日本人の国民性の危うい部分を知るべき時が来ているかもしれない

日本企業の『戦略性のなさ』


日本企業にいると多かれ少なかれいつも感じるのは、『戦略性のなさ』だ。おそらく今では大抵の日本企業が抱える問題として認識されてきているようにも思う。日本の一番の希少資源は経営者、と言われるのもこれと同根の問題と言える。


ではお前には『戦略性』があるのか、と言われれば、身もふたもないところはあるのだが、少なくともキャリアのかなり早い段階から、自分の戦略性の不足を知って試行錯誤してきたことは確かだ。自分の『戦略性』の不足を何時も念頭において、反省を繰り返して来た。そういう意味では、ソクラテスの『無知の知』ではないが、普通の日本のサラリーマンよりも、自分の『無知』は知っているつもりだ。どうにかしないと、といつも思って来たし、それゆえに、企業単位でも、国家単位でも戦略性がないことにはすごく敏感になってしまう。


これは、私自身のキャリアが、海外への商品導入であったり、海外進出であったり、海外との交渉であったりと、ずっと外国人の思考に向き合う機会が多かったからなのだと思う。自分が良い戦略家になれたかどうかは大いに疑問だが、少なくとも、戦略的であろうとする努力はそれなりに積み上げて来た。もっとも、昔は日本の大部分が企業一家としてがっちりまとまっていた(まとまっていると誰もが思っていた)ため、私のような企業の海外担当や商社マン等の比較的少数の者が悩めばすむ問題だったのかもしれない。大多数の人は企業内で自分の目先の職責を果たすことに集中していれば良かった。ただ、私達のような企業内の少数派の嘆きは、それでも非常に大きなものではあったし、そのうち大変なことになる、という気持ちも当然あった。どうやら、とうとうその『審判の日』が来てしまったのではないかと最近頓に感じる。



日本企業がグローバル化に邁進した時


小泉改革が進行していた頃、というより、バブル崩壊以降の行き詰まりの中、日本企業は、必ずしも本位ではなかったにせよ、所謂グローバル化に向けて改革を進めていた。(実力主義の人事制度、時価会計の導入準備、非正規雇用の拡大、株価重視の短期指向経営等々。)このような環境下、MBA *1 崇拝とでもいう風潮になってきて、沢山のMBA流経営手法やメソッドが導入された。もちろん、『戦略思考』『企業戦略論』と銘打ったものも物凄い勢いで企業に流入してきた。だが、リーマンショックを機に、すっかり夢が覚めてしまったような日本企業は多いのではないだろうか。私の個人的な感想を言えば、米国流が鼻につく軽薄ものはともかく、欧米流の経営手法に関わる知恵の集積は、特に日本企業に希少なこともあって、貴重なものが沢山ある。せっかく米国への傾倒が起きているうちに、できるだけ学んでおいた方がいいとは思っていた。もちろんネガティブなところは沢山あるし、日本の風土や日本人の心理には受け入れにくいものも多いから、そのまま飲み込むのは無理があるにせよ、自分たちを振り返る良い機会になればよいと考えていた。



振り子は大きく振れてしまった


だが、やはり日本人の国民性/パターンは、そんなに簡単には変わらないようだ。結局、本当に大事なエッセンスを把握することなく、今や『グローバリズム』に少しでも関係する物から縁を切ろうとしているように見える。前に取り上げた、『アースダイバー』で中沢新一氏が語るように、*2日本人の心の奥底には、グローバリズムの背後にある思想を強く拒否しようとする頑固な部分がある。それを私は今まざまざと確認しつつあるように思う。しかも、日本人は欧米人と比較すると、論理より感情で動く傾向がある。今は感情の振り子が大きく振れてしまっているようだ。そして、戦略的思考が必要なことなど、どこかにおいて来てしまったかのようだ。今こそ、一番必要なものなのにだ。



しかも、忌避感は強くても、感情のエネルギーが強いとも思えない。『忌避』し、『自閉』して、現実に直面することをやめてしまったかのような人が多くなっているように思う。企業単位で見れば、今の不況に対して、向かって行くわけでもなく、自己改革や自己研鑽に励むわけでもなく、ひたすら景気循環によって好景気が帰って来るのを座して待つという態度になる。『戦略性/思考』どころではない感じなのだ。


もちろん、私自身、グローバル化礼賛で、猫も酌しも欧米流経営という風潮には辟易していたくちだから、一度冷や水をかぶって火照った頭を冷やした方がいいとは思うが、せめて自分たちが何をしていたのか、何を捨ててしまったのか、そういう自分たち(日本人、日本企業)は一体何者なのか、この機会にじっくりと振り返ってみたほうがいいと思う。日本人なら、何もかも水に流してしまいたいと感じることは、ある程度仕方がないと思うが、少しだけ踏ん張ってみてはどうだろうか。今は本当にそれが必要な時期なのだから。



水に流したい日本人


この『水に流したい』という心境も、日本人の潜在意識を支配するなかなか払拭し難い心のくせとも言えるものだが、どうも深層意識の奥底に横たわる宗教観と関係しているようだ。例えば、多くの日本人は、敵や悪人、罪人でも死んでしまえばみんな『仏様』ということで、少なくともそれ以上恨んだりすることはない。すべて死ねば、禊が終わって(水に流されて)、純粋な魂に帰るというような思想を受け入れている。これと対極なのが、たぶん中国人(もちろんすべての中国人ではないだろうが)だろう。中国の歴史書を読むと、敵として恨んでいた相手がすでに死んでいることがわかると、しばしその墓を暴いて死体をむち打ったり、首を切ったりという場面に遭遇する。中国人の友人達に聞いても、死んで仏様になるというような発想はなく、敵や悪人は死んでも敵であり悪人であるようだ。日本人の考えは特殊とまでは言わないまでも、けして普遍的というわけではない一例だ。


それ自体にいいも悪いもないが、問題は、しばし日本人はこういう民族共通の意識とでも言うようなものに無自覚すぎることだ。そして、それは国際社会で日本人や日本企業が生残るにあたっての障壁になる。『潔く腹切り』『きれいに水に流す』というのは、日本人的にはいかにも気持ちのよいありかただが、外国人から見れば、無責任と責められてもしかたがない部分もあるだろう。また、反省して原因を分析して次に生かすより、あっさり潔く水に流すような姿勢は、しばし国や企業を破滅に導く原因となる。『潔さ』も必要だが、しつこいくらいの『粘り』は外交にも企業の交渉にも、特に外国人を相手にした場合、不可欠だからだ。偉人を例にあげれば、日本人が最も敬愛する人格の体現者である西郷隆盛西南戦争に散るようなことが連綿と続くことになる。



『白無垢』が最も高い境地


そして、今もう一つ日本人が国民性として是非自覚しておくべきことは、人間の最も高い境地を、『白無垢』『素直さ』『単純さ』とする傾向があることだ。それは一日本人として、私自身わからないではないが、一歩間違うと、『幼児化』『退行』へと向かいかねない。そういう傾向があると、複雑な状況を抱えて粘り強く少しでも自国や自社の利益を確保しようとする、政治的な人格を忌避することにつながりやすい。私は今回の政権交代は日本にとって必要なことだったと考えているし、民主党の理想主義も嫌いではない。だが、正直なところ、一方で『幼児化』『素直な子供化』の危うさを感じないではいられない。せめて、そういう国民性に自覚的であって欲しいと思うのだが、どうもそんなに都合良くはいかないようだ。



 坂の上の雲』を観て考えるべき時


司馬遼太郎氏原作の『坂の上の雲』がもうすぐNHKのドラマとして放映される予定*3だが、何ともタイミングがよい。日露戦争の時代というのは、史上日本が国際的に見て、もっとも『戦略的』であり、『戦略』で成功した時期と言えるだろう。国家存亡の危機を迎えても、戦略眼を持った人物があれほど現れて活躍できれば、世界史にも例を見ないほどの成果が生まれるといういい例だ。同時に、その日露戦争講和条約で、これもすばらしい交渉を展開して客観的には大成果をあげたはずの外交官小村寿太郎を、国賊と決めつけた日本人の『衆愚』とも言うべき『無意識』がその後悲惨な昭和の破滅につながったこともあわせて考えてみるといい。個々の人物評価で言えば、司馬史観に賛成できないという人もいるかもしれないが、自分を振り返る鏡として、せめて日本のリーダー/経営者には、初心に返って、考えて欲しいものだ。