黄色の日」だからこれは小学校にいた時だし、「曇って」いるからこの日は梅雨時だったし、この歌はいい詩だったからこの時から「十五年の間に十人に配った」のだ…――に近い。そこでは、中学生の「わたし」と予備校時代の「わたし」が同じ風景の中で重なり合わさっても、なんら不都合なことはないだろう。

 「よく活きる、って…」

 ジャニスは遮って言った。

 「自分で考えろ」

 ジャニスは右手で髪をぐしゃぐしゃ掻きながら大きな欠伸をした。茶色い髪の先に鳥の羽根がついていた。

 「自分で、死にそうになるまで考え続けろ」

 白い羽根は電車の床に落ちた。

 「そうか」

 わたしは言って、駅に着いたのでドアのところへ行った。電車が止まると、ホームには中学の制服を来たわたしが立っていた。荷物はなにも持っていなくて、ドアが開くと真っ先に電車に乗り込んだ。

 電車を降りたわたしが振り返ると、中学の制服を着たわたしがジャニスの横でドアの前に立っているのが見えた。中学の制服を着たわたしは、ジャニスのほうをちらっと見たけれど、ジャニスはまた目を閉じて今度はほんとうに眠ってしまったみたいだった。

 わたしは長い階段を降りて改札を抜け、青信号が点滅している横断歩道を走った。(『ビリジアン』231‐232ページ)

 「わたし」の一枚の写真を手掛かりに様々な解釈をめぐらし掘り下げる(それはいずれ自己言及的な無限ループに陥るだろう)のではなく、日時や輪郭のはっきりしないスナップショットを寄せ集めて「わたし」を例示すること。ウィトゲンシュタインも、ファミリーリセンブランスとは輪郭の不鮮明な肖像画のようなものだという喩えをしていた。そういえば、『ビリジアン』はそのタイトルからもうかがい知れるように、どのエピソードも世界の事象を輪郭線としてとらえず、色の印象から立ち上げていくという描写の方法をとっていた。「わたし」の世界は輪郭線のはっきりしない色調のグラデーション――「晴れと曇りの中間ぐらい」――で成り立っているのである。

 物語の最後、「わたし」は、自分が写ったフィルムを、編集機を使って断続的に動かしては、「わたし」のぎこちない連続性を眺めている。しかしそれだけでは満足できなくなったのだろう、ついには編集機からフィルムを取り出し、光射す窓辺の風景に重ね合わせながらフィルムの一コマ一コマを、自分が編集機になったかのように繋ぎとめていくのである。「もう一本のフィルムを緑色の箱から取り出して、窓のほうへ行った。フィルムを引っぱって曇り空の光にかざすと、ずらっと並んだ小さな四角の中に公園があった。ずっと下へ向かって見ていくと、右端からわたしが現れた。一つコマが進むたびに、わたしはほんの少しずつ、右から左へ動いていた。ほとんど同じで、少しずつ違う場所にいた」(『ビリジアン』257ページ)。このシーンは『ビリジアン』が試みた、「わたし」のファミリーリセンブランスとしての有様を端的に例示したエピソードとして見ることができるだろう。

   ***

 そもそも一人称視点とは、ナレーションの「私」(メタレベル)と作中の「私」(オブジェクトレベル)に「私」を分裂し、自己言及的な内省・回想構造を持ち込みやすい表現方法である。「私」はつねに分裂の危機にさらされるが、けっきょくは自己言及的なループ(私は私について思う…)の中にとり込まれ、「私」の輪郭をより浮き立たせることになるのである。しかし柴崎の一人称視点小説は、ナレーションの「私」の役割を、オブジェクトレベルの複数の「私」を繋ぎとめ、「私」の(解釈ではなく)例示をするだけの機能に縮減することで、一人称視点(もしくは私小説)特有の構造をキャンセルしているということができるだろう。

 このように、単一の視点の「私」に依存することなく「私」を表現する作家として、ここでもやはり挙げておきたいのは、長嶋有である。本稿では柴崎の二番煎じのような扱いになってしまっているが、むろんそんなことはない。彼はまた別途論じなければいけない重要な作家の一人である。

 ここでとりあえず言及しておきたいことは、彼の一人称視点小説は、作中に一人称(「僕」)がめったに呼称されないという点に特徴を持っている、ということだ(『パラレル』『ジャージの二人』『夕子ちゃんの近道』『ねたあとに』など)。数ページにわたって呼称されないこともままある。たとえ呼称されたとしても、たいてい客体(「僕は」ではなく「僕を」や「僕に」や「僕の」)として現れることが多いだろう。

 ひっきょう長嶋の一人称「僕」は、自分に向けて内省するということをほとんどしないのだ。その代わりに、ひとりでひたすら趣味判断に明け暮れたり、誰かと趣味趣向のやり取りをしたりしているその模様が描出されていくだけなのである。その内容の軽さは、一人称主体の重さとは不釣合いだということなのだろう。柄谷行人がかつて志賀直哉の私小説の特異な「私」について「気分が主人公だ」という名言を述べたことがあるが、それに倣って言えば、長嶋有は「趣味が主人公だ」と言い換えてもいい。いずれにせよ、長嶋の作品は、柴崎と同じように、「私」の複数性を容認するゆるさを特徴としているのだということができるはずである。

 さて本稿をまとめるにあたって、もう一度柴崎に戻ろう。ここで柴崎のナレーションについてより具体的に説明しておきたい。『ビリジアン』のナレーションは抽象度が強いのでわかりにくいのだが、それはつまりメディアなのである。柴崎がこよなく愛するカメラであり、テレビであり、携帯電話であり、フライヤーである。これら視聴覚メディアのように『ビリジアン』のナレーションは機能しているのだ。そのことは『寝ても覚めても』を読めばすぐに理解できるだろう。『寝ても覚めても』においては、これら視聴覚メディアが『ビリジアン』のナレーションのように機能させられているからである。

 別のチャンネルにしてみた。同じ夜の空の下で、淀川にかかる橋と川沿いのマンションの白い明かりが、点々と夜の闇に瞬いていた。光が瞬いているのは空気が揺れているからだということを思い出した。薄いロールスクリーンが下ろしてある窓を、目だけ動かして見た。外の暗闇とすぐ近くにある街灯の光とが透けて見えた。この外の黒さと、テレビの中の黒い空はつながっている。テレビの画面の中に入っていって、あの橋から南へ向かってずっと歩いていけば、この部屋にも辿り着くし麦の部屋にも行ける。ようやく満ちてきた眠気を感じながら、画面の中の夜景を見た。あの一つ一つの白い光の下、それからもう既に光の消えてしまった無数の建物の下に、それぞれの眠っている人たちがいる。自分のいる場所がテレビに映り続けていることを知らない人たちが、あの中で夢を見ている。そこには、眠ってはいないけれど眠っているのと同じ姿勢のわたしもいた。わたしは、自分の家の中で自分がいる街を見下ろしているのと同時に、天井の上の暗い空から自分によって見下ろされてもいた。その感じに包まれているうちに、安心と似た気持ちがしてきて、目を閉じた。(『寝ても覚めても』83‐84ページ)


 エスカレーター脇の通路の両側には、ビデオカメラが並んでいた。年齢がわかりにくい男の人や若い夫婦たちが、液晶画面を自分に向けたりファインダーを覗いたり移り気に試していた。台の上のほうのモニター画面に、わたしの後ろ姿が映っているのを見つけた。いくつも並んでいるうちのどのカメラに撮られているのか、わからなかった。たくさんの人の頭の隙間で振り返っているわたしは、斜め上から映されていて、自分では見えない頭の天辺が見えた。背の高い麦からは、いつもわたしの頭の天辺が見えているんだと思った。映像の中にあるはずの麦の姿を探した。画面の左奥に、少し茶色い髪が見えた。次の瞬間、その頭が振り返ってこっちを見た。でもそれは、カメラのレンズのほうを見ただけで、わたしを見たのではなかった。[中略]麦が振り返った。ほっとした。画面の中の麦が消えたのと同時に麦を見失ったかと思った。(『寝ても覚めても』88‐89ページ)

 時空間の通常の秩序(にしたがった「わたし」の自己同一性)とは無関係に、「わたし」がより適切に――この適切さ・快適さのためになら時空間の秩序は損なわれてもよい――世界と関われるように「わたし」を繋ぎとめること。このようなメディアの効果は「わたし」自身にも内面化されている。メディアの効果を内面化した「わたし」は、まさしく『ビリジアン』のナレーションのようである。

 「瞬間移動する公演が終わったら、年明けに、ウチから三人ぐらい東京の劇団にゲスト出演するねんけど、手伝ってもらえるかなあ? 受付とか人数いるみたいで。観光がてら、どう?」

 「東京かー」

 何キロも離れた場所とのやりとりに没頭して聞いていなさそうだった春代が、携帯を握ったままぼんやりした感じで言った。

 「東京ねー」

 わたしも、中身のない単語をなぞるように言った。自分の声が耳に聞こえたとき、東京のどこかにいる自分が今日のこの瞬間を思い出しているみたいな、気がした。来年か、それよりももっと先の自分が思い出す一場面のような、そういう感じがした。(『寝ても覚めても』101‐102ページ)


 道路の狭い上り坂から見上げた二階のわたしの部屋には明かりは点いていなかった。わたしが見るこの部屋はいつも真っ暗で、明るいこの部屋を見るのはわたし以外の人だった。(『寝ても覚めても』108ページ)


 背の高いマヤちゃんと小柄なはっしーを同じフレームに入れるために少しひいた。十センチ以上ある二人の身長差を見ていると、はっしーと同じくらいの身長のわたしも、マヤちゃんとはあれぐらいの差があるんだなと思う。(『寝ても覚めても』126ページ)

 このように見ていると、柴崎友香の「わたし」はまさしくメディアである、ということが明らかであろう。

 しかし、『寝ても覚めても』は、柴崎作品の中でやや異質な点がある。それは、これまで見てきた通り「わたし」が世界の中で快適にすごすために用いられてきたメディアの効果が、最後の最後で「わたし」に倫理的な決断を迫るように配されているからである。それを検証するために、簡単に要約しておきたい。

 本書は、十年間にわたる「わたし」の恋愛物語である。物語の冒頭、二十二歳のわたしは大阪で麦という男性に恋をする。しかし数年で麦はわたしの元から黙って立ち去ってしまい、わたしは東京で新しい男性、亮平と恋愛関係に入る。亮平を好きになった動機は何より麦に似ているからだった。やがて亮平と大阪で生活しようとわたしは決めるが、そんな時わたしの前に麦が現れるのである。麦はわたしと逃げることを提案し、わたしもそれに乗る。この時わたしは三十一歳になっていた。麦と一緒に乗り込んだ新幹線の中でわたしは、麦のことも亮平のこともよく知っている友人・春代に、亮平を裏切ったことを「最低」と告げられ、彼女からわたしの携帯に十年前の写真が送られてくることになる。これが物語の最後だ。

 車体が風を切って進む音が、静かな車内にずっと聞こえていた。携帯電話が振動した。開いた。春代からメールが来ていた。タイトルも本文もなく、画像が二枚添付されていた。プリントした写真を携帯電話のカメラで撮影したもののようで、端のほうは光が反射して白く飛んでいた。横向きの写真だったので、携帯電話を横に向けた。一枚目は、春代とわたしがピンクのふさふさした物体を持ってポーズをとっている写真だった。うしろには、鉄骨を組んだステージと真っ黄色の銀杏と校舎が写っていた。もう一枚を、見た。右半分は岡崎の顔が占めていた。目も口も大きく開けておどけているがカメラに近寄りすぎてぼけていた。その左側で、わたしと麦がステージの端にもたれていた。麦、と思った。十年前の麦は、こっちを見ていた。中途半端な長さの髪。その先の跳ねた感じ。画像を拡大した。よく着ていた緑色のパーカ。見覚えのあるTシャツ。うっすらと微笑んでいるみたいな、麦の顔。薄い唇、一重が途中から二重になる目。まっすぐな眉。何度も思い返したはずのその形が、全部そこにあった。ひたすらその顔を見つめた。ゆっくりと、十年ぶりに見た麦の顔がわたしの中に入り込んできた。

 わたしは、見た。懐かしい麦の顔と、それを隣でじっと見つめている自分の顔と。十年前のわたしと今のわたしが、同時に麦を見ていた。うしろの黄色い銀杏は、葉を散らせている途中だった。黄色い葉が、空中で静止していた。

 新幹線の中じゃなくて、他に誰もいなければ、わたしは声を上げていたと思う。

 違う。似ていない。この人、亮平じゃない。

 隣の座席で眠っている麦を見た。

 亮平じゃないやん! この人。

 その瞬間、のぞみはトンネルに突入した。暗闇を背景に鏡となった窓ガラスに映ったわたしを、わたしは見た。そのわたしも、写真のわたしとは、違う顔だった。頬や顎の下にできた影は、トンネルの暗い壁と混ざり合っていた。自分がこんな顔をしていたなんて、知らなかった。

 空気銃のように空気の塊を押し出して、のぞみはトンネルの外へ出た。まばらな家と道路の光が、ガラスに映ったわたしと麦に重なった。

 「ごめんね。麦」(『寝ても覚めても』257‐258ページ)

 ここで友人の春代が携帯を通して「わたし」に例示した写真画像は、「わたし」に倫理と美学(欲望や趣味の運用)の問題を同時に示している。捨てたはずなのに捨てきれていなかった、麦が主である世界に齟齬を感じさせ、それと同時に、「わたし」にとってより適切な世界(亮平が主である世界)を指し示しているのである。

 とはいえ、この後ただちに麦を捨てて、亮平に寝返らんとする「わたし」の振る舞いを見れば、それが倫理という表現にふさわしいものなのかはきわめて疑わしい。むしろこの「わたし」は自分の欲望にひたすら忠実なだけではないのか。

 それはそうだろう。しかし世界との関わりから「わたし」の世界を変えていく柴崎の「わたし」は、そもそも自分の趣味趣向に固執していたとはいえない。柴崎の「わたし」の趣味判断の一つ一つには、自分の輪郭線に閉じこもらないという倫理的な態度が貫かれているのである。これは『寝ても覚めても』に限らない。

 たとえば『ビリジアン』の「わたし」は、ささやかな日常を生きながら、たびたび自由を謳歌することがある。もちろんこの自由とは、世界(他者)に邪魔されないことの自由ではない。世界との部分的な接点を見出しては、自己を変容させていく、いわば即興的な自由である。

 ボブさんは、諸星が歌うのを黙って聞いていた。わたしたちが離れたあとで、一人でなにかの歌を歌っているのが聞こえてきた。全然聴いたことのない歌だったので、新曲かな、と諸星に言ったら、違う違う、と言って正解を教えてくれた。ボブさんは常に自分の歌を新しくして歌う。だんだん自由になっていく。

何度か振り返って、タキちゃんが聞いた。

 「あの人って、神さまみたいな感じ?」

 「違う。歌を歌う人」

 諸星は言った。雲の薄くなったところに、白く光る太陽が透けて見えた。鹿島はさっきの曲をもう覚えて、口笛で吹いていた。(『ビリジアン』255ページ)

 2011年3月30日、東京にて脱稿。この年の3月11日を私の一部に繋ぎとめておくために。


(*初出『S.I.』、左隣のラスプーチン、2011年6月12日)

*1:また柄谷行人によれば、村上春樹の作品は、ピンボールのように構造のみによって成立していると指摘された(『終焉をめぐって』1990年)。

*2:詳しくは、中沢忠之「資料・ゼロ年代の村上春樹作品ガイド」、『ユリイカ 総特集 村上春樹 2011年1月臨時増刊号』を参照。

*3:「中上健次のテクストを読むときに警戒すべきことは、それをこの両極[物語と私小説――引用者注]のどちらかに還元してしまうことである。現在、どちらかといえば、その危険は、それを自然主義的ではなく、民俗学的な方向において読む傾斜にある。それは、たえず歴史的な状況にいた中上を、超歴史的な構造論に回収する、凡庸きわまる批評を意味する。そうであれば、さしあたって、私はむしろ中上を自然主義や私小説といった軸の側に引き戻してみる必要を感じる。ある意味で、中上健次は根っからの私小説作家であった。それは「私」にこだわること、一切を「私」の経験において見るということである。[中略]中上がこれらの作品[『枯木灘』以前の短篇を集めた『化粧』――引用者注]でやろうとしたのは、現実的な歴史的な空間を象徴的な空間たらしめることである。後者において、特定の新宮や熊野の空間は、ある一般的で非歴史的な構造に転化する。けれども、むしろ重要なのは彼が安易にそうしなかったことである。いいかえれば、彼は「私小説」的な側面を捨てなかった。彼がそうした二系列をともにふくみながら、なおそれらのいずれでもない「小説」を書いたのは、『枯木灘』においてである。」(「差異の産物」1993年、『坂口安吾と中上健次』1996年)

*4:「内面の発見」1978年、『日本近代文学の起源』1980年。

*5:「閉ざされた熱狂――古井由吉論」1971年、『畏怖する人間』1972年。

*6:「私小説の両義性――志賀直哉と嘉村磯多」1972年、『意味という病』1975年。ここで柄谷は、志賀が描く「私」にとって重要なのは、内省する「内面」ではなく、「気分」であると述べた。

*7:「《私》の中の《自分》」、『文藝』1977年8月号。

*8:中島は「文学の輪郭」で『群像』の「新人文学賞」に当選した(『群像』1977年6月号)。受賞第一作が「表現の変容」(『群像』1977年9月号)である。

*9:「薫君」シリーズの一作目は1968年の『赤頭巾ちゃん気をつけて』。「桃尻娘」シリーズの一作目は1977年の『桃尻娘』。これらの作品の自己表現の、文学史における位置付けについては、中沢忠之「小説のプログラム 内言篇」http://d.hatena.ne.jp/sz9/20081123

*10:それと同時に物語も復活したことは注意していい。柄谷行人が指摘した通り(『日本近代文学の起源』)、日本の近代以降の文学史は私小説と物語という、西洋由来の近代文学にとっては傍流の二傾向が両輪になって育まれてきたのである。文学のモードが転換する時期にこの二傾向が必ず注目を集めるということは、日本の文学史の特異性を例証していると言えよう。ちなみにゼロ年代も、1970年代と同様に、「私」の自己表現から世界=物語の叙述へと相対的に重点を移す過程が見られた。

*11:後藤の自己表現の特異性については、中沢忠之「仮装する人、後藤明生を仮葬する(ケイタイ的)」、『早稲田文学』2000年9月号を参照。

*12:中沢忠之「良質なリアリズム――柴崎友香の私小説」http://d.hatena.ne.jp/sz9/20081012

*13:『ビリジアン』は折衷型であろう。本書は、日常を舞台にして様々な視聴覚メディアが導入されるが、その一方で、ボブ・マーリーやジャニス・ジョプリンといった往年のスターたちと「わたし」が共演するという夢のような非日常的プロットが配されている。

*14:詳しくは、中沢忠之「良質なリアリズム――柴崎友香の私小説」を参照。ここで私(中沢)は『主題歌』までの柴崎作品を論じている。『主題歌』までが柴崎の第一ステージとするなら、拙稿はその第一ステージを中心に分析し、『主題歌』での変容にも少し言及するという体裁をとっている。

*15:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』1953年。本稿は黒崎宏による邦訳『哲学的探究 第1部・読解』(1994年、産業図書)を参考にした。

*16:だからあるカテゴリーを定義するには、包括的な説明は不可能だから、「だいたいこんな感じ」と例示をせざるをえないのである。

*17:星野智幸の『俺俺』(2010年)は、ファミリーリセンブランスとしての自己同一性をモチーフにして、「私」のドタバタ悲喜劇を小説にした傑作である。

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2011-12-23

[]1930=1970=2010年代文学再編説 15:31 1930=1970=2010年代文学再編説を含むブックマーク

今年の地震の影響で文学が変わるのではないかという議論があるけれど、私はそうは思わない。先の戦争の際も、それを受けて戦争体験を素材にした作品は増えましたし、個別の作家に様々な形で影響を与えたでしょうが、既成の概念で論じられない文学表現が出てきたかというと、そんなことはなかった。

無論、地震震災の影響から文学の変容を論じることもできるでしょうが、そのような手続きは私には関心がない。文学表現の変容と再編の動きは、そういった外的要因とは関係なく、より内在的なレベルで起こっているし、そのようなところから私は文学を考えたい。震災文学は重要だと思っていますが、それはこれとは別の問題です。

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かつて文学の再編が問われたのは、1930年代と1970年代です。当時は、文学手法袋小路に入ったという認識、それから隣接するジャンルに溶解されつつあるという認識がありました。すなわち、モダニズム以後の表現の可能性とジャンルの相対的視点(他ジャンルの取り込み)です。

1930年代小林秀雄高見順坂口安吾らが、文学表現の危機意識と新しい視角をもって語りましたが、最も重要なのはやはり横光利一の「純粋小説論」(1935年)でしょう。簡単に要約すると、ジャンルの自律性を追及したモダニズムの徹底の結果衰弱した文学は、エンターテインメントも取り込まねばという話です。

1970年代は柄谷行人の『日本近代文学の起源』(1980年)など重要な作品はあるけれど、彼はあくまでも文学の内部にとどまろうとする点で、当時の小林秀雄に似ています(のちに文学放棄することも含めて)。

横光の「純粋小説論」の直後に書いた小林の「私小説論」は、横光の社会学的な「通俗性」をしりぞけ、文学をあくまでも実存的な問題(「社会化した私」)に回収しようとしました。柄谷もまた、通俗的な物語に私小説的要素(固有性)を導入して実存的な問題に囲い込み、社会学的要因(同時代性など)を排除し、文学を自律した表現として限定しようとしました。

1970年代に、横光の「純粋小説論」的な役をになったのは中島梓の『文学の輪郭』(1978年)です。彼女の議論も、モダニズム以後の表現の可能性を背景に(彼女にとってのモダニズムはヌーヴォーロマンと安部公房でしたが)、社会学的視点から、文学の外部を召還しようという手続きがある(つかこうへいなど)。のちに物語作家になったのも横光と似ているところです。

いずれにせよ、文学の本流は結果的に、小林(あるいは川端とロマン主義)ではなく横光を本気で考えなかったし、柄谷(あるいは内向の世代)ではなく中島を本気で考えませんでした。

蓮實重彦の『小説から遠く離れて』(1989年)を読めば分かる通り、社会学と物語を否認することが文学にとって重要だったのです。村上春樹の扱いもこれにのっとったものでしょう。

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以上の見立てで行くと、40年周期ということで、恐るべきことに、我々が現在立脚している2010年代が1930−1970年代に当たるということになります。

逆に言えば、1920年代60年代ゼロ年代文学の本流が負けに負けた時代です(それ以外も別に勝ってたわけではないが)。エンターテインメントと詩が魅力を放ち、表現の可能性を感じさせたし、それは現在進行形でもあるでしょう。

2000年に入ってからのゼロ年代は、ライトノベルケータイ小説の台頭が文学を翻弄(活性化)しました。社会学と物語分析をデフォルトで実装している、東浩紀の『動物化するポストモダン』(2001年)と速水健朗の『ケータイ小説的。』(2008年)に、文学の内在批評がどれも太刀打ちできなかったことは、2010年代をスタートさせた今年の終りに、私は銘記しておきたい。

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2011-07-27

[]3・11以後の小説――新たな政治と文学に向けて 00:46 3・11以後の小説――新たな政治と文学に向けてを含むブックマーク

2011年。わたしはあらためて、「神様2011」を書きました。原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段にかまえた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりもむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性をもつものだ、という驚きの気持ちをこめて書きました。静かな怒りが、あれ以来去りません。むろんこの怒りは、最終的に自分自身に向かってくる怒りです。(「神様2011 あとがき」川上弘美

3・11以後、何人かの小説家震災地震原発被害)に関連した創作を発表している。これに私はいささか驚いている。感情を伝えやすい詩の場合は、比較的早く3・11以後の惨事に反応する作品が出るという予想はついた。

じっさい、原発被害の直接的な被害を受けている福島に身を置く和合亮一が、誰よりも早く、感情を揺さぶる言葉をtwitterから発信し、詩集としてまとめた。他にも、詩のボクシング第3代チャンピオン平田俊子(「ゆれるな」http://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/a8581ecb9143253a1f760b77a1222307)や詩界のスーザン・ボイル柴田トヨ(「被災者の皆様に」http://sankei.jp.msn.com/life/news/110317/trd11031714340007-n1.htm)らが「震災詩」を発表したし、評論も小説も詩もこなす松浦寿輝は3・11に言及するさい何より詩を選んだ(「afterward」http://www.2pc.jp/2011/04/08/10/55/24)。AR技術を応用したni_kaのAR詩も詩形式の可能性を存分に発揮しながらそれに応接している(「2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京http://yaplog.jp/tipotipo/archive/255)。

また、関東大震災の詩を同時代に書いたことがある金子みすずの「こだまでせうか」が3・11以後頻繁に流れたテレビCMでいち早く注目を集め、岩手詩人宮沢賢治の再評価があり、詩の朗読会やパフォーマンスが盛んに行われているのが現状だ。

これら一連の詩の動向は、私には不思議ではなかった。詩は散文と比べたら意味(物語)よりも知覚に訴え、感情を伝えやすいジャンルだからだ。詩は散文よりも機動性の面で長けているのである。だから小説が詩と同程度に早く事態に応接するとは信じがたかったのだ*1

大江健三郎村上春樹震災(とくに原発被害)に関連したコメントを発表し、島田雅彦が「復興書店」(http://fukkoshoten.com/)を立ち上げたばかりではない。それらは文化人の政治的メッセージとしてみれば十分に理解できるわけだが、何より驚いたのは、3・11以後に影響を受けた創作が矢継ぎ早に発表されたことである。

これは、1995年の阪神淡路大震災(あるいは地下鉄サリン事件)のさいに小説家がきわめて慎重になった時と比べて異例である。この時期は、カルチュラル・スタディーズ現代思想の影響から、言葉が現実を表象することの不可能性なり暴力性といったテーマが流行した時期であり、フィクションを現実と切り離したメタフィクショナルな創作が増えた時期である。そしてその中で村上春樹ばかりが地震サリン事件に積極的に応接したのが嘲笑されもした時期だった。

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今回は、3・11以後発表された小説を調査しながら、現代小説における現実とフィクションの関係、すなわち「現代小説は3・11を受けて現実にフィクション(物語)をどのように関連させているのか」を明らかにしたい。戦後の日本文学は「政治と文学」というテーマが大きな影響力を持っていたが、1970年代以来撤退を余儀なくされた。その一つの要因は、文学が現実との接点を断ち切り、フィクション(物語)の自律した構造に依拠するようになったからである。3・11以後の小説から、その40年来の傾向を転回する契機が見られるかもしれない。

まずは「子供の行方」(「群像2011年8月)の古井由吉。古井の現実とフィクションの関係の処理の仕方は比較的オーソドックスである。3・11以後に言及するさいに古井は過去の記憶、太平洋戦争東京大空襲(3月10日)以後を記憶の底から掘り起こし、震災と戦災をアナロジカル(比喩的)に結び付ける。古井の叙述は、3・11以後の余震に及ぶたびに3・10以後の戦時体験に遡行するだろう。ここでは現在進行形の現実は記憶に繋ぎ留められ、安定しているといっていい。

暮れなずむ道をたったひとり、リヤカーのうしろにのせられて行く子供の姿が見える。昼間の引っ越しは機銃掃射をおそれて避けたのだろうが、それにしてもこんな時刻に、なぜひとりきり先へやられたのか、どう言い聞かされてきたのか、覚えはない。棍棒を取る見知らぬ男の背が物も言わず、地下足袋の脚をひたひたと運ぶにつれて、道はいよいよ暗くなる。子供も物を言わない。何を考えていたのか。これで安穏なところへ越せると思っていたのか。何処へ行くのか、知っていたのだろうか。/西の在所の農家に身を寄せてほどなく、ある夜、城下町が全体に炎上するのを、畑の間から眺めた。赤く焼けた空へ、白熱した火炎がつぎからつぎに押し上がる。(72−73ページ)

語り手は自分の体験でありながら、その当時の記憶をときおり突き放しつつ三人称(「子供」)で語ることにより、古井独特の離人症的な物語空間を演出する。しかしそれは、現実を前にした危機的な対応の結果というよりも、事後からの諦念の印象を強く物語に与えるだろう。

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次は高橋源一郎だ。3・11以後に最も精力的に言葉を費やしているのは彼である。ここ3回の「日本文学盛衰史 戦後文学篇」(「群像」5・6・7月)は全てそれに当てられているし、「小説トリッパー」(2011年夏号)の「ぼくらの文章教室」もそうだった。創作では『「悪」と戦う』(2010年5月)の世界観を踏まえた「お伽草子」(「新潮2011年6月)と「アトム」(「新潮2011年7月)がある。さらには『恋する原発』なるタイトルの書き下ろし作品も現在執筆中ということだ。

ちなみに「お伽草子」というタイトルは、陣野俊史「「3・11」と「その後」の小説」(「すばる2011年8月)が指摘する通り、元々は太宰治が戦時中に執筆していた作品名であり、太宰はその作品を空襲下の防空壕で子供に読み聞かせるための物語という設定で書いたのだった。

それでは、高橋のフィクション(物語)における現実把握とはいかなるものか。それは「崇高」という概念に尽きるだろう。

ここしばらく、タカハシさんは、黙りこむことが多くなった。テレビをつけ、被災地の悲惨な情景や襲いかかる巨大な津波に人が呑まれる瞬間を見ては、目をそむけ、呆然とする。雑誌に掲載された震災原発の記事を読んでは、いずこともなく、視線をさまよわせる。そうやって、視線をさまよわせながら、いつしか、タカハシさんは、その視線が外側から内側へ、注がれてゆくような気がした。あくまで、「気がした」だけなのだが。(「日本文学盛衰史 戦後文学篇(18)」、「群像2011年6月、255ページ)

認識が及ばない、表象不可能な現実――崇高な対象――に対して、高橋は沈黙し、熟考することを私たちに要求する。高橋も震災を戦災の記憶とアナロジカルに結び付けるが、それは崇高という性質においてのみである。

ここで高橋のフィクションの特徴を挙げておこう。まず「お伽草子」は、戦時下を生きるパパとぼくの話と、『鉄腕アトム』のキャラクター・アトムとトビオの善悪をめぐる話とが、交互に語られている。ここでは後者が前者の話中話(オブジェクト・レベル)の関係にあったが、二作目「アトム」では平行的な関係に置かれ、さらに物語世界は分岐し複数化する様が見られた。また、両作品ともに平仮名が多用されている点は、現実把握に対する無力さと慎み深さの現われ(これは子供の視点という性質も関わっている)が垣間見られるといっていい。

言語学者ロマーン・ヤコブソンはかつて、失語症を二つのタイプに分けた。文章を結合する能力(統辞)を失った失語症と、文章中の単語の選択(置き換え)が出来ない失語症との、二つである。

これを踏まえれば、3・11以後の圧倒的な現実を前に高橋が選んだ失語状態は、統合する能力の異常において現れている、ということが分かるだろう。高橋の表現は統合する能力の支えを奪われ、選択・置換の能力によってのみ支えられることになる。だから高橋の物語空間はひたすら時間が滞留(=統辞機能の失調)する中で、表象不可能な現実をめぐり過剰な隠喩(相似)的連鎖が発動し、複数の可能世界を物語のうちに取り込むことになるのである。

阿部和重の「RIDE ON TIME」(「早稲田文学2011」東北関東大震災チャリティ・コンテンツ、http://www.bungaku.net/wasebun/info/charity.html)を読んだ時も、高橋と似た感想を得た。阿部はここで、3・11以後の震災には決して言及しない。その代わりに、50メートル級の超グランド・スウェルを怯えつつ待ち続けるサーファーの物語を代補(置換)するのである。

いずれにせよ、現実を圧倒的な対象としてとらえる者の歴史記述は、シンボルよりも多義的な解釈を可能とするアレゴリーに可能性を見出すものである。

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平野啓一郎は、4月30日から被災地に足を運んで見聞した記録をエッセイとしてまとめている。そこで平野は、実際にその場を体験してみれば崇高という抽象的な概念は受け入れられなくなるという趣旨の発言をしている。

「崇高」という言葉は思い浮かんだものの、そう感じられるほど、自然の威力は抽象的ではなかった。たった二日間とはいえ、被災地を具に見て回ることで、震災の被害者は、私の中でもっとずっと具体的になった。自然が、名前を持った個人に対して残酷な恐怖である時、人間はそれを「力学的に崇高」(カント)とは、感じなそうである。(「被災地までの距離」、「新潮2011年7月、198ページ)

平野が言っていることは、実際に現場を体験せよという現場主義的なものではない。それは抽象的な崇高主義の裏返しでしかないだろう。平野はここで、特定の関与性(「名前を持った個人」)を起点にすると風景が違って見えたと言っているのである。そこで注目したい3・11以後の小説を挙げるとすれば、川上弘美古川日出男だろう。

まずは川上である。川上は1992年に発表した短篇「神様」を、3・11以後を受けて改編を施し、「神様2011」(「群像2011年6月)を発表した。そのさい川上は「神様2011」の後にオリジナルの「神様」を併載し、改編するにいたった理由を「あとがき」に付している。

改編のポイントは、オリジナルの物語に原発被害−放射能汚染後の世界観を所々に埋め込むという点である。

くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。歩いて二十分ほどのところにある川原である。春先に、鴫を見るために、防護服をつけて行ったことはあったが、暑い季節にこうしてふつうの服を着て肌をだし、弁当まで持っていくのは、「あのこと」以来、初めてである。散歩というよりハイキングといったほうがいいかもしれない。(104ページ)

「抱擁を交わしていただけますか」/くまは言った。/「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」/わたしは承諾した。くまはあまり風呂に入らないはずだから、たぶん体表の放射線量はいくらか高いだろう。けれど、この地域に住みつづけることを選んだのだから、そんなことを気にするつもりなど最初からない。/くまは一歩前に出ると、両腕を大きく広げ、その腕をわたしの肩にまわし、頬をわたしの頬にこすりつけた。(108ページ)*2

くまとわたしが散歩するという、川上独特のシュールなファンタジー色が強かった「神様」は、「神様2011」において現実から別の要素を――それまで地に隠れていたものを図として浮かび上がらせるように――取り入れることで物語を改編したのである。

この改編に作家をして着手させたのは、あれ以来胸中を離れないという「静かな怒り」のはずだが、ここではそれについては深入りしない。重要なのは、川上には、3・11以後の現実を対象化して深く認識・把握したり、色々と解釈(現実から抽象的な理念を引き出し)したりする発想はまったくないということだ。彼女は現実から関心のある(その関心は「静かな怒り」に基づいているだろう)主題と情報のクラスタを抽出し、それをフィクション(物語)に組み込むことに、作家による現実との応接の可能性を限定しているのである。

そしてこの現実は、認識の対象ではなく(認識の対象にすれば究極的には認識の無力感に打ちのめされるほかないわけだが)、情報――あるいは知覚感覚のデータ――の束として成り立っており、限定的な関心にしたがってそれらを抽出し、フィクションに組み込んで現実との関わりを再設定する(そのアウトプットが「神様2011」)のである*3

だからこの語り手は、現実とフィクションの関係(表象するものと表象されるものの対応関係)に苦慮することはない。現実はフィクション(物語)と位相の異なる対象ではなく、情報としてフィクションの一部を構成するものだからだ。ただしその現実は、「神様2011」の改編をもたらしたように、フィクションメタデータ(単なる一情報ではなく主題)としても機能している。

これは崇高的フィクションとまったく逆である。崇高的フィクションの場合は、現実を圧倒的な畏敬の対象として否認することにより、結果的にフィクション(を支える語り手)をメタレベルに繰り上げるものだった。それに対して、川上においては、現実はフィクションの一部に埋め込まれるが、メタデータとしてフィクションを規定することになるのである。

川上は、文学表現におけるフィクションとその語り手の脆弱性を、とくにその脆弱性を露わにする現実を前にして、特定の関心・関与性(「静かな怒り」)を起点にした現実を受け入れることにより補填・活性化するという方法を選んだのである。

 +++

いずれにせよ、川上の「神様2011」は、現実とフィクションの境界・重なりにあって、ファンタジックな物語でもあり、現実に対する政治的なレスポンスとしても機能していることに注意したい。

ところで私は、最近の、歴史を素材にした小説が、以前と変わってきていることに少し前から注目していた。古くから歴史的素材をシンボリックなものとして導入するタイプの小説は枚挙にいとまなくあるが、1980年代以降、シンボリックに大文字の歴史を導入しえなくなった時代に、変化の兆しを見せはじめる。具体的にいうと、歴史を小文字化(多元化)する試みが注目を集める一方で、とりわけサブカルチャー偽史的想像力の影響を受けた歴史修正主義的作品(ifとしての歴史物語)が増える傾向があった(『5分後の世界』『ニッポニアニッポン』『グランド・ミステリー』など)。

核・原子力の問題に限定するなら、まず1948年の「夏の花」(原民喜)や「屍の街」(大田洋子)といった直接の被爆体験者によるシンボリックな作品があるとすれば、1965年の『黒い雨』(井伏鱒二)が核のシンボリックな表象の不可能性を露呈させた。さらに、核の問題が抑止力理論により崇高な対象として肥大化する時代、1981年の『HIROSHIMA』(小田実)が核の歴史を小文字化して表象することに成功する一方で、1990年の『治療島』1991年の『治療島惑星』(大江健三郎)が偽史的想像力のパッケージを核に施したのであり、かくして2005年の『六〇〇〇度の愛』(鹿島田真希)に行き着くという系譜がある。

『六〇〇〇度の愛』の注目すべき点は、核に対して緻密な認識をしようという意図も、新たな解釈を施そうという意図もなく、(これまでの核のイメージに対して)いたって素朴かつ忠実に物語の素材として導入しながら、物語の主題としても機能させているという点であった。

いわばここでは、核という歴史的素材がフィクション(物語)を支持・駆動する背景として取り込まれ、逆に、フィクション(物語)の中に取り込まれることで政治的な主題として生き直させられている、という関係が見られるのではないか。歴史的素材をフィクション(物語)に奉仕する程度に切り縮め、それが逆に歴史的素材の政治的主題性を賦活させる(=フィクションが歴史に奉仕する)ということ。

先ほど、歴史を素材にした小説の変容に言及したが、それは『六〇〇〇度の愛』に見られるこのような事態である。そしてこれは、他にも、古川日出男の『聖家族』(2008年)にいたるいくつかの歴史に取材した作品群をはじめ、桜庭一樹の『赤朽葉家の伝説』(2006年)や村上春樹の『1Q84』(2009‐2010年)、阿部和重の『ピストルズ』(2010年)などにも散見されるのである。

彼らは歴史をシンボリックに立ち上げないし、偽史的に改編するダイナミズムも期待しない。むしろ日本の戦後史を忠実になぞっている。言い換えれば、歴史をハッキング寄生)の対象として設定し、物語を上書きするのである。その試みは正史とは別の歴史(物語)を作るのではなく、歴史に対する新たな関わり方・視点を提供する欲望に支えられているだろう。彼らの作品にあっては、物語と歴史は相互に必要とする関係にあるのである。

私がこのようなことを考えたのは、ポール・グリーングラスの一連の、事実に即した「戦争映画」を見てからである。彼の『ユナイテッド93』(2006年)と『グリーン・ゾーン』(2010年)は、『ハート・ロッカー』(2008年)はいうまでもなく、『プライベート・ライアン』(1998年)や『シン・レッド・ライン』(1998年)にいたる戦争映画(戦争を政治的主題にしたものから娯楽として活用したものまで含む)と決定的に様相を異にしている。

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それでは、最後に古川である。作品は「馬たちよ、それでも光は無垢で」(「新潮2011年7月、以下「馬たちよ」)。何にでも染まりやすい彼もまた3・11以後の震災を、戦災と重ね合わせたり、崇高な対象(「時間の消滅」「神隠しの時間」…)としてとらえたりする。しかしそれ以上に、古川の試みは、川上弘美との接点の方が有力に機能している。くしくも川上とNYで出会ったエピソードが「馬たちよ」で語られているのだが。

「馬たちよ」は、福島出身である古川の、東北を舞台にした長篇小説『聖家族』の補遺として位置付けられた作品だ。ここで古川は、3・11以後を、あくまでも現実としてとどめたいドキュメンタリーの欲望と、それを物語の時間に流し込みたいフィクションの欲望との間で葛藤している。

書け。私はこれを書け。そこに狗塚牛一郎がいたのだと書け。五人めが。私たちの五人めが。イヌにしてウシである『聖家族』の長男が同乗していたのだと書け。しかしそんなことを書いてしまったら小説だ。この文章が小説になってしまう。私には矜持がある、私はここまで一切嘘を交えなかった。私には逡巡はあっても嘘はなかった。この文章を決定的な″本物″にすることで私は何かの、やはり決定的な救済を望んだのだ。いまも望んでいる。それを鎮魂とパラフレーズする覚悟もある。これらは極限である。これら、原稿用紙にして九十枚余に達した″ある集積″は私の極限である。それでも。それでも? 書け。(115ページ)

しかし、この葛藤はリアリズムをとるかフィクションをとるかというような従来からある議論とは無縁である。古川にとっては、現実とフィクションは合わせ鏡のように相互を照らし合わす関係にあるのであり、そこで現実はすでにフィクション(物語)であり、フィクション(物語)もまた現実なのである。物語の話者・牛一郎とドキュメンタリーの話者・古川は重なり合っているのだ。相互を必要とするように。

古川の小説は、物語が現実から様々な情報(身辺雑記・地名・歴史的記録など)を抽出して自己の動因にし、現実は物語(の語り)によって賦活される、という構造を持っている。

この現実と物語の合わせ鏡の乱反射によってこそ、3・11の震災は3・10の戦災へと垂直に遡行して物語の深度を深めることなく、古川自身が福島へ北上したりNYに飛んだりする中で(この感情赴くままの古川/牛一郎の動線が「馬たちよ」の現実に対する関与性である)、ときに9・11のNYへと横滑りし、あるいは福島・相馬の歴史を語るべく原発戦国時代以来の最新の城郭ととらえたり、人類史はじまって以来の馬の歴史へと分岐しもするのである。

*1:私は、3月の下旬に書いたエッセイで、この震災を受けて書かれる小説は「まだもう少し、いやずいぶん先のことだろう」と述べた。「リズム タイミング インプロビゼーションhttp://p.booklog.jp/book/17391/page/306127

*2:オリジナルの「神様」は以下の通り。「くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。歩いて二十分ほどのところにある川原である。春先に、鴫を見るために、行ったことはあったが、暑い季節にこうして弁当まで持っていくのは初めてである。散歩というよりハイキングといったほうがいいかもしれない。」「「抱擁を交わしていただけますか」/くまは言った。/「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」/わたしは承諾した。/くまは一歩前に出ると、両腕を大きく広げ、その腕をわたしの肩にまわし、頬をわたしの頬にこすりつけた。」

*3:人間を認識し考える特別な生き物ではなく、環境の中で情報を受け取り処理する機械的な生き物としての側面に注目し、その可能性を見出したのはサイバネティックスの理論家・ノーバート・ウィーナーである。「人間は、自己の感覚器官を通じて知覚する環境のなかにひたされている。人間が受け取る情報は、脳と神経系を通じてコオーディネート(整合)され、貯蔵や照合や選択からなる適当な過程をへてのち、行動器官――ふつうは筋肉――を通じて外へでてゆく。これらの行動器官は外界に作用を及ぼし、さらにまた自己運動感覚をもつ末端器官のような感覚器を通じて中枢神経系へ反作用を及ぼす。そして、これらの自己運動感覚器官(および他の感覚器官)が受け取った情報が、当人のすでに蓄積された貯蔵情報と組み合わされて、将来の行動を左右する。/情報とは、われわれが外界に対して自己を調節し、かつその調節行動によって外界に影響を及ぼしてゆくさいに、外界との間で交換されるものの内容を指す言葉である。情報を受け取り利用してゆくことによってこそ、われわれは環境の予知しえぬ変転に対して自己を調節してゆき、そういう環境のなかで効果的に生きてゆくのである。」(『人間機械論 第2版』1954年、みすず書房1979年、11ページ)

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2011-06-09

[]柴崎友香論を寄稿 23:15 柴崎友香論を寄稿を含むブックマーク

きたる6月12日文学フリマで販売される文芸同人誌『S.I.』(http://d.hatena.ne.jp/leftside_3/20110609)にエッセイを寄稿しました(1万7千字超)。タイトルは「ファミリーリセンブランスとしての私 柴崎友香論」です。

議論の展開は、まず文学史の背景として、内向の世代から柴崎友香長嶋有へという、自己表現と世界認識の変化の流れを解説。方法論としては、ジェラール・ジュネットを嚆矢とする従来の叙述/描写論とは全く異なった切り口を用意しました。

柴崎友香の特異な叙述/描写は、一見すると従来の方法論で分析できてしまうようなところがあるものの、そこには収まりきらない特異な魅力があるわけで、そうである以上、それに合わせて方法論もバージョン・アップする必要があったということです。

「ファミリーリセンブランス」というのはもちろんあの「ファミリーリセンブランス」です!

長嶋有は、本稿では柴崎のサブ的なポジションという位置付けにとどめましたが、本当は単体で論じたい作家です。たとえばSNSソーシャルゲームに関心のある人は面白く読めるのではないでしょうか。長嶋は、「気分が主体の人・志賀直哉」(柄谷行人)のある意味正しい後継者「趣味が主体の人」なんです。もちろん柴崎友香もすばらしく趣味の人です。

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柴崎作品で今回注目した作品は、最近作の『主題歌』『星のしるし』『ドリーマーズ』『寝ても覚めても』『ビリジアン』の5作。僕はこの3月に繰り返しこれらの作品を読んでいました。それともう一人、ni_kaのAR詩(http://yaplog.jp/tipotipo/)も何度も読みました。そしてtwitterでいくつかコメントもしました。言葉の遅滞さ無力さにもどかしさを感じながら、いまから思えば、浮遊し分散する言葉(わたし)たちのおかげで僕の心は折れずにいられたのだと思います。

駿介駿介 2011/07/25 23:33 柴崎友香の特異な叙述について

すごいですね・・・。最近柴崎さんを知った私としては
興味津々です。

そしてもう一つすごいのが、柴崎さんをネット上の皆さんは
よく語りますね。
語りたくなる作家さん、なんでしょう。
読書好きの方のブログから↓の様なサイトまで、いろいろな方が
語りまくっているように思います。
http://www.birthday-energy.co.jp/ido_syukusaijitu.htm

「客観性に優れ物の裏側を読み取る」のが才能らしいです。
そして46歳からの20年間は頂点に近い存在とか。

これからも楽しみな作家さんですね。

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2011-04-07

[]リズム タイミング インプロビゼーション 23:25 リズム タイミング インプロビゼーションを含むブックマーク

『P vol.2』という文学ウェブ雑誌に、原稿用紙5枚くらいの小文エッセイを寄稿しました⇒http://p.booklog.jp/book/17391

タイトルは「リズム タイミング インプロビゼーション」といいます。3月11日以降の現在進行形の出来事を受けて文学研究する立場から感想を述べたものです。価格の500円は義援金として寄付されます。よろしければどうぞ。

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2011-02-27

[]『ユリイカ』に貴志祐介論を寄稿 00:31 『ユリイカ』に貴志祐介論を寄稿を含むブックマーク

ユリイカ』に貴志祐介論を寄稿しました(青土社ユリイカ』ページにGO!→http://www.seidosha.co.jp/index.php?%B5%AE%BB%D6%CD%B4%B2%F0)。

タイトルは、「ジャンル理性批判 ホラー的ハイブリッド小説 『新世界より』 を中心に」です。いうまでもなくカントの理性批判のもじりです。貴志祐介はホラー作品で小説家デビューを果たしますが、ミステリやSFも発表しています。しかもどのジャンルからも高い評価を受けている。その功績を振り返れば、キング・オブ・エンターテインメントといってもいいくらいでしょう。

本稿は、彼のキャリアを軸にしながら、1990年代から2000年以降のジャンル小説の状況を分析したものであり、逆に、その状況の中でどのように彼が各ジャンル小説を書いてきたのかを分析しています。

以前twitterで、ジャンル小説の批評は、SFSFミステリミステリの中に閉じこもりがちだということを(自戒をこめて)批判したことがありますが、それを開くきっかけになるべく書いたつもりです。

貴志祐介を評価するときは、特定のジャンル小説を評価軸にすることはできません。彼のみならず、そういったジャンル小説の作家が増えたのが2000年以降、ゼロ年代の問題でした。『このミステリーがすごい』や『SFが読みたい』で毎年行われるジャンル小説のランク付けに対して、最近富に批判が多いのも(貴志祐介の『悪の教典』が『このミス 2011』で1位になったのにも批判が多かった)、各ジャンル小説の垣根が溶解し、共通了解の評価基準が相対化されたからでしょう。以下は、twitterで呟いたものです。

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貴志祐介の『悪の教典』は壮大な失敗作だよね。『硝子のハンマー』の時もそういう評があったと思うけど。この作家はSF・ミステリ・ホラーとどんなジャンル小説も書くけど、各ジャンルのルールとリアリティにこだわる人には、アンチ貴志が多いように思う。

物語を語る上で、物語の設定と世界観をゼロベースから緻密かつ冗長に作りこんでいくので、現実味が失われる危険性に常に晒されている。最新作の『ダークゾーン』がいい例。まあSFやホラーだと現実感は二の次だからさして問題にならないんだけど、ミステリとか現実を舞台にしたものだと問題になる。

あと、貴志氏みたいに完全犯罪を壮大かつ緻密に作りこむほど、最後のオチが異様に難しくなるので、オチと過程のバランスが結構重要になる(安吾の『不連続殺人事件』もそうだった)。それが奇跡的にうまくいったのがSFの『新世界より』。他方で『硝子のハンマー』と『悪の教典』は毀誉褒貶が凄い。

いずれにせよ、『悪の教典』で久々にモダンホラーを書いたんだけど、ホラー作家・貴志祐介ゼロ年代モダンホラーの対象をどう造形するかに悩まされた10年だったのではないか。『悪の教典』『ダークゾーン』は彼なりの応答だと思うけど、貴志的世界は健在だが、ホラーとしては不満が残ります。

貴志氏が言う通り、現代はホラーが難しい時代(ロメロのゾンビと限定視点(特にハンディカメラを使った)というベタな演出がとにかく強い)。

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2010-12-12

[]村上春樹ブックガイドの寄稿の告知 22:26 村上春樹ブックガイドの寄稿の告知を含むブックマーク

こんにチは。お久しぶりです。

雑誌『ユリイカ』の臨時増刊号「村上春樹特集」に、「ゼロ年代村上春樹作品ガイド」を寄稿しました。村上春樹の2000年以降、ゼロ年代の作品――小説・エッセイ・インターネット本・インタビュー集など――についてのガイドです。全部で21タイトル。バラつきはあるけれど、1タイトルあたり1000から2000字程度だと思います。

そのうち音楽エッセイが3タイトル出ていますが、これに関しては平山茂樹に担当していただきました。彼は、日本の近現代文学・文化専攻で、現代思想サブカルチャーにも造詣が深い、僕の信頼できる若手研究者の一人です。彼の堅実な批評は、僕のと対照的な面もあり、ガイド全体をリズミカルなものにしてくれました。

とにもかくにも、ここ一ヶ月は村上春樹三昧だったので頭はすっかりハルキ脳と化しています。どこを見ても井戸が潜んでいるように見えますし、いまなら壁抜けもできそうです。とにかく、村上春樹は、こと批評・研究の分野では、否定肯定の評価がはっきり分かれる作家です。今回のガイドにおいては、先行研究の成果を活用しながら、なるべく作品に降りて行きたいという気持ちが強くありました。むろん作品を分析するときはいつもそういう気持ちでいますが、今回は特に。村上春樹の批評の文脈は非常にハイコンテクストな森ですからね。

このブログとお付き合いくださっている方ならご存知かと思いますが、僕の村上春樹評価は、基本的に、柄谷行人の春樹理解を踏まえたものです。それは、「村上春樹の作品は物語の構造のみで作られている」というものです(『終焉をめぐって』を参照してください)。村上春樹の作品は構造のみだという解釈は、蓮實重彦の『小説から遠く離れて』、それから最近では大塚英志の『物語論で読む村上春樹宮崎駿 構造しかない日本』も前提しているものでした。

また、渡部直己の「春樹の言説=黙説法」(黙説法とは沈黙によって意味ありげな文章に仕立てるレトリックです)という評価も僕にとって影響力のあった春樹理解です(『不敬文学論序説』を参照)。

彼らの成果は今でも有意義なものと思っています。しかし、彼らのいう通り村上春樹の作品が物語を前提としたものであり、それを動かすために様々な方法を研ぎ澄ませてきたのだとすれば(黙説法もその一つでしょう)、それを否定することは、単純な肯定と同様、恣意的・政治的なものだというのも今や明らかです。ということで、僕が今やるべきことは、彼らの成果をいったん技術論ベースに解体し、村上春樹ゼロ年代を語るために改めて組み直すといったことでした。彼らの批評の文脈に乗るのではなく、新しい文脈を作りたいからです。少なくとも今後の村上春樹研究の一つの参照先になれればという思いで編集しました。どうぞよろしく。

このブログ、今年はあまり記事を書けませんでした。『早稲田文学』に鹿島田真希論、『ユリイカ』に冲方丁論と村上春樹ガイドを寄稿し、『PLAYBOX』に逆セカイ系論を寄稿したので、遊んでいたわけではないのですが。今年は、ジャンル小説ラノベから純文学を考える、をテーマにやってきましたが、来年も継続させます。

最近は、とくに美学の問題(趣味の評価)が技術論とコミュニケーション論に還元されつつある傾向について整理をしています。美学を技術の範囲に限定する発想は、カントに典型的な通り、近代に特有なものですが、それに対するロマン主義的な反発もまたおりにふれ起こるし(想像力や身体性こそ美の源泉である!)、むしろこの反発の方こそ美学メインストリームと捉えられる傾向があります。

いずれにせよ、資本主義がグローバルに浸透した今日においては、技術論的な意味での美学が蔓延し、政治や社会問題を議論する上でも(理念イデオロギーに頼らず)美学的=技術論的なアプローチは不可避です。単一の価値体系の否定⇒複数の価値・複数の主体をどうやって切り盛りするのかという問題系ですね。その端緒はとりあえず1930年代にあるのだろうし(相対性理論とフォルマリズム)、戦後では1950年代初頭にサイバネティックス構造主義が登場したところから今日に至るといった流れがある。

日本では、1970年代に構造主義の成果が取り込まれる中で、美学的な問題を技術論ベースに還元する作業が盛んに行われました。文学においては、言語の規則性に拘泥する前衛的立場、そして物語の規則性(構造)に表現を集約させる立場がこの時期、大々的に登場します。私小説でさえ、規則性にしたがって作りこまれる時代です(内向の世代)。このあたりの話は春樹ガイドに書いているので端折りますが、前衛にせよ物語にせよ私小説にせよ、従来の文壇的約束事(リアリズム的手法や「政治と文学」という大きなテーマ)に依拠できなくなった1970年代以降の文学は、みずから規則を立てながら作品を作るという二重の作業を強いられるようになったということです。

ちなみに、そのような状況に早くから気付いていたのが、おそらく三島由紀夫であり、大江健三郎です。彼らは、自分の取扱説明書を書いた最初の作家です。架空の作家(デレク・ハートフィールド)を立ち上げ、それを基準にして作品を書くんだと宣言した村上春樹もこの文脈にあります。

この時期に批評をはじめ、影響力を持つにいたる柄谷行人は、構造主義サイバネティックスの成果(形式化の問題)を認めながら、それだけでは不十分とします。たとえばこの時期の大江のことを、自分の作品を構造主義的な物語の枠組みに還元したとして、柄谷は強烈に批判しました。彼の美学観は、規則性には還元できない実存的な手触りを最終的な評価軸にする点においてロマン主義的なものです。

ひっきょう、柄谷行人の批評は、構造主義的な世界観の広がりに対してどのように対応したのか(時期的には『日本近代文学の起源』『隠喩としての建築』『批評とポスト・モダン』)。それを確認することは、美学を技術論に限定する最近の批評の傾向を考える上で意味があると考えています(『日本近代文学の起源』については⇒http://togetter.com/li/54012)。

そしてこの柄谷的美学を逆転させたのが、データベースレイヤー構造というきわめて技術的な問題設定を批評に導入した東浩紀でした。彼は、規則性には還元できないもの(「郵便」)を認めながら、とくに『動物化するポストモダン』以降それには禁欲的です。彼の批評活動を見ていると、ある意味東浩紀の批評活動そのものが「郵便的」であることを狙っているように見えるのですが、いずれにせよ、柄谷行人が開いたロマン主義的な美学批評を、ゼロ年代において、古典主義・合理主義的な方向に切り替えたのは彼の成果なり影響力によっている、といっていいように思います。

僕の最近の研究も技術論に重きを置いている(解釈学より詩学的アプローチをとる)のですが、それに対してはつねにチェックを働かせていたい。村上春樹が物語に対してそれを怠らないように。

ちしゅーちしゅー 2010/12/12 22:46 こんにちは。コメントでは初めまして。

からたにこうじんは、わたし途中でわからなくなって本を放り投げて、それっきりでした。今度(いつ?)きちんと読んでみます。

わたし春樹評はもっぱら高橋源一郎と井口時男ばっかりでした。ああ偏っている。つまり論理じゃなく感情で読んでます、春樹。だからbook3で完結しても良い気がするし、出るならbook4も読みたい。悪く言えばわたし現状でなんとかして満足しちゃうんでしょうね。

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2010-09-23

[]エッセイ寄稿の告知 10:34 エッセイ寄稿の告知を含むブックマーク

告知が遅くなりましたが、今月初旬に発売されたユリイカ10月増刊号「冲方丁総特集」にエッセイを寄せました。「物語に選ばれた作家 冲方丁の小説の書き方」です。どうぞよろしく。http://www.seidosha.co.jp/index.php?%D1%D5%CA%FD%C3%FA

2010-08-18

[]ナレーションおよび物語分析の再考 15:11 ナレーションおよび物語分析の再考を含むブックマーク

ここのところずっと、ライトノベルジャンル小説の作家――とくに冲方丁西尾維新――を読んでいた。それとは別に、文学におけるナレーションの効用についても考えていたのだけれど、彼らの作品からいくつか得るところがあった。

昔からの変わりばえのしないナレーションを用いた作品には飽きを感じていたし(内容は新奇なものでも、その皮袋であるナレーションが古めかしいものの多いこと!)、従来のナレーション分析にも疑問というか限界を感じているところだった。

ではどうあるべきなのか。結論からいえば、ナレーションは、従来のように、(物語に対して)メタレベルに設定するのではなく、物語(キャラクターとプロット)とシームレスに繋がっている――言い換えればナレーション・キャラクター・プロットが各操作軸として重層化されている――ととらえるべきである。どういうことか。

たとえば、冲方丁は、ナレーションとキャラクター(およびプロット)の関係をこのように述べている。

パロディとは読者・書き手・編集の間で成立した共通了解を再確認させる装置である。作品内でパロディされているものがそもそも何なのかを読み解かせることで、そのジャンルがどういった要素で成り立っていたかを現実的な共通了解として認識させるのである。/それは閉じていた場所に穴を空けて、外部にあるものを流し込む役割をも担う。それまでお約束ごととされていたものに疑問を呈し、それとは違う法則や常識を流し込んでぶつけ合わせ、意図的な破綻をもたらすことによって、使い古された手法の再定義をはかる。/周辺から遠巻きに眺めるような視点(ドン・キホーテ式)でそれをやるか、頭上から見下ろすような視点(デウス・エクス・マキナ式)でそれをやるか、あるいは内なる声(トリックスター式)としてそれをやるかは、はたまたそれら全ての手法を入り乱れさせるかによってパロディの行方が定まる。/『スレイヤーズ』や『日帰りクエスト』がファンタジーにおいて頭上から見下ろすような視点によるパロディを行ったのに対し、『撲殺天使』が行おうとしているのは男性向けライトノベルにおける内なる声としてのパロディである。(冲方丁「『撲殺天使ドクロちゃん』論」、http://lanopa.sakura.ne.jp/ubukata/dokuro.html

これはキャラクター(およびプロット)のパロディ論だが、ここで注意したいのは、冲方にとってキャラクター(およびプロット)は、独立して成立するものではなく、キャラクター(およびプロット)からどのような関係をとり(視点)、いかに組織するか(編集)というナレーションの審級と不可分の関係にあるということだ。

いま面白いライトノベルジャンル小説を書いている作家は、以上のようにナレーションの機能・効用を把握しているのではないか。

西尾維新に関しては、詳しくはhttp://d.hatena.ne.jp/sz9/20100221(「語り手とキャラクター タグとしての呼称」)を読んでほしい。西尾の(一人称・ないし焦点人物に寄り添った三人称ナレーターは、キャラクターの会話の背景に退きつつ統制する従来のタイプのナレーションではない。会話のやり取りとシームレスに繋がりながら、キャラクターを活かした演出をしている。西尾のナレーションは、会話に対するツッコミやボケ(ネタの提供)、会話の先読みなどで会話に積極参加するコミュニケーションタイプだからそれも当然のことなわけだが。

くり返せば、彼らにとってナレーションは、メタレベルにあるものではない。他方、従来のナレーション分析は、ナレーション(叙述)をフィクション(物語)に対してメタレベルに設定するものだった。そこでとくに問題となるのは、人称(視点)と時制(時間の編集)である。回想形式で事後的に語るという意味でメタレベルに設定されたナレーションの特性ならではの問題点であるといえる。

そしてこの人称と時制の観点から把握されたナレーションにおいてカギを握る評価軸とは、きわめて認識論的なものだということも注意したい。それはつまり、主客(より主観的な一人称、より客観的な三人称等)であり、真偽(この語りは事実か虚構か)である。

ここで『認知物語論キーワード』(西田谷洋・浜田秀・日高佳紀・日比嘉高、2010年)を取り上げたい。本作は、メタレベルに担保されたナレーションと、それによって運営される物語を前提にした(認識論的・解釈学的な)物語分析・ナレーション分析に限界を見出し、新たに認知科学的なアプローチを導入しようとする、きわめて今日的な試みである。

ただしこの試みも、従来のナレーション分析の圏域にとどまっているということができる。というのも、認知科学の成果を採用したこの試みは、認識論的なカテゴリー(主客・真偽)を知覚感覚の形式レベルに代行させただけともいえるからだ。そこでは、メタレベルの視点(ナレーション)とオブジェクトレベル(物語の構成要素)の関係は安定しないが、むしろその不安定さこそ分析上積極的に肯定され、ゲシュタルト的な反転――触れることは触れられること=主客の一致――が活用されるだろう(物語の構成要素の地と図とかテクストとコンテクストの境界設定に注目する等)。

しかしそれもけっきょく、メタレベルを残存させ、認識論的なカテゴリーが主要な評価軸として生き残ることになるのである。ここで問題になっているのはあくまでも、ナレーションは物語をどのように把握するか――読者はナレーションを通してどのように物語を認識・知覚するか――なのだ。認識(メタレベル)の全能性は否定されていても、主客を分化した上で世界(物語)を掌握するという発想は捨てられていない。振り返れば、このような発想を踏まえた従来の物語・ナレーション分析は、描写(の巧みさや意外性)や認識なり記憶(の不可能性)をしばしば問題にしてきたのだった。

しかし、冲方や西尾といったライトノベルジャンル小説の注目すべき作家は、そのようにナレーションを用いない。彼らにとってのナレーションは、物語(キャラクターとプロット)をいかに運営するかという機能性・効用性の面で積極活用している。

私は以前、こう述べたことがある(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20100221)。ライトノベルのナレーションはしばしば(通常の語りのように)回想の形をとらず、現在形でひたすら語る。それによってメタレベルを形成することなく、キャラクターとプロットの編成を優先させる語りの平面を作り出していると。このこともやはりこれまでの話と関連しているだろう。

今後は、以上のような側面からの物語・ナレーション分析の整理も必要になってくると思う。たとえば、作品ごとに、キャラクターとの関係を認識論的に接する度合いが強いナレーションがあったり、パロディとして接する度合いが強いナレーションがあったりするのである(冲方が論じるようにパロディにもいろいろなタイプがあるわけだが)。

プロットの場合はどうだろうか。たとえば芥川龍之介の『藪の中』。この作品は、チャプターごとにそれぞれのキャラクターに一人称視点で語らせるというナレーションを採用している。このナレーションによって、それぞれの一人称視点の食い違いを露呈させた『藪の中』は、認識(記憶)の再現不可能性を問題にしたと解釈できるが、その一方で、ミステリプロットのサスペンス効果のために一人称のマルチ視点を採用したというナレーションの機能面から説明することも可能なのである。

まとめよう。現在注目すべきライトノベルジャンル小説の――とくに両方に関わって活躍している――作家が試みていることは、単にナレーションにしたがって物語(キャラクターとプロット)を構成するというものではない。また、キャラクターを自律・突出させて物語のための他の要素(プロットとナレーション)を無視なり抑圧なりしているわけでもない。

彼らは、物語の構成要素――キャラクター・プロット・ナレーション――をより適切に関わらせ機能させるために、作品ごとに調整を行っているのである。たとえば、キャラクターを活かすためには、キャラクターのデータベースをひたすらいじっていればいいわけではない。他の構成要素、ナレーションやプロット等の活用を通してキャラクターは活きてくる。ナレーションを活かすのも、プロットを活かすのもこれと同じことがいえる。

キャラクターもプロットもナレーションも魅力的に機能させている彼らの物語運営法を見本にして、私たちは、ナレーションの概念を変え、物語・ナレーション分析をいまいちど見直さねばならないだろう。

この続きは、近いうちに発表することになっている冲方丁論にて披露するのでどうぞよろしく。