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恐妻家の献立表 このページをアンテナに追加

2011-12-15

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ハンバーグ(ちょっと焦がしてしまった)、野菜スープ(キャベツ・玉ねぎ・セロリ)。

[]今年の10冊2011年)、あるいは、おフランス特集

このブログでは、古代中国思想やドイツ哲学をよく取り上げるので、もしかすると、私のことを中国びいきでドイツびいきと思われる方もいるかもしれないが、実はどちらでもない。

おフランスびいきなんである。

今年読んだ本で、印象に残ったものを拾い出してみたら、おフランスがらみのものが多かったので、今年は思い切っておフランス特集にしてみた。

おフランスといえば文学であり、今年はヴァレリーの新訳がドカンと出たりしたけれど、事情があって文学にはふれない。

1.メルロ=ポンティ『知覚の哲学

筆頭は文句なしにこれ。

本人によるメルロ哲学の『方法序説』といった趣向の一冊。

久しぶりにメルロ=ポンティを堪能した。

訳者による徹底した訳注にも学ぶところが多い。

2.ランシエール『無知な教師』

無知な教師 (叢書・ウニベルシタス)

無知な教師 (叢書・ウニベルシタス)

この本も面白かった。挑発的な題名だが「無知な教師」と言っても、最近の教師は勉強不足で生徒の質問にも満足に答えられないので研修を強化すべきだとか、教員採用のあり方を抜本的に見直すべきだとかいう話ではない。19 世紀フランスで活躍した教育者ジョゼフ・ジャコト(1770-1840)という人物の風変わりな教育法と教育思想を、現代フランス知識人ランシエールが知性の平等、知性の解放という視点から読み解いた書物。

 本書の主人公ジャコトはフランスディジョンで生まれ、修辞学を教えながら弁護士をめざしていたが、フランス革命が勃発すると革命軍に砲兵として参加。当時まだ二十代の青年だったが、革命政権下で弾薬局教官、理工科学校の校長代理などをつとめた。その後、ディジョンに戻って数学、古典、法学などの教師をしていたが、王政復古ブルボン第二復古王政)によりオランダ亡命し、1818 年、ルーヴェン(ルーヴァン)大学(現在はベルギーにある)でフランス文学の教師となった。

 こうしてオランダの学生にフランス文学を教えることになったジャコトだが、その教育活動には大きな問題があった。彼はオランダ語がまったくできなかった、まさに「無知な教師」だったのである。学生の方もほとんどの者がフランス語を解さない。つまり、教師と学生の間に共通の意思疎通の手段がなかった。この状況でどうやって教育ができるのか。困ったジャコトは、『テレマックの冒険』(フェヌロン作、ギリシアの古典から題材をとった風刺物語)の対訳本を教材として学生に与え、訳文を参照しながらフランス語原文を暗記するように、「学生たちが第一巻の半分まできたとき、暗記したことは絶えず復唱しなければならないが、残り半分は物語ることができるように読むだけでいい」と通訳を介して指示した。そして「自分たちが読みとったものすべてについて考えるところをフランス語で書くように言った」。学生は語彙も文法も説明されていない。無謀な試みだったが、驚くべきことに学生たちは優れた答案を提出した。この経験からジャコトは「知らないことを教える」という、一見とんでもない教育法を考え出し、語学以外の教科でも実験したのである。学校関係者はジャコトを狂人扱いした。

 ふつう教育とは、知識をもつ教師が、知識をもたない生徒に説明する、という図式でイメージされる。しかしジャコトは、知識の説明は教育ではなく「愚鈍化」であると断じる。知性は平等であるのに、教師は自らを知的に優れているものとして、生徒を知性の劣ったものと位置づける。知性の優劣が先にあるのではなく、説明という行為が優劣を作り出す、すなわち「民衆を愚鈍化しているのは教育の欠如ではなく、民衆の知性は劣っているという思い込みである」。つまりジャコトは「知性」という言葉を知識ではなく、学ぶ力としてとらえている。こうしてみると「知らないことを教える」というジャコト式学習・教育法は、必ずしも単に奇抜な発想とはいえない。それは「すべての学習・教育法のなかで最も古いものであり、個人が説明を受ける手立てのない何らかの知識を身につけることを必要とするようなあらゆる状況で、日々その正しさを立証されつづけているのだから」。

 実際、ランシエールが紹介するジャコトの授業記録を読むと怪しげなことはやっていない。生徒はそれぞれの課題にあった教材を選び、集中して取り組む。教師が行うのは、生徒が教材を注意深く観察し、自分が何を理解したのかを自ら説明するように根気よく促すことである。「君が見たのはたしかにそれですか。それについてどう考えますか」。

 訳文は平易で、注意深く読めばわからないところはない(まさにジャコト式!)。教育史のなかに埋もれていた人物の事績を発掘した快著。

3.ドミニック・ルクール『カンギレム』

直弟子ルクールによるフランス科学史家カンギレムの評伝。

これまた面白かった。

4.重田園江『ミシェル・フーコー

ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)

ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)

傑作。フランス思想家ミシェル・フーコーの著作『監獄の誕生』は、監視と処罰によって規律に従順な人間をつくり出すシステムを分析した名著として名高い。しかし著者は『監獄の誕生』は「近代の規律について解説した本」ではない、と叫ぶ。もっとも「叫ぶ」というのは大げさなレトリックのように感じられるかもしれないが、本書全体を読みすすめていけば、著者のフーコーへの愛情が尋常なものではないことに気づき、いたるところで、フーコーってこんなに面白くてすごいものなんだと著者が叫んでいるような印象を受ける。フーコーにかける著者の意気込みが活字からほとばしるような、それほど気合のこもった本なのである。

気合いがこもっていると言っても、勢いにまかせて書き飛ばしたようないいかげんな内容ではない。『監獄の誕生』を中心にフーコーの主要著作をていねいに読み解いた成果を、近代社会の原理をどう理解するかという視点から、フーコーを読んだことのない人にも、読みかけたけれどあまりの難しさに投げ出してしまった人にもわかりやすく説明してくれる良書。その意味ではよくできた入門書ではあるが、フーコーの思想を私たちがどう受けとめ活かしていくかにまで踏み込んでおり、単なる解説書の域をはるかに踏み越えている点で独創的な著作と評しても過言ではない。ホラー映画やSМプレイのようなお茶目な例に混じって「危険と非常事態を尺度として日常を測り評価するのは危険だ」という指摘など、現代の思想状況に対する鋭い警句にドキリとさせられる。

5.ナンシー『限りある思考』

全体にハイデガーへの言及が多いが、とくに面白かったのはバタイユ論とランボー論。

6.デュピュイ『ツナミの小形而上学

ツナミの小形而上学

ツナミの小形而上学

最初、なんだ災害便乗本かとバカにしていたが、訳書刊行のタイミングこそ災害便乗であるには違いないが、内容は違った。

7.菊谷和宏『「社会」の誕生 トクヴィルデュルケームベルクソンの社会思想史』

「社会」の誕生 トクヴィル、デュルケーム、ベルクソンの社会思想史 (講談社選書メチエ)

「社会」の誕生 トクヴィル、デュルケーム、ベルクソンの社会思想史 (講談社選書メチエ)

たいへん興味深いテーマに取り組んだ力作。デュルケムについてが説得力があり、ベルクソン論は若干浮いているような気もするが、トクヴィルとデュルケムだけではどこか息苦しさが残り、ベルクソンで羽目を外したかったのはよくわかる。

8.大橋完太郎『ディドロの唯物論

ディドロの唯物論

ディドロの唯物論

皮肉ではなく、さすが学術論文という代物。

9.酒井健シュルレアリスム

シュルレアリスム―終わりなき革命 (中公新書)

シュルレアリスム―終わりなき革命 (中公新書)

詩人アンドレ・ブルトンを中心に描いた、文学から見たシュルレアリスム概説。

10.石井洋二郎フランス的思考』

フランス的思考―野生の思考者たちの系譜 (中公新書)

フランス的思考―野生の思考者たちの系譜 (中公新書)

昨年末の刊行だが、読んだのは今年の初めなので、ここに加える。思えばこの本が私のフランス年の始まりだった。

ユートピア社会を構想したフーリエ、エゴイズムを徹底させたサド、方法的な錯乱によって「私とは一個の他者である」と喝破したランボーシュールレアリズムの提唱者ブルトン、エロティシズムに生と死の融合を見たバタイユ、テクストの快楽を追求したバルト。本書で描かれるこの六人の共通点は、デカルトに代表される普遍主義と合理主義に反逆した系譜に立つという点にある。普遍主義、合理主義、愛国主義といった異論を唱えにくい既成観念に対して、文学は逸脱や飛躍を恐れず、思考の可能性を追求することができる。デカルトですら、その思想を表現した『方法序説』は一種の自伝文学の形式で著されたのだ。文学にはまだ可能性が秘められていることを示唆する一冊。

この他にも

この他にも『マルセル・モースの世界 (平凡社新書)』、『社会統合と宗教的なもの ― 十九世紀フランスの経験』、『パリ五月革命 私論?転換点としての68年 (平凡社新書595)』など、私のフランス年というべき一年だった。

[] Web評論誌『コーラ』15号

Web評論誌『コーラ』15号が刊行されましたのでご案内いたします。

冬場に怪談という季節外れの私の駄文も無理を言って掲載していただきました。

以下、黒猫編集長のブログより転載。

http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20111215/p1

 ■■■Web評論誌『コーラ』15号のご案内■■■

 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。

  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html

 ●現代思想を再考する2●

 ヘーゲルの「不在」が意味するもの――記号と埋葬1

 

  岡田有生(コメント:広坂朋信)

  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/gendaisisou-2.html

  前回のおさらいから始めたいのだが、掲載されたST氏の論文では、

 デリダの諸論文における「継承」のテーマの内容が整理され、そこ

 では「現在の同一性への閉塞」ということが「継承」を困難にする

 のだという認識が提示されていることが語られていた。

このアポリアは、まさに先程私たちが見た現在の同一性の閉塞で

あり、隔たりを解消しようとする継承の考え方である。つまりこ

アポリアを私たちは継承の問題として読むことができる。すで

に構成された点的瞬間の幅を持たない現在(そしてその継起とし

ての時間)を想定すると、未来は未だ存在しない非−存在者とし

て、あるいは絶えず点的現在に引き戻される(隔たりの解消)べ

きものとして考えられ、現在の閉塞に陥り、結局未来への継承が

不可能になる、あるいは時間は存在しないものとなる。

  また、この「現在の閉塞」は、デリダが取り組んだ西洋の形而上

 学の文脈においては、「意味」の支配と呼べるものに結びついてい

 ること、それは存在者のみならず「存在」という概念を「現前」と

 して扱う態度(ハイデガーを指す)にも深く関わっているのだという、

 デリダの考えが示されたのである。

  このように整理されるデリダの考えは、たとえば「記憶」という

 事柄については、次のように表現できるものとされる。

 (以下、Webに続く)

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  ●新連載〈心霊現象の解釈学〉第2回●

  単なる経験の範囲内における心霊現象

  広坂朋信  

  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/sinrei-2.html

  前回、カント視霊者の夢』について面白おかしく書くつもりが、

 東日本大震災の衝撃にうろたえて中途半端なものに終わってしまった。

 幸い挽回の機会を与えられたので、今度こそ面白おかしく書こうと構

 想を練り始めた矢先、まことに私的な事柄で恐縮だが、長い付き合い

 の大切な友人の訃報が届き、それに私はすっかり打ちのめされてしま

 って、それからしばらくは悲嘆にくれるばかりで何も手をつけられな

 かった。半年ほどたった頃、ようやく黒猫編集長との約束を思い出し

 てキーボードを叩きはじめたのだが、どうしても喪の気分が抜けず、

 またもや面白くもおかしくもないメモを提出することをお許し願いた

 い。(以下、Webに続く)

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  ●連載:哥とクオリアペルソナと哥●

  第19章 哥の現象学あるいは深読みの愉悦

  ──ラカン三体とパース十体(急ノ参)  

 

  中原紀生

  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-19.html

  前章で、佐々木中著『野戦と永遠』から、その一節を孫引きした

 中井久夫氏の「「創造と癒し序説」──創作の生理学に向けて」

 (『アリアドネからの糸』所収)に、「文体の獲得」なしに創作行

 為はなりたたないと書かれています。

《なぜなら、まず、文体の獲得なしに、作家は、それぞれの文化

の偉大な伝統に繋がりえない。「文体」において、伝統とオリジ

ナリティ、創造と熟練、明確な知的常識と意識の閾下の暗いざわ

めき、努力と快楽、独創と知的公衆の理解可能性とが初めて相会

うのである。これらの対概念は相反するものである。しかし、

その双方なくしては、たとえば伝統性と独創性、創造と熟練なく

しては、読者はそもそも作品を読まないであろう。そして、「文

体」とはこれらの「出会いの場」(ミーティング・プレイス)で

ある。》

  中井氏はつづけて、二十世紀後半の文学の衰微は、「文体」概念を

 「テクスト」概念に置換したことにある(「それによって構造主義

 既成テクスト…の精密な分析にすぐれる一方、第一級の文学を生産す

 るのに失敗した。」)とし、また、無意識は言語のように、あるいは

 言語として組織されているというとき、ラカンが言語をもっぱら「象

 徴界」に属するものとして理解していたことを惜しみ、さらに、文体

 獲得の後にはじめて、言語は作家のなかで四六時性をもつことになる

 のだと論じ、そうして、あらためて「文体」とは何かと問います。

 (以下、Webに続く)

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  ●連載「新・玩物草紙」●

  声/黒い靴

  寺田 操

http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/singanbutusousi-5.html

  人は誰もが現実社会で起こる出来事とは無縁に生きられない。津波

 地震原発と、春3月の未曾有の東日本大震災においても、誰もが圧

 倒的な現実の凄さに打ちのめされながら、声を、言の葉を求め、発語

 へと突き動かされた。圧倒的な力を発したのは、繰り返し繰りかえし

 流れた金子みすゞの童謡詩《こだまでしょうか、いいえ、誰でも》や、

 宮沢章二《心は誰にも見えないけれど/心遣いは見える》などのAC

 公共広告。また、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」、和合亮一のツイッタ

 ーでの《放射能が降っています。静かな夜です》「詩の礫」。

  なにげなく過ごしてきた日常がとつぜん断ち切られ、非日常へと呑

 まれていくことは、1995年の阪神淡路大震災で体験したのだが、

 津波の映像を見て怖くて泣いた、身体が震えた。三陸海岸の地図が、

 目に見えない放射能が夢のなかまで追いかけてきた。

 (以下、Webに続く)

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