『猫のゆりかご』カート・ヴォネガット・ジュニア
ノーベル賞を受賞したときの講演
父がノーベル賞を受賞したときの講演を、どこかでお読みになったことがありますか? これはその全文です。”みなさん。わたしが今こうして、あなたがたの前に立っているのは、春の朝、学校へ行く八つの子供みたいに、いつも道草ばかりくっていたからです。何でもいい、立ちどまってながめ、なぜだろうと考える。何であってもいい、そしてときにはそこから学ぶ。わたしはしあわせな人間です。ありがとう。”
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.26)
アラモゴードで行われた日の話
たとえば、最初の原爆実験がアラモゴードで行われた日の話をご存知ですか? 実験が済んで、アメリカがたった一個で都市を消滅させる爆弾を保有したことがはっきるすると、一人の科学者が父のほうをふりかえって言いました、”今は科学は罪を知った”父がどういう返事をしたかわかりますか? こう言ったのです、”罪とは何だ?”
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.32)
ブリード博士の講演
「あの人、卒業式のときスピーチする予定だったの」とサンドラが言った。
「誰が?」と、わたしはきいた。
「ハニカー博士ーー親父さんよ」
「なんて言った?」
「それが来なかったのよ」
「じゃ、スピーチはなしかい?」
「ううん、あることはあったわ、あした、あなたの会うブリード博士がね、もう息がとまりそうみたいにとんで来て、すこし話をしたわ」
「なんて言った?」
「たくさんの人が科学にたずさわってほしい、って言ったわ」サンドラはこっけいだとも思っていないようだった。むかし聞いて感動した教えを思いだそうとしてた。義理がたく、手探りするように、彼女は復誦した。「こう言ったわ、この世界が不幸なのは……」
そこで言葉を切り、考えていた。
「この世界が不幸なのは」彼女はためらいがちに続けた。「人びとが未だに迷信にこだわり、科学的であろうとしないからです。それからこう言ったわ、もしみんなが科学をもっと勉強すれば、世界から不幸はなくなるでしょう」
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.38-39)
ナヴァホ族
本物のナヴァホ族がある日やってきた。それで言うんだ、ナヴァホ族は円錐テントなんかに住んじゃいないとな。”かわいそうに”と言ってやったよ。
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.40)
ミス・ペフコ
博士はふりかえり、柔和な眼差しで青白いパイの海を捜すと、いまの声の主、ミス・フランシーン・ペフコという女性を見つけだした。ミス・ペフコは二十、健康そうで、どこか間の抜けた感じのかわいい女ーーつまり退屈な正常人。
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.46)
科学者と他の人たちの違い
「そのうちわかるだろうが」とブリード博士が言った。
「考える量というのは、みんな同じさ。科学者はある一つの方向に考える。ほかの人たちは、それぞれ違う方向に考えるんだ」
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.47)
新しい知識はもっとも高価な日用品
「寛大とかそういうことじゃないんだ。新しい知識は、地上でもっとも高価な日用品だよ。関わり知る真実が増えるほど、われわれは豊かになる」
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.54)
エミリーの綺麗さ
「きれいな人だったんでしょうね、エミリーは?」
「きれい?」彼はうつろにくりかえした。「あんたねぇ、もし神さまがだ、わしに女の天使をはじめて拝ませてくれたとする。わしはポカンと口をあけるだろうが、それは羽が生えてるのに驚いたからだ、顔じゃない。この上ないというきれいな顔には、もうお目にかかっとるんだから。このイリアム群で、片思いであれ何であれ、エミリーに惚れてなかった男はいないといっていいだろう。望みどおりの男といっしょになれたんだ」彼は床に唾を吐いた。
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.78-79)
キャッスル
利己的な時代のキャッスルは、トミー・マンヴィル、アドルフ・ヒトラー、ベニト・ムッソリーニ、バーバラ・ハットンとならぶ、タブロイド新聞記者のおなじみだった。その名声は公職とアルコール中毒と無謀運転と徴兵忌避の上にきずかれていた。また彼は、数百万ドルを湯水のように使いながら、人類には迷惑以外の何をももたらさないという、目を見張る才能を持っていた。
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.95)
ボコノン
キャッスルの本から得た知識によると、ボコノンは一八九一年に生まれた。出生地はトベーゴ島、イギリス国籍のニグロで、家の宗教は監督協会派であった。
彼は、ライオネル・ボイド・ジョンスンと名づけられた。
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.112)
ちびっちょは具体的にはどんな人間
「ちびっちょが、具体的にはどんな人間かまだ話してくれてませんよ」
「ちびっちょとは、自分ですごく頭がいいと思っている人間のことさ。黙ってることができないんだ。誰かが何か言えば、必ず議論をふっかけてくる。これこれが好きだとあんたが言ったとする。すると、これこれこうだからそれは間違ってると教えてくれるんだ。ちびっちょとは、始終全力をあげて、相手が間抜けなことを思い知らせようとしてる。相手が何を言おうと知っちゃいない」
「あまり魅力的な正確とは言えませんね」
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.138)
ボコノンの副業と本業
ボコノンは副業を「生きていること」と書いていた。
本業を「死んでいること」と書いていた。
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.143)
科学
科学ーーおまえには、科学がある。科学こそ、この世でいちばん強力なものだ。
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.154)
月のない夜の闇のなかにかかげられたところではない
絵具を黒く、ぶよぶよと厚塗りした上に、ひっかき傷がつけてある。ひっかき傷は蜘蛛の巣みたいなかたちをしている。これは、人間の無益な行為が織りなすねばねばした網が、乾くようにと、月のない夜の闇のなかにかかげられたところではないだろう、とわたしは想像した。
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.171)
彼は絵具にまみれた両手
彼は絵具にまみれた両手を、まるでそこに猫のゆりかごがかかっているみたいにつきだした。「おとなになったときには、気が狂ってるのも無理ないや、猫のゆりかごなんて、両手のあいだにXがいくつのあるだけなんだから。小さな子供はそういうXを、いつまでもいつまでも見つめる……」
「すると?」
「猫なんていないし、ゆりかごもないんだ」
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.172)
真実は民衆の敵だ
真実は民衆の敵だ。真実ほど見るにたえぬものはないんだから。そこでボコノンは、見かけのよい嘘を人びとに与えることにを自分の仕事と心得るようになった
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.178-179)
だからおれは言ったのさ
「どういうわけで追放されたんですか?」
「自分で考えついたのさ。自分とその宗教を追放してくれとマッケーブに頼んだんだ。人びとの宗教生活にもっとはりが出るように。そうだ、そのことをうたった短い詩を書いているよ」
キャッスルはこんな詩を引用した。これは『ボコノンの書』にはのっていない。だからおれは言ったのさ
グッドバイ、大統領
政府に反逆しなければ
よい宗教は作れない
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.179)
アンジェラ
ブルマン車の給仕の息子の曲に合わせて、即興演奏<インプロバイズ>する。それは、澄みきったリリシズムから、かっきむしるような官能へと変り、さらに怯えた子供の金切り声の狂騒へ、ヘロインの生みだす悪夢へと達した。
彼女の滑奏<グリツサンド>は、天国と地獄とそのあいだにあるすべてを語っていた。
こんな女からこんな音楽が出るとは、精神分裂病か悪魔のしわざとしか考えられない。
わたしの髪は逆立っていた。アンジェラが床をのたうちまわり、口から泡を吹いて、バビロニア語をベラベラしゃべるさまをまのあたりにしているようだった。
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.187)
成熟とは苦い失望だ
ボコノンはこう言っている、「成熟とは苦い失望だ。治す薬はない。治せるものをしいてあげるとすれば、笑いだろう」
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.204)
部屋の壁は白かった。
部屋の壁は白かった。だが”パパ”の放射する熱があまりにも熱く、明るいので、壁全面がけばけばしい赤にそまっているように見えた。
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.222)
恋するものは嘘つきだ
恋するものは嘘つきだ
自分自身に嘘をつく
正直者には恋はない
その目はまるで牡蠣のよう!
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.239)
人間は酸素を吸って、炭酸ガスを吐くんだ
「人間は酸素を吸って、炭酸ガスを吐くんだ」わたしはモナに声をかけた。
「なあに?」
「科学さ」
「ああ」
「人間が長いあいだかかってやっと理解できた、生命の秘密の一つだよ。生き物が吐き出したものを生き物が吸い込む。逆もまた真なり」
「知らなかった」
「これで覚えたね」
「ありがとう」
「どういたしまして」
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.272)
蟻はなぜ水のない世界に生き残ることができたのか
蟻はなぜ水のない世界に生き残ることができたのかーー実験はたちまちこの謎を解き明かした。昆虫類で生き残ったのは、わたしの知るかぎり、蟻だけ。彼らはアイス・ナインのかけらにボールのようにしがみつくことで問題を解決した。体温を中心に向かって放射するうちに、半数は死ぬ。だが終わった時には、一滴の水ができあがっているわけである。水は飲料となり、死体は食料となる。
(『猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)』p.284)