セミ

今年もセミが出てきました。
ここ何年か、深夜に帰宅することが増えました。そこで最近(去年)気づいたこと。
夜もセミがうるさい
それまでも夜に鳴いているおばかちゃんのセミもいなかったわけではないんですが、最近は夜12時を過ぎてもジージー鳴いている。そのセミたちはどこで鳴いているかというと、桜の木で鳴いているのです。
でも、そこらじゅうの桜の木全部のセミがうるさいわけじゃないんです。桜の木のすぐ近くに電柱があり、その電柱には街灯がついていて、夜中もその街灯によって明るい桜の木があるんですが、どうもその木にいるセミがうるさいのです。夜。
今でも鳴いているんですよ。夜にカエルがゲロゲロと大合唱するのが終わったかと思うと、今度はセミですよ。カエルの合唱はまだ心地よいけど、このセミはほんとにうるさい。安全のために街灯を増やす、ってのはわかるけど、ちょっと心地よくないんです。夜にセミの声って、なんか気味悪い感じもするんだよねぇ…

あれから二ヶ月

就職の内定をもらったものの、断り、先のない状態のところにどこぞの劇場の方から声をかけていただき、今はなんとか無職以上定職以下みたいなモラトリアム労働な感じの状態におちついております。

隠すべきは隠し、見せるべきは見せ、とまぁそんな感じで細々としっかり考えながらブログ書いていこうと思います。今、思っていることとか。今までも、その時点で思っていることを書いていたんだけど、ブログを書くことの明確な目的が研究とかつながりをもつ、ということではなくなった。
そこでまぁ方向の提示の決意表明というか、なんというか。自分に対してね。
覚えておくべきことを忘れることが多いので、しっかり考えながら書いていこうかな、と思う。公私混同して。今年度は手帳(ほぼ日手帳)買って、予定とかは書いてるし、仕事時のメモノートも別にあるんだけど、全体的にまとめる、というところがないので、ここに書いたらいいかなぁと思ったのですよ。

とはいってもこれといって具体的になにか、みたいなことでもないので。いや、そういうことがないわけでもないのだが、とりあえずどうでもいいことを書いておきます。
macが欲しい。Airmacと同時に。

働き始めて気づいたらもう二ヶ月。全然知識とかないし、考える力がないことがわかる。「うまくやれてる」とは全然思えない。「うまくやりたい」と毎日思っている。
社会ってのは(よいこともよくないことも)すごくしっかりしてて、かなりきっちりまわってる。余裕なんかないというか、なるべく余裕なきよう、に動くのが一番「効率的」なのかもしれない。いや、ゆとりなんか持っていられない状態にあるのかもしれないぜ。もはや全体が。
そんなことはそんなことで、考えなければならないことなのだが、今の僕は、五月に働いた日数と時間と出張にかかった経費を計算しなきゃならねぇ。月末だなぁ…、と。しみじみ。
お金がなければ生きていけないことがようやくわかったというか、すごく実感としてわかってきた。今までなんて甘えてきたのでしょう。僕は。一人で生きていく、のではなくて、一人として一つになる、って感じかなぁ。一人として一つになってないと、二人でもって一つになるのなんて、できっこないんだ。きっと。

何を言っているかわかりませんね。

なんか、いつも明確に具体的な話ができないので、かすんだ、または問題をかすめてしかいない言い方しかできないので、「わからない」ということになるのだろう。自分から見た自分も、人から見た自分も。
はい。もっとしっかり考えましょう。本と新聞読んでな。

小学校で美術ワークショップ

tabletalk2008-02-27

練馬区立美術館から出張した小学校での美術(と表現活動)のワークショップにアシスタントとして参加した。
簡単な内容とすると、ランドセルを装飾し、それをきっかけとし表現活動をする、といった感じ。
役割としては重要な位置にはいなかったということもあり、かなり自由というか奔放な行動をしていた。かと思う。実際、私のあの姿と動きようは、小学校だとどうなのか?とは思った。
最終的に演劇的なところにまとめて美術から表現活動、という形を目指した、が。いまひとつ表現活動、としておさまりきらなかったような感じ。
第一にランドセルの装飾という美術的作品作りがあって、それをベースになにかやる、といった終着点へのもっていきかただったので、表現活動に「結びつける必要」が出てきていたのだではないか。思うに「表現活動をすること」を第一において、そのために必要なもの(今回はランドセル)を作る、とすればもっとうまくいった、のかもしれない。ただ、いきなり表現活動をする、ということをいきなり持ち出すのは困難で、やはり「その気になる」ための段階が必要になってくるということなんだな、きっと。ついでに表現活動しようぜ、となるには相当の思い入れがなければならないだろう。表現活動はなにかの活動の付属品とはなりにくいんじゃないかなぁ〜とは思った。

あと今回、「うどん」というキャラクターになっていたが、演じるというよりは、設定を持つ、という程度であった。注目を浴びる役割は果たせたが、注目を浴びすぎた、という点は否めなかったと思う。おそらく、ふざけすぎて真似してはいけませんよ的な存在と化していたようにも思う。あんた、はしゃぎすぎだよって。というか、まぁ、特別な機会としては、演劇やってるとかいう変態さん(奇面組的な意味で)が着ましたよ、と思ってもらえれば幸いなんだけれども、しばしばやりすぎなときが見受けられるので、TPOによって、うまいことやれたらいいな。と。でもまぁなんつうか、キャラというか役割というか、そういう感じものもが(ようやく)見えてきたかもしれない。

小学校に出張してワークショップを行う場合の内容の問題、時間の問題、進行の方法、ほか条件とかはやはり多いな、と。とりあえずしっかりまとめずにこの辺で。gdgd

オリビエ クラリーノFスタンダードランドセル ブラック

オリビエ クラリーノFスタンダードランドセル ブラック


今回のような美術ワークショップなどに継続して参加している男は貴重だ、と言われた。182cm
あと、自分はなんて意図のない生き方をしてきたんだろうと思った。27cm

小学校で演劇ワークショップ

昨日、「世田谷パブリックシアター かなりゴキゲンなワークショップ巡回団」に団員として初参加。準団員的な(笑)
実質的には進行補佐、というか「遊び要員」のような立ち位置であった。構えずに、参加できたのでよかったとは思うが、途中、参加の姿勢を子どもにより近くするか、オトナ的にちょっと退くか、ちょっと考えた。結果的に最初のクラスは前者、後のクラスは後者となった。
参加していてクラスによっての違いが感じられた。先生の指導のしかた、子どもとのかかわり方によって異なってくるみたいで。この先生だからこのクラスなんだな、みたいなのがあとあと考えてみるとわかる。
ワークショップする場所や条件によって、状況、反応が大きく変化するのを実感する。内容は当然関わるけど。振り返っているうち、府中プロジェクト(府中市の通級学級を対象とした演劇ワークショップ)のときの様子を思い出した。

とりあえず、おぼえがきってことで。


「幸せになりたいなら、演劇じゃないことしたほうがいいよ。」