本間雅晴・富士子夫妻

「あまり気を落としにならないで。またすぐに、家族みんなでご一緒に、お茶漬けがたべられますわよ」
と陽気に言った。
「あなたは相変わらず、のんきだね。そんなにのんきな事態ではない。私は日本兵の残虐行為の詳細を聞いて驚いている。見通しは絶望的だとスキーン少佐もいっている。子供を頼むよ。ことに尚子の外出には注意して下さい。アメリカ兵に気をつけなさい」
そういう本間の、精神的にも肉体的にも疲れはてた姿を、富士子はあとは声にならず、ただ見守るばかりだった。
煙草の箱のなかには二つの白い包みが入っていた。一つには切りとった髪があり、もう一つは爪が入っていた。別れれる前に、きっと米軍は遺体を引き渡すのを拒否するだろうから、と本間がさびしそうにいったのを、夫人はあらためて想いだした。
(中略)
富士子は、記憶ますみずまで探って、夫の語るべき一言も落とすまいと、一語一語に力をこめて証言していった。
「フィリピンの人々にたいして友好的、平和的であろうと望み、それを軍政面に具体的に生かしておりました。しかしこれは日本政府の満足するものでなく、本間は間もなく任を解かれて日本に呼び戻されました」
こうした長時間におよぶ証言の最後で、弁護側の、あなたの目にうつる本間中将はどのような男性か、という質問にたいして、富士子はいった。
「私は東京からこのマニラへ、夫のために参りました。夫は戦争犯罪容疑で被告席についておりますが、私はいまもなお本間雅晴の妻であることを誇りに思っています」
被告席の本間はこのときハンカチで顔を蔽った。夫人はほとんど気づかれぬほどだが背筋をのばした。
「私に娘が一人ございます。娘がいつか結婚するときには夫のような立派な人をみつけてあげたいと心から望んでおります。本間雅晴とはそのような人でございます」
それは敗戦日本が誇りにみちた、もっとも美しい言葉であった。泣いてなどいられないという夫人の必死の想いのこもった言葉に、男の本間は肩をふるわせて嗚咽するばかりであった。


「戦士の遺書」半藤一利


今年の正論6月号あたりで、本間雅晴の妻富士子夫人の立派な言動を知り
南十字星に抱かれて」を購入。
富士子夫人の人となりを知ることはできたものの物足りなさが残ったので
自分で短い小説風の物語でも立ち上げようかと思っていたら、
近所の本屋で半藤一利「戦士の遺書」に本間中将夫妻のことが記述されているのを発見した。


バターン半島の死の行進の責任をとらされる形でマニラBC級裁判に起訴された本間中将は
日本陸軍の中では文弱という評価だった。
それは彼が軍人でありながら作詞作曲の才能を持ち合わせていたのに加えて
合理的な思考の持ち主だったからに他ならない。
マニラ攻略を命令された際も「相手の兵力もわからず50日で攻略するとは約束できません」と
ごく普通の言葉で疑問を呈したにも関わらず杉山元帥に戦意不足と白眼視されていた。
マニラ市を命令どおり攻略すると、バターン半島に占拠している米軍を掃討せよと指示され
多数の兵をマラリアなどで失いながらもバターン半島を制圧する。
コレヒドール要塞陥落前に部下を見捨て命からがら逃げ出していたマッカーサー
"脱出"と強調することで自己の責任回避をはかるとともに
バターン半島死の行軍を日本軍の残虐行為として喧伝して日本に対する復讐心をあおった。


しかし、実際はマッカーサーが戦争の見積もりを誤ったためバターン半島の米比軍は
例外なく飢えと病に苦しみ、マッカーサーの脱出後全ての兵は降伏した。
日本軍は、自軍の兵士すら満足に車両で輸送できず兵站が苦しいなかで
突如10万の敵兵まで養わなければならなくなった。
日本は降伏兵の餓死病死を回避するため食糧や収容所のあるあるサンフェルナンドまで
運ぶが途中移送手段がなくやむなく60キロに及ぶ徒歩行軍を強いた。
行軍の途中で”捕虜を殺せ”と電話で指示*1した大本営の幕僚もいたが
本間自身は捕虜の扱いに遺漏なきよう指示している。
コレヒドール制圧後は、彼の人柄がにじみでたような穏やかな軍政をフィリピンに敷くが
それは大本営の指導方針にそぐわなかったことから、
バターン半島攻略遅滞の責任と併せて本間を更迭し予備役に編入してしまう。



フィリピンやマレー半島における本間雅晴山下奉文との戦いは
マッカーサーの生涯において唯一の敗北を記した戦闘であり
それはフィリピンの王として振る舞っていた彼にとって
認めることのできない汚点であった。
終戦後、彼は両将軍に復讐するため戦犯として両将軍の名前を真っ先に挙げる。
裁判は、マッカーサーの指示によって伝聞噂の類まで証拠として採用され
両将軍に極めて不利なように進められた。
しかし、どう調べても、特に本間が捕虜の虐待に関与した証拠はあげられず
あったとしても全て彼がフィリピンを去った後に行われたことを証すばかりであった。
しかし、証拠や証言でどれほど事実を証そうとも、裁判がマッカーサーの私刑である以上
結果が覆ることはなかった。


富士子夫人は、マニラを去る前マッカーサーと面会し、裁判の記録の入手を申し出ている。
それは、裁判において本間が死刑となるとも身に過ちのないことを証明するためである。
夫人との面会でさすがに自分の行いに恥を覚えたのか
絞首刑から罪一等減じられた形で銃殺刑が法廷で言い渡されることになった。
本間雅晴は、死刑の際「さあ、来い」と気迫で望み、
自身が文弱ではないことを示したというから
夫人の弁護や行動は、夫に対して武人の面目を立てる多いに役立ったといえる。



BC級裁判で法務死に至った方々を犯罪者呼ばわりする者が絶えなくても
美しく潔く散った将軍は、日本が誇るべき英雄であると私は思う。



戦士の遺書―太平洋戦争に散った勇者たちの叫び (文春文庫)

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南十字星に抱かれて―凛として死んだBC級戦犯の「遺言」

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指揮官 (上) (文春文庫)

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小説太平洋戦争(2) (山岡荘八歴史文庫)

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*1:辻正信と推測されている