美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

戦時下と占領期の問題

やはり風邪のよう。喉が痛いし、今日はオフィシャルな仕事がないので、休ませてもらう。病弱だな、俺も。家でゴロゴロして読み終えたのがこれ。

占領と改革―シリーズ日本近現代史〈7〉 (岩波新書)

占領と改革―シリーズ日本近現代史〈7〉 (岩波新書)

要するに、雨宮先生の意見は「戦時期から実は進歩的な政策を推し進める準備は既にできていた(そういう連中が「反東条」で固まって、ポツダム宣言受諾の道を開いた)」「占領があろうがなかろうが、我々が占領のおかげだと思っているような諸政策は行われていたであろう」「素晴らしいアメリカの占領政策とそれを素直に受け取った日本人、という日本人の主体性を無視したストーリーは、そろそろ考え直さないか?」ということだと思う。この主張は、この本の中で結構繰り返されていて、あまりの繰り返しに、雨宮先生は一体誰を「敵」と目して攻撃しているのだろうか、などと勘ぐってしまったくらいだ(僕はこの時代の研究者についてはよく知らないので、何とも言えないが)。
いわゆる「総力戦体制論」というか、1940年代あたりに今現在の日本の制度デザインが結構出来上がっているという説はもはやメジャーなものだと思うが(身近な例を挙げると、例えば源泉徴収システムだとか、厚生省の設置など)、雨宮先生のは戦前戦後の連続性を特に強調するものだってことだと思う。
あと、元教え子(というほど教えていないけど、制度として一年間だけ「先生と学生」の間柄だった)N村君の戦時期の学生野球に関しての論文も読む。詳しい感想はあとで彼にメールで送るつもりだが、ファナティックな時期の「内実のない言説(天皇制の語彙、国体の文法で自動的に書かれるような文章のこと)」をどう扱うかっていう問題は、僕とも共通しているだけに考えさせられる。