9/15 「性的差異“以前”という残余、あるいは無気味なもの」井上摂

9/15(火) 「性的差異“以前”という残余、あるいは無気味なもの」

井上摂 (表象文化論現代思想)

#レクチャー

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「経験の貧困」(ベンヤミン)が世界を覆い尽くしたかに見える現在、流通の「連続化」装置として機能させられてきた強制的異性愛は空洞化し、空虚な無限消費としての強制労働と化しつつあり、資本にとっては致命傷であるその本来の「不連続」=物質性を露呈させてきたように思う。

 「性的差異以前の贈与」(デリダ)を自らの身体から受け取る身体は、資本の蓄積を「中断」のままに放置しておく無気味な身体である。

 男/女=異性愛/同性愛の彼方に滞留する「人間」の残余という潜勢態について考えてみたい。

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井上摂(INOUE SETZ)  中央大学法学部・慶應義塾大学法学部講師。表象文化論現代思想マイケル・ハートドゥルーズの哲学』(共訳)。遠藤寿彦のダンス論「法廷=無法への微分回路」、CUATRO GATOSの演劇論「労働力身体の亡霊性を閾(=無為)へと転位させる涜聖的操作――CUATRO GATOS[rest/labor]をめぐる試論」など、ダンスと演劇をめぐる論考多数。中央大では、現代思想のゼミと芸術論/舞台芸術を担当しています。自らの死のイマージュである「分裂症」をもはや内在野に限定できなくなった現在の資本主義は、ヴィルノのいうネオテニー的迷走状態を出し抜く特権を誰にも与えないと同時に、自分自身にも「神的暴力」を差し向けているように思えるのですが、そこで未だに「芸術」を実践する意味とは一体何であるのかということに執拗にこだわり続けています。非の潜勢力に宙吊りになること、「救済」の方法としての可能世界論、存在論的差異以前の性的差異のさらに「以前」を思考することが、当面の課題となりそうです。