よはくのてちょう

手帖の余白に書くようなことを

人生を変えた本?

うーん、人生を変えた本だって?
そりゃあ、よくはわからないけど。

たとえば太宰治の「人間失格」とか?
ずっと理系ないしは工学系に進むつもりだったのが「へぇ、小説ってこんなことまで書けるんだ。文学系もおもしろいかもね」と、結局そっちに進むことになったとは言えるんだから。

たとえば「アーサー・ランサム全集」とか?
ツバメ号シリーズね。
もう少し早く、高校生か中学生か、そんな頃に読んでたらたぶん変わってたとは思う。
もそっと起伏の激しい人生になってたかもしれないね。
冒険者になってたかもね。
たぶん、生き方は大幅に違ってたんだろうなあ。
と、想像してるだけだけど。

少なくとも、あなたには出会えなかったろう。

でも、それらも性格を変えるとか、人生観を変えるとか、そういうんじゃないなあ、たぶん。
性格を変えた本なんてないと思うよ。
まあ、人生変わってたら性格もそれにひきずられて変わってたとは思うのだけど。

考え方を変えた本は少しはあるかもしれない。
たぶんいくつかあると思うけど、ひとつ意識できているのは中学生か高校生のとき読んだ、
松浪信三郎「実存主義」(岩波新書)。
これも内容そのものもよりも、そのただの一節。
信仰のある者は自分のモノサシで測っているのではなく神というモノサシで測っているというようなことが書かれていたくだりだけ。
その辺ですこし考え方がシフトされたのは意識したんだ。

あと、大学の一回生の頃、ものごとへの許容範囲がずいぶん広くなったのは意識できてるんで、その辺で何らかの本との出会いはあったかもしれないとは思ってる。
なぜ人との出会いではなく本だと思うのかというと、そういう変化をボクにもたらしそうな人物とは出会っていないから。
これまでの人生で。
それもわからないけどね。
ただ、本との出会いというよりも、ボク自身の自然な変容にすぎなかったかもしんない。
アプリオリに持ってたものが出たのかもねえ。
その可能性の方が強いかなあ。

結局のところ、そんなこんなも小さな選択肢のひとつにすぎないんだろうと思うよ。
右の道を行っても、左の道を行っても同じ目的地には着ける。
じゃあ、その日そのときどっちを選ぶか。
結果は変わらないけど、何か異なっているかもしれない。
異なった体験をしたのだから。
30秒遅く着くことになったのだから。
それによって事故に遭わずにすんだとかそういうのは別にして。

今、クラシックを聴くかブルースを聴くか。
今、ベランダに出てタバコをすうか、すわないか。
今、上を向くか、下を向くか。
今、これを書いているか、めんどくさくなって書かずにやめてしまうか。
それら間断なく選び続けている行為や思考ひとつひとつによって、ほんの少しずつのズレってのが発生し、結果的に遠い未来の自分の姿はいくらか違ってくるのだろうと思ってる。
そしてAではあなたに出会い、A'ではあなたに出会わない、くらいの差があるかもしれない。
それによって、さらに誤差は大きくなる。

逆に大きな違いのある体験をしても、結果的にボクという存在が吸収してしまい、なんのズレも発生しない場合もあるかもしれない。
その辺はわからない。

ぷつっ、と枝から落ちた木の葉の軌跡はスーパーコンピューターでも計算できないという。
あまりにも数多くのズレの、不明の、要素がありすぎるから。
大まかなところはわかるにしても。
たぶん人間の航跡も同じなんだろう。
大まかには想像できるにしても軌跡と着地点は少しズレる。
結果を見るしかないってこと。
大まかなところを大きくずらすためには強い風がいきなり吹いてくるとかしかないんだろう。
本ってのはよっぽどうまくタイミングなどが合わないかぎりそんな体験にはなりえないかもしれない。
もちろんなる場合もあるんだろうとは思うけど。

なんにせよ、やっぱり、「変えた」「何か」なんてのは今の自分にも過去の自分にも未来の自分にもわからないのが普通だろうと思うんだけど、どうかな?
だから本当にはわからないってこと。
答えにゃなってないね?
そんな小難しいつもりの質問じゃなかったって?
まあ、せやね。