002:生協の白石さん

生協の白石さん

生協の白石さん

まず思うのは、大変なんだろうな、ということ。大学内の話題になるだけならまだしも、本になって取材が来るまでの騒ぎになったのだ。
対外的に評価されていることでも、それが組織内での評価につながるとは限らない。むしろやっかみの対象になったり、まじめな人からちゃらちゃらしてないで本来の仕事しろみたいな視線を感じたりする場合が多々ある。


有名になった後も、変わらず同じ活動ができる生協という職場。
儲けではなく組合員のために、という理念は、そりゃ理念でしかないのだけれども、白石さんは生協という職場で働いていて、今も一言カードを書き続けることができる。


トイレに本をセットしてあるのだけれども、この本はトイレで読むのに最適の本だった。1ページごとに独立しているので短い時間で読みやすい。
読みやすくて、あっという間に読んでしまった。後釜に評論の本を置いたのだけど、やはりトイレで読むには適さない。ワンセンテンスが長すぎる。用を完全に足し終えてしまう。
トイレ用の本をもっと調達すべきだと思った。中谷彰宏とかぴったり。


あと私は対外的に評価されたことがない。
この感想は書評子7大格言のひとつ、見てきたようにうそを言い、によって作られている。まとまった書評にするときがあれば、そのときはこんないいかげんな嘘を含む断片メモではなくて、ちゃんとした大嘘になっているであろう。


はてな年間100冊読書クラブ002/100

003:消された一家 北九州・連続監禁殺人事件

消された一家―北九州・連続監禁殺人事件

消された一家―北九州・連続監禁殺人事件

難しいな、と思う。
公平な視点というのは何だろうと思ってしまうから。
作者の視点は(著者が主張するところの*1)主犯格の松永太から虐待を受けていた緒方純子よりで書かれている。それは正しい。何かに関わること、語るということは、公平性から遠い。遠いというより、難しいのか。己の思惑、理念があってこそ作品(創作というのは小説だけではない)が作れる。
だが、読者はこういった作品の作者の視点に公平性を求めてしまうし、当然作者も公平性を気にかける。そして読者は、この作品は公平な視点で書かれたものだ、と評価してしまう。公平性など、あるひとつの評価軸にすぎないのに。気をつけないとな*2


男と女の中にはいろいろありましてー
みたいな話は良く聞くので、松永と緒方の話だけなら、ま、男と女の中にはいろいろあるのかもな、という理解をするかもしれないのだが、緒方の家族、田舎の分別ありそうな人たち*3までもが容易に松永に籠絡され、支配下に置かれてしまう、というのは興味深い。
緒方の家族とって松永は、娘(姉)をたぶらかされて奪われた存在なのだ。それが直接あっただけで松永の語る話に安心され、松永の術中に落ちてしまう。この事件を評論した専門家(精神科医だったかな?)がオウム真理教との関連を語っていたような気がするが、松本智津夫の零落版といったところなのだろうか。あと浦沢直樹の『MONSTER』も思い出した。
人間が他の人間の支配下に置かれてしまう状況というのは。この著者はDVにくわしいみたいから、DV本を読んだら少しはわかるのだろうか。


まだいろいろ思いついたことはあるのだけど、眠いのでまた後日。
あと本書の趣旨にあんま関係ないけど、松永に『心の闇』などないのだと思う。人は生き物だから、他者を殺すことができる存在なのだ。闇もあれば光もある心というものを持った人間という概念。それを当然のこととして共有しているからともに飯を食い、語らっているわけだが。はたしてそれは絶対の真理なのか。心はどこにあるのか。


はてな年間100冊読書クラブ003/100

*1:そしてそれはおそらく真実

*2:自戒

*3:父母妹妹婿甥姪