大久保彦左衛門、真田幸村と激突する!

雪だるま、神田に行ったついでに真田丸!(1/16〜17)

毎年大好評をいただいている嬬恋の雪を詰めた雪だるまが並ぶイベント「神田雪だるまフェアー」も今年で15年目。そして今年も私は4人で組んで、上州名物の焼き饅頭を担当です。人出も多いから、あっという間に完売でした。

今年も合間を見て、駿河台の杏雲堂病院敷地内にある佐々木政吉像をそっと参拝。この人は浅間高原(南木山)払下げの陰の大功労者。その話は以前にも取り上げましたから今日は此の敷地が昔、大久保彦左衛門の屋敷なので、真田丸にまつわる対決のお話し。

三河の武士で家康の側近だった大久保忠教(通称:彦左衛門)は、家康が上田城築城を全面支援したのに意に反する真田昌幸の動向を捉え、室賀正武に暗殺を命じましたが失敗し、翌年に断交されると徳川7,000の兵で上田城にいる真田2,000の兵を殲滅するため信州に遠征したのです。第1次上田合戦(1585年)です。有利と思われた徳川軍は昌幸の智謀、知略の前に敗れてしまったため大久保氏の活躍は評価されず辛酸を味わったのでした。時代は下り関ヶ原で勝利した家康は大阪夏の陣大阪城を包囲し最後の決着に挑みます。圧倒的な兵力の前に豊臣軍は統率を欠きましたから、家康軍に安泰ムードが流れていたのかもしれません。突如3,000とも言われる真田の一軍が猛進して家康の本陣に迫ると、虚を突かれた家康の旗本は総崩れとなったので家康もこれまでか!と覚悟した時、迫りくる赤鬼のような真田幸村勢に、果敢に立ち向かった一隊がありました。槍奉行の大久保の隊でした。
のちに、命を守った大久保忠教に家康は葵の紋が入った陣羽織を下賜したと伝わっています。上田合戦で味わった思いが去来したのか最後に真田から唯一身を呈して挑んだ大久保は、後世に「三河物語」を残しています。そして家康が駿府城で亡くなると、駿府に詰めていた旗本たちのために江戸城近くに屋敷が与えられ、その名も「駿河台」と言われ、大久保彦左衛門の屋敷もその一角にありました。そこは江戸と信州の武将の魂魄が激突した時代を彷彿させる場所でした。

  写真上:大久保彦左衛門跡地の写真はHPよりお借りしました。
   下:第15回雪だるまフェアー小川町広場イベントの写真は雪だるま実行委員会のHPよりお借りしました。