アニメ見ながらごろごろしたい このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-08-21

覚悟を決めた大人達のいる「シン・ゴジラ」に碇シンジは必要とされない

シミュレーション映画としての「シン・ゴジラ」
東日本大震災を連想させる大規模破壊を行うゴジラが現れた時、日本はどの様な対応するのかをこの作品は重点的に描いた「シン・ゴジラ」。シミュレーション映画としての側面が強い作品なので、通常の娯楽作品には珍しい演出や展開が随所に見られます。具体的な例を挙げると昨今は観客が感情移入しやすいように登場人物の境遇や葛藤を丁寧に見せるのが主流ですが、ゴジラの対処に追われる大勢の人達を描いた群像劇であるこの作品では、登場人物のドラマは殆んど展開されずに各々が必死に仕事をこなすうちに幕は閉じます。

作中には家庭と仕事のどちらを優先するのかに悩んだ方も中にはいたかもしれませんが、そうした個人的な事情は外に出さずに飲み込んで全員仕事に打ち込むんですよね。ゴジラに立ち向かう人達の行動を様々な角度から描き出す為には、個人的な事情を見せるのに時間を取られる訳にはいかなかったのだろうと思います。主人公の内面を見せる事に重点を置いた「新世紀エヴァンゲリオン」とは正反対、キャッチコピーに「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」とある理由が非常に分かる内容でした。

「シン・ゴジラ」が登場人物のドラマを見せない受けの悪そうな作品にも関わらず沢山の観客を引き込んだ要因は、休む暇の無い怒濤の展開と全力で仕事に取り組む登場人物から伝わる緊張感も大きいと思います。「ゴジラ(1984)」や「グエムル」の展開の仕方を起承転結とするなら、「シン・ゴジラ」は転々転々という勢いで次から次に新たな問題が起きます。ゴジラは物語開始直後から姿を見せて暴れ回り、一旦行方を眩ましたかと思いきや間を置かずに再上陸、進化したゴジラは想定外の力で自衛隊を圧倒します。主人公達は苦労の末にゴジラの倒し方を発見しますが、今度はそれを実行に移す為の時間稼ぎに外国との交渉に頭を悩ませる。

この想定外の困難が連続する展開に加えて尺の都合から早口気味な登場人物の会話、大勢の登場人物に見せ場を与える群像劇故のカットの細かい切り替えの多さが、一刻を争う非常事態の緊迫した雰囲気を強調していました。「シン・ゴジラ」は唯でさえ展開と台詞が速いというのに、観客が初見では覚えられない数の名前と役職名を表示して、専門的な用語が説明も無しに飛び交いますから、こちらも登場人物同様に集中しないと話に置いていかれてしまいそうですね。

ところでゴジラが東京を襲いに来るのは何故なのかと作中で突っ込まれていましたが、あれをお約束で片付けないで深読みするのであればゴジラが東京を襲うのは、ゴジラが首都直下型地震のメタファーだからとする見方もあると思います。東日本大震災では大した被害を受けていない東京が、地震に襲われた時にどれ程の被害が出るのか、その恐怖を観客に教える為にゴジラは現れたのではないでしょうか。


大いなる力には大いなる責任が伴う
ゴジラを捕獲するのか討伐するのかに悩んで時間を浪費した末に、自衛隊に討伐命令を下した日本政府はゴジラが攻撃される寸前、逃げ遅れた国民がいるとの報告を受けて攻撃を一時中断させます。この時点で攻撃していれば被害は減らせたかもしれませんが、万が一にでも国民を巻き添えにすると責任問題にもなるからそれは難しい。国民を守る責任を負う立場だと安易な行動をしない為にも決断が遅れてしまいがちです。

こんな風に政府の対応が遅れる時にはウルトラマンがいるといいですよね。ウルトラマンは日本国民に何も責任を負わないので、逃げ遅れた国民がいようと怪獣退治に励めますし、怪獣を投げ飛ばしてビルを破壊しても知らん顔が出来ます。この様に無責任な部外者は背負うものが少ない為に行動も速いですが、政府にはそんな身勝手な真似は行えません。

巷では失敗しても構わないから行動しろといったアドバイスが溢れていますが、それが適用されるのは若者であって責任が重い政府はそれを真に受ける訳にはいかない。その場の勢いで「行きなさい、シンジ君。誰かの為じゃない、あなた自身の願いの為に」と言ってニアサードインパクトを起こさせてからでは駄目なんですよ。失敗しない為に慎重に考えてから行動しなければなりませんが、思考に時間を奪われて行動が遅いと逆に取り返しのつかない事態に陥る。難題に対してはどちらを選んでも何かしらの過ちが起きるのは避けられません。

物語的にはゴジラを討伐するのが正解なので、それを迅速に行わない政府に不満を持つ観客もいると思いますが、現実ならゴジラに攻撃するのは熊に遭遇した時に石を投げる様な愚行の場合もありますし、何が最善の判断なのかなんて誰にも分らないんですよね。「シン・ゴジラ」はそうした責任を問われる厳しい状況の中でも、問題を解決しようと戦い続ける大人の姿が魅力的でした。

決断して行動するだけなら馬鹿でも出来ます。その先にある責任を取る事まで行えるのが真の政治家。総理も臨時総理も優柔不断で頼りない姿も見られましたが、逃げずに責任を取るという汚れ仕事まで遂げたのは立派でした。あれが「東のエデン」で滝沢が話していた頭の良い連中のアイディアを実現する為の損な役回りを引き受ける奴ですね。

東のエデン (文庫ダ・ヴィンチ)

東のエデン (文庫ダ・ヴィンチ)




最初からエヴァに乗る覚悟のある者だけが乗ればいい
最初から最後まで諦めずに戦い続ける組織人が印象的な「シン・ゴジラ」には、「エヴァ」のシンジみたいに事件に巻き込まれて覚悟も無いのに戦わされた者はいません。組織に属するプロフェッショナルだけでゴジラを止める。これを少年少女に英雄的な活躍と犠牲を強いる「トップをねらえ」や「エヴァ」の庵野秀明監督が作り上げたのは興味深い。

90年代頃からの子供向け作品は「エヴァ」や「ナデシコ」など主人公が突然事件に巻き込まれ、望まない形で半強制的に戦わされる展開が目立ちました。その戦いの中での出会いや別れが主人公を精神的に成長させ、最初は巻き込まれただけの主人公も途中からは自分の意思で戦う決意をします。これは海賊王になるなどの強烈な目的意識を持たない人間でも、何かの切欠があれば変われるのだという希望を視聴者の子供に抱かせますが、現実は誰もがそんな簡単には変われるとは限らないです。

シンジみたいに適性の無い者を戦わせると心に傷を負わせる場合もありますし、意欲はあるけど能力が不足した者を戦わせると無駄死にする場合もあるので、最初から誰も巻き込まずに問題を解決出来るなら、それに越した事は無いと思うんですよね。そうした意味で「シン・ゴジラ」の組織の在り方は好みでした。日本の命運を左右する戦いを英雄的な少数の人間を任せずに、自分の意思で組織に属した者達が組織としての力を発揮して行おうとする。このシンジを必要としない「シン・ゴジラ」を生み出した庵野監督が「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」でどこに向かうのかは気になります。


組織を信じられる庵野秀明監督
ここ20年位の組織を題材にした作品では「機動警察パトレイバー」や「踊る大捜査線」など上層部が無能や黒幕で現場の人間が苦労する展開が目に付きました。これには現実の権力者による汚職が創作にも影響を与えたとか、単純な善悪二元論に飽きて外部の敵だけを悪とする見方に疑問が出てきたとか理由は色々とあるのでしょう。細かい理由に関してはとりあえず置いといて、日本では長い間組織を肯定的に描き難い空気はあったと思うんですよね。

それらと比較すると「シン・ゴジラ」の組織は意外と機能して腐敗まではしていませんでした。出世とは縁の無さそうな変わり者が奮闘する場面もあるものの、政治家として順調に道を走る矢口が主導権を握り事態の収拾を図るところを見ると、庵野監督はまだまだ日本の組織に絶望していない印象を受けます。個人的には「ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり」並みに肯定的に描かれていたと思います。この調子だと「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」は「ぼくらの」みたいになる気配が濃厚。

ぼくらの 11  初版限定冊子付き版 (小学館プラス・アンコミックスシリーズ)

ぼくらの 11 初版限定冊子付き版 (小学館プラス・アンコミックスシリーズ)



逃げたら駄目なんて言われない社会
ゴジラという虚構が相手とはいえ日本の妙に現実味のある対応を見ていると、自分なら似た様な事態が起きた時に何をすればいいのか、真面目にそれを考える観客も中にはいるかと思いますが、考えたところで大多数の国民には指示に従い避難する事しか出来ません。ゴジラが凍結した後なら災害復興のボランティア活動とか誰にでも行える事はあるんですけどね。日本対ゴジラと言いながら国民が逃げるばかりなのは、格好悪いかもしれないですけどこれも大切な事です。大災害相手に私達は無力ですからゴジラを撮影しようとしないで、自衛隊等の専門家の足を引っ張らない様に避難して後は任せる。

作中ではゴジラが現れていない地域の住民は普段通りに呑気な生活をしていましたが、あれもある意味では正しい態度だと個人的には思います。自分達には関係の無い話だと冷めた態度を取るのはどうかと思いますが、無駄な正義感や好奇心や不安感を出して余計な事をされるとそれはそれで迷惑しますからね。政府や官僚がどうでもいい問題に頭を悩ませずに済むように、安全な地域の住民は何時もと変わらない日常を送る事にも意味はあるんです。

お国の為に一丸となって戦うなんてのは時代遅れですし、国民に求められるのは困難に立ち向かう気概では有りません。必要なのは適度な危機感と冷静な判断力と政府を信じて任せる事だと思います。それさえあれば後は覚悟のある様々な分野の専門家が全力で取り組み解決するはず。そう思わせる程の日本の組織の頼もしさを「シン・ゴジラ」からは感じました。


牧悟郎に試された人類
この作品で描かれた日本の組織はゴジラにも負けない強さを見せましたが、正確に言えば独力でゴジラを止める程の力は持ちません。アメリカからはゴジラに関する情報や無人機を提供してもらい、終盤は世界中からスーパーコンピューターを貸してもらいました。他国の協力が無ければ日本は立ち直れない大打撃を受けたのは間違いないでしょう。そうなる位なら頭を下げて幾らでも力を借りた方がましと言いたいところですが、大抵の場合は他国に協力を仰げば見返りを要求されるので、安易に手を借りる訳にもいかないのが難しいですよね。

他国に食い物にされない様に協力を要請して対価を用意しつつも、国益の為に絶対に譲れない部分は譲らない方向で交渉しなければなりません。自分も相手もお互いに国益の為に譲れない部分がある為に交渉は難航しますが、目先の利益のみに気を取られているとゴジラがさらなる進化を遂げて日本どころか世界を滅ぼしかねません。

そうなる前に国益を無視してでも世界が手を結ぶかどうか、作中ではそれが他国がスーパーコンピューターを日本に貸す事が出来るかどうかという形で試されました。日本に情報を盗まれる事は無いだろうと信じる心。それが相手にあるおかげで日本は解析の方が間に合い、核攻撃を行わせる前にゴジラを凍結させる事が叶いました。日本の交渉能力や研究者の知恵も必要とされましたが、最後に必要とされたのは自分が損をしても他者を助けようとする人間の善意。

多分失踪した牧博士は善意があればゴジラを止められると予想していたでしょう。逆に言えば折鶴などのヒントをどれだけ与えられても善意が無ければゴジラを止められない。牧博士がどの様な結末を望んでいたのかは読めませんが、日本と世界が生き残るに値するかを試そうとする意図はあったのではないかと思います。

2016-08-13

「魔法科高校の劣等生」コミカライズ担当作家の魅力を語る

毎回記事のタイトルの付け方に悩んだ挙げ句の果てに、面白味のないところに落ち着いてしまうのは何とかならないものか。まあそんな読み手にどうでもいい話は置いといて本題の方に入ろうと思います。

f:id:taida5656:20160813183743j:image
「入学編」と「横浜編」と「ダブルセブン編」を担当するきたうみつな先生。コミカライズの中では絵柄が原作絵の雰囲気に近いので、原作絵に似ている事を重視するファンには嬉しいコミカライズだと思います。背景の描き込みが細かい事に加えて絵が崩れる事が殆んど見られないなど全体的に質は高い方ですが、大胆なコマ割と構図を用いた漫画ならではの魅力が乏しい為に、動きのあるアニメと比較すると地味な印象を受けます。

原作絵の影響を悪い意味で受けて最初は深雪の髪がカラーでは青色にされていましたが、最近は原作の描写に合わせてカラーでも黒色に塗られています。この作品には黒髪のキャラが多数登場するのですが、深雪の個性である黒髪ロングの存在感を増す為に、同じ黒髪の雫や真由美の髪にはトーンを貼り付けて、深雪はベタ塗りのみにして髪の色感と質感を差別化。ちなみに森夕先生も同様に深雪の黒髪を他とは変えて描いています。



f:id:taida5656:20160813183744j:image
深雪視点から描かれた「優等生」を担当する森夕先生は深雪を美少女として描いている事が最大の特徴。普段は効率を重視して簡素な絵を描きますが、深雪の見せ場では睫毛を丁寧に描いて、そこらの美少女とは別格の容姿をしている事を読者に印象付けます。

戦闘に迫力が無い事や背景に空白が目立つといった欠点もあるのですが、毎巻上達していて丁寧に描かれたコマは他作品と遜色が無い位には上手なんですよね。きたうみつな先生みたいに絵が安定すれば格段に見映えがいい作品になるのは分かりきっているので、森夕先生の生産性がこれから先も伸びる事に期待しています。



f:id:taida5656:20160813183741j:image
達也と深雪の過去を描いた「追憶編」を担当した依河和希先生の特徴は少女漫画的な表現。深雪の心境を貼り付けたスクリーントーンや背景に描いた花を用いて表現する場面が多いです。深雪が周囲の事には目を向けずに達也の事だけを想い、恋する乙女の世界に入る時などは瞳の描き方を淡い感じに変えてあるのも注目点。

見せ場で絵柄の方向性は同じにしたまま丁寧に描こうとする森夕先生とそこが違います。依河和希先生の非常に細い輪郭線は少年漫画的な荒々しい戦闘には向いていませんが、兄に恋する幼い少女の繊細な心の移り変わりを描いた物語には適しているかと思います。



f:id:taida5656:20160813183745j:image
美少女が魅力的ではないとか目が死んでいるとかファンからの批判も多い「横浜騒乱編」を担当した天羽銀先生。ネット上では否定的な意見が多い作品ですが、その全てが駄目という訳ではありません。作者紹介に書かれている大胆なアクションシーンと男らしい人物描写に定評ありには納得。

平面の漫画の中に空間の立体感を感じさせる構図の巧さ、中年の親父が持つ渋さに関しては他作品を圧倒するものがあります。多分女性キャラが少ない作品のコミカライズをしていれば、あそこまで叩かれる事は無かったのではないでしょうか。



f:id:taida5656:20160813183742j:image
アニメ化はしていない「来訪者編」を担当するマジコ先生はバランス感覚が優れています。きたうみつな先生の様に背景を十分に描き込み、森夕先生の様に深雪を美少女に見せる事も意識、さらにはデフォルメキャラを用いて軽い雰囲気も出す。色んな漫画家の良いところを持ち合わせたバランスの取れた作品。表紙で受ける印象以上の完成度の高さでした。

デフォルメは特にいい味を出していてポンコツなリーナの可愛さが強調されました。ただそれが達也の感情表現を豊かにしている面はあるので、そこに対しては賛否両論になる可能性はあるかと思われます。絵的な特徴には手前にいるキャラなどの輪郭線を太めにしている点も挙げられます。そうする事によって背景とキャラの境を明確にして、描き込みの多いコマでも読者が楽に読める様に配慮したのでしょうね。アニメ派が知らない話である点も含めて、個人的に最もお勧めする作品。

2016-08-06

弱者の視点から見える厳しい世界「灰と幻想のグリムガル」と「ゴブリンスレイヤー」

特別な力を与えられた主人公が巨大なドラゴンなどの強敵を倒す。「ダンまち」や「スレイヤーズ」に見られる主人公の英雄的な活躍を描いた物語とは対照的に、ゴブリンなどの雑魚を相手にする「灰と幻想のグリムガル」と「ゴブリンスレイヤー」。ゴブリンみたいな雑魚が相手だと戦闘の規模も小さい為に地味に思えますが、これが意外と魅力的で最近のライトノベルの中では注目を集めています。

この両作品の魅力として挙げられるのはやはりモンスターとの戦闘のリアルさでしょう。大抵の作品は中高生が好きな派手な戦闘を描こうとするので、主人公もそれに対応して「禁書」の上条さんみたいに現実なら致命傷になる攻撃を受けても倒れない打たれ強さを持ちます。それ位は出来ないと人間を超えた怪物と戦える訳がないから当然ですよね。ところが「灰と幻想のグリムガル」と「ゴブリンスレイヤー」ではちょっとした攻撃を受けると簡単に命を落とします。

子供と同じ位の腕力しかないゴブリンに棍棒で滅多打ちにされるだけで倒れる打たれ弱さですが、これが特別な能力も何も持たない現実的な人間の強さなんですよね。「ラストエンブリオ」などの岩を砕いて海を割る一撃を受けても平然としているキャラに見慣れていると感覚が麻痺してきますが、本来は人間なんてドラゴンどころかクマにも勝てません。

そんな弱い人間にとってはゴブリンでも十分に脅威になるという事を「灰と幻想のグリムガル」と「ゴブリンスレイヤー」は思い出させます。そしてゴブリンを登場させてパワーインフレしがちなキャラの強さを現実と同程度に引き下げ、作中で描かれている戦闘にある種の現実味を感じさせられると、読者にキャラが殴られた時の痛みを実体験を元に容易に想像させる事が出来ます。

その感覚を読者に意識させると雑魚のモンスターが相手でも、地味で退屈な戦いに映らずに逆に緊張感のある命の奪い合いに映る。折角現実とは異なる何でも描けるファンタジーの世界なのに、あえて現実に寄せて敵も味方も弱い方に設定する。こうした作品が生まれて支持されるのは、王道の英雄譚が大量に作られてきたおかげでしょうね。

読者の大多数が好む物語の型が自然発生するとそれを模倣した作品が飽きる程に作られます。例を挙げると小説家になろうの場合は異世界転移からのチートハーレムが好まれていますよね。既存の作品と同じ様な世界を舞台にしている点ではパクリとは言わないまでもオリジナリティは無いのですが、その中での細部の差別化が行われたからこそ生まれる斬新な作品も存在します。そしてそれらの作品は普通に読んで楽しむ以外に、類似作品と比較や補完する楽しみも併せ持つ。

主人公が強い作品を読む時はその強さ故に相対的にゴブリンが雑魚に感じられてしまい、ゴブリンに襲われ苦しめられる村人の心情などが読み取り難い面があるのですが、ここでゴブリンの強さを描いた作品を読んでおけば足りない部分を想像して補えますし、ゴブリンを楽々と倒せる主人公の強さが印象に残ります。また他の作品で見てきたお約束的な展開と微妙に異なる展開が起きれば、読者は意表を突かれて思わず心を震わせる事もあります。「まどかマギカ」はそれを巧みに利用して大成功を収めていました。

この恩恵は誰も見た事がない完全なオリジナルの作品では殆んど受けられません。小説家になろうやライトノベルはどれも似た様なものばかりと批判されますが、こうした楽しみ方が可能な作品を生み出すのはジャンルに偏向があるからと言えると思います。特定のジャンルに人気が集中して大量に作品が作られ、難聴系主人公や石鹸枠など独自の文脈が生まれる。

独自の進化を遂げて斬新な作品を生む為には、特定のジャンルが受けやすい閉鎖的な環境も時には必要なんですよね。世の中にはライトノベルの他にも漫画や映画など様々な娯楽がありますし、娯楽全体として多様性があるなら局所的に偏るのは構わないと思います。仮にハーレムラブコメが購買層に好まれていないとしたら「はがない」も「俺ガイル」も生まれるのが数年は遅れたかもしれません。

「灰と幻想のグリムガル」と「ゴブリンスレイヤー」に話を戻すと、両作品はゴブリンとの死闘から始まる物語ではあるのですが、着眼点は同じでも作風は正反対と言える位に別物で魅力も違います。特にゴブリンの性質、主人公の描き方、文体は違いが大きいです。「灰と幻想のグリムガル」のゴブリンは人間と変わらない精神を持つ為に、ハルヒロ達もその命を奪う事に躊躇う場面も見られます。

一方「ゴブリンスレイヤー」のゴブリンは女性を犯して愉しむ邪悪の塊で、仲間を大切にする精神も持たない共存不可能な生物。こちらのゴブリンはその様な残忍な性格の持ち主なので、見るに耐えない悲惨な光景が描かれる事もしばしば。

そのゴブリンを殺す事を生業としている主人公のゴブリンスレイヤーは、ギルドの所属する冒険者の中では上位とはいえ身体能力は平凡。特別な魔法を使えるとか弓の腕前が百発百中だとか主人公に相応しい能力はないんですよね。

そんな彼がゴブリンを次々に倒していけるのは、ゴブリンを殺し続ける中で身に付けた技術によるもの。ゴブリンに関する知識を武器に罠を見破り、ゴブリンの血を浴びて臭いを消して接近。殲滅する為には手段を選ばず、子供だろうと躊躇せずに息の根を止める。熟練の猟師を連想させるゴブリン退治の手際の良さには惚れ惚れします。

「灰と幻想のグリムガル」は地の文がハルヒロの主観で書かれるなど、読者にハルヒロの心情を積極的に伝える文体で、ハルヒロを身近な存在に感じさせ共感しやすい様にしています。「ゴブリンスレイヤー」は逆にゴブリンスレイヤーの内面を読者に読み取らせない文体で、その人物像は彼以外の主観を通さなければ見えてきません。

また挿絵では常に兜を被らせ決して素顔を映さずに、徹底的に彼を謎に包まれたキャラという風に描写しています。この語られなさが共感のしやすさを失わせる代わりに、寡黙な職人的な雰囲気を醸し出しているのでしょうね。両作品を読むと似た様な題材でもこれだけ違うものが描けるのかと作家の腕を感じられるので、興味のある方は「灰と幻想のグリムガル」はアニメ版を「ゴブリンスレイヤー」は漫画版だけでも読んでみて下さい。

ゴブリンスレイヤー | ガンガンONLINE | SQUARE ENIX