感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

非私小説的彼依存型私語り自動生成機械、またの名をオートフィクション

蛇にピアス (集英社文庫)

蛇にピアス (集英社文庫)

アッシュベイビー (集英社文庫)

アッシュベイビー (集英社文庫)

デビュー以来、金原ひとみは、「私」の意識(精神)と身体を垂直的な関係に置いてしばしば物語にドライブをかけてきた。より厳密に言えば、反省的主体としての意識なり精神を「抑圧するもの」、身体的側面――身体の各部位、行動の結果などを含む――を「抑圧されたもの」という関係に置き、この抑圧被抑圧の相互関係によって物語を駆動したというわけだ。
身体が何かをやらかせば、意識が悩むなり突っ込むなり依存するなりして各種の抑圧機制を働かせ、逆にその機制をかいくぐって何かを身体がやらかす(抑圧されたものの回帰)、という相互関係。それが、ピアッシングはじめ人体改造(『蛇にピアス』)に結実したり、摂食障害、過剰な他者依存・セックス依存症といったテーマ(『アッシュベイビー』など)として現われたり、アブノーマルな「錯文」記述という形で叙述上にとどめられたり(『AMEBIC』)したのであった。
AMEBIC (集英社文庫)

AMEBIC (集英社文庫)

オートフィクション

オートフィクション

3作目『AMEBIC』は、この「私」の意識と身体の、しばしば依存しあう相互関係を徹底させ、身体を否定的媒介にして自己意識が無限後背的な悪循環に陥る様を描いたのだった。しかしそれと同時に、その悪循環を断ち切って意識を解放し、自己に囚われない方向付けが明確になされてもいたのである。
その切断と解放の契機として導入されたのが(「私」に対する)「彼」であり、その「彼」の視線・幻影であったことは、以前の金原レヴューで述べた通りである(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20050812)。私の彼がとらえた幻影を受け入れることによって、私は私の自己意識の悪循環を断ち切り、以降、私の「アミービック」な多数化が目指される、と。
そしてこのような物語の変容は、語り口の変化と並行していたことは注記しておいていいだろう。2作目『アッシュベイビー』までは比較的個性のない、自然主義的な対象描写にのっとったオーソドックスな語り口だったが、『AMEBIC』以降、一人称語り手の饒舌体*1によって物語は組織される。身体の重力から解放された意識が感情のおもむくまま自在に語りの線を延ばしていく、といった趣きがそこにはある。
ただし、ここで注意しておきたいのは、現在の金原は、単純な「私」(自己意識)の解離・多重化の線(『AMEBIC』−『オートフィクション』)にも警戒し、物語の主要なトピックとしては採用しなくなったということだ。
たとえば、「私」の22才の冬、18才の夏、16才の夏、15才の冬と自伝的に「私」の変遷を断片的に書き繋ぐ『オートフィクション』は、私の彼の秘密や自分自身の不甲斐なさに怯えてそのたびに酒や音楽のトランス状態に陥り、自己解離を積極的に促す「私」の話である。「しかし何故小林の依頼を受けてしまったのか、自分でも理解し難い。きっと、文章を書く時の私とは違う私、恐らく酔っぱらった拍子か何かに出てきた私が、私の事じゃないから、などと思い適当にいいですよ書きますよ、と答えてしまったに違いない」(44頁)。「私は、自分を知るのが嫌だ。数億もの私、それを一人一人理解し認識し受け入れていくなどという行為は、拷問に等しい。独り相撲や、自嘲や、一人芝居、などとも等しい」(36頁)。ここにもあの、抑圧すべき身体的なものが意識されていることは見やすいだろう。
ならば、垂直的な抑圧でもなく、水平上の多数解離でもない可能性を、金原はどこに見出しているか。もちろんそれは、私が「彼」の視線・幻影を受け入れることにこそあり、『AMEBIC』以降、「私」の多数化をはかりながら「私」にとっての「彼」を積極的に取り入れはじめた金原の最近作二作は、それによって物語/私語りにドライブをかけることを全面展開させることになる。そしてその試みはやはり、「私」の自己意識――私はどうあるべきか?――の悪循環のためではなく、「私」の多数化のためになされるものだろう。
ハイドラ

ハイドラ

星へ落ちる

星へ落ちる

それはしかし、くり返せば、「私」の解離的多数化――見たくないトラウマチックな自己を軸にした――ではない。これは『AMEBIC』−『オートフィクション』を通して切り落としてきた否定神学的な多数性であり、強靭な自己を隠し持っているものだ。そうではなく、繋がることからもたらされる多数性が重要であり、そのために金原ひとみの「私」は「彼」を必要としたのだった。
ラカン精神分析家の斉藤環氏は、ラカンのいわゆる「他者の欲望」理論を念頭に置きながら、金原の「私」に関して、過激なまでに献身的な受動性でもって「彼」の欲望を汲み取ろうとする関係性志向を読み取っている(「関係の化学としての文学」、「新潮」2007年2月号)。
金原の「私」には、自己実現(承認欲求を満たす)のための「他者の欲望」といった神経症的な回路がまったく通用しない。そんな「私」の、他者ならぬ「彼」の欲望に向かう過激さは、斉藤氏の指摘通り、彼の意思なり命令を先行的・予期的に想像し(彼が本当にそれを望んでいるかは分からないし、それでもかまわない…)、それにしたがって、絶望的に報われない叙述と行為をくり返す各挿話に顕著である(とくに『ハイドラ』では当の彼はほとんど現われず、私にとっての超自我的な審級をほしいままにする)。
斉藤氏はここから、金原の関係性志向を読み取り、私と彼のいわばメルロ=ポンティ的な相互受肉関係(私の受動性は彼の受動性によって折り返される)にまで敷衍する。恐らく理論的水準を引き伸ばせばそこまで見えてくるくらいの、構造上の緻密さが金原の作品にはあるだろうが、ここでは、「私の彼の欲望に関わる過激さ」が分かればとりあえず十分だろう。
つまり、「私」の「彼」への欲望=関係性志向と短絡するのではなく、この「私」の過激さがどのような関係性を「彼」とはぐくむかを問うべきである。
そう。まずもって注意すべきは、関係性云々よりも、むしろ、思う側(「私」)とはあまりにも非対称的な、思われる側の存在(「彼」)の希薄さの方である。それほど「私」の「彼」への志向性は過激であり、それは次作『星へ落ちる』にも顕著である。
そしてここでは、その志向性を軸にしたままより複雑化し、「彼」の欲望を想像し欲望する「私」が、都合で三分割されることになる。より厳密に言えば、まず「彼」の欲望を欲望する「私」がいて、次にその「私」とは恋敵関係にあって「彼」の欲望を欲望する「私」がいて、さらに最初の「私」(の「彼女」)の欲望を欲望する「私」がいて、すなわちこれら三人の「私」が、自分が語る主体になるたびに――それぞれ一章が与えられているわけだが――「彼(女)」の視線を意識し、欲望に向けて過激な私語りを開陳するのである。
そこでは、欲望の実現はむしろ関係性の失調、繋がりの解消であり、忌避されるべきものでさえある。だから『ハイドラ』ではもう一人の「彼」を必要としたし、『星へ落ちる』では複数の「私」と「彼」の関係をからませた。
重要なのは、「私」が多数であることを実現し示すために、金原は「彼」の視線を意識し、欲望を導入し、過激なまでに引き受ける戦略を立てたということである。金原の「私」はある作品は「彼」1の「私」となり、ある作品では「彼」2の「私」となる(以下略)。もちろん「彼」1の「私」と「彼」2の「私」は別の「私」だ。そしてこの「私」を複数化し、一作品に折り畳めば『星へ落ちる』のような、「彼」に向けて互いに互いを食い合うアミービックな「私」の競演となるだろう。
これは金原にとっては否定的媒介を必要としない(「私」の)多数化の一可能性であり、肯定的なものである。たとえば『ハイドラ』は、「噛み吐き」という摂食障害で心身を酷使するが、それは抑圧機制としての側面よりも、あくまでも彼の欲望にみずから率先して(むろん見返りも求めず)準拠したものとして肯定的に描出されている。
そう。デビュー以来、一作ごとに意識と身体の否定性を介した相互関係を切り離すための訓練を積んできた金原だが(その最たる契機が「錯文」に続く「彼」の視線の導入だった)、最新作『星へ落ちる』においては、「彼」に向かう(落ちる)「私」の意識=叙述をおりにふれ調律するためのささやかな機能としてしか身体(摂食障害睡眠障害リスカ)は呼び出されない。もはや身体は、何らかの抑圧機制の症候としても、否定的な媒介としても位置付けられていないようなのである。

大丈夫だよ、短く答えると、若干の嫌悪が感じ取れたのか、彼は良かった、と微笑んでテーブルから離れた。カリ、カリ、という音をたてながら胡瓜を齧り、ボリ、ボリ、という音をたてながら人参を噛み砕いた。セロリを食べると、口の中に筋が残った。いびつに紡がれた糸のようなそれを舌に載せて、指で取ると灰皿に捨てた。吸殻と灰の中に糸が一本。じっと見ていると、意味がない事に気づいて視線を逸らした。それでも、意味のあるものなど一つも目に入らなかった。(13頁)
スーパーで買ってきたお惣菜を開け、買ったばかりの箸で口へ運ぶ。レンジも買わなきゃ。そう思いながら、冷めて固くなっているとんかつを咀嚼する。二切れだけ食べて、油が切れていないためかお腹が気持ち悪くなり、パックを床に置いて蓋を閉めた。テーブルがないため、コートの上に寝そべって床に置いたパソコンを起動させる。(中略)彼にメールを送ろうと、邪魔にもならず、返信を強要しない内容を考える。彼は今、忙しい。焦らせたり、困らせたりしてはいけない。(73頁)
彼がそろそろ帰って来るかもしれない。出迎えにも、身支度が必要。それは苦ではない。夕食を作る必要がない分、浮いた時間を費やせばいい。煙草に火を付けると、冷蔵庫に残っていた生ハムとチーズを食べる。お風呂で磨いたばかりの歯に、チーズがこびりついてしょうがない。/電話は鳴らない。彼は帰る時に電話をする男ではない。(116頁)
夜の十時、お腹が空いて冷蔵庫を漁る。めぼしい物がない事に気が付いて、身支度をしてコンビニへ行くと、おにぎりを二個と飲み物を買って帰宅する。/コンビニのおにぎりはぼそぼそしている。お米がお米じゃないようで、お米じゃないものがお米を演じているように感じられて、あるいはお米がお米を演じているように感じられて吐き気がする。粘土なんじゃないか。猜疑心を捨てられずご飯粒を一粒、親指と人差し指で練る。べたりと潰れたそれは、気持ち悪いくらい青白い。食べかけのおにぎりをぐしゃりと潰すと、中の具だけを食べて残りをゴミ箱に放った。もう一つのおにぎりも、具だけを食べて捨てた。/夜十二時。きっと彼はまだ帰って来ない。(118頁)
久しぶりに仕事をするのだと気力が湧いたけれど、ほんの二時間もするとお腹が空いて集中力がなくなった。病院の帰りに買ったカップラーメンを作ると、お箸を割る。口に中に広がった味に、顔が歪む。今時こんなまずカップラーメンがあるだなんてと憤慨しかけた瞬間、入れ忘れていた粉末スープの素を見つけて、それを加え混ぜた。少し味の濃くなったカップラーメンを三分の一ほど食べると、またデスクに向かって仕事を始める。彼は今日、接待だと言っていた。早くて深夜二時。遅くて深夜四時。あるいは朝五時。接待、あるいは元恋人との食事、あるいは浮気。(123頁)
月曜日も彼は忙しい。キスをして送り出すと、私はまた呆ける。(中略)お買い物は諦めて、またコンビニでカップラーメンを買って来て、三分の一を食べて残りを捨てる。化粧をしようと、顔だけ洗おうか、シャワーを浴びようか考えつつ、煙草を吸いながら服を脱ぎながらお風呂場に向かった。真っ裸になった体に浴びるお湯はぬるくて、煙草の火を気にしながら、給湯温度を四十二度に上げた。彼は、熱いお湯が苦手。それから猫舌でもある。思い出しながら、微笑んでいる自分に気がつく。ぐるりと一周して、体を温める。お湯に消される事なく煙草を吸いきると、灰皿代わりにしているハイネケンの瓶に煙草を捨て、バスタブに腰掛けた。頭を垂れてシャワーを浴び始めた時、不意に今彼が私を裏切っているんじゃないかと思い始める。(中略)吐き気がこみ上げて、俯いたままの格好でラーメンを吐き出した。ずるずると、ほとんど噛まずに飲んでいた麺が口から勢いよく吐き出されていくのをスローモーションで見つめながら思う。私はどうしてこんなに彼が好きなんだろう。(128頁)
久しぶりに彼と外に出て、近くのイタリアンレストランに入って、一緒にお酒を飲む。(中略)私と彼の関係が浮気だった頃は、あの人が私の影に怯えていたのに彼があの人の元を去ってからは、私があの人の影に怯えている。顔を上げようとした瞬間、私はまたイタリア料理を吐き出した。何度もこみ上げる吐き気に身を委ねて、パスタもピザもサラダも吐き出す。洗面台に溜まった吐瀉物に、また吐瀉物が落ちて、顔に吐瀉物が跳ね返る。泣きながら吐き続けて、私は思う。私はいつからこんなに惨めな生き物になってしまったんだろう。栓を抜いて、押さえている指の隙間から、詰まらないように少しずつ吐瀉物を流しながら思う。彼が好きになってからだ。(132-3頁)

この身体が感動的なのは、意識に対して否定的にも肯定的にも作用しないところで、それでもなおくり返し意識=叙述に関わり続けるところである。ほぼ無意味だが、喫煙や飲酒ほど自動化されることなく、それ相応に対象化される程度に意味あるものとして関わり続ける各身体部位。
金原にとっての逸脱した身体は、精神疾患の症候といったものではもはやなく、大小の振幅はあるものの、「彼」に向けた「私」の意識=叙述をそのつど調律する調整弁*2のようなもの――ときにメッセージをのせたコミュニケーション・ツールにもなりうる――として機能しているのではないか。少なくとも、金原の作品にとどめられた逸脱した身体に関して、その症候や境遇を読み取り、言い当てることほどばかげた行為はあるまい。
金原的「私」の意識と身体のアンサンブルは「彼」のことを思いながらそうやって日々をやり過ごし、私の物語を書き繋ぐ。しかしそれは私のための物語ではなく、むろん彼のためでもない。私になるための物語である。
むろんそこには目指される「私」のイデアがあるわけではない。「彼」の欲望も「私」にとっていかなる里程標にもならない。だから「私」は「彼」の視線を献身的にうかがい、欲望を執拗に想像するなかで、自分が人間とは違った、それ以上還元できないほど無意味な生き物――細胞分裂をくり返すアメーバ、食っては吐き出すヒドラ、逃げるか潰されるかのコックローチドリーム…――に変容していく様を思い描くのであり、「私」はそれに不安ながら魅惑されているのだった。
金原ひとみの「私」はそのような生き物としてひたすら「彼」――「彼」1「彼」2「彼」3…――に関わり続けるだろう。このとき「私」の多数性なるものは、『AMEBIC』−『オートフィクション』が躊躇しつつ目指したような、多孔的に環境(彼ら)と繋がる(解離的リベラリズム)というよりも、「彼」以外との関係を遮断しつつ内密な関係を形成しては(「彼」との関係は成就しない)、ふとしたきっかけで別の「彼」へ切り結ばれる――「落ちる」――余地(期待)を開いたものになるはずだ*3
これまでの意外に多産な彼女のキャリアは、この非私小説的彼依存型私語り自動生成機械あってこそなのである*4

*1:『AMEBIC』でのドラスティックな変更(詩的「錯文」の導入と、それを散文全体に溶け込ませる作業)以降、金原は一作ごとに語り口をマイナーチェンジしており、たとえば、一人ボケツッコミを交えて軽快な語り口を駆使した『オートフィクション』あたりでは舞城王太郎の饒舌体を部分的に思わせはしたが、最近2作の『ハイドラ』『星へ落ちる』にいたって金原的と形容していいほどの達成を見せている。

*2:「彼」と「私」を繋ぐ、「彼」へと「私」を繋ぐ工学的調整弁。ここで僕は、金原の身体をめぐる叙述を、古川日出男の地図作成術と重ね合わせている(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20080223)。むろん金原の逸脱した身体(記法)に対して「工学的」と形容するのは一抹はばかられるところがあるが、少なくとも、そのように機能している側面があり、その側面と、従来の解釈の通り、人文的・精神分析学的に解釈できる側面もあるだろう。

*3:「もうずっと、ここに帰ってくる途中から、いや、松木さんの部屋を出た時から、いや、あのお風呂場でワインを吐き出している時から、私は松木さんの隣で眠りにつきたいという気持ちでいっぱいで、それでも私はここに戻ってきた。私はきっとまた、本能的に布石をした。新崎さんはきっと、私が噛み吐きをしていると知っても、私が太るのを恐れてまともに食事すらとれないと知っても、私があんな気持ち悪い怪物になっていると知っても、傷つかない、何とも思わない、気持ち悪いとも思わない、唯一の人間だ。いつも食べ物を隠し続けてきたけれど、それは噛み吐きを新崎さんのせいにするためと、どこかで知っていた。新崎さんはそういう私を受け入れるでもなく、愛するでもなく、ただ私を私でいさせてくれる唯一の人間だ。分かっているもう二度と、私は松木さんの元に戻れない。でもちょっとした何かが、例えば私のデスクに置いてある依頼書か何かであろう一枚のプリントが、エアコンの風によってはらりと床に落ちたり、そういうひょんなことが起こったとしたら今すぐ立ち上がって松木さんのマンションへ駆け出すだろうと分かっていた。(中略)ワインを吐いて、服を着て、鍵もかけずに松木さんのマンションを出て、一時間半かけてここまで歩いて帰って来て、そして私は松木さんに会いたがっている。矛盾しているけど、矛盾している私にとっては普通の、当然のこととも言える。」(『ハイドラ』133−4頁)「浮気は、現在進行中の彼氏に嫌気がさした時や不満がある時にしか起こらない現象だと思っていた。でもその時ばかりは、私は彼氏に何の不満も持っていなかった。付き合い始めてから三年近く経っても大好きで仕方なくて、こんな男がいるんだとびっくりするくらい子供のように無邪気で純粋で、こんな男を見つけられた私は幸せ者で、一生この人と幸せに生きていくんだろうと思っていた。そんな彼と暮らし始めて、私はそれまでの荒んでいた自分の生活も態度も改めたし、彼に相応しい女になりたいと思って、毎日ご飯を作り彼の健康に気を遣い彼の家族とも彼の同僚とも仲良くやり、家事も人付き合いもそつなくこなした。そんな、何一つ文句のない幸せな生活を三年続けた後、私は他の男を好きになった。出会った瞬間に動揺したのは、この人とは何かが起こるという、予感のためだった。」(『星へ落ちる』110−111頁)

*4:彼女と比すべきは、同時に芥川賞をとった綿矢りさの非継続ぶりだろう。彼女はキャラ設定と物語設定に対する愛着とそれに見合う技術がありながら、文体や語り口など瑣末なところにこだわるところがあって、いわばエンターテイメントと純文学の欲望に引き裂かれている、きわめて純文学的な資質に身動きが取れないでいるようだ。学校の教室内の自分のポジショニングにひどく気を遣っている(もちろん『蹴りたい背中』)ような空気を彼女のキャリアから感じてしまうのであり、主要三作の繋がりがほとんど見えてこないのもそんなところに理由があるはずだ。もちろん一作一作が面白ければいいんだけれど、綿矢りさ(という作品)を読む快楽がないというのは、文学読みとしてはとても切ない。それに対して金原ひとみや、あるいは古川日出男のように、何かもう「これだ」と決めてしまえば、KYなど糞食らえ、ひたすらそれに準拠して書ききってしまえる潔さというか横暴さは良くも悪くも目立つ。でも金原や古川のような作家の作品を読む時だってあるとき不意に何かに襲われることがあるんだよね(もちろん僕は文学のロマンチストです)。