雑草という名前の草は無い「16人のプリンシパルtoris」


6/5・8回目公演
念願かなって16人のプリンシパルtorisも観に行くことができたのですが、書きたいことが山のようにあるのに、お芝居ではよくある公演アンケートが配布されなかったので、代わりにここに書かせていただきます。こちらは評論というより個人的な感想を中心に述べたいと思います。
初見なのと事前知識をあまり入れていなかったのと席が遠かったのと直前に鑑賞したパルコ公演の映像がとても良すぎたので、やや辛口評価となると思いますが、ご了承ください。


16人のプリンシパル(パルコ公演)とtorisの違い
キャスティング参加型演劇システムは、過去の教訓を受けて大幅に進化した。オーディションパートである第1幕では、メンバーは、第2幕で上演される劇の配役16のうち10の役の中から自分が演じたい役に立候補し、同じ役に立候補した者と短いコントを演じ、そこでの活躍が審査の対象となる。
そこで選ばれなくても、全体の集計の結果多くの票を集めた上位6名が敗者復活枠として残りの6役に選ばれる。
つまり、参加者の持つ票数は、役の分の10票、加えて最も面白かったメンバーを選ぶ「クィーンオブコント」の一票で合計11票が与えられる。
「クィーンオブコント」枠の票は、各役が同票の際の判断基準として用いられるのみで、終演後に発表されたりすることは特にない。


deuxからこのシステムを採用したことにより、今まで不遇だったメンバーにもチャンスの幅が広がった。
パルコの時はより多くの人にとっての「一位」を目指して他の29人と対決しなければならなかったが、今回は立候補したメンバーとだけ競えばいいし、「与えられた役を全うできるか」「立候補している役に相応しいか」といった明確な判断基準がある。
実際、パルコ公演の時は「一度も役に選ばれなかったメンバー」を何人か残す結果になってしまったが、この方式をとったdeuxでは、最終的にすべてのメンバーが一度は第2幕に立った。
メンバーが頑張るべき方向性が明確だし、全ての役が毎回入れ替わるので公演ごとに違った仕上がりを楽しめる、ファンにもメンバーにもやさしいシステムだ。


やさしさとはなんなんだろう?
だが、総合的に評すると、この優しいシステムが作り出す心の「ゆとり」が、出演者たちの緊張感をゆるめ、本来の「お芝居をやっている」という部分をもしかしたら軽んじさせてしまってはいなかっただろうか?
コントもお芝居であるという基本を忘れ、笑いを取りに行く方向にだけ走ってはいなかっただろうか?
「アイドルのショウなんだから、演技力がどうとかよりも推しメンが生き生きと活躍していればそれでいいだろ」という意見もあるだろうが、それではわざわざ演劇の公演という形でやる意義が無い。
ただファンが喜ぶだけ催しをやりたいなら、その分もっとたくさん握手会をやればいいだけの話だ。


第1幕 この子たちは一体何をやっているんだ?
第1幕は、第2幕での主人公「ポリン姫」のオーディションから順番に進んでいく。
この日ポリン姫に立候補したのは、伊藤万理華井上小百合衛藤美彩川村真洋の4人だった。
立候補したメンバーの人数に応じて、オーディションに使用されるコントの台本がくじ引きで決まる。
コント台本は十数種類用意されているが、メンバーはその台本を持ってコントを演じることができる。
メンバーは台本を手にしてから自分たちで話し合って配役を選ぶことができる。
選ばれたコントは「取り調べ」というタイトルだった。
さて始まってみてビックリした。
伊藤万理華が取り調べを受ける犯人役で、他の3人が尋問する担当者だというのは分かったのだが……彼女たちが何をしゃべっているのか、何を目的として話が進んでいるのかてんで分からないのだ!
これは私が2階席で初見だったからからというだけではないだろう。
みな「誰か」のモノマネをしていて、それで何を言っているかよく聞き取れないのだ。
さらにその元ネタのキャラクターを作ることに精いっぱいなのか、おそらくシチュエーションと人物の感情が全く一致していない(っぽい)ので、奇抜さのアピール大会になってしまっていてしかもこれが全く面白くないという、普通のお芝居やお笑いのライブだったら地獄絵図でしかないような有り様だった。
ファミ通クロスレビューなら6点で「ファンなら」と付け足されて終わるような内容だった。
私はあまり事前知識を入れていなかったので、台本に「○○のモノマネをしながら」という指定が入っていたのならそれもしょうがないのかなと思ったけども、そうでないのならこれはひどかったとしか評価できない。
「コント」というと笑いを起こすことが第一だと思われがちだが、根幹は「お芝居」であることは変わらない。
ただ面白くセリフを言ったり、面白く動いたりすればいいというわけではない。
役になりきり、共演者としっかりキャッチボールしていく中から空間そのものを作るのが「演じる」ということである。
それによって初めて「お芝居」になる。
欲を言えばここに「観客の反応をさぐりながら」も加わる。
その基本をすっ飛ばして上手くもないモノマネ大会を始められてしまっては、もう観ていられない。
演技力や技術のつたない劇を指して「学芸会」と言うのなら、これはその学芸会ですらないそれ以下の空間だった。
これを評価しろというのは酷な話だ。
長い日程で行われている劇団の公演とかでは、よく、「一度ウケてしまったネタで味をしめて、以後の回ではみんながどんどんそれをやり、最終的に進化しすぎて初見には理解不能」みたいな一種の局地的な「流行」が起きるケースがあるが、アレが吹き荒れていたのかもしれない。
ポリン役には、結構迷ったが、唯一犯人らしいキャラを演じていた伊藤万理華さんに投票した。
こんな調子で第1幕は終始モノマネ大会を見せられた感が強かった。
ただ、その中にあっても、秋元真夏白石麻衣高山一実松村沙友理といったバラエティでも活躍しているメンバーは、キャラクターだけでなくセリフのキャッチボールも達者で、ちゃんと場面として成立させようという姿勢で臨んでいるように見えた。
特に、生田絵梨花は、これと言ったキャラクターを足していたわけでもないのに、まるで最初からその役をずっと練習してきていたかのように役を自分のモノにしていて、かつ、その場面の空気を制していた。
これはなかなかできない事だ。
彼女のコントだけでも、全公演分観たいと思った。


「仲が良い」と「チームワーク」の間に横たわる大きな溝
アイドルグループの中でも「仲が良い」と定評のある乃木坂46だが、その「仲の良さ」が舞台の上ではほとんど何の役にも立っていなかったように感じる。
普段の仲の良さそれ自体は決して悪いことではないが、今回に関しては「舞台を面白く盛り上げる」(それ以前に「舞台を成立させる」)方向には働いていなかったと感じた。
メンバーがモノマネを始めてもそこに敢えて絡むようなメンバーは少なかったし、モノマネする方はする方でやりっぱなしだったりして、そこに「舞台を成り立たせる」という共同作業に取り組んでいるという感覚は共有されていなかったように感じた。
やったらやりっぱなしで、客に流してもらってたというのが率直な印象だった。
では舞台上で強みになる「仲の良さ」とは何か。
それは、内輪のネタで相手や客をいじることでも、一発芸を披露するメンバーに遠慮することでも、セリフが飛んだ共演者に耳打ちでセリフを伝えることでもない。
そういうイレギュラーも乗り越えてちゃんとしたワンシーンとして成り立たせられる「チームワーク」を発揮することだ。
今回はこれが「舞台を成り立たせる」方向に働いているかで言えば、Noだった。
「仲の良さ」が「守り」の方向に働いていたと感じた場面が非常に多かった。
残念な限りである。
前述もしたが、逆にそういった「芝居を成り立たせる」方向に意識の働いているメンバーの割合が多いコントは、安心して見られたし面白かった。


そんなこんなで公演を3回観て
6/5(8回目)、6/12(17回目)、6/13(18回目)、と観て来たわけだが、ここまでくると「モノマネお遊戯大会」を制して役をゲットする人の傾向が見えてくる。
まず、圧倒的な演技力でモノマネに頼ることなく、役になりきるどころかどの役を割り当てられても主役になってしまう生田絵梨花
モノマネに走らず正攻法で臨んでいる(ことが多い気がした)生駒里奈伊藤万理華衛藤美彩斎藤ちはる白石麻衣新内眞衣高山一実深川麻衣若月佑美らは、高い確率で役をゲットしているが、手堅い半面、生田絵梨花の前ではたちまち「名脇役」になってしまったり、突発的にモノマネがヒットしたり、イレギュラーが発生した時、そこに生まれた「流れ」に対応しきれず飲まれてしまう弱みを感じた。
対戦相手がモノマネでスベって自爆してくれることが多い今回の公演では、幸運に恵まれるケースも多かったのだと思う。
一方で、モノマネでコントを制している人物もいる。能條愛未がその最たるものだが、これは彼女に演技の地力があることや、モノマネそのものの完成度が高いこと、演じつつ、且つちゃんと自分の演技で場面を成立させていることが合格につながっている。
それとはまた別に、演技力でも技術でもない独特の武器でコントを制する者もいる。
橋本奈々未だ。
彼女の武器は、演技力や技術だけではない。
「存在感」だ。
周りがどんなメンバーであろうと、どんなシチュエーションであろうと、彼女のセリフ回し、絶妙な間の使い方が、彼女の存在を埋もれさせることはない。


ではこういった実力派たちを相手に、もともと演技が苦手なメンバーたちはどう立ち向かうべきだったのか?
結論から言えば、まず一か八かのモノマネや一発ギャグを披露するのは「全財産を宝くじに突っ込む」ようなハイリスクローリターンなギャンブルで、奇跡でも起こらない限りそれで勝つのは無理だ。
まぁ素人の集まりだからそういう奇跡が起きやすいというのは間違いないが……その無謀すぎるチャレンジ精神で軽々突破できるほど、乃木坂46の層は薄くない。
慣れない変化球で挑んでも、カンタンに打たれる上に肘を痛めるのは目に見えている。
逆説的だが、ここで優先すべきは「笑い」を取りに行くことではなく、しっかりと台本に書かれている物語の成立に努めることである。
なぜなら、台本にさえ従っていれば、自分でキャラクターを作るまでもなく面白い人物になれるし、自分でネタを入れなくても最初からネタが入ってるし、笑いを取りに行かなくてもお客さんを笑わせられるように書かれているのだ。
正直なところ、モノマネなんかやる前に、まずはそこに徹して欲しかった。
初見のときは、とにかくそこばかり気になったし、案の定モノマネをするメンバーの合格率は低かったし、とにかく「なんで演出家はモノマネをやめさせないんだ」と何度呪ったことだろう。
注意してやめさせないと、メンバーは恥をどんどん重ねるだけなのに……と。
先日(13日)の公演で言えば、斉藤優里が「13日の金曜日」という圧倒的な追い風が吹いていたにもかかわらず選ばれなかったのも、コントの最中に高山一実のモノマネに走ってしまったというのが小さくない要因としてあったと思う。
なぜ隣に高山一実が居るのに本人のモノマネに挑んでしまったのだろうか。
毎週月曜の3時間生放送FMラジオで君は何を学んでいたんだ。
台本通りにやっても勝手に外れて行ってしまう先の読めなさが斉藤優里の面白い所だし、深川と高山なら例えどうなってもきっとそれを拾って成立させてくれていただろうに。
公演では、こうした「モノマネブーム」が少なくないメンバーの自爆を誘発してた。


ただ、やはり第一幕での振る舞いに関しては、「メンバーの自主性」が尊重されている部分でもあるのだろうし、なにより役に選ばれていないという結果が彼女たちにとって壁として立ちはだかっていただろうから、そこは自分で気づいて自分で殻を破らなければならなかったのだろう。
そして、何も指導されていないであろうからこそ伝わってくる「選ばれない者の葛藤」や「試行錯誤の痕跡」が見えることが、この公演のもう一つの楽しみ方を生みだしている。
そしてさらにこの放任とも取れる体制は、時として我々にメンバーの「殻を破る瞬間」を目撃させてくれる。
同じく13日の公演での中元日芽香のコントがそうだった。
中元はこれまでの公演の中で、一度も自分が立候補した役に選ばれていなかった。
「激戦区」と言われる立候補者が多い役に挑むことが多かったし、少ない時でも絶対王者生田絵梨花と当たったりする不運ぶりだった。
しかしながら思い返せば、そういった不幸な偶然に見舞われながらも、決定打に欠けていたという自覚は彼女の中にもあったのではないだろうか。
この日キャサリン役に立候補したのは中元の他には斎藤ちはるただ一人。
激戦区は免れたが、斎藤は安定した演技で今回のプリンシパルで頭角を現してきた手ごわい相手だ。
選ばれたコントは「タクシー」。
ボケ役の運転手を取れば笑いは取りやすいが、ツッコミ役の客となってテンポを操れれば、それはすなわちコントを制する事になる。
話し合いの末、運転手役になった中元は、一体どのようにこの役に挑んだのか。
台本通りのキャラか? あるいはモノマネか?
いや、なんと中元は、乃木坂46の妹系アイドル「ひめたん」本人として運転席についたのである!
なんということだ。
台本ではオッサンが運転するはずだったタクシーが、コント開始と同時に「ひめたんタクシー」になってしまったではないか!
当たり前の話なのだが、タクシーを運転する中元は何もかも「ひめたん」だった。
終始一貫して「ひめたん」だった。
さすがの斎藤ちはるも彼女の勢いに押されるままだった。
これは一見すると誰かのモノマネをするよりも簡単なキャラ付けの戦略にも感じられるが、カンペキな台本で何度も稽古して来たんじゃないかと思えるほどのブレの無さには、逆に鬼気迫るものすらあった。
思うに――これまでずっと激戦区で涙を飲んできたところに舞い込んできた一騎打ち。しかしながら相手は手ごわい――そんな壁を前にして、彼女の覚悟が固まったのだろう。
中元は「ひめたん」を演じ抜いた。
この日、一番輝いていたのは間違いなく「ひめたん」だった。
この日限りのまぐれ当たりだったかも知れないが、この時中元が自ら「ひめたん」を演じたことは、きっとこれからの彼女の中で大きな糧として残り続けるだろう。
こういうブレイクスルーに出会えるかも知れないので、プリンシパルはやめられない。


比較的苦戦を強いられているっぽい畠中清羅川後陽菜大和里菜あたりにも、残りの公演でその瞬間が訪れるのかも知れない。
そう思うと、チケットが取れなかったことが悔しい。
特に、ルイーダ役に何度も挑み続けては敗れている星野みなみなんかは、もうそろそろ来てもいい頃ではないだろうか。
彼女自身は冷酷無比な女王とは似ても似つかないキャラクターだが、そのギャップゆえにハマる気がするし、単純に見てみたい。
なにより、一見、全く執着心の無さそうな星野が、敗れても敗れても挑み続けているというのが興味深い。
普通ならどこかで折れそうだし、実際に松井玲奈と一幕で当たった時は、コントの途中で負けを確信してしまったのか終盤から崩れてしまっていたようにも見えた。
だが二幕ではそのなかなか選ばれないことを「私このセリフ五回目だし」と自虐ネタに変える逞しさを見せていた。
彼女もまた成長している。
私も初見の時は「この役に星野は向いてないだろ」と思ったが、改めて想像してみると、「ルイーダ役を演じる星野」ほどあの芝居の中で立つキャラクターは他に無いようにすら思えてくる。
もしかしたら星野には、役の呼ぶ声が聞こえているのかもしれない。
買いかぶりすぎか?
あと、二期生の中では山粼怜奈という研究生に素質を感じた。
乃木どこ初登場回で「独裁者」の演説シーンを再現してバナナマンを圧倒していたのは伊達じゃなかった。
先輩に対する遠慮を無くし、セリフが平坦になりがちな所を克服できれば、来年のプリンシパルでは大活躍しているだろう。


ともかくも、なかなか全部が全部楽しめるとは言い難く、それなりに推しが多かったり箱推しだったり、全メンバーのこれまでの頑張りをブログや公演記録などで把握してないと、初見一回限りの観覧では楽しみにくい公演ではあるけど、生田絵梨花をはじめとした実力派の演技は生で見る価値があるし、思わぬところで笑いが起きるし、回数を重ねるごとにメンバーが成長しているのがハッキリわかるし、今まで知らなかったメンバーの魅力を発見できるし、少しでも乃木坂46に興味があるなら観に行って参加するべきでしょう。
あとは、全部とは言わないけど映像ソフト化して欲しいですよろしくおねがいします。

名もなき若者よ 夢ならここにある 「乃木坂アクトMOVIE 16人のプリンシパル」初日〜3回目までを観て

「16人のプリンシパル」は、乃木坂46が挑んだ初の舞台公演である。


・キャスティング参加型演劇
AKB48の公式ライバルグループという看板を掲げている乃木坂46の企画だけあって、「16人のプリンシパル」単なる演劇を披露するだけの場ではなかった。
公演は3幕構成となっており、それぞれ第1部が「オーディションパート」、第2部が「ミュージカルパート」、第3部が「ライブパート」となっている。
(映像公演である乃木坂アクトMOVIE」ではライブパートの上映は無し)
公演の設定としては、第2部で上演されるミュージカルに出演するためのオーディションに集まった少女たちが、第1部でオーディションを受けるというものになっている。
第1幕では参加メンバー全てが持ち時間1分間の自己PRをそれぞれ行い、それをもとに観客が「最も良かったメンバー」一人に投票し、その結果上位16名だけが次の「ミュージカルパート」に出演できるという、AKB総選挙の乃木坂版とも言える構成になっている。
ただ、AKB48の総選挙と異なる点は、「参加できる観客の上限が限られていること」と「観客は一人に一票しか入れられない」という点である。
この点がメンバーに、ある意味AKB総選挙以上かもしれない過酷さをもたらすのだが、それについては後述する。


・初日・2回目の公演を観て
初日の第1幕、いくつかのダンス審査(全体またはチームでダンスを披露する)をはさみつつ、メンバーの自己PRが行われた。
与えられた1分間で、特技を披露する者、自分について話す者と様々だった。
こういう企画の常だが、「用意して来たモノが上手くいかなかった」とか「話すことを忘れてしまった」といったトラブルがあったり、あるいは用意して来たものを緊張からか駆け足で終わらせてすぐ引っ込む者と様々だった。


就職面接などでよくあるが、実際「自己PRしてください」と言われて戸惑わない人はなかなか居ないと思う。
特技を披露すればいいのか? でも隣の人はそれよりすごい技を持っているかも知れない。
笑わせればいいのか? 素晴らしい話をすればいいのか? 一つの明確な評価基準があるわけではないので、何のためにどう頑張ったらいいのか分からない。
それでも最善を尽くし、より良い評価を得なければならない。
そういう状況に投げ込まれた彼女たちは、一体どう立ち向かえば良かったのか。
一体なにが正解だったのか。


初日は、乃木坂の中でも人気があり、フロントメンバーを務める「生田絵梨花」が1位に選ばれた。
もともとのメディア露出、フロントでの活躍、「歌いながら自己紹介」の奇抜さが奏功したものと思われる。
意外なところでは、デビューシングルからセンターを任されていた生駒里奈が7位、フロントではなかったが独特のキャラクターと喋り方でバラエティ人気のある高山一実白石麻衣橋本奈々未などの人気メンバーを抜いて2位に輝いたことなどがあった。
しかし、今まで選抜/非選抜や選抜内でのポジションといった、やや曖昧な格付けはされていたものの、「明確な順位付け」という事態に晒されたことの無かった乃木坂46のメンバーたちは、喜びよりも戸惑いをあらわにする者の方が多く、特に、上位の者ほどそうだったように見えた。


第2回目の公演は、初回と同日に行われた。
そのためか、自己PRを大きく変えて臨む者は少なく、結果についても上位16人の中での上下はあったが、1回目の出演者と入れ替わったのは、16人のうちわずか2名だけだった。
第2幕は乃木坂46の新曲やAKB48の曲を織り交ぜるなどして歌って踊る華々しい一幕だったが、「ミュージカル」と言いつつセリフはほとんど無く、誰もが知っている曲を何曲か続けて披露するパートだったので、ちょっと拍子抜けしてしまった。
その拍子抜けもあってか、舞台袖や裏で涙を飲んでその様子を眺める非選抜メンバーたちのことを想わずには居られなかった。


・3回目 本当の「プリンシパル」、始まる
3回目の公演は、初日から1日あけて行われた。
前2回とは打って変わって、自己PRの内容を変えてくるメンバーが多かった。
特に、前回まではプロフィール上の一番上に書かれているような「特技」、歌や踊りを披露するメンバーが多かったが、3回目はこれといったパフォーマンスをするわけではなく、スピーチを、それも悲壮感を漂わせる必死さを隠そうともしない者が多かった印象があった。また、感情的になる者が多く、涙を流す者も少なくなかった。これまでの公演の中では一番重たい空気の第1部だった。
涙の理由には、「PRが上手くいかなかった」「前の人のPRが素晴らしすぎて自信が無くなった」「選ばれないかもしれない不安」と様々あっただろうが、やはりこの3回目、初日を終えてからの2日間という時間が、彼女たちにこの「プリンシパル」という企画の残酷さを実感させるに十分だったのだろうと思われる。
また公演が行われなかった前日というのも、握手会があったからで、この時の「ファンとの交流」が、さらに現実を実感させるのに一役買っていたのだと思われる。

審査を委ねられた観客は「自己PR」の部分で判断する人が多いと思うが、彼女たちがこのプリンシパルの舞台でしなければならないことは自己PRだけではない。
全体の構成を覚えなければならないし、少ないがセリフもある。
開幕時、ダンス審査、自己PR、歌唱、休憩時間、それぞれのセクションで、それぞれの立ち位置を覚え、間違えないようにしなければならない。
誰の次に誰が動くとか、30人もいる他の出演者たちの動きもある程度把握していなければならない。
ダンスだってこの公演のために新しく設定された振り付けだ。
第3幕にはライブもやらなければならない。
さらには、第2幕のセリフやポジションは、誰がどの役を担当するか分からないので、全て覚えていなければならない。
たとえその役を一度も任される事が無かったとしても、である。


初日は、言ってみればこれら全てをやり切る事が第一で、彼女たちにとって自己PRの比重はそれほど大きくは無かったのだろう。
だが、初日を終えて初めて気付いたのだろう。
今日までの稽古で積み重ねてきたものが、たった1分の自己PRで吹き飛ばされてしまう事が。
そして、「アンダー」と呼ばれる、いわゆるシングル選抜から漏れたメンバーたちには、上位が選抜メンバーで占められているという現実は、より重くのしかかっていたことだろう。
これについては「座席の数しか用意されていない投票権」「一人に一票」というシステム上、避けられない事態であった。
AKB総選挙であれば、ファンの数やメディア露出が少なくとも、いわゆる「太ヲタ」と呼ばれる傾倒したメンバーへの投資をいとわないファンを引き込めば、多くの票を獲得する事ができる。
また、自分の票を配分できるので、一番好きなメンバーだけでなく、自分の中のランキングで二位以下のメンバーにも差をつけた上で票を分けることが可能だ。
だが「プリンシパル」は、誰かの二推し以下に甘んじていて舞台に立てるほど甘くはなかった。
実際に、私が観た公演の中でも、自己PRが観客に好評でありながら、出演につながっていないメンバーも何人かいた。
伊藤寧々のバク転は良かったと思ったし、川後の田舎トークも笑ったし、畠中の暗記チャレンジなんかは「分んなくなってつい答えを見てしまう」というお茶目な所さえ本人のキャラクターがよく出ていて面白かった。
好きな人には刺さっただろう。
しかしながら、「インパクト」では生田絵梨花が、「面白さ」では高山一実が票をさらっていった。
やはり平均的に多くの人にウケる(つまりは「実力」ということに他ならないわけだが)メンバーが圧倒的に強い。
そしてやはり上位に入るのは、人気のある=もともとのファンの数が多い=メディアの露出が多い=選抜されたメンバーがほとんどであり、アンダーの少女たちは、初めてこの時、一分間ではどうにもできない大きな壁が立ちはだかっていることを目の当たりにしたのだ。
順位を付けられるだけでない、アンダーとして悲しみや苦しみ、同じ境遇を分かち合った仲間と、16人という狭い門の下の方の、さらに狭い枠を奪い合わなければならない彼女たちの重圧はどれほどのものだったのか。
このとてつもなく残酷な現実を前にした戸惑い、焦り、不安、絶望感が、この日の涙の引き金になっていたのだと思う。


もちろん、上位選抜メンバーたちに全く重圧が無かったわけではない。
4回目からは、不動の一位だった生田絵梨花にもそれは降りかかる。
2位以下のメンバーとて油断ならない状況がひたすら続くのだ。
それらについてはガールズルールA盤特典映像DVDに収録ので割愛するが、こちらも非常に良いので是非観てもらいたい。


プリンシパルが遺したもの
プリンシパルのこの投票システムは、反発も多かったのか以後のプリンシパルでは採用されることは無かった。
しかしながら、きわめて強い、ドラスティックなドラマ発生装置として存分に機能していたことは間違いない。
「こんな残酷なショーをいたいけな少女たちに背負わせる必要があるのか」という批判もあるだろうが、残酷であるが故に、またその残酷さの一部に手を貸しているからこそ、観る者の心に深く突き刺さるのだ。
少女たちはここに生きていて、毎日歌や踊りのレッスンやファンとの交流に励み、私生活があり、未来とチャンスが待っている。
そういった背景を感じさせられる存在である生身のアイドルが、生の舞台でやらなければ意味が無いのだ。
そして、その同じ時間と空間で、少女たちの運命を委ねられた一票を手にしてみなければ得られないものがある。
いまここに生きているアイドルと、時間と空間と運命を共有することを最大限に利用したショーが、この「16人のプリンシパル」だったのだ。


・名もなき若者よ 夢ならここにある
第2幕のミュージカルは、選ばれた16人による乃木坂46の「左胸の勇気」を披露して幕となる。
少女たちの葛藤に一瞬だけ触れたあとだと、選ばれた16人だけでなく、努力する人、挑戦する人、頑張る人、全ての人たちを讃える歌に聴こえてくる。


その後、このとき困難の底で「どんな悲しみに出会っても 生きてればなんとかなる」と高らかに歌った少女たちの挑戦がどのように実を結んだのか。
それは、いま現在、「16人のプリンシパルtoris」を生き生きと楽しんでいる少女たちの姿が教えてくれている。
「未来はいつだって 新たなときめきと出会いの場」なのだと。



キミの筆箱にできること……「AKB0048誰かのために定規選抜ジェネレーター」

t-akata2014-01-21


かねてより「こういうの作りてぇなあ」と思ってたヤツをSEやってるお友達に頼んで作っていただきました。
東日本大震災復興支援を目的としたAKB48「誰かのために」プロジェクトのロゴ(総監督高橋みなみデザイン)が「並ぶと人が手を繋いでいるように見える」ことから、
これを使った何か作れるんじゃないかと思って一度定規にしてみたんですが、
「AKBとか0048のファンだったら、どうせなら好きなように並べられるようにしたいじゃないかなぁ」と思い、
画像ソフトとか使ったことのない人にも手軽に作れるようにそういうのを作っていただきました。
公開にあたり、メインキャラクター以外にも支店の方々などを勝手にイラスト化したりしました。
AKB0048に出演しなくとも設定画くらいはあって欲しかった……。
以下、ジェネレーターの遊び方


AKB0048誰かのために定規選抜ジェネレーターの遊び方
(※このページはGoogle Chromeでの動作確認しかしてません。他のブラウザでの動作は確認してません。)


(1)クリックしてメンバーを選抜しよう!(最大10人まで)
   
(2)並べ終わったら画像をクリック

    
別ウィンドウが開くのでそれを右クリックメニューで保存



(3)保存した画像を規定サイズになるように調整

    
ワードやエクセルに貼り付けて任意の大きさ(市販のハメパチ定規は30 mm × 155 mm)になるように設定して印刷
    

印刷したら切り取って市販のハメパチ定規(こういう所で売られているやつ)に入れればキミだけのオリジナル選抜定規が完成するぞ!

※この方法だと必ずしもキレイに出力されるわけではないので、画像ソフトとかを持ってる方は「ここ」にもっと高解像度なのがあるのでそれを自前で上手いことやってください

会いたかった! アニメになった少女たちよ 〜テレビアニメAKB0048レビュー〜

t-akata2012-09-25

希望について、僕は語ろう
今や日本人で知らない者は居ない、テレビ・ラジオ・雑誌に登場しない瞬間は無いというほどの国民的アイドル、AKB48
その彼女たちを題材としたアニメが4月から放送されていた「AKB0048」だ。
本作が発表された当初、「実在の人物、ましてやアイドルのアニメ化なんて企画、どうせ上手く行きっこないだろ」と誰しも思っただろう。
だがフタを開けてみたらどうだ。
AKB48は「マクロス」シリーズや「アクエリオン」を手掛ける河森正治氏らの手によって「芸能を禁止された宇宙を駆け巡り、会いに行くアイドル・AKB0048」として我々の前に現れた。
彼女たちは、人類が宇宙に進出し、芸能が厳しく制限された未来で、初代AKB48のメンバーたちの志と名前を受け継ぎ、愛を届けるために銀河をゆく。
「ここまで変えちゃって、AKBである必要あるの?」とも思われるかも知れないが、この形こそがAKBをアニメにするにあたり、河森総監督らが導き出した最も適切な答えなのだ。


クリエイターたちを魅了する、AKBの魅力「ガチさ」とは
「誰が誰だかわからない」「CDに選挙券や握手会券を付けるアコギな商売」「テレビ出すぎ」「よくネットニュースを騒がせる」……世間一般のAKB48のイメージは、メジャーがゆえにネガティブなモノも多い。
その一方で、アニメ業界に関わる人々の中には、アニメが始まる前からのファンだった岡田磨里や堀江由衣、アニメ企画をきっかけにして好きになった河森正治らなど、AKB48に注目している人たちも少なからずいる。
彼らを引き付けるAKB48の魅力とは何なのだろうか。
河森氏はAKB48の魅力について、「舞台裏もひっくるめて何もかもオープンにしていること、総選挙の重圧、握手会での交流、様々なムチャ振りなどが、彼女たちを常に鍛えている」からであると分析している。
握手会で大量のファンと交流するということは、次々に現れる老若男女様々なファンに対して瞬時に頭を切り替えて応対する必要がある。
また、メディアに出続けているということは、バラエティ番組や企画など、多角的な要求に常に答え続け無ければならないということである。
そしてその先に、それらすべての「結果」が、「ファンの前で晒される」日、が待っているのだ。
一つの順位の差が、選抜かそうでないか、スポットライトが当たるか当たらないかを左右するのだ。
外側から見れば、「ただのアイドルの企画の一部」にしか見えないかもしれないが、ちょっと近づいて観てみれば、これが彼女たち一人一人が人生を賭した、それぞれの「ドラマ」であることが、否応なしに分かってしまう。
そこから伝わる「ガチさ」が、多くの人々を魅了しているのではないだろうか。


キャラクターの成長と少女たちの成長とかシンクロするとき、次元の壁は打ち破られる
AKB0048のもう一つの目玉として「48グループのメンバーから声優を志望する声優選抜を選出し、声優として参加させる」というものがある。
ともすると「アニメそのものがAKBの販促かよ」とも受け取られかねないこの企画だが、そこは中島愛マクロスFで発掘し、スターに押し上げた河森正治氏のこと、AKB0048を「アイドルのレギュラーメンバーを目指す研究生の物語」とし、未成熟な所からの成長を描いてみせた。
ここに私は重要なポイントがあると考える。
声優選抜のメンバーらは、ほとんどが声優経験の無い者で占められていて、実力はまちまちである。
しかし、回を重ねるごとにはっきりと上達していくのが分かるのだ。
声優選抜のメンバーは、グループ内ではもう「研究生」ではないが、声優としてはまだまだタマゴの状態、言ってみれば「声優の研究生」である。
そう、これはアニメの中の「2次元の研究生」の成長ドラマであると同時に、声優選抜たち「3次元の研究生」の成長ドラマでもあるのだ。
アニメの中で襲名メンバーの背中を追いかける「AKB0048の研究生」が物語の中で成長していくと同時に、ベテラン声優たち先輩の背中を追いかける「声優の研究生」たちが役を掴み技術を身につけ成長する。
アニメの中の「成長」だけでは「あらかじめ作られた物語」であるため、リアルなモノとして受け取るには限界があるが、そこに現在進行形の3次元の「成長」をリアルタイムでシンクロさせることにより、2次元の中の「成長」を、よりリアルに受け止めさせることができる。
つまり、声優選抜メンバーたちの成長を見守ることにより、我々は2次元に届くことができるのだ。


2013年、君は神話の目撃者となる
総選挙や結果の見えないムチャ振りに代表されるように、AKB48は河森氏の言葉を借りれば「カオスに委ねられている」側面が強い。
これはそのものが企画のウリであると同時に、基盤にもなっていると河森氏は分析している。
「カオスに委ねる」こと、すなわち大勢の人間の意志の中に放り込むことで「集合的無意識にアプローチできるのではないか」と。
集合的無意識」とは「人類が誰しも備える普遍的な価値観」(Wikipediaより)であり、「長く語り継がれている神話や民話にはそれが内包されている」と言われている。
そしてAKB48には「そこに近づくための機構が備わっている」と。
現実のAKB48が神話になるかどうかは分からない(それこそカオスに委ねられている)。
だが、AKB48という原石を与えられた河森氏が、新たなる「神話」に磨き上げようとしていることには間違いない。
2013年のセカンドシーズン(完結するのかどうかは分からないけど)で新たに打ち立てられる神話がいったいどのようなモノなのか、刮目して待ちたい。


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スペースはBホール・カ-02a

ハルナたちの前に立ちはだかる謎の黒い影…いったい何者なんだ…。

こちらは扉絵の下書き。

お楽しみに!