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タゴール生誕150年記念ブログ

2011-04-25

タゴール氏のことども 横山大観

 

 印度の名門、プリンス・ドワルカナート・タゴールに二人の子があって、兄をデベンドラナート・タゴール、弟をナーゲンドラナート・タゴールと云った。デベンドラナートの方に七人の子供があって、長男がデゼンドラナート・タゴールと云って、これは目今、最も有名な哲學者で、末子をサー・ラビンドラナート・タゴールと云って、今回来朝された、ノーベル賞を受けられた世界的大詩人であります。この兄弟は何れも名高い有為な人々である。弟のナゲンドラナート・タゴールの方には二人の子供があって、長男をガガネンドラナート・タゴール、次男をサマレンドラナート・タゴール、三男をアバニンドラナート・タゴールと云ひ、これ又有名な方々であるが、殊に長男と三男とが名高い。

 このタゴール一家は印度に於ける名門であるが篤めに、英國女王ビクトリアが一門の棟梁に謁見を仰せ付けられた時も印度の礼式に従ってならば、其望に應じやうと云ふことで、女王の前で印度式の趺坐をなし、水煙草を呑みながら拝謁したと云ふことである。

 岡倉党三先生がタゴール家の一族なるシュレンドル氏の宅を訪問したのは、今を去ること十三年前のことで、英國の雑誌記者と同伴したのである。此時に岡倉先生はタゴール氏と會見した。タゴール氏は先生の談話を詩いて、いたく感服したと云ふことは、氏自から之れを談って居る。岡倉先生が印度の眠れるを慨し、其詩的にして印象深き言葉を以って、印度人の覚醒を叫んだ。印度の青年は酔へるが如く之れを傾聴しシュレンドル家は此等青年の集まる所となり、岡倉先生を圍繞して大に啓發せらるゝ所があった。岡倉先生が「東洋の理想」を著はされたのも、此時である。叉印度を風刺したる小冊子を著述して、印度人を鼓舞したが、此小冊子は英國官憲を憚って、焼き捨てゝしまった。岡倉先生が印度の思想界に投じたる火は焔々として、燎原の大火となった。英國の官憲はしきりに岡倉先生の行動を物色して、之れを怠らなかった。先生は佛陀伽耶の霊蹟を保存せんとして、白から金を寄附して霊蹟の買収をされやうとしたが、英國官憲は之れを妨げた。又亜細亜に於ける佛敦徒の大會を日本に開き、東洋人の精神統合を計らんとして、シュレンドル家も寄附金を出したが。此時恰も日英同盟の成らんとした際であった為めに、其事を果すに至らなかった。

 バルマのチバラの王子はタゴール氏が其師傅となって、敦導して居たが、岡倉先生は氏と共に、此地を訪ひ、王子の宮殿装飾を一切日本人の手に依って為すことを約束し、其がために私と菱田春草が岡倉先生の知せにより渡天することになった。然るに上陸すると英國官憲の注視があったがために、一ヶ月ばかりカルカッタの商人の家に伏し、其後シュレンドル家に寓しこゝにてタゴール氏に始めて會見した。シュレンドル家に寓すること一年ばかりの間に、私どもは同家の為めに数十幅の繪画を画いた。ビヂットラの美術學校はタゴール家の私設であって、岡倉先生の啓發によりて成ったものである。此度タゴール氏の将来したる印度繪画を見てもわかるが、印度の新繪書は旧美術院派とペルシャ画の影響を受け、之れに西洋の水彩画を加味したものである。

 タゴール氏の来朝の目的は日本國民の内的生活を見やうと云ふのであるらしい。日本の山水、日本の古芸術品を見るのは其目的でなくて、日本國民の精紳状態、國民性の基くところ、精紳的文明の進度を見たいと云ふ希望である。此う云ふ目的であるから、皇上への拝謁をも願はず、歓迎の煩をも厭ひ、都會的生活よりは寧ろ田舎生活、僧房生活などを味はうとしてゐるのでどこまでも詩人であります。(談話)(『人文』大5・7)

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