財政出動を要請する「先取り」の影響

前回「先取り」概念を道具としてサブプライムを例に挙げて分析したように、「先取り」された虚の価値、すなわち空っぽの価値は、金融市場や実体経済まで破壊してしまった。しかし、それだけで収まったわけではない。今度は、政府に財政出動を促すのである。

例えばアメリカでは、2009年の金融危機に対して、200兆円の支援策が打ち出された。その財源として国債が発行されることは確実であろうが、国債発行となれば、ここで国家レベルの「先取り」が行われることになる。

さらに、「先取り」はアメリカ国内にとどまるわけではない。例えば、日本では、この3月24日に成立した2010年度予算によると、一般会計総額は過去最高の92兆円であるが、そのうちの新規国債の発行額は44兆円である。これに対する税収は37兆円に過ぎず、当初予算で国債が税収を上回るのは戦後初である。このように、結局のところ各国は国債に頼って財政出動をすることになるだろう。つまり、「先取り」は国際レベルにまで広がってしまったのである。

こうして、サブプライムローンに発した「先取り」は、個人レベル、企業レベル、国家レベル、国際レベルの複合した「先取り」の段階に入って、今や、「先取り」の総合システムと言ってもよい社会になっているのだ。

 とくにアメリカは、仕組みをつくって、先取りを極端にやりつくした。もともとアメリカは、鉄鋼、自動車等、「ものづくり」に関しては、技術力、競争力の点で立ち行かないところまでになっていたのだろう。そこで、資本主義の「先取り」という属性を使って、それこそグローバルな「先取り」の仕組みをつくり、大々的に「先取り」をしはじめた。そして、その仕組みを維持するために、世界中に網を張り巡らして、アメリカ流のグローバル・スタンダードを各国に採用させたのである。

さらに、あらゆる手段を使い、「先取り」をするためにエネルギーを投入した。例えば、日本に対しては、年次改革要望書による達成度を連邦議会で年次報告することにした。従順な日本は、その年次改革要望書に従って、数々の「改革」を行い、その結果、企業は時価会計制度を採用し、含み資産のある会社は乗っ取られやすくなった。そして、合併、統合、買収をしやすくするために、会社法の「改正」まで行なった。こうして、「先取り」の拘束力は、日本の制度にまで及んできたのである。

しかし、裏を返せば、アメリカは、そうやることが必要だったからであって、結局行き着くところまで行ってしまったのだと言えるだろう。

 そして、それが破綻すると、その付けを現在の人々のみならず、将来の人々に回さざるを得なくなった。

 ここで、私が『先取り経済 先取り社会』に書いた〈「先取り」の仮説〉を思い起こしてほしい。この本は、1990年に書いたものだが、その原型は、1969年に書いた『剰余価値の先取り体制に関する試論』にあったものである。私は、この間40年以上を経た今日まで、「先取り」の仮説を分析道具として、経済現象と社会現象を見ていたが、つくづく実感することは、「価値が生み出された後にその分配関係が本質的矛盾となるのではなくて、生み出される前に先取りされた虚の価値が、後にいかにして実の価値として埋めつくされるかが、本質的矛盾となるのである」という〈「先取り」の仮説〉が、事実として目の前に現れることである。

ところで、現在及び将来の人々が長年にわたって辛苦し、その付けを支払うことができれば、「先取り」された空っぽの価値に、ようやく実が入る。つまり、虚が実になるのである。

 しかし、話はそのようにうまく完結するものだろうか。

 現在及び将来の人々に付けを回した結果がうまくゆかないことになりそうであるならば、いったいどうすればよいのだろうか。あるいは、世の中はどうなってしまうのだろうか。

 自由主義的な資本主義を徹底するのであれば、破綻した企業は、整理、破産し、経済社会から退場してもらうのが筋であろう。しかし、金融機関を潰して多くの預金者、投資家に損害を与えることは、経済、社会に及ぼす打撃が大きすぎる。また、ビッグスリーを破産させて失業者を街にあふれさせ、大工場を廃墟にしてゴーストタウンをつくるわけにはゆかないだろう。

 つまり、どのようにあがいても、話はうまく完結しそうにない。

 このように「先取り」という病が膏肓に入ると、もはや資本主義の原理では解決できなくなってしまったというべきではないだろうか。

しかし、こういうときによく持ち出されるのは、本来の資本主義に戻って、勤勉に働き、資本を蓄積して、ものづくりを中心とする技術革新や新興国の市場を開拓し、地道にやってゆこうという考えである。

 私も、基本的にはそのような意見に賛成である。しかし、如何せん「先取り」によって吊り上げられた価値の単位が大き過ぎる。つまり、金融市場でつくられた見せかけの価値が大きすぎて、地道な努力では追いつかないのである。工業生産でさえそうであるが、一次産業の農林漁業では、一定の労働時間によって得られる価値が、金融によって吊り上げられた価値にまるで追いつかない。つまり、労働の値打ちがアンバランスなのである。こうなると、地道な資本主義に回帰するのは、現実性に乏しいと思われる。

そこで考えられるのは、インフレーションその他によって、貨幣価値を下落させることである。貨幣価値が下落すると、「先取り」された虚の価値は相対的に減少するので、自動的に縮小されてゆく。この場合、貨幣そのものの価値を下落させることが最も手っ取り早い。しかし、第一次世界大戦の後のマルクの大暴落がナチスの台頭の遠因になったことを考えると、これは最も避けたいシナリオだろう。まして、為替の自由化が徹底し、自国の貨幣の動向がその国の命運にかかわっている今日、貨幣の下落は致命的になることははっきりしている。2009年2月14日に閉幕した主要7カ国財務相中央銀行総裁会議G7)の声明の中で「為替相場の過度で急激な変動は、金融システムの安定を損なう。市場を注視」と謳われた以上、その方向に行かない方策がとられると期待したい。

一方、同年3月14日に閉幕した主要20カ国・地域(G20)の財務相中央銀行総裁会議の共同声明の中では、「各国は成長を回復するまであらゆる必要な行動をとる。ヘッジファンド格付け会社を登録制にし、情報も開示する」とされるとともに、「財政出動の速やかな実施。各国の中央銀行は必要な限り金融緩和を続ける」と強調された。さらに、同年4月2日に閉幕したG20による金融サミット(緊急首脳会議)では、「金融・財政政策を総動員し世界経済を回復軌道にのせる」、「10年末までの各国の財政刺激策は総額5兆�(500兆円)で、世界の成長を4%押し上げる」という共同声明が採択された。しかし、各国が一斉に財政出動をし、金融緩和に走ったときに、インフレを助長し、貨幣価値を下落させる力学が働く心配はないのだろうか。

ここで、ハイパー・インフレーションによる貨幣の崩壊をもって資本主義の解体とする岩井克人教授の説(第8回)を思い起こし、資本主義の終焉が近づいてくる足音を聞く人も少なくないと思われる。

しかし私は、「先取り」によって中身が空っぽになってしまった今の時点で、すでに「資本主義は終わっている」と認識している。

では、なぜ今すでに「中身が空っぽになってしまった」と言えるのだろうか。次回にそのことを考察したい。(廣田尚久)

※本エントリは2010/03/31にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
CNET Japan ブログネットワーク閉鎖に共ない移転しました。