村上春樹『ノルウェイの森 下』

押しつけたり押しつけられたり

「でもこの前の日曜日ね、私すごくホッとしたのよ。
(中略)
あんなにホッとしたの本当に久しぶりだったわよ。
だってみんな私にいろんなものを押しつけるんだもの。
顔をあわせればああだこうだってね。
少なくともあなたは私に何も押しつけないわよ」
「何かを押しつけるほど君のことをまだよく知らないんだよ」
「じゃあ私のこともっとよく知ったら、あなたもやはり私にいろんなものを押しつけてくる?
ほかの人たちと同じように」
「その可能性はあるだろうね」と僕は言った。
「現実の世界では人はみんないろんなものを押しつけあって生きているから」
「でもあなたはそういうことしないと想うな。なんとなくわかるのよ、そういうのが。
押しつけたり押しつけられたりすることに関しては私はちょっとした権威だから。
あなたはそういうタイプではないし、だから私あなたと一緒にいると落ちつけるのよ。
ねえ知ってる?
世の中にはいろんなもの押しつけたり押しつけられたりするのが好きな人ってけっこう沢山いるのよ。
そして押しつけた、押しつけられたってわいわい騒いでるの。そういうのが好きなのよ。
でも私はそんなの好きじゃないわ。やらなきゃ仕方ないからやってるのよ。」

(村上春樹ノルウェイの森 下』p.45-46より)

マスターベーション

「ねっ、ここにいる人たちがみんなマスターベーションしているわけ?シコシコッって?」
と緑は寮の建物を見上げながら言った。
「たぶんね」
「男の人って女の子のこと考えながらあれやるわけ?」
「まあそうだろうね」と僕は言った。
「株式相場とか動詞の活用とかスエズ運河のことを考えながら
マスターベーションする男はまあいないだろうね。
まあだいたいは女の子のことを考えながらやるんじゃないかな」
スエズ運河?」
「たとえば、だよ」

(村上春樹ノルウェイの森 下』p.52より)

英語の仮定法現在と仮定法過去の違い

「ねえワタナベ君、英語の仮定法現在と仮定法過去の違いをきちんと説明できる?」
と突然僕に質問した。
「できると思うよ」と僕は言った。
「ちょっと訊きたいんだけれど、そういうのが日常生活の中で何かの役に立ってる?」
「日常生活の中で何かの役に立つということはあまりないね」と僕は言った。
「でも具体的に何かの役に立つというよりは、そういうのは物事を
より系統的に捉えるための訓練になるんだと僕は思ってるけれど」

(村上春樹ノルウェイの森 下』p.57より)

世の中というもの

「世の中というのは原理的に不公平なものなんだよ。それは俺のせいじゃない。
はじめからそうなってるんだ。俺はハツミをだましたことなんか一度もない。
そういう意味では俺はひどい人間だから、それが嫌なら別れろってちゃんと言ってる」

(村上春樹ノルウェイの森 下』p.102より)

面白い顔

「ワタナベ君ってよく見るとけっこう面白い顔してるのね」と緑は言った。
「そうかな」と僕は少し傷ついて言った。
「私って面食いの方なんだけど、あなたの顔って、
ほら、よく見ているとだんだんまあこの人でもいいやって気がしてくるのね」
「僕もときどき自分のことそう思うよ。まあ俺でもいいやって。」
「ねえ、私、悪く言ってるんじゃないのよ。私ね、うまく感情を言葉で表すことができないのよ。
からしょっちゅう誤解されるの。私が言いたいのは、あなたのことが好きだってこと。
これさっき言ったかしら?」

(村上春樹ノルウェイの森 下』p.151より)

ユニーク

「ねえ、ねえ、何か言ってよ」と緑が僕の胸に顔を埋めたまま言った。
「どんなこと?」
「なんだっていいわよ。私が気持ちよくなるようなこと」
「すごく可愛いよ」
「ミドリ」と彼女は言った。「名前つけて言って」
「すごく可愛いよ、ミドリ」と僕は言いなおした。
「すごくってどれくらい?」
「山が崩れて海が干上がるくらい可愛い」
緑は顔を上げて僕を見た
「あなたって表現がユニークね」
「君にそういわれると心が和むね」と僕は笑って言った。
「もっと素敵なこと言って」
「君が大好きだよ、ミドリ」
「どれくらい好き?」
「春の熊くらい好きだよ」
「春の熊?」と緑がまた顔を上げた。「それ何よ、春の熊って?」
「春の野原を君が一人で歩いているとね、
向うからビロードみたいな毛なみの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。
そして君にこう言うんだよ。『今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。
そして君と子熊で抱きあってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ」

(村上春樹ノルウェイの森 下』p.154-155より)


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