オンザロード77「遥か過ぎる尾瀬、遠過ぎる空」

「車両進入禁止」とあった
大清水とは多分地名であろう。
ここより尾瀬沼まで7,5キロ
看板は僕に歩けと言った
僕は往復15キロの道のりに 覚悟のうなづきを見せた
ここではまだ僕は何も知らぬ ただの観光客であった
遥かな尾瀬 遠い空

歩き出した僕の横では、笹の葉が小動物のように上下に揺れ
さらにその奥側では 聴覚で見る川と鳥が呼吸をしていた
歩行速度時速5キロ
砂利がスニーカーの下で痛い
前も後ろも一本道
僕以外は誰も見当たらぬ一本道
ただ無限の果てしなさだけが 欠伸しながら横たわっている
つられて欠伸を一つ漏らす僕は
ここでもまだ観光客
1キロも歩いていないのに
2キロくらい歩いたと錯覚している

そろそろ中間地点である休憩所が見えてもいい頃ではないだろうか
肉体内部にはアドレナリンが分泌され
肉体外部には汗が吹き出し始めた頃
朝の雨に寒さが心配された高原地帯
けれどももうパーカーはいらない
靴下もいらない
過去もいらない
未来もいらない
僕の要求以前に果てしなさだけが存在してしまっている
山小屋はまだか
山小屋はまだか

働けど働けど我くらし楽にならず
歩けど歩けど山小屋見えず
そういうシステムなのだ キャピタリズムの本質は
そういうふうにプログラミングされているのだ この一本道の正体は

また歩き また歩き また歩いた
歩く為に その先へ 
歩く為に歩き
さらにその先へ歩く為にまた歩き
まるで僕は 歩く為に生まれて来た人であった
遥かな尾瀬 遠い空・・・・

この空とは尾瀬沼であり
遥かな尾瀬とは アキラメの言葉であり
僕は呑気な観光客のはずであり
地球は丸いはずであるのに
どこまで歩いても平面であり
すでに何度も通り過ぎるほどの工程に
山小屋は一度も姿を見せず
まだ歩く まだ歩く まだ歩く?
まだ歩く まだ歩く まだ歩く?・・・・・

一之瀬休憩所が見えたのは果てしなさのただ中であった
果てしなさの中にいて 現在進行形で呼吸をしている僕は
ここまでの距離が長かったのか 短かったのか
もう 測りかねた
果てしなさはまだ続く
人生と同じで 途中では何も言えない
答えなき物語は続く・・・・・

突然道は細くなり
左耳のすぐ横を川が流れているかのように
黒ずんだ残雪が まるで春の筑紫のように
ところどころに顔を出し
愕然とする僕を
もう一つの顔の尾瀬が・・・・・これが
本当の姿であったが もう一つの顔の尾瀬
観光客気分の僕を 鼻で小馬鹿にするように笑った
もう
僕は・・・・・
観光客ではいられない
あらゆる能力を駆使して
全存在をかけて 遠い空へと辿り着く
看板は非情だった
尾瀬沼まで4キロ」
まだ半分も歩いてはいないのだ

道は次第に歩き辛くなり
両足は徐々に疲労を蓄積していく
そしてとうとう 道がなくなった
雪壁が道を塞ぎ 方向も そして正義も見失われた
現総理大臣が誰かも分からなくなり
今日の日付は混沌とした
そして次にとるべき行動が分からなかった
見えない道 ない道
僕は仕方がないから 色々と諦めた
諦め 引き戻そうとした
けれども果てしなさには続きがあったのだ 
果てしないほどの続きが・・・・・

中年夫婦がイスに座り休憩をしていた
そこを通過する僕は 「おはようございます」とあいさつをした
「まだ大分ありますかね?」
「もう三平峠ですから、あと1時間ちょっとじゃないですかね」
これは10分ほど前の会話である
閉ざされた雪壁の前に立ち
確固たる言い分けを待つように 中年夫婦を待った

どうやらこの雪の群れが 道であるようであった
スニーカーは水分を含み 重量を増していた
林立する木々にくくられたピンク色の目印 その布切れを
僕は赤とんぼを追いかけるように追った
果てしない道 果てしない日々
いつ終わるとも知れぬ道 そして日々
僕はユダの荒野を行くキリストを思い出していた
死んでしまった友人のことを思い出していた
死んでしまった「僕を愛した君」のことを思い出していた
そして僕は生きている と考えた
まるで歩く為に生きている と笑った・・・・・
遥か過ぎる尾瀬 遠過ぎる空

堂々巡りのように続くさほど変わらぬ風景が
僕を内部から苦しめ
足を滑らせた雪が
外部から僕を傷つけた
生命が宿る肉体で
カラッポになりながら歩きたまう肉体で
相反するように存在する肉体で
事実はただ存在する肉体で
僕は牛馬のように歩いた
僕は働きアリのように歩いた

「国光日光国立公園」 立て看板があり
それは もう少し歩けば辿り着けることを意味した
歩く 
もくもくと歩く
下り坂に入った
歩く
もくもくと歩く
歩くだけだ
ただ歩く
下り坂だ
前を行く中年夫婦のさらに奥側に
湖のようなものが見える
アレが尾瀬か 尾瀬沼
僕はぐんぐん下る
雪国で鍛えられたスノースポーツを真似て下る
視界のものは 僕が目指してきたものだ
アレが尾瀬沼
山小屋の間を潜り抜け
スノーモービルの横を滑り
僕は 今 やっと辿り着く
尾瀬沼という 遥か遠き空に辿り着く・・・・・

カサが三本目の足となってくれた
雨を心配し持ち出したカサに感謝
中年夫婦に感謝 あなた達がいなければ僕は
意気地のない人で終わっていたでしょう
エスキリストに感謝
今はなき友人に感謝
その時僕は 観光客ではなかった
真の 真の
真のハイカーであった
沼は氷が張り
水芭蕉の花はどこにも咲いてはいなかった
あの歌の出だしは確か
「夏が来れば思い出す」であったな
今は五月か 僕は思わず吹き出してしまった
遥かな尾瀬 遠い空

幻想的な霧の中に揺れる山々を眺めながら
感動を秘め
ここが尾瀬沼と噛みしめ
歩いてきた苦闘を思い浸り
そして振り返る
僕の足跡のすぐ横には帰り道が
目に見えぬも
小川のように流れているのを聞いた
そうか・・・もう半分・・・・・・