職業訓練雑感

2011-05-13

明治教育の呪縛−「学問」のために設立した学校

07:24

 第2章 学校の変質

  2.「学問」のために設立した学校

 以上のような学校では本来の意義での文明開化を担う人材の育成にははなはだ心許ないといえよう。そこで、文部省設立翌年の明治5年9月5日に、本格的な「学制」を制定した。「学制」とは今日の「学校教育法」のような内容で109章(条)からなる(後に213章)。全文は膨大なので、要点を紹介すると次のようになる。

 「学制」は、全国を8区域に分けて、大学区とし、それぞれを32学区に分けて中学区とし、これを210に分けて小学区とした。この結果、都合8大学校、256中学校、五三、七六〇の小学校を設立する構想であった。すなわち、フランスの制度を真似たピラミッド学校システムの構想であった。

 平成20年の国公私立の学校は、大学が七百六五校(私立七七.〇%)、高等学校が五千二百四三校(同二五.二%)、中学校が一万九百十五校(同六.七%)、小学校が二万二千四百七六校(同〇.九%)であり、当時の計画と比較すると中学校以上の学校は飛躍的な拡大を見ていることが分かる。しかし、少子化とはいえ当時よりも人口は増えているが何故か小学校については今日でもその構想が実現していないのみではなく、近年の統廃合により地域に密着した小学校という「学制」の目標からはますます遠のいている。

 小学校が今日よりも多く構想されていた理由は、寺子屋からの連続性であろう。寺子屋江戸末期には全国に3万、あるいは5万が設立されていたと推計されている。そして、一八七五(明治8)年段階によれば、小学校は新築も18%あったが、寺院40%、民家33%、その他の借用9%と最も多くは寺院だったことが物語っている。

 この「学制」は上のような学校制度を実施するために、第21条に「小学校ハ教育ノ初級ニシテ人民一般必ス学ハスンハアルヘカラサルモノトス」と教育の義務制を宣言したのである。

 「人民一般」とは「華士族農工商及婦女子」を意味する「四民平等」の意である。この四民平等の義務教育制度は、当時の世界の中では、先進国ではアメリカでしか試みられていなかった。ヨーロッパ諸国では未だ貴族のための学校が主であり、いわゆる庶民の義務教育制度がようやく貴族の学校とは別途に設立され始めたに過ぎなかったのである。「学制」で、四民平等に小学校への入学が求められたこの構想は極めて日本的な制度を確立することになった。

 このような、四民平等の進んだ学校制度を確立しようとした背景には、人材の登用にあった。しかし、政府の求めるその人材となるためにはピラミッドの階段となっている選抜制度を駆け上がらなければならなかった。とはいえ、若者全員が最高学府の大学に入れるわけはない。多くの者は途中で篩い落とされる。ここに、近代学校制度の逃れることの出来ない選抜制度という裏面が併存することになる。今日のわが国の教育の問題は、ここから始まっているのである。

 「学制」第12章では例外として私塾、家塾も認めているが、寺子屋藩校や郷学を廃止して、まず学校を政府設立する意図を人民に説明しなければならない。このために人民へのPRも兼ね、「学制」を解説した「学事奨励に関する被仰出書」(以下「学制序文」という)を同時に公布した。

f:id:t1mannen:20110513081607j:image

f:id:t1mannen:20110513080618j:image

 「学制序文」の全文は前頁に示したように九〇〇字ほどの短い文章である。用いられている漢字には読み方のルビを右側に、意味のルビを左側に振っているものもある。「学問」は4回用い、読みを1回「がくもん」と附している。特に「学制」に「がくもんのしかた」、「学校」に「がくもんじょ」、また「不学」に「がくもんせぬ」と意味のルビを振っていることが注目される。学校で学ぶという意味は学問をすることだったのである。そして「学」にルビを「がくもん」と附しているのが3回ある。ルビは附していないが名詞としての「学」が2回ある。この他、動詞として使用している「学ぶ」が5回ある。このように「学制」、つまり学校の設立は「学問」のためと解説したのである。このことは前章で述べた文部省設立目的と同じ立場であったことが分かる。

 その主眼は「学問は身を立るの財本」という文に表れている。つまり、立身の為だから「父兄たるもの……子弟をして必ず学に従事せしめざるべからざるもの」であるとした。しかし、学費は「官に依頼」する「弊を改め」るべきであるとした。「学問」とは人民の立身のためであり、そのために必要な経費は自分で支払うべきである、とした。この学費の人民負担が後に述べる牾惺讃討討ち畛件へ発展するのである。

 この「学制序文」の中にも「教育」は使われていないことが分かる。むしろ、「学問」とは「智を開き才芸を長ずる」ことだったのである。これは第4章で述べるように"Education"の概念に近いことが分かる。この「学制序文」の最後には地方官あてに次のような指示が記されていた。

右之通被 仰出候条地方官ニ於テ辺隅小民ニ至ル迄不洩様便宜解釈ヲ加ヘ精細申諭文部省規則ニ随ヒ学問普及致候様方法ヲ設可施行事

 この指示に見るように、その意味は本文と差異はなく、「学問」の普及の指示だった。「学制」は人民に「教育」ではなく「学問」を義務化したのである。

 「学制序文」は「学制」交付の意味を国民に理解させる解説文であった。つまり、政府は国民に対し学校の設立は「学問」の実施であることを訴えたのである。しかし、ほとんどの教育研究者の論は「学制」を教育の始まりだったとしている。すると、政府は「学制序文」により国民を欺こうとしていたことになる。しかし、研究者の論では政府が国民を欺いたとする論はない。第1章でも紹介したように、文部省設立も「学問」の実施だったことを考えると、政府が国民を欺こうとしていたとは考えられないのである。

 確かに、当時の政府高官のしたためた文書には「教育」の文字が無いわけではない。ただ、当時の「教育」と「学問」とを意識的に区別して用いていたのか、ということも解明されなければならない。何故なら、第3章で紹介するが、江戸時代自動詞としての「教育」であったし、「学問」と「教育」との区別を指示したのは初代文部大臣森有礼であり、それは明治18年だったからである。

 ここで現代の我々が注意すべきことがある。それは「学問」に関する歴史的意味である。すなわち、学問は、「士人以上の事」としていたように、近世までは封建制の下では基本的に庶民がすることではなかった。しかし、第一章で紹介したように文部省設立、そしてこの「学制序文」によって、学問は庶民、人民もすべき事とされたのである。つまり、学問はまさに四民平等のものとしての宣言されたことを意味している。「学制」が公布された年の3月に「初編」の初版が発行されて一世を風靡した福沢諭吉の『学問ノスゝメ』は「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」とし、政府の「学制序文」の方針と差異が無いことが分かる。この意味でも「学問の義務」は極めて重要な転換を示しているといえる。

 そして、「学問」が規定されたことは、「教育」とは異なる点で重要な意味がある。それは、学問と教育ではそのベクトルが異なることである。「学問」とは、学習者自らが学ぶという意味であり、定められた内容は学ぶ者に任せられ、「才藝ヲ生長」することが目指される。これに対し、「教育」とは上に立つある者が定められた内容を指導することになる。このように、両者は学習内容を規定する者が異なり、指導の方向が異なるといえる。この意味で、「学制序文」の「学問」の規定は重要な意味があるのである。

 『学問ノスゝメ』は人民に学問(勉学)を勧めたのであった。ただ、福沢が実学を唱道した学問観は、「実学」にサイエンス瓩反恐礁召鯢佞韻討い燭茲Δ法近代科学への傾倒を主張していたのである。もっとも、当時の学問観は、自由主義的、功利主義的な学問観であり、今日の教育の混乱に無縁とはいえないが、封建時代の身分制を打破する学問の位置づけとして意味があったといえよう。

 なお、「学制序文」には既に今日的な問題が提起されているといえる。例えば、「学ざる事と思ひ一生を自棄するもの」とは正にニート瓩琉佞任△襪箸い┐茲Α

 とはいえ、四民平等に小学校に入れさせるというこのような開明的思想の制度化は、岩倉具視一行の欧米視察の間に、大隈重信等の急進的開明派の方針が具体化されたものである。つまり、「学問」を人民に与えるために学校を設立したことが分かる。しかし、その開明的理念を保障する制度が伴わなかったため、新たな問題が発生するが、第4節にて紹介したい。

 以上のように、学校の意義を人民に説いた「学制序文」は文部省設立を周知した布達と同様に「教育」を用いていなかった。そして、学校の役割を表す用語として「学問」の言葉で説明していたことは軌を一にしていたことが分かる。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/t1mannen/20110513