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2016-06-25

「戦国妖狐」最終17巻感想

戦国妖狐 17 (BLADE COMICS)

戦国妖狐 17 (BLADE COMICS)

スピリットサークル」と同様に「戦国妖狐」の最終回も賛否両論になるかもしれないと水上先生は話されていましたが、個人的にはとても爽やかで楽しい最高の終わり方でした。最終回の千夜が読者に向けて語りかける演出は「うしおととら」とか古い作品を思い出して何だか懐かしい気分になりました。

昔の漫画やアニメではあれ系統のキャラが受け手に対してメッセージを向ける演出は時々見られましたよね。水上先生は「うしおととら」が好きなので「戦国妖狐」もそれの影響を受けているかもしれません。全然確証はありませんが迅火とたまは「うしおととら」に登場する九尾の狐がモチーフの尾を変化させる白面の者から着想を得ている気がしています。


力を得る代償と強さとは何か
主人公の目的と敵の目的が最初に語られた「惑星のさみだれ」と比較すると、基本的に先の展開を設計せずに描かれていた「戦国妖狐」は何処に向かうのか見えない部分がありましたが、最初から最後まで通して読んでみると力を得る代償と強さとは何かという物語の軸はぶれていないんですね。

迅火は力を求めて強引な覚醒を続けた挙句の果てに暴走してしまい、千夜は争いの種となる己の中にある強大な力を恐れ、月湖は無力な自分を変えて誰かを守れる力を欲して、ムドは孤独に力のみを追い求めて生きていました。この力を得る代償と強さにまつわる話は様々なキャラを通して描かれていますが、その中でも第一部と第二部で活躍した真介の存在は欠かせません。

物語開始時の真介は農民である自分が侍や坊主の下で虐げられる弱者である事を許せずにいました。弱い奴には生きている価値が無いと考える真介は、自分を変える為に野盗を倒して名を挙げて大名に声をかけてもらおうとしたり、迅火や斬蔵に戦い方を教わり強者になろうとしていましたが、その考え方は旅の中で少しずつ変わり始めます。その最初の切欠を与えたのは斬蔵とその妹の氷乃の会話にあると思います。

氷乃「お兄様は表舞台に立ちたくないのですか…幸せになりたくは…」
斬蔵「野心を果たさなきゃ幸せになれねぇ?そんなわきゃねぇだろ…」


周囲から称賛を集める輝かしい表舞台に立つだけが幸福になれる道ではないのだと強者である斬蔵の口から聞かされる。この言葉は虐げられない強者になろうという野心を持つ真介の心に何かを残した事でしょう。まだこの時の真介は強者にならなければいけないと考えていたみたいですが、強者が自由で幸福な生き方を手に入れられるかどうかは別の話。

それは第二部に登場する足利義輝が証明していました。足利義輝は真介や斬蔵の何倍も剣の才能も権力も富も持ちますが、それが幸福と直接的に関係しているかというと無関係ですよね。農民は農民で大変な生活をしていると思いますが、将軍は将軍で責任は大きい上に命も狙われますからね。

幼少期に弱いせいで家族と共に逃げてばかりいた義輝はその悔しさを糧に生きて、その果てに闇も見惚れる程の優れた剣技なんかも身に付けた訳ですが、それでも個人としては凄いだけで戦争という大きな流れは変えられませんでした。ここに真介が求めていた力の限界を感じます。

戦国妖狐 13 (BLADE COMICS)

戦国妖狐 13 (BLADE COMICS)

斬蔵と別れた後も旅を続けた真介は灼岩を助けられない自分の弱さを痛感させられ、復讐心に縛られる事の虚しさを荒吹から教えられ、闇の住む村で生活をするなど幾つもの経験を積んだ結果、野心が打ち砕かれた代わりに他者の弱さも許せる器の持ち主になる。連載を追いながら読んでいた時には真介の変化が少しずつな為に精神的な成長を感じられ難かったのですが、最初から最後まで一気に読み返すと真介が人間を喰らう闇を力で従えずに話し合いをして慕われている姿を見るだけでも涙が出ます。

そんな許せる者である真介が残したであろう人間とおとなりさんの住む百鬼町、そこが無力感も風に流す穏やかで優しい町と言われるのはとてもらしいですね。主人公でもヒロインでもないから物語の本当に美味しい見せ場では姿を見せませんが、烈深を一刀両断するところとか幽界で灼岩を救うところとか名場面には恵まれていたと思います。

ところで真介に関して気になっている部分があるんですけど、真介は本気で野禅を殺すつもりはあったんでしょうか。私怨を捨てた闇の世界の為に戦いを挑んだのは本当だと思いますが、その動機だけで野禅を無力化せずに殺そうとまでするかというと判断に悩む。本気で殺したいなら腕を斬り飛ばすだけで終わらせずに心臓を刺してもいいはず。幻術かどうかも確認せずに「殺った」と決めるのは早計。

それをしないのは本当は殺すつもりがないからだという解釈にすると、真介が華寅に対して「やった」と答えないで「殺った」と答えるのは不自然。真相は謎に包まれたままですが、誰も殺さない平和な世界を目指した仲間の意思を無視して、真介が野禅を積極的に殺すとは思わないですね。第一部でも野禅を殺せない程度の浅い一太刀を浴びせて達成感を感じていたので、絶対に殺さなければならないとは考えていない気はします。

真介以外ではムドの成長する姿が印象的。戦闘狂で力にしか興味を示さずに孤独に生きてきたムドですが、好敵手の千夜や師匠の道錬や友人の猩々達との出会いによって精神的に成長していきました。最初は相手を倒せる圧倒的な力が全てという少年漫画のライバルらしい価値観で生きていたのですが、千夜に敗北を切欠に生まれながら持つ力の他に人間が磨き上げてきた技の必要性も感じ始め、さらには猩々達との交流から美味しい酒を造れるなどの様々な力の価値を認めるなど、他者を敬う事も覚えてその価値観を次第に広げていきます。

そのムドの精神的な成長が最も感じられるのは最終回での千夜との勝負。前々から伏線は張られていましたから、最終回で千夜とムドが戦うと予想はしていましたが、その内容がまさか囲碁になるとは予想していませんでした。しかも千夜以上に頭が切れるのだから驚きですね。昔に見られた戦闘狂の面は消えて大分落ち着きました。

前は茶よりも椀を大切にする人間の考えは意味が分からないと話していたのに、今では盆栽や俳句も楽しめるんですから本当に変わりましたよね。そういえば月湖に似ていると噂のムドの姉は作中には一度も登場しないまま完結してしまいましたが、あれは短編集に何度か姿を現した龍を指しているという事で良いんでしょうか。

2016-06-18

アニメと原作のキャラデザが似ているかどうかは些細な問題

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アニメのキャラデザが原作小説と違う。その事に不満を感じた経験のある方は沢山いると思います。「SHIROBAKO」でもキャラデザが原作と似ていないアニメは悪いものという風に描かれていましたが、そうしたアニメが必ずしも駄作になるかと言えばそうでもない。「第三飛行少女隊」のキャラデザは野亀武蔵先生に何度も原作と違うと言われて没にされていましたが、世の中にはあの没案の何倍も似ていないキャラデザでも評判の高いアニメなんて山ほど作られています。

「勇しぶ」や「とらドラ」などキャラの動きが滑らかで表情の変化が豊かな作品も見られますし、「インフィニット・ストラトス」や「ソードアート・オンライン」など商業的に成功している作品も多いんですよね。最近の作品では「この素晴らしい世界に祝福を!」がキャラデザが酷いという前評判の悪さを覆して大成功を収めていました。視聴者からもギャグならむしろあの方が合うと好意的な意見も出る程でした。

そうした光景を目にしているとライトノベルがアニメ化する場合は、原作に似せない方が成功する確率が高い気さえしてきます。ラノベに分類するかは意見が分かれますが「化物語」なんかはそうしたアニメの代表格。原作のファンからしたらキャラデザは似ている方が好ましいものですが、無理をして似せた代わりに絵が崩れてしまうとか殆んど動かないようではアニメ化した意味が無いですよね。個人的にはアニメは動かしてこそ価値があると思いますし、その為に必要なら無理に原作絵に似せる事は無いと思います。

ラノベとは違い一枚の絵に時間を掛けられないアニメでは、全体の雰囲気が変わらない範囲内で服装の簡略化も大切です。「このすば」ではアクアの服のボタンやダクネスの袖の羽飾りが消されていましたね。ラノベの中には「灰と幻想のグリムガル」や「六花の勇者」みたいにアニメでは難しい線の書き方や色の塗り方をした作品もあるので、その場合は原作絵の再現が出来ないとしてもある程度は仕方が無い。

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アニメーターは他人の絵に合わせるのも仕事ではありますが、自分の描き慣れた絵の方が効率は上がるものですから、効率を重視して似せる事を放棄するのも時には必要だと思います。「SAO」のアニメでキャラデザを担当した足立慎吾さんはその道を選んだみたいですね。原作絵に似せようと思えばアニメでも似せられるのは「結城友奈は勇者である」のキャラデザを担当した酒井孝裕さんが証明していますから。

総作画監督とキャラデザを兼任する足立慎吾さんには、原画の修正等の品質に関わる重要な仕事が与えられていますが、限られた時間の中で修正をするのは骨が折れる作業。その時にキャラデザを自分の描き慣れた絵にしておけば、仕事を上手に捌けて作画の質を向上させられるものと思われます。

基本的にアニメは原作絵と比較して手間の掛からないキャラデザにするものですが、稀に原作絵以上に描き込まれたキャラデザにするアニメも作られています。それに当て嵌まる「アクセル・ワールド」は戦闘時に用いられるデュエルアバターが原作の何倍も凝ったデザインに変更されました。体力ゲージや必殺技発動時のギミックも手が込んでいて、さすがはロボットアニメを長年作り続けてきたサンライズといった感じでしたね。

Accel World Original Soundtrack feat.大嶋啓之

Accel World Original Soundtrack feat.大嶋啓之

挿絵を担当しているHIMAさんの描いた女の子は可愛いんですけど、デュエルアバターはメカが苦手なのを誤魔化しながらぼかして描かれていたので、アニメ化の際に魅力的に作り変えられたデュエルアバターを見れたのは嬉しかったです。イラストレーターは自分で何でも描かなければなりませんが、アニメはメカニックデザインやクリーチャーデザインに精通した人材を当てられるおかげで、原作絵に愛着を持つ読者も納得させる優れたデザインにする事も不可能ではありません。上記のアニメを見ていると原作絵に似せる事が、アニメの全てではないと改めて感じさせられますね。

ラノベのイラストは作者本人が描いているわけではない為に、残念ながら作中の描写から外れている事も時々見られ、作者や読者のイメージ通りにはなるとは限りません。「魔法科高校の劣等生」なんかはそれが原因で読者から結構批判されていますよね。そうしたものですからアニメスタッフが何かを犠牲にしてまで、原作絵を忠実に再現する事に拘る意味は薄いかなと思います。


アニメ化を何度も経験するイラストレーター
別記事にする程の内容でもないので書きますが、アニメ化を何度か経験したイラストレーターというのは結構な数がいるんですね。ラノベはアニメ化する機会に恵まれているとはいってもイラストレーターは多分何百人といるのですから、アニメ化なんて運が良ければ一度は経験出来るかもしれない程度の出来事なんですが、不思議な事に経験する方はそれに縁があるのか二度目がある。

ヤスダスズヒト「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」「デュラララ」「神様家族

三嶋くろね「この素晴らしい世界に祝福を!」「ロクでなし魔術講師と禁忌教典」

春日歩俺、ツインテールになります。」「最弱無敗の神装機竜

るろお「俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる」「機巧少女は傷つかない」「ムシウタ

駒都えーじ「ゴールデンタイム」「イリヤの空、UFOの夏

はいむらきよたか「とある魔術の禁書目録」「ダンまち ソードオラトリア」

029「異能バトルは日常系の中で」「はたらく魔王さま!

いとうのいぢ「灼眼のシャナ」「涼宮ハルヒの憂鬱

切符「のうりん」「対魔導学園35試験小隊

okiura「インフィニット・ストラトス」「学戦都市アスタリスク

こぶいち緋弾のアリア」「これはゾンビですか?

ブリキ「僕は友達が少ない。」「電波女と青春男

榎宮祐いつか天魔の黒ウサギ」「ノーゲーム・ノーライフ

茨乃「神様のいない日曜日」「ランス・アンド・マスクス」「クロックワーク・プラネット」

大熊猫「新妹魔王の契約者」「ハンドレッド

カントク「変態王子と笑わない猫。」「そんな世界は壊してしまえ クオリディア・コード」

みやま零「ハイスクールD×D」「織田信奈の野望


黒星紅白さんやかんざきひろさんなどアニメ化作品の作者と組み続けて、二度目のアニメ化を経験したイラストレーターを除外してもこれだけいます。見落としているところもあると思うので、実際にはこれにもう何名かは加えられるかもしれません。アニメ化しそうな作品に知名度の高いイラストレーターが選ばれるのか、イラストレーターの力がアニメ化する程の人気作品にするのか。とりあえず単なる偶然だけでは無いとは言えるかと思います。
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先程までの話とは関係が無い事なんですが、「東京レイヴンズ」を読んでいるとアニメの影響力の大きさを感じます。二次創作がアニメ準拠なのはしょっちゅうありますが、まさか原作側がアニメの方に合わせるなんて信じられない事もあって、すみ兵さんは途中から木暮禅次郎のデザインを変えました。何というか木暮さんは兄貴分から主人公っぽい見た目になりましたね。こうなる位なら木暮さんを初めて絵にした漫画版に最初から合わせていれば良かった気がします。

一風変わったアニメの続編のタイトル - アニメ見ながらごろごろしたい

イラストレーターは変なペンネームでも許される - アニメ見ながらごろごろしたい

昔と今のアニメにおける脚本家の仕事 - アニメ見ながらごろごろしたい

2016-06-11

「スピリットサークル」最終6巻感想

「スピリットサークル」の最終巻を読了。フルトゥナとコーコの魂を癒す物語もついに終わりを迎えましたね。最初に幽霊や輪廻転生など非科学的な話から始まり、途中から霊次元や霊燃転換式と科学的な話になり、超常現象が説明される流れは「新世界より」や「ISOLA」など貴志祐介作品を読んだ時のような面白さがありました。

ヴァンや方太郎のある男の一生を見るだけの過去生も楽しめましたが、フルトゥナのそれまでの謎が幾つも繋がる過去生はその何倍も楽しめました。あれを見てから読み返すと印象が変わるところも多かったですね。その話は後に譲るとしてここからは各章の感想に移りたいと思います。



第二章 フォン
村の繁栄を祈る名目で生贄を殺して神様にその心臓を捧げた神官、生贄の儀式を行う神官を殺して勇者フォンにその血を捧げた村人。血が流れる事を否定して儀式を止めたはずなのに、神官を殺して儀式と同じ事を繰り返す村の在り方は、その後に何度も殺し合いをするフルトゥナとコーコの運命を予感させるものですね。

儀式に乱入したフォンはあっさりとストナに殺されてしまいましたが、この力の差は戦士として生きてきたコーコの経験が影響していたのかもしれません。フルトゥナの時と同様にレイを守れなかったフォンの後悔が、ヴァンの騎士に対する憧れにも繋がるのだと思います。フォンは精霊から薬の知識を得られたおかげで、レイの母親の病気を治すなど戦士とは違う形で守る事が出来ましたが、この力があると周囲の人間から悪魔と見なされてしまい、運が悪ければ黒髪の魔女みたいに殺されていたかもしれないんですよね。

ストナなんかは折角無意味に生贄を殺す汚れ仕事から、薬で皆を助けられる仕事に就けたのにあんな最後を迎えてしまい本当に可哀想。幸運にもフォンがそうならずに済んだのは、精霊と話す姿を目撃したレイが秘密を誰にも話さないような子だったから。どうでもいい細かい話になるんですけど、村人全員がフォンやレイみたいに靴を履いていないところを見ると、あの村では靴は誰もが持てる訳ではない贅沢品であるとかそういう設定でもあるんでしょうか。もしそうだとするとサンダルをプレゼントするのは特別な意味が込められてるのかも。



第三章 ヴァン
第二章で大切な者を奪われる痛みを教えられたフルトゥナの魂が癒される旅はここから始まります。ヴァンは魔女に捺された頬の印が原因で憧れの騎士にはなれなかった代わりに、親友との楽しい時間やレイの笑顔を手に入れました。向上心を持たずに酒を飲んで毎日を無為に過ごす生き方は、研究馬鹿のフルトゥナからしたら愚か者のする事にしか見えないでしょうけれど、そこには決して惨めではない幸福がありました。

騎士を諦めたからといってそこで人生が終わるわけではありません。諦めたところから新たに始める人生もあります。先週に書いた記事でも力説していた話になるのですが、水上作品の「諦めたらそこで試合終了ですよ」とはならないで、諦めてからの長い長い人生で得るものの大きさを教える作風が大好きです。



第四章 フロウ
スフィンクスの出来に不満を持ちだらだら生きる第四章、この物語が存在する意味が分からなかったのですが、あとがきの退行催眠の話を読んだら納得したというか謎が解けました。これは水上先生が考えて書いた話ではないので、物語全体の構造から意味を読み取り難いのは当たり前。まさかこれをやる為に生まれた「スピリットサークル」が作られたとは思いませんでした。

殺し合いも起きずに名声も得られたフロウは、世間的には勝ち組と呼ばれる人生を歩んでいましたが、個人的にはこれが最も不幸な人生に感じられました。フロウは前世で親友であったアルボルとクティノスとは殆んど関わりが持てず、スフィンクスさんなんて気に入らない像と同じ呼ばれ方をされる。そのスフィンクスのせいでオヤジの死に目には会えず、アルボルもロカもハラーラも殺されてしまう。スフィンクスさんでも図書館さんでもない、本当のフロウを見ていたリハネラが側にいたのに、それに気付けずに大切にしてあげられなかった。そんな孤独と後悔だらけの過去生。



第五章 方太朗
方太朗と岩菜の憎しみを和らげ繋げる役割を担う朱里。次章でもその役割は引き継がれてラファルとラピスを夫婦にするのですが、第八章になると鉱子と恋のライバルになるのは何だか面白いですね。死後も璃浜姫を守る為にこの世に留まり続けた大林先生は、風太のスピリットサークルによって無事に還光されましたが、これなんかはスピリットサークルの正しい使い方だと思います。

スパスシフィカがスピリットサークルを持つフルトゥナに「お前達にはまだ早い」と言うだけなのも、大林先生の時と同様に誰かを助けるのに使える道具だからなんでしょうね。ところでテツとダイキが刃九狼と和尚と似た部分があるのに対して、ウミは璃浜姫と似ている部分が見られないですよね。ウミが運動得意なのはリハネラともリフルとも関係が無さそうですし、メインキャラの中では性格を含めて最も過去生との繋がりが弱い印象。

第六章 ラファル
SF的な方向に物語が進んだここからは、それまでのものとは別種の魅力が詰め込まれています。世界を滅ぼしたかのように思えたブラックホール爆弾は、暗黒盆地を見る限りは被害はかなり小規模に抑えられたみたいですね。第六章は初めて手を取り合うラファルとラピスの話も感動しましたが、嫉妬を捨てたアッシュの話が素晴らしかった。

兄弟子でありながらフルトゥナに追い抜かれて劣等感を抱いたフランベ、追い抜かれてからは次男として生きる運命に縛られ怒りに燃える火次朗、それでは駄目だと反省して憎しみの火は燃え尽きアッシュとなる。火を意味する言葉が名前から消えた事にも彼の成長が感じ取れますね。アッシュの名前の意味を某所で聞いた時には目から鱗が落ちる思いでした。ラファルを嫌いながらも感情に支配されずに自分の心を落ち着かせて、世界の滅びを止める為に抗い続けたアッシュの姿に感動します。語られていないだけでフルトゥナと同様にフランベも生まれ変わる度に、色んな人達との出会いを通して大切な事を学んでいったのでしょうね。



第七章 風子
これといって特に書きたい事も思い浮かばない位に事件の起きない第七章。結局宇宙人の正体は誰だったんでしょうか。フルトゥナは転生してからは靴職人、彫刻師、研師、美術部と指先を使う機会が多かったのですが、風子はガリ勉で物理学、考古学、地質学に興味を持つなどフルトゥナに近い知識欲が旺盛な人間。風太と鉱子の戦いの最中にやめさせる方法が無いかと考えているところにも表れていると思います。宇宙人同士の会話は過去記事に書いてあるので、気になる方はそちらを読んでみて下さい。



第一章 フルトゥナ
フルトゥナの名前の由来になっていると思われる運命の車輪を司る女神フォルトゥーナ。タロットカードの運命の輪はこのフォルトゥーナがモデルと言われています。このカードの正位置の意味は転換点、出会い、定められた運命。逆位置の意味は別れ、すれ違い、降格。そしてカードにはスフィンクスと四大元素を司る天使が描かれています。「スピリットサークル」と重なる部分の多さに驚きますね。

フルトゥナの語るお互いの主観を喰い合う無限地獄は恐いですね。風太が風太でいられるのは自分は過去生を見ているのだという意識があるからですが、フルトゥナが未来生を見ているとそうはいきません。今現在ここにいる自分が過去生を見ている風太なのか、過去生を見ている風太の未来生を見ているフルトゥナなのか、その境が消えた時に自我がどうなるのか想像しただけでも恐ろしい。



全ては今に在る
フルトゥナが乗っ取りに成功してからの風太と鉱子の戦い、物語開始時に描かれた戦いと比較するとキャラの配置が逆なんですね。ルンとイーストの表情も微妙に変化していました。フルトゥナを相手にする時の鉱子が攻める側になっていたのは、風太が相手の時とは違って遠慮が無いからなんだろうと思います。

風太の夢に神様みたいなのが登場していましたが、彼らが何者なのかはとても気になるところ。彼らの話を聞いていると「スピリットサークル」の宇宙を見守っていたのは火、水、風、土のうち風の男と土の女みたいなんですが、属性的に風太と鉱子と何か特別な関わりがありそうな雰囲気を感じます。それと最後に神様が話してた星砕きの超能力者はアニムス、白神の子は千夜、異種混ぜ学者僧侶は野禅なのかなあ。

単行本で加筆されたコーコと鉱子の会話の許す力が救いの力となるという話を聞いて、水上作品の核はやはりそこにあると改めて感じました。最終回はあとがきに書いてあるように賛否両論でしたが、個人的にはもっと語られて欲しい部分がある点を除けば最高の終わり方だと思っています。本当はまだまだ印象に残ったシーンについても語りたいのですが、それをやると記事が重いものになってしまいますし、「戦国妖狐」の感想も書きたいのでここでは割愛します。


「散人左道」から「スピリットサークル」まで繋がる水上悟志の諦念と肯定の物語 - アニメ見ながらごろごろしたい

「戦国妖狐」最終17巻感想 - アニメ見ながらごろごろしたい