イデオロギー

 「正義が常に勝つとは限らない。しかし、正義は勝たねばならないのだ」(By早乙女博士、『スーパーロボット大戦MX』より)
 「力なき正義は無力だ。しかし、正義なき力は暴力にすぎない」(同上)
 いろいろ名文句の多いゲームスーパーロボット大戦シリーズのシナリオですが、ほかにも、前作『同α』ボーナスステージの『逆襲のシャア』シーンで、アムロをして「お前達、革新派は常に腐敗した政府をなくすという。でも、その後に作られる政府は一部のエリートによって支配され、同じ過ちを繰り返すんだ!」と言い切らせています。いずれも政治に関する箴言として、秀逸なものといえます。
 今日のNHK大河ドラマ新選組!』45回は、久々にしびれるシーンが多くて、思わず泣ける展開だったのですが、そのなかでも隊士、井上源三郎が近藤の養子をかばって薩摩軍に殺され、それに激怒した斉藤一が薩摩軍に切りかかるシーンは、特に泣けました。斉藤は錦旗に向かって戦いを挑み、逃げる薩摩軍は錦旗を確かに踏みつけていた。こういうシーンを日の丸を掲げて君が代を歌わせることに限りない喜びを感じる人たちはどう見るのだろうか?などと思いました。つまり、ここには、そうした都教育委員会のジジイやババアが無視した、政治の暴力が個人の倫理を踏みにじる瞬間が如実に示されていた、いいシーンだったと思ったわけです。注意してほしいのは、僕は幕府軍を支持しているわけではない。斉藤も、幕府を正義だと思って切り込んでいったのではないということです。むしろ、自分達の仲間を殺した、戦争、そして政治というものに対する怒りが、非常によく表現されていたように思いました。君が代、日の丸を拝むことの強制とは、このように、僕等の平和な生活を侵害する「政治というもの自体がもつ暴力的な脅威」として認識される。こうした、『壬生義士伝』や『新選組!』における描写とは、浅田次郎三谷幸喜の良識が如実に示されたものだし、一部で騒ぐ右翼=歴史修正主義者は目立つけど、本当の良識がどこにあるかを確実に示すものだと思います。
 さて、この文章で何度も登場した「正義」「倫理」「暴力的」「良識」などの言葉ですが、こうした個人と社会の倫理的価値観に関わる一般的言語、および、社会科学的・哲学的メタ言語(科学的専門用語)に深く関わるのが、イデオロギーという用語です。先日の日記で「イデオロギー=虚偽意識と切って捨てられない」と書いてから、なぜそのような把握が生まれてきたのかをもう一度勉強しなおさなきゃと思っていたのですが、現在通勤の合間に読書中の『新マルクス学事典』(弘文堂・2002、13650円(税込み)、ISBN:433515044X)を読んでいて、いい説明に出合いました。

新マルクス学事典

新マルクス学事典

 三省堂大辞林で一般的意味におけるイデオロギーの定義を転記します。
イデオロギー [(ドイツ) Ideologie]
>(1)社会集団や社会的立場(国家・階級・党派・性別など)において思想・行動や生活の仕方を根底的に制約している観念・信条の体系。歴史的・社会的立場を反映した思想・意識の体系。観念形態。
>(2)一般に、政治的・社会的な意見、思想傾向。
 この説明は一般社会的な意味・定義の説明で、もう一ランク抽象度の高い言語としてメタ言語としての説明・定義があります。メタ言語とは学術用語とも訳され、より定義を厳密化した言語です。そこでは、単に一般社会的な言葉の意味に留まらず、その言葉がなぜ成立するかも含めた社会科学的、哲学的、歴史的説明が含まれることが普通です。
 前述の『新マルクス学事典』とは、単なるマルクス事典ではなく、マルクスの原像を19世紀当時の社会的背景なども含めてより正確に描き出そうとする事典で、そのなかにマルクス自身におけるイデオロギー理解がでてきます。
 『経済学・哲学草稿』で私有財産こそが労働者を疎外し人間を人間的対象から非人間的対象に変えてしまうと考えたマルクスが、『ドイツイデオロギー』において、分業こそが物資的労働と精神的労働を分裂させ、「この瞬間から意識は、現存する実践的意識とは別の或るものであるかのように振舞うようになる。このときから意識は、自己を世界から解き放ち、<純粋な>理論、神学、哲学、道徳、等々として現れうるようになる」「分業によって意識は、他の人間との交通・関係をその本質とする人間の生活から遊離し、それ自体で存在しうるかのように思われ、生活が意識をではなく、意識が生活を規定するようになる。支配階級の思想を支配階級自身から切り離し、それを自立化させ、『或る時代にはしかじかの思想が支配していた』とするようなイデオロギーもここから生じる」(同書、25〜26頁、柴田隆行による説明、「意識」項目)と説明されます。
 すぐ隣の「イデオロギー」項目では、的場弘が「マルクスエンゲルスによれば意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定するのであるから、現実から遊離しているようにみえる空理空論もまた生活から規定されひとつの意識形態である。それは支配的な物資的諸関係の観念的表現、あるいは思想としてとらえられた支配的な物質的諸関係にほかならない。そして、支配階級の思想が支配的な思想となることから、イデオロギーイデオロギーとしてつねに露になるとは限らず、むしろ永遠で普遍的な真理として登場するのが一般的となる。そこにイデオロギーが虚偽意識として機能するゆえんがある。」(同書、27頁)と述べています。
 つまり、この「イデオロギー=虚偽意識」という理解は、分業に起因するマルクス的理解におけるイデオロギー概念であり、それゆえ、虚偽意識ということもあながち間違いではないことになります。
 先日のid:betch-sunさんとの議論でも、こうした言葉の定義の行き違いが、実はあったように思い、反省しました。
 さて、マルクス以後、マックス・ウェーバーイデアルティプス(理念型)概念を導入し、マルクスが唱えた下部構造(経済生活、経済関係)が上部構造(政治・文化構造)を規定するだけではなく、上部構造が自律する社会的力となって下部構造を支配する場面もあるとした『プロテスタンティズムと資本主義の精神』的議論があり、これは有名な「支配の社会学」における「伝統的支配」「カリスマ的支配」「官僚的支配」の3類型にまで議論がいたる(『ウェーバー支配の社会学有斐閣新書、ISBN:4641088675)わけですが、この考え方はすでにマルクスの思想に内包されていたともいえます。しかし、ウェーバーの重要さは、虚偽意識対真意識ではなく、社会的力として虚偽意識の重要さを主張したところにあるわけです。
 さて、時代を下ってカール=マンハイムにいたっては、ドイツ・ワイマール民主制下において有権者として政治的参与が認められた労働者階級も含めた様々な社会集団の持つ考え方が問題となります。つまり、彼ら全員は政治形態に関して参与可能となった。それゆえ、彼らの考え方がいまや問題となるわけです。
 その時点で、エリートからはみ出し、社会的支配力を現在は持たないけれど、自分達こそ本来的に社会を支配すべき集団であると考えるナチス党に集う失業者の集団の意識(ここでマンハイムは、ユートピアを実現不可能な夢物語としてではなく、未来において実現可能なものとしてとらえる。そして、それを実現しようとする意識をイデオロギーとして定義しました)を、マンハイムは研究対象としました。彼が対象とした考え方は、1.官僚主義保守主義、2.保守主義的歴史主義、3.自由主義−民主主義的市民思想、4.社会主義共産主義的観念、5.ファシズム(世界の名著68『マンハイムオルテガ』(229頁、ISBN:4124001363)で、ファシズムだけではなかったのですが、彼はこうした行動指針を持った各グループの成員が職場等の場において、生活のなかで共通した時間をすごし、そして集団として共通した利害関係を持つことから、共通したユートピアを目指す共通したイデオロギーを持つこと(存在被拘束)を主張し、そうした集団間の指導権争いの場としての政治世界を想定しています。政治的支配を争う覇権の場とは、小グループ集団から中央政府の議会における議席数にまで及ぶ広範なものですが、中央政府議会=国家の持つ力はそのほかの集団に比べて格段に大きいから、マンハイムの研究の中心になったというわけです。
 以前僕が論及した、論者はすべて自らのイデオロギー的立場から自由ではありえないという考え方も、この存在被拘束の考え方から来ています。
 マンハイムは、こうした議論から「自由浮動的知識人=当時のいわゆる中産階級」のみが、こうしたイデオロギー的拘束から自由たりえて、それゆえ公平な判断を行いうる。それゆえ、彼らの代表の集団たる国際連盟こそ、世界に平和をもたらしうると考えたのですが、実際の歴史は、知識人が、上記5つの類型の政治的立場に喜んで身を投じるところから、奇妙にねじれて動いてきました。
 だから僕は、むしろ、資本家以外の労働者とひとくくりとして、世界の大多数の人々共通の利害に立つ必要性を考えるべきだと思ったわけです。
 でも、実際には、国内だけを見ても、ホームレスから高収入の技術労働者までひとくくりにするのは難しい諸集団があるのですけが、それでも基本的人権といった概念で共通利害を見い出すことはできると考えました。
 というわけで、結論を書くと、議論の際の用語の定義の厳密さは非常に重要というid:betch-sunさんと同じ結論になったのでした。
 以上は、僕の前回の議論を整理するための思考の道筋でした。


 もう一つ、哲学的議論として、認識の客観性の問題があります。
 上記の議論では、社会科学を含めた科学的認識をベースに議論を進めていました。それでは、科学的認識を保障するものとは何か? つまり、ポストモダン派の哲学者やその支持者がよく言及する「近代的合理主義は、そんなに信頼すべきものなのか?」という議論に関して少し書きたいと思います。
 合理主義とは何か? それを問う場合、言語とは何か、をまず問うべきでしょう。言語とはそもそも、こうした議論の前提となるものです。哲学者広松渉は、マルクス後期哲学(ドイツイデオロギー以降の思想)を援用しながら、カント的物自体への注視から、関係性の重視へと認識論的議論を転換しました。つまり、発言する自己、それを聞く他者との関係において、あるものがあるものとして共通に認識される関係性こそ本質的であり、「物自体」の存在は、その場合には問題とならない。
 ここにあるコップが存在すると共通認識にいたる場合には、ある人にとって、ある質量と素材感として知覚されるコップが、別の人に同様に認識される必要があります。言語にしても、同様で、共通の定義が認識される必要があります。
 コップといった個別具体的な存在に関しても、イデオロギーや、平和、戦争といった類概念・抽象化段階の高い言語でも、その存立構造は共通しています(『世界の共同主観的存在構造』ISBN:4061589989)。もちろん、そこで議論される抽象度の高い概念自体の正確性は、ラディカルに論証される必要が有る。そして、その場合に必要となる道具が、論理学・弁証法といった推論の方法となるわけです。

世界の共同主観的存在構造 (講談社学術文庫)

世界の共同主観的存在構造 (講談社学術文庫)

 しかし、とにもかくにも、僕等の住む一般社会においてこうした論理性や合理性といった概念を生み出す土壌とは何か?という、一般言語レベルでの問い(メタレベルではない)があります。それは、ポストモダン派が「そもそもそんな考え方自体が虚偽である」という以上に根深いものです。なぜなら、それは一般社会における共通認識なのだから。それこそ、僕らが暮らす近代産業社会における経済生活(つまり、職場生活です)によって、毎日生み出される概念ではないかと考えます。不合理なことをすれば、不合理な結果しかえられないというのが、産業社会の鉄則です。
 もちろん、祝祭空間におけるカリスマの出現という事態はありうる。それが、小泉や石原といった、不合理な存在を生み出していることも事実です。しかし、こうした魔術的存在は、その人気の構造を社会科学的に解明すれば、あるていど脱魔術化できる。ファシズム運動も同様です。
 それゆえ、記号論的な認識の客観性も確保できるのではないかと、僕は思っています。
 もうひとつ、こうしたイデオロギーから脱出しようとする動きとしての、分析哲学の言語の物理学化といった議論もあるのですが、これは大庭健さんが『はじめての分析哲学』(ISBN:478280055X)で指摘していたように、この哲学流派自体に有る言語に関するイデオロギー性の軽視に問題があるといった考えに同意しています。
 記号論における共通認識の問題、論理学を使った定義の厳密化、同時に、言語の発生における社会的拘束性の問題とその物質的基礎、この3点を総合的にとらえるとき、認識の客観性も確保されるのではないか、という感触を僕は持っています。
 ちなみに、大場さんは、分析哲学の中ではラデイカル翻訳を評価してます(と書いたのですが、本が見つからなかったので、この部分は保留にしておいてください)。
 とりあえずこれで、僕の中では一段落したのではないかと思います。詳しくはまた次の機会に。