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恐妻家の献立表 このページをアンテナに追加

2016-07-13

[] 隆起性皮膚線維肉腫(DFSP)経験談

昨年手術をした隆起性皮膚線維肉腫(DFSP)のその後について、コメント欄にお尋ねをいただいた。

思えば、大学病院での広範囲切除手術からちょうど一年である。

記念に、関連の日記をここにまとめておく。

あくまで私個人の経験にすぎないが、同病の方の参考になれば幸いである。

大きすぎるできもの

正確には何年前からだったかは覚えていない。十年近くなるのではないだろうか。右胸の乳首の上に、虫さされのあとのようなものができた。少しかゆかったので虫さされだと思い込んだ。

それが大きなほくろのようになり、やがていぼのように盛り上がり、さわると内側にしこりのようなものができているのに気がついて、強くふれると痛く感じた。それでもさらに数年も放っておいて、見た目もかなり大きく、広さは五百円玉大の、やや盛り上がったあざのようになって、中身の重みで表面が少し垂れ下がってきてから、さすがに気になってかかりつけの開業医に診てもらった。

いつもならテキパキと診断するベテランの医師が、しばらく考え込んで、「うーん、これはなんだろう。ただのできものではないような気もするので、念のため大きな病院で精密検査をしてもらってください」と総合病院に紹介状を書いてくれた。

これが去年の四月初めのこと。

男の乳がん

紹介された病院も、自宅の近所にあったので数日後にさっそく出かけた。

http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20150407/1428419478

この段階ではまだ隆起性皮膚線維肉腫(DFSP)という診断ではなく、男性の乳がんの疑いで検査を受けた。家庭内で冗談で言っていたことが医師の口から出て来たので驚いた。実際にあることだそうだ。

幸い乳がんではないとの結果が出て、良性の腫瘍ということで切除手術を受けることになった。

ただし、医師の言う「良性の腫瘍」という言い回しは日常の語感とは異なり、いわゆる「がん」ではないという程度のニュアンスで、放っておいてもよいということではないらしい。

実は担当医は別の病気も疑っていて、「切り取った患部を病理検査に出しますから」と念を押していた。

最初の手術

最初の腫瘍の切除は局所麻酔で行われたので、一部始終を書き留めてある。

http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20150424/1429860026

この段階でもかなり気持ちに余裕があって、『ブラックジャック』を読んだりしている。だが、検査から手術までの半月の間に腫瘍が大きくなっていることに気づいた医師が、この腫瘍の検査結果を専門医と相談してくれた。

診断

手術から一カ月近く経って、隆起性皮膚線維肉腫(DFSP)という診断が出た。

http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20150519/1432045873

初めて聞いた病名で、一般人向けの啓蒙書もなく、ずいぶん不安に思ったことを思い出した。

上の日記にも書いているが、同病の先輩のブログ「隆起性皮膚線維肉腫なんだって」がいちばんわかりやすい。

「隆起性皮膚線維肉腫なんだって」→http://dfsp.exblog.jp/

私の日記では二回目の手術はしなくて済みそうだと書いているが、実際にはDFSPさん同様にこの後、広範囲切除手術を受けることになった。これは隆起性皮膚線維肉腫という病気の診断が難しく、結局、患部を切り取って検査してみなければわからないことが多いからなのだろう。

広範囲切除手術へ

診断からさらに一カ月ほどたって、手術の傷口もふさがったころ医師から電話があって、大学病院での再度の精密検査と専門医による診療をすすめられた。

http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20150627/1435385917

この日記では病院名は伏せているが、紹介状をもらって慶応大学病院を受診した。

皮膚科の専門医の話では、ひらたく言えば、切り取った患部から悪性化した細胞が発見されたので、再発転移の危険度が高まったという説明だった。

「放っておいたらどうなりますかね」と尋ねたら、「医師としては放っておくという選択肢はありません」と真面目に答えられた。

「がん」という表現を使わないのは、病理学上のカテゴリーの問題のようだった。

医学的に正確な表現かどうかを棚上げにしてしまえば、素人としては、進行は遅く転移や再発もあまりない皮膚がんの一種と理解しておけばよいものと受けとめた。

だから、過度に心配する必要はないけれども、転移や再発が少ないというのは確率の問題であって、まったくないわけではない。放っておけばとんでもないことになりかねない。

この病気は原因が不明なので、有効な治療薬はない。見つけたら手術で切り取るしか治療法はない。

私の場合、腫瘍本体は一度切り取っているが、腫瘍本体と正常な身体との際の部分にがん細胞が残っている可能性があり、それを見つけて取り除く必要がある。

それを見つけるためにPETCT検査をはじめ、転移の疑われる喉のリンパの検査を受けた。

再手術と入院

ちょうど一年前、7/13に広範囲切除手術を受けた。一度手術をして治りかけたところをもう一度切ってえぐるなんて…と思わないでもなかったが、他に治療法がないのであればしかたがない。

前夜から入院し、翌日の午前中に手術があったが、全身麻酔だったので手術中のことは覚えていない。終わりましたよと声をかけられて目が覚めたら主治医が笑顔だったので「うまくいきましたか」と尋ねたら「大丈夫、うまくいきました」と言ってくれたので、安心してまた眠った。

入院中のエピソードは下記に。

http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20150720/1437401356

寿司屋の大将、お元気だろうか。

退院後の傷口

私は回復が早く、入院中から病院を抜け出して信濃町駅裏の喫煙所に煙草を吸いに行くような不良患者だったが、広範囲切除というだけあって傷口は大きかった。

http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20150723/1437613086

その後も一か月ほどは動作に制約があった。

http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20150805

現在はすっかり傷口もふさがっている。

マンガに出てきたナイチンゲールに感心しているのは、入院時にお世話になった看護師さんたちのことを連想しているのだろう。

手術から二カ月してかなりよくなったころの日記。

http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20150912

これ以降、三カ月おきのペースで診てもらっているが、再発転移は発見されず、今では日常生活も問題なく過ごしている。

ただ、あれ以来、虫さされやニキビの跡がどうにも気になるのだが、それはしかたのないことと割り切っている。

2016-07-10

[]劇場霊

久しぶり休日、といっても、五月、六月と老父が二度も入院したので仕事の予定が大幅にくるってしまい、遅れを取り返すためにも一日も休んでいる暇などないのだが、連日のストレスに、ここらで気分転換をしないとどうしようもないので、妻が留守をしているすきに大好きなホラー映画をDVDで視聴。

結論から言うと結構楽しめた。

実は、怪談に詳しい方から、駄作だとの注意を受けていたので今日まで敬遠していたのだが、ストレス解消のために罵倒してやろうとの邪まな動機で借りて来た。ところが…。

冒頭のシーンが劇中劇風の作りなのに過去の事実だったとか、いかにもありがちなBGMとか、細かいケチをつければいろいろ不満はあるけれどもドラマ全体は案外面白かった。

いちばんの難点は、ホラー映画なのに怖くないということ。これはドキッとさせる演出だと頭では理解しながら観ていてドキッとしないのである。しかし、あの『女優霊』の中田監督作品だと思ってみるからいけないのであって、昔懐かし二時間ミステリーだと思えば十分に面白い(皮肉ではない)。

演劇の世界を舞台とした青春ドラマとしても、ヒロインの島崎遥香、ライバル役の足立梨花高田里穂らが熱演しているほか、小市漫太郎が嫌みたっぷりに演ずる演出家の先生もよい。先週見た『幕が上がる』に比べてしまうと見劣りはするが、比べる方が悪いのであって、これだけ見れば十分に面白い(皮肉ではない)。

映画館でロードショーを観るのと、自宅でサービス期間で百円のレンタルDVDを観るのとではがっかり感が違うのかもしれない。

あえていえば、怖がって逃げ回るだけの女の子というヒロインの性格設定が古い。だいいち、あの人形はそんなに怖くない。もっとも、彼女もクライマックスではぶち切れて事件を解決に導き、さらにはエピローグでは不敵な表情を浮かべて女優魂を魅せるのだが、そこにいたる成長が描かれていないので唐突に感じる。これは演じた島崎のせいではなく、原案または企画に不備があったと思わざるを得ない。

で、怖くない人形だが、人間に似せて作った人形は似せれば似せるほど、ある一線からは不気味に感じられるという説があり、それを採用したものと思う。まあ不気味だ。でも怖くないんだなこれが。単純に人間に似せるよりも、非人間的な怪しい美しさを漂わせるタイプのものの方がよかったと思う。

人形が怖くないものだから、島崎が怖がる演技を熱演すればするほど、さっさとやっつけちゃえよと思ってしまうのである。現に、クライマックスではあっさりやっつけちゃうのである。

でも、場面展開にだれたところもないし、退屈せずに最後まで観た。十分に面白かった。

2016-07-06

[]

南蛮そば、焼き茄子、とろろ。

日本酒が合いそうなメニューだが、妻はビールを飲んでいた。

[]今週のお題「もしも100万円が手に入ったら」

変なメールが来た。

全文英語なので、私の知り合いではない。知り合いなら私が英語ができないことを知っているはずだから。

Attn: Winner''

Your e-mail address has been randomly selected as Google Winner for 2016 Google Annual Award.

Please view attached PDF file for More "DETAIL".

Yours faithfully,

Lawrence "Larry" Page

Co-founder and CEO of Google Inc

グーグルが適当に選んだ福引か何かに当選したから添付ファイルを見よということらしい。

が、添付ファイルを開いたとたんにパソコンがドッカーンとなったら大変だからやめておく。

もしも100万円が手に入ったら、半分は妻に、半分は老母にプレゼントする。

その後

へたくそな自動翻訳でも来た。

フィッシング詐欺の一種らしい。

無視しておいてよかった。

事務局担当:勝者''


あなたのメールアドレスをランダムに2016 Googleの年次賞のためのGoogleの受賞として選択されています。


もっと「DETAIL」は、添付のPDFファイルをご覧ください。


敬具、


ローレンス"ラリー"ページ

グーグル社の共同創設者兼最高経営責任者CEO

2016-06-10

[]6.12市民哲学研究会(仮称) 読書会のご案内

アガンベンホモ・サケル』を読む

「近代民主主義の政治空間の隠れた母型を明かすG・アガンベンの主著」(邦訳書帯文より)を、哲学者高橋哲哉氏を迎えて、読むことを試みます。

■日時 : 2016年6月12日(日曜日) 午後1時〜午後5時

■場所 : 東京都文京区(会場の詳細は後日連絡)

■定員 : 20名程度(先着順)

■問題提起 : 高橋哲哉氏(哲学者

■ご用意いただくもの

以下のテキストをあらかじめ用意し、必読の上ご参加ください。

ジョルジョ・アガンベンホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』(以文社

■参加申込み方法

以下のEメールへご連絡ください。

【hirosaka@mbe.nifty.com】受付担当・広坂まで。

折り返し当方より郵便で案内を差し上げますので、読書会参加希望と明記の上、

Aお名前・Bご住所(郵便番号も)をお書き添えください。

■参加費用 : 運営諸経費実費として、1500円を戴きます。

■募集期限

定員になり次第締め切ります。あしからずご了承ください。

どなたでも参加できますが、テキストをよく読み、そこから現代の問題を考えていこうとする意志のある方のご参加を歓迎します。

なお、有志による非営利の催しですので、当日の進行にご協力ください。

2016-05-18

[]

ハンバーグ(セロリシメジのソース、茹でアスパラ添え)、スープ(玉ねぎ、キャベツ)、サラダ(トマト、キュウリ、ゆでたまご

ハンバーグがたいそうよくできたので満足。

日曜日に老親の世話をやいたら腰を痛めた。老人はけっこう重い。寝返りをうつだけでも痛くて夜中に目を覚ます。しかたがないので少しアガンベンホモ・サケル』を読むが、腰痛のため集中力が続かない。そのうち議論が複雑になってくると眠くなる。哲学効用である。

[] アガンベンホモ・サケル』より、善の端初

アガンベンホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』(以文社)の冒頭で、アリストテレス政治学』を引きながら述べている文章を読んでいて感じたことがある。本書でアガンベンの論じていることと直接の関係はないかもしれないが、思いついたので書き留めておく。

アガンベンは生命・生についてのビオスとゾーエーというギリシア的区別について注意を促したあと、アリストテレスは「ゾーエーがそれ自体善であるという意識をきわめて明晰に表現している」と指摘する。

アガンベンが引いているところを孫引きする。

しかし人々は、単に生きるということのためにも集まり、政治的な共同体を維持する。それは、生きるということ自体の内にもおそらく何がしかの善があるからなのだろう。

アリストテレスは論証しているわけではない。この後に続く、まるで苦しい生の内にも至福の日があるかのようだというのも、人々は苦しい生にしがみつくという観察にともなう感慨である。

生きること自体の内にもおそらく何がしかの善があるのだろう、とは、そうとでも思わなければなぜ人間が生きているのかがわからなくなるからなされた憶測にすぎないが、アリストテレスにとってはそれで充分だったのだろう。

逆に、生のうちになんらの善、この「善」は広い意味の善、もなければ、生き物はただちに生きようとすることをやめるだろうから、この憶測は論証する必要がない。

ただし、あえて解釈するならこういうことは言えるだろう。

生きること自体の内にもおそらくあるだろう何がしかの善とは、生き続けること(死なないこと)ではないし、その逆でもない。出生や死亡は、生の開始と終了という事実であって、生にとっての条件ではあるが、善悪とは関係ない。善と悪とは、ここでは広い意味、喜ばしいものと避けられるべきものという程度の意味である。

生きること自体の内に何がしかの善があるとすれば、悪とは、生きることを阻害するものを指す。死亡それ自体は生命にとっての事実であって悪ではないが、生の活動の阻害をもたらすもの、病気や貧困飢餓や殺害などは生にとって避けられるべきものという意味で悪である。

生それ自体のうちにある善とは、単なる生という概念が抽象的なので、これら悪から逆算されるばかりで積極的に定義することはできない。だからアリストテレスも、おそらく何がしかの善があるだろうという表現にとどめたのではないか。それは都市化・文明化された社会の倫理にとっては、原始的な観念であって、道徳的な善悪の端初のようなものだったのだろう。

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