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恐妻家の献立表 このページをアンテナに追加

2016-06-10

[]6.12市民哲学研究会(仮称) 読書会のご案内

アガンベンホモ・サケル』を読む

「近代民主主義の政治空間の隠れた母型を明かすG・アガンベンの主著」(邦訳書帯文より)を、哲学者高橋哲哉氏を迎えて、読むことを試みます。

■日時 : 2016年6月12日(日曜日) 午後1時〜午後5時

■場所 : 東京都文京区(会場の詳細は後日連絡)

■定員 : 20名程度(先着順)

■問題提起 : 高橋哲哉氏(哲学者

■ご用意いただくもの

以下のテキストをあらかじめ用意し、必読の上ご参加ください。

ジョルジョ・アガンベンホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』(以文社

■参加申込み方法

以下のEメールへご連絡ください。

【hirosaka@mbe.nifty.com】受付担当・広坂まで。

折り返し当方より郵便で案内を差し上げますので、読書会参加希望と明記の上、

Aお名前・Bご住所(郵便番号も)をお書き添えください。

■参加費用 : 運営諸経費実費として、1500円を戴きます。

■募集期限

定員になり次第締め切ります。あしからずご了承ください。

どなたでも参加できますが、テキストをよく読み、そこから現代の問題を考えていこうとする意志のある方のご参加を歓迎します。

なお、有志による非営利の催しですので、当日の進行にご協力ください。

2016-05-18

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ハンバーグ(セロリシメジのソース、茹でアスパラ添え)、スープ(玉ねぎ、キャベツ)、サラダ(トマト、キュウリ、ゆでたまご

ハンバーグがたいそうよくできたので満足。

日曜日に老親の世話をやいたら腰を痛めた。老人はけっこう重い。寝返りをうつだけでも痛くて夜中に目を覚ます。しかたがないので少しアガンベンホモ・サケル』を読むが、腰痛のため集中力が続かない。そのうち議論が複雑になってくると眠くなる。哲学効用である。

[] アガンベンホモ・サケル』より、善の端初

アガンベンホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』(以文社)の冒頭で、アリストテレス政治学』を引きながら述べている文章を読んでいて感じたことがある。本書でアガンベンの論じていることと直接の関係はないかもしれないが、思いついたので書き留めておく。

アガンベンは生命・生についてのビオスとゾーエーというギリシア的区別について注意を促したあと、アリストテレスは「ゾーエーがそれ自体善であるという意識をきわめて明晰に表現している」と指摘する。

アガンベンが引いているところを孫引きする。

しかし人々は、単に生きるということのためにも集まり、政治的な共同体を維持する。それは、生きるということ自体の内にもおそらく何がしかの善があるからなのだろう。

アリストテレスは論証しているわけではない。この後に続く、まるで苦しい生の内にも至福の日があるかのようだというのも、人々は苦しい生にしがみつくという観察にともなう感慨である。

生きること自体の内にもおそらく何がしかの善があるのだろう、とは、そうとでも思わなければなぜ人間が生きているのかがわからなくなるからなされた憶測にすぎないが、アリストテレスにとってはそれで充分だったのだろう。

逆に、生のうちになんらの善、この「善」は広い意味の善、もなければ、生き物はただちに生きようとすることをやめるだろうから、この憶測は論証する必要がない。

ただし、あえて解釈するならこういうことは言えるだろう。

生きること自体の内にもおそらくあるだろう何がしかの善とは、生き続けること(死なないこと)ではないし、その逆でもない。出生や死亡は、生の開始と終了という事実であって、生にとっての条件ではあるが、善悪とは関係ない。善と悪とは、ここでは広い意味、喜ばしいものと避けられるべきものという程度の意味である。

生きること自体の内に何がしかの善があるとすれば、悪とは、生きることを阻害するものを指す。死亡それ自体は生命にとっての事実であって悪ではないが、生の活動の阻害をもたらすもの、病気や貧困飢餓や殺害などは生にとって避けられるべきものという意味で悪である。

生それ自体のうちにある善とは、単なる生という概念が抽象的なので、これら悪から逆算されるばかりで積極的に定義することはできない。だからアリストテレスも、おそらく何がしかの善があるだろうという表現にとどめたのではないか。それは都市化・文明化された社会の倫理にとっては、原始的な観念であって、道徳的な善悪の端初のようなものだったのだろう。

2016-05-15

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駅ビルで買ったトンカツとキャベツ、インスタントみそ汁。

[]誕生日が過ぎた

この五月で53歳になった。からだのあちこちがガタついてきていて、正直言って体力的にきついことも多々あるが、ゆっくりでも歩き続ける。

妻に買ってもらった誕生日プレゼントはズボンとベルト。腹が出すぎて、ベルトを二本も切ってしまったので、ゴムの入った伸縮性のすぐれものを買い与えてくれた。

この春はいくつもの仕事が重なって目を回していた。ようやく八割方終えたが、ここで気を抜くととんだチョンボをしでかすので仕上げの準備と、先送りしていた仕事にすぐにとりかかるようにしたい。

とりあえず、アガンベンホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』を読まなければ。

本はどこだ?

あ、妻に貸したままだ。

2016-04-30

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肉野菜炒め、トマトスープ、胡瓜とアボガドのサラダ、デザートに八朔

[] 福岡佐賀

とっくに終わっていなければならなかった仕事と、納期目前なのにまだ手つかずの仕事があって焦っている。他にも準備に取り掛かりつつある仕事が二つ。

仕事があっていいねと言われるが、自営業なので、仕事をしているだけでは収入にならない。仕事を終えて費用を回収して、その上でなお利益が残せるか、そのための仕事もしなくてはならない。

だらだらやっているわけではなく、調べれば調べるほどあとからあとから問題が出てくるので、終わったようで終らないのである。

それでも、なんとか時間を作って、先週、福岡の妻の実家に地震見舞いに行ってきた。

熊本の友人のことも気になったが、現地の事情にうとい私が押しかけても何の足しにもならないどころか足手まといになるだけだろうからやめておいた。

訪ねたのは福岡市佐賀市だけだが、会う人ごとにまずは地震の話題であった。熊本と違って九州北部は大きな被害はなかったようだが、やはりショックは大きかったらしい。いまだに余震が続き、その震源熊本だけではないから、次はどこに来るのかと不安にもなるだろう。

博多の駅前は新しいビルができたりしてずいぶんとにぎわっていたが、なんとなく渋谷に似てきていて、もう少し博多らしさを残してもいいのにと思ったりした。

大通りに面したビルの壁面に、閉店したはずの福家書店の看板だけが残っていて、なんだか寂しい気持ちになった。

福家書店は、今は寝たきりの義父が学徒動員された長崎被爆した体験を寄稿した記録集を置いてもらっていた書店である。それを東京から来た婿に見せようと、はりきって博多を案内してくれたが、思えばその頃から物忘れや時間の混乱が起きていた。もっと早く気づいていれば、もう少し元気でいてくれたのではないかと悔やまれてならない。

幸いにも義母は元気で、私たちと佐賀まで同行してくれた。

佐賀駅はなんだか阿佐ヶ谷駅に似ている。違うのは駅前の人の少なさだ。佐賀出身の芸人が佐賀には何もないと自虐的に歌うコミックソングがかつて流行ったが、たしかにさびしい。ただし、美人は多かった。

本当は何もないわけではなく、佐賀城址をはじめ、名所旧跡もいくつもあるのだが、観光地化されていないし、たぶん観光名所として売り出そうという気もないのだろう。

佐賀城址にある博物館にも立ち寄ったが、江戸時代鍋島家の善政を讃え、明治維新に果たした役割を誇るばかりで、それは事実なのだが、つまり面白みがないのである。

タクシーの運転手さんに「あまり観光地化されていないのですね」と話しかけたら「佐賀の人は『葉隠』で教育されているからくそ真面目なんですよ」と自嘲気味の答えが返ってきた。

しかし、『葉隠』も武士道の教訓を説くのは前半だけで、鍋島家や藩士に伝わるエピソードを記録した後半を読むとなかなか面白い記事がたくさんある。現在の気風は、あるいは近代化の過程で醸成されたものではないのだろうか。

2016-04-20

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麻婆春雨、サラダ(トマト・アボガド水菜)、胡麻豆腐。

[] Web評論誌『コーラ』28号のご案内

すでに黒猫房主さまのブログにも出ていますが、私も寄稿させていただいているWeb評論誌『コーラ』28号が刊行されたのでご案内いたします。

今回も岡田有生さんと前近代的なものをめぐってやりとりをしています。

今回はちょっと弁解させていただきたい点があります。

後半のやり取りで、突然、岡田さんが自己批判めいたことを言い出されたので、なんだか私が岡田さんの揚げ足を取ったような流れになっていますが、これは成り行きでこうなったまでで意図してのことではありません。

次回は岡田さんにボコボコに叩かれて、みそぎをしたいところです。

>>

■■■Web評論誌『コーラ』28号のご案内(転載歓迎)■■■

 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。

  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/index.html

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 ●新連載<前近代を再発掘する>第4回●

  浪人的なものをめぐって

  岡田有生・広坂朋信

  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/zenkindai-4.html

  ■北条高時の腹切りやぐら

  神奈川県鎌倉市には、高時の腹切りやぐらと呼ばれる場所がある。言い伝え

 によれば、元弘三年(1333)、後醍醐方についた新田義貞の軍勢に攻め込まれ

 た北条一族八七四人は、東勝寺に立てこもり、もはやこれまでと自害したその

 場所だとされている。かつては心霊スポットとして知られていたが、専門家

 調査によれば大量の人骨が埋まっているということはなかったそうだ(河野眞

 知郎『中世都市鎌倉講談社学術文庫)。遺体は別の場所に埋葬されたのかも

 しれない。(以下、Webに続く)

 

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 ●連載:哥とクオリアペルソナと哥●

  第38章 和歌三態の説、貫之・俊成

  中原紀生

  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-38.html

  貫之の歌論や貫之が詠んだ歌の世界を、俊成定家のそれらと比較対照し、

 その実質を一言で言い表わす言葉がもしあるとすれば、それは「像」(イマー

 ジュ)ではないか。そして、俊成の場合であれば「喩」(フィギュール)が、

 定家ならば「虚象」(パンタスマ、フランス語表記に平仄をあわせるなら、 

 ファントームもしくはミラージュ)という語が、それぞれの歌論と歌の世界の

 特質を言い当て、他との感触の違いを際立たせる言葉としてふさわしいのでは

 ないか。吉本隆明の言語表現論の眼目である像と喩の理論をめぐって思案をめ

 ぐらせているうち、そんなことを考えるようになりました。

 (以下、Webに続く)

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 ●連載「新・玩物草紙」●

  澁澤龍彦の玩物草紙/動物園

  寺田 操

http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-18.html

  連載の「新・玩物草紙」(旧・日々雑読)をはじめるきっかけになったの 

 は、澁澤龍彦『玩物草紙』(朝日新聞社/1979)だ。「私が興味を持つ宇

 宙は私自身であり、私が目をやるのは私自身の肉体というミクロコスモスであ

 る」という17世紀イギリスの名エッセイストであるトマス・ブラウンを文中

 で引用しながら展開された20篇の草紙。澁澤自身の幼年時代の想い出や書物

 の数々から紡ぎだされた《精神も肉体もふくめた私自身というミクロコスモス

 に関する、一種のコスモグラフィー》は、語り口の柔らかさもあり、澁澤の博

 物誌的な書物とは少しばかり趣が違っていた。父に聞かされたハレー彗星、4

 歳まで住んでいた町の沼のほとりでの怖い錯誤記憶、1歳3ケ月なのにツェッ

 ペリン伯号を眺めた記憶、父の金のカフスボタンを呑んでしまった事件などが

 印象的だった。草紙の挿画は加山又造装幀栃折久美子。当時、加山又造

 挿画を真似してイラストを何枚も描いた。(以下、Webに続く)

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