「夢」の体制—殲滅される身体—


<18世紀にマスターベーションに関する大論争が起こりました。マスターベーションという現象がクリスチャンの道徳家をそこまで悩ませた理由は、それによって精子が無駄になるという事実ではなく、現実の人間ではない、たんなる想像上のものによって性欲が引き起こされるということでした。(中略)コンピュータがなかったときでも、夢を映すスクリーンは存在したのであり、これを抜きにした人間の性はありえない。ヴァーチャル化という現象はつねに存在していたのです。> (註1 傍点筆者)


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 湾岸戦争は、当時のわたしの作業を打ち砕いた。「身体」を<メディア環境>をとおして揚棄する、というわたしのもくろみは、いわばブルジョアジーのひそかな楽しみのようなものとみなされ、吹っ飛ばされたのである。(註2)
 今また、テレビ中継された深夜の空爆の光景—暗視スコープが映し出す、緑に変色したテレビ画面—「緑の闇」について考える。
 わたしは、「緑の闇」に映しだされる幾多の先端兵器と、身体/死体が一つとして現れない「戦場」を見つめながら、まさに、核爆弾こそ究極の「メディア・テクノロジー」であることに気がつくわけだが、たしかにそれは、全ての身体/死体が殲滅されたあとの世界、すなわち「夢」を映すスクリーンにほかならない。だがこの「夢」は、グローバル体制が成立するとすぐさま隠蔽されたのだ。事実、その後(湾岸戦争後)の「戦場」からとどけられる映像群は、多数の身体/死体であふれかえる。
 この変化の過程は、「メディア・テクノロジー」が「マルチメディア・システム」として、グローバル体制のなかに編成—統合される過程に対応している。現在の「メディア・イメージ」は、この統合過程において作動し始めた「忘却装置」である。この装置は、「身体」は「幻影」なのだということを、「人間」は「歴史」によって造られるものであることを忘れさせる。それらのもつ意味を忘れさせる。


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 次に示すのは、現在わたしが認識している、グローバル体制の編成—配置の図である。またこの図は、いま、「身体」が何によって攻囲されているのかを示してもいる。まえにも他に書いたが(註3)、論考上必要なので修正と補足を加え再録する。




 
 


図をみていこう。
 グローバリゼーションとはまずなによりも国家—資本主義の世界化であるということ。両者はそれぞれ、発展への強迫を、労働者の生産および管理を互いに依存している(1−3)。また一方で、情報消費社会の文化戦略としての担い手である「メディア・イメージ」は、身体行為、思考形式のステロタイプ化とその「解体」を行い(1−2)、「身体」も恍惚/麻痺のうちにこれを消費する(2−4)。他方、いま露出しているナショナリズムは「フィジカリズム」と結びついており、たとえば肉体の昂揚感や一体感をつくりだすスペクタクラーな「生—暴力の演劇」の形式を「リズムの概念」を援用しながら模倣している(3−4)。さらにナショナリズムは「メディア・イメージ」を自らの洗脳媒体として使用するようになり「メディア・イメージ」も事件—出来事の先取りとしてこれを受け入れ(2−3)、資本主義も情報消費を加速させるためにデータ化の暴力によって「身体」を数値に還元し、「身体」もこれを速度と利便性の快楽のうちにこれを受け入れる(1−4)。これらの関係は完璧に協働しており、絶えず双方向的に相互補完的に機能しながら、癒着しあい「共生」しているのである。
 わたしは演出理念において応答しなければならない。ともかく方法的にはそれぞれの項目の特質を際だたせ、それ自身の内部から「解体」していくことが求められる。矢印の右(下線上)に記した四つのコンセプトはその一例であるが、これらは皆、具体的な「うごき」の技法のための概念である。ざっと説明しておくと、トランスフォーメーション(Transformation)とは、字義通り、形態を変えるということ、そのために「寄生」と「転倒」が求められる。反復(Repetition)は特定の行為のなかに固有の記憶が現れてくる事態、神経系(Nervous system)は、「うごき」を、リズムではなく神経で制御する。ファンタムペイン(Phantom pain=幻肢痛)は文字通り、失われた肢体の幻覚を「うごいて」しまうことである。今回は「メディア・テクノロジー」との関連において特に述べたいので、「トランスフォーメーション」をとり上げる。そのためにはまず、「反省」が必要である。


3

 80年代に戻りたい。なぜなら、「メディア・テクノロジー」が、コンピュータの進化とともに、徐々にメディア文化を包摂しながら、「マルチメディア・システム」となって、その全容を顕わし始めたのがこの頃だからだ。つまり今でいう<メディア環境>の原型が出現したということだ。それは科学諸分野と文化諸領域を統合していく技術であるが、それらの中核を担うのが「トランスフォーメーション=形態変化」の強力な技術である。現今の用語で説明するなら、たとえば<ミサイル・ディフェンス>が<ユビキタス>に、見慣れているテレビが<サイレント・セントリー>へ、あるいは拷問用に開発された<マルチメディア・バイオ・フィードバック>がと名付けられた二足歩行ロボットへというふうに「文明=政治、経済、軍事」と「文化=生活」の広大な諸領野を往還するのである(註4)。すなわち「システム=体系」は同一なのだが「フォーム=形態」を、まったく新しい形に次々と変貌させていくのだ。マーケットはこの「形態の差異」を標的にしているために「トランスフォーメーション=形態変化」は基本的には際限がない。それゆえシステムの技術情報は、上部構造である軍・産・学コングロマリットに握られるか、もしくは知的所有権として秘匿される。ゆえにそれらシステムの内容や性格を読みこむのは容易なことではないし、そもそもの起源を忘れさせる。つまり、ひとびとは持続的な「遅延」にさらされることになる。実際、それらシステムが生活文化の領域にあるとき、わたしは利便性とか趣向性のみを追求する、消費者になるほかはない。「システム=体系」的思考は、本来的に、非・文脈的であり反・歴史的なものである。
 マブ・マインズの舞台「メッカ参拝」は、(リー・ブルーア作・演出 利賀フェスティバル1984年)このような高度情報消費社会に応答した鮮やかな舞台として蘇るだろう。舞台は、楽屋の三面鏡のまえにすわったひとりの女優の回想を「マルチメディア・システム」をとおして、「主体」が分裂していく「様態」として現出させるのだ。鴻英良は、それを「多様体としての映像をも包み込むさらに高次の多様体」として精緻に分析しているが(註5)、まずはこの舞台のコンセプトを、リー・ブルーア自身の発言から引用する。
  <マジックミラーの三面鏡に現れる録画済みの映像—八歳の彼女が父親と旅をするー父親との巡礼の旅、これは記憶です。第二に現実の身体による演技の時間は現在。それからビデオカメラによって撮影され、三面鏡に浮かび上がる彼女の生(ナマ)の画像は、現在における彼女の意識、自己知覚です。これらのものが同時に起こったり、ひとつがほかのものに重ね合わせられたりするわけです。>(註6)
 つまりこの「多様体」は、たしかにシステムの特質である「形態変化」に「寄生」しながら現出するが、リー・ブルーアはそれを「様態」の「分裂」としてとらえているということ。「様態」とはこの場合、(主人公の)女優の記憶と現在と自己知覚が、それぞれを支える「表—面」(画面)—録画済みの映像、身体、生(ナマ)の画像—に「同時に起こったり、ほかのものに重ね合わせられたり」する「有り様」のことだが、これらの「分裂」を促し、引き起こしているのは、女優から発せられる「言葉」であろう。さらにこの「言葉」はハーモナイザーという第四の「仮—面」に支えられて「声」—「自意識」となり、さらに「分裂」を繰り返す。
 簡単に辿ってみたが、ここでわたしが言いたいのは、この「女優」をとおして見いだされたものが、すなわち「様態—変換」=変容を反復しながら、「分裂する主体」を通して新しく誕生したもの、それがこの時期に「身体」と名づけられたということだ。したがって「身体」は、もはやかつての「肉体」のような統一的なものではなく、そもそもが「分裂」的なものであり、この「分裂」において、はじめて「表象」が可能となり、ゆえにその「限界」が問われることになるのである。
「肉体—表現」から「身体—表象」への決定的な移行。その道を切り開いたものが「トランスフォーメーション=形態変化」の技術と「システム=体系」的思考である。


4

 リー・ブルーアが見いだした支持「表—面」は、いまやグローバルに無限に増殖していくかのようだ。じっさい、グローバル体制に置かれた「身体」=「攻囲された身体」は、多種多様な「支持—面」の上を、日々めまぐるしくトランスフォームしながら(させられながら)消滅/誕生を繰り返す。それが「身体」の常態である。たとえば、ある面では「身体」は税収奪の対象であり、または検索を待っている統計数量であり、他の面においては汗、血、涙などの無力な物質であり、またはヒトであり、非・政治的な動物の群れであり・・・さらにいうと、この「身体」=「攻囲された身体」は、まるで幾千枚ものレイヤー上に描かれた己なき分身たち、あるいは、幾多の面に強制的に置かれた本体のない無数の仮想アイコン、それらが書き込まれたファイルの束のようなものにみえる。そして通常、この重層的な束は圧搾されていて一枚のレイヤーとしかみえない(註7)。
 わたしは、この常態的なトランス状態をさして、これを「『身体』の事実性」とよんでいるのだが、ここまでみてきたようにそれはすこしも統一的、「実体」的なものではない。つまり「リアルなもの」などではない。「身体」とは、理念であり「幻影」である。ではどうするのか。わたしは、ただたんに他人の「眼球」をもってくる。この「眼球」は、土方巽の「肉体」の理念にその淵源があるのだが、それは「剥製」である(註8)。わたしは屍喰い虫となり土方=「剥製」に「寄生」する。むろん「寄生」すべきは「剥製」の形姿にではなく、「剥製」に埋め込まれている「眼球」であり、それ自体にこめられた彼の「視線の思想」においてである。彼の「肉体」の理念を揚棄しなければならない。
 この「眼球」は、すなわち「剥製—眼球」は、すでにいかなる事物も意志的に眼差すことはない。それは見返さ(せ)ない、なにものにも決して対峙し(させ)ない。ただ見守(られ)る。刹那のまばたきさえ拒絶した(された)みずからの「眼球」のその「表—面」に、ただ事物を映させるがままにして「剥製—眼球」は、一枚の「夢を映すスクリーン」に成り、それをみるものは、その「幕—膜」を透して、つまり「剥製—眼球」を媒体にして、破砕された個的な文脈—生活史/歴史の痕跡—破・風土—監禁された「東北」から不意に話しかけられるのだ。
 この「剥製—眼球」を、たとえば「肉体」の「局部化」というような次元で、すなわち「全体—部分」といった回路で解釈すべきではない。重要なことは、この時期の土方が「視線」を、「メディア=媒体」性とその「限界」において把握し始めたということなのだ。
 わたしは、土方がよく「内が外」と言っていたことを思い起こす(註9)。彼は「世界—意味」が「外—他」においてあることをいう。「外—他」のほうがなによりもまず、「先」なのである。この「先」から、というか、(土方にとって)この「先」において想像させようとする「性向」性が「メディア=媒体」性のことなのである。このような思考はまったく「共同体的」でない。つまり自己愛的でない。豊かである。生前、土方が「イギリスにも『東北』はありますよ」(註10)と発言しているのはそれを端的に示してもいるが、さらにいいつのれば、この言葉は、彼の創始した「舞踏」は彼が描いた故郷「東北」の心象風景であり、その土着性ゆえに「世界性」をもつ、もたない、というような議論とはおよそ関係がない(註11)。そもそも彼は日本から一度もでていない。あるいは自分から出発していない。そうではなくこの言葉は、彼において「東北」が「他者」であり、「東北」から「見られて」いるのだということ、しかもこの「他者—東北」はなんら特別なものでも異様なものでもなく、普段的に常態的に、だれにも訪れているのだ、という「事実—事態」性をさしているのである。彼が「舞踏とは突っ立った死体である」と定義しているのは、「舞踏」が「メディア=媒体」の「ロジック=論理」であり、その限りにおいて「肉体」を考え抜くための「技術=テクネー」、つまりメディア・テクノロジーであることを示唆しているのである。この「剥製—眼球」は、今もなお「世界」を白日のもとに構造化し、「他者」があることの意味を、その重大性を、わたしに鋭く意識させる。
 

5

 「メディア・イメージ」、一方でそれはきわめて単純な原理である。だから強力なのだが、つまりそれは、「外」がない、とたったひとこというだけだ。本当にこれだけだ。根元的に共同体の原理なのである。だが「9.11」以降の「メディア・イメージ」は、もう一つの枠組みを持ち込んで巧妙に二重化してきている。「9.11」以前は、「他人との違いを認め合う」に、以後は、「わたしたち一人一人が問われている」という枠組みが接合されている。つまり「同質」化の暴力と「差別」化の暴力が同時に発動されているのである。ようするに「違いを認め合う」ことで「同質」を呼び出し、さらに呼び出された「同質」の内部で「差別」化がおこなわれ「分割」が為されるのである。この原理はいたるところで「豊か」に変奏され、無数に反復される(註12)。いっそう深刻なのは、ここが、あそこが、常にすでに「同質—内部」であるため、「空—間」性が消えてきている。ただ「時間」性だけが、「身体」のその固有な在処を支えているが、「身体−時間−ローカリティ」はすでにグローバル体制の内部であり、それゆえに常に「グローバルなもの」のマスターベーションなのである。


清水信臣(演出家/劇団解体社)
この論考は、2002年11月に刊行された「舞台芸術02号 特集メディア・テクノロジー」(京都造形大学舞台芸術センター 編集・発行)に寄稿したものである。        

註)

1) スラヴォイ・ジジェク 「ヴァーチャル化という現象はつねに存在していたのです」インタビュアー 辻宏子 梅宮典子 訳、マルチメディア社会と変容する文化 所収、NTT出版、1997年、173頁

2)この辺りの事情と経緯については次を参照されたい。
「対話 演劇の生成と攻囲される身体 鴻英良 清水信臣」『劇団解体社1991-2001』所収、劇団解体社、2001年、121-123頁 

また「ブルジョアジーのひそかな楽しみ」はルイス・ブニュエル監督(仏)の映画タイトルより。邦題「ブルジョアジーの秘かな愉しみ」日本公開1974年。 

3) View point No.20、「劇団解体社ワールドツアーを終えて」清水信臣、セゾン文化財団、2002年、5頁。
Heiner Muller/The World News Letter Vol.3、応答—「悪こそは未来」清水信臣、HMP、2002年、9頁

4)昨今のマス・メディアの報道にも頻繁に登場するので多くを説明するまでもないが、<ミサイル・ディフェンス>はアメリカの本土および戦域ミサイル防衛システム、<ユビキタス>は、いつでもどこでも高度情報処理機器が生活環境のあらゆる場所に存在することらしい。「らしい」と書いたのはこれらを単体で定義などしても無意味だしそもそも不可能だからだ。情報技術工学の進展は細分化・複雑化・高速化していて詳細な内容などわれわれは知るすべがない。ただこの文脈で両者を併置した意図は、前者は軍事衛星網を、後者はインターネットという、どちらもネットワークの概念を利用しているのでその類似性を指摘しやすいと思ったわけである。ようするに、繋がっているのか、繋げられているのか、を問うのではなく、「繋がってしまっている」、いう事態がなにを意味しているかを問いたいのである。<サイレント・セントリー>とTVの関係は次の文で概ね了解されることと思う。再録する。

『サイレント・セントリー ポール・ヴィリリオ 幻滅への戦略』河村一郎 訳、青土社、2000年、46-47頁<1998年秋、ロッキード・マーティン社が一般公開を決定したのがサイレント・セントリー(沈黙の歩哨)と名付けられたこのシステムである。
「全世界に散在する5万5千本のTV/FMラジオ放送アンテナを包括した一つのデータベースを構築し、それらを相互接続することで、TVレーダーは両半球の航空空間全域を有効範囲内に収めうるだろう。」
この全方位探知の急激な拡大を前にするとき、TVは、もはや単に<パノプティコン的>遠隔監視システムであるのみならず、一つの宇宙的現象となる。電波干渉が、合法・非合法を問わずあらゆる活動、あらゆる動きを探知するのだ・・・。><マルチメディア・バイオ・フィードバック>ととの共通点は両者とも人工知能を扱っているということである。
マルチメディア・バイオ・フィードバック 
奥野卓司「ヴァーチャル時代のマクルーハン」現代思想メディアとしての人間「マクルーハンを超えて」所収、青土社、1992年、143頁<さらに、最近、実用のため研究に入っている装置に、種種の情報刺激に反応して起こる、ヒトの脳内部の生化学的な反応をリアルタイムで画像化する装置があり、将来はこのような先端電子神経装置の、バイオフィードバック的応用もあり得るだろう。つまり、マルチメディア・バイオ・フィードバックの段階を迎えつつあると言うことになる。>

5)鴻英良「映像と演劇」肉体言語vol12 特集パフォーマンス所収、肉体言語舎、1985年、109-111頁 
次のくだりは特に重要と思われる。<映像の形態的類似性とオリジナルとの本質的違い(形態的な)は、機能的なものではないということである。>

6)「越境する演劇 対談 リー・ブルーア 高橋康也」ユリイカ、青土社、1984年、46頁
 また、この論考の意図および文脈との相違から触れえなかったが、内野儀「リー・ブルーアの『メッカ参拝』をめぐって」(メロドラマからパフォーマンスへー20世紀アメリカ演劇論—  所収 東京大学出版会 2001年 100頁〜120頁)が、豊富な資料をもとに具体的に上演に踏み込みながら「批評」を展開している。特に、次に再録する文とその前後一連のくだりは、「肉体」と土方巽を再考する契機を与えてくれた。<しかしブルーアの特殊性は、演劇の舞台言語としてそうしたメカニズムを導入することによって、アルトー的地平に自らの作品を展開していることにある。>(118頁)

7)次に記す箇所は前出の劇団解体社ワールドツアーを終えてview point No.20 (5頁〜6頁) からの再録である。<たとえば、ある面では「身体」は税収奪の対象であり、(・・・)そして通常、この重層的な束は圧搾されていて一枚のレイヤーにしかみえない。>

8)「剥製」は、筆者が1977年に土方が主宰するアスベスト館の「合宿」(泊まり込みのワークショップ)に参加した時の体験に多くを依っているが、「現代誌手帖」誌上に(剥製について)土方の発言がある。
「座談会 土方巽 鈴木忠志 扇田昭彦(司会)」特集舞踏 欠如としての言語=身体の仮説、現代詩手帖、思潮社 1977年 125頁

9)85年に土方宅で長時間にわたり話しを聞く機会を得た。そのとき彼の口から幾度も発せられた言葉—「まず、いちばんめに『内が外』。」—から採る。

10)鈴木忠志が、土方への追悼文のなかでこの発言を紹介している。
鈴木忠志「現代人の危機を表現 舞踏家・土方巽を悼む」東奥日報、1986年1月28日

11) この点に関しては土方自身も公式に発言している。重要な事柄なので再録する。<しかし私がこの春先の泥から教わったことは、神社仏閣の芸能と無縁のところから私の舞踏が始まったんだ、ということ。それは断言してもいいんじゃないか、と思うんです。>
土方巽「風だるま 舞踏懺悔録集成 舞踏フェスティバル85 前夜祭講演 衰弱体の採集より」現代誌手帖 1985年 72頁

12)これは筆者の演劇製作の現場(稽古、上演、海外ツアーやコラボレーション等劇団活動の総体)を念頭に書いている。そこでは「同一—差異」ではなく、「同質/差別」である。

プロフィール
清水信臣(しみず・しんじん)

演出家・劇団解体社。「身体の演劇」を標榜し、演劇における「身体」と、権力/暴力をめぐる問題系に取り組み続ける。主な仕事に、野外劇「遊行の景色」('86〜)、「Tokyo Ghetto」('95〜'97)、「バイバイ」('99〜)など、解体社の一連のシリーズ作品を演出し世界各地を巡演する。また’04年からグローバリゼーションにおける身体表象を考察するため国際共同製作「Dream Regime—夢の体制—」を企画。ウェールズ、東ティモール、ヨルダン、ポーランドなどで現地のパフォーマーやアーティストたちとの共同作業を継続的に行っている。