アトピーと母

私が産まれたのは北海道札幌市。宮城県で産まれ読売新聞で働く父と北海道恵庭市で産まれ育った母の元、私は3才位まで北海道で過ごした。

そんな私は到底その頃の記憶などなく、最初の記憶は引っ越し後の東京都国分寺市から始まる。

国分寺にいた頃の記憶は近くにお蕎麦屋さんがあって、よく食べに行った事と、病弱だった私は喘息と、おたふく風邪をこじらせて入院した記憶しかなくあまり幼稚園に行けなかったこと。ちなみに幼稚園は学芸大付属なので私の中での最高学歴。

それから小学生2年生の時に埼玉県の入間市に引っ越ししたあと、喘息は治ったものの私はアトピーを発症した。

アトピーは今でこそネットを調べれば色々な対処法があらゆる所に書いてあるが、当時は有効な対処方法もわからず、私は痒くて、毎日ベットのシーツは血だらけで、皮膚はボロボロ。お風呂は入ると痛いし、寝るのも痒くてなかなか寝れなかったから、当時の私の夢は誰にも邪魔されず、何の悩みもなく朝まで寝る事とだった。

なかなか有効な手段もわからなかった当時だから、私の母は人からの口コミで少しでも良いと聞いたものは全て試してきた。

旅行といえば箱根温泉だったし、当時では珍しいカイロプラクティックも電車を乗り継いで通ったし、枇杷の葉っぱのアルコール漬けは、私の荒れた皮膚を拭く度に激痛が走るとんだ代物だった。

そんな状況もあるから一時期は学校でもいじめられたし、正直辛かった記憶の方が大きいけど、勉強も運動も頑張りなさいとは一言も言われた記憶がないのは、母が私に関してでいえばアトピーさえなくなってくれれば何も求めないと決めてたからと、後から聞かされた。

また、この頃はちょうどバブルの時代で、それまで借家だった我が家も、勢いに乗じて新築の戸建てに引っ越ししたが、バブルが弾け、家も手放す事となり、父の職場が変わり、中学からは埼玉県の八潮市に引っ越しした。

この頃もアトピーはまだ治ってなかったが、アトピーを苦にせず、前向きに、積極的に、コミュニケーションをとれば、弄られはするけど、いじめまでは行かずに楽しく過ごせる事がわかったので学校生活は順調だった。

母といえば、変わらず私のアトピーがよくなれば良いと、保険の効かない医者に行き、高い塗り薬を買ってくるし、相変わらず旅行は箱根温泉だし、別のカイロプラクティックにも通ってたりした。

また、この頃はわからなかったけど、バブルが弾けてからの我が家の会計は父親の遊び代も含めかなり借金が膨れ、夜逃げみたいな感じで引っ越ししたのが、高校2年生の時。

そのあとドラマに出てくるような借金取りからの電話や訪問が来たりしたが、自己破産したので、そこからは平穏だった。

その間も母は私のアトピーの薬は切らさず、高校生活もなんら支障がない範囲で過ごせるように自分で働きながら、大学も2部ながら進学させてくれた。

私はバイト先にも恵まれ、父が大学4年の時に亡くなる前より、ある程度生活基盤が築ける位まの収入が得られたので、まずは自分の事は自分で払う、生活する事を第一の目標に掲げ、生きてきて、幸いにも40才手前を迎えた今では、私以外の家族も養う事ができ、アトピーもほとんど気にならないほど、ここ数年は過ごせて来ている。

 

そんな母は今71才。

 

子の親になって初めてわかる。

自分の幼少期がどれ程大変だったのかと。

感謝以外の言葉など見出だせない。

少なくとも、もうこっちは心配ないから、自分の好きなように生きて欲しいと、心から思う今日。

 

手術、上手く行くといいな。

36才の日常

この日記を初めて書いたのは今から12年前。まだ世の中にソーシャルの文字が出回っていない時代に、当時暇でアレしかしてない友達がモテ要素の為に取り入れたこのブログを、同じく当時暇でモテたい思っていた私に紹介してくれたのが、このtainaka日記を書くきっかけとなった訳である。
時は過ぎ、すっかり30代も後半に差し掛かってしまったのであるが、たまたま一人の時間が取れた日に、何もやる事がなくて、何となく昔書いたこの日記を思い出し、ワインのつまみで過去に書いた日記をほじくり返していたところ、新鮮な刺身とちょうどよい塩梅の塩辛を食するが如く、でもそのつまみはワインに合わないミスマッチ感も漂わせながら、結局ワイン一本空けてしまっているのだから、このつまみは意外にもワインと合うのだなと、自分の中で納得する。
そんな若かりし頃に抱いた甘酸っぱい気持ちや妄想や焦燥感を全てひっくるめて現実世界に戻すと、すぐ目の前には生まれたばかりの次男の寝顔が飛び込んでくる。

『敬洋』

我が意志を継ぐ第一子こと隼慈の誕生から約5年、よもや20代前半の私には想像出来ない二人目の子供が今まさに目の前にいる。
こんな世知辛い世の中に産まれたのだから誰よりも大きな心で人を尊びながら人生を生き抜いて欲しいと願い名付けたのは半分。

もう半分は私が物心ついて野球を見始めてから好きだった野球選手の第一位である福王昭仁を抜き、今最もリスペクトするプロ野球選手もといスポーツと言うジャンルにおいて尊敬に値する「鈴木尚広」から取ったのが半分である。

プロ野球の厳しい世界の中で、長く活躍出来る選手はほんの一握りであるが、そんな中で生き抜く為に、野球選手の基本であるボールを打つ、ボールを捕る、ボールを投げる事を追い求めず、走るという基本動作を追求し、プロ生活で規定打席に到達したのは一度も無いにもかかわらず、現在プロ20年目を迎えている。
巨人には松井秀樹や高橋由伸といったスター選手が多い中で、自分をしっかり分析し、どうしたらプロ野球選手として生き残れるかを考え決断した鈴木尚広は野球人として、一つ年上の先輩として、尊敬してます。

敬洋が将来人生の岐路に立たされた時に、ビールを飲みながらこんな話が出来たら、お父さんは幸せだなと今から想像する毎日。

一子相伝

2011年2月27日



我が意思を継ぐ新たなる生命が誕生しました。


その名も「隼慈」


不況真っ只中の昨今を、己の強さと他人への優しさで、これからあるどんな状況にも負けない、たくましい子供に育って欲しいと考え、命名しました。


この隼慈君が生まれてくる前の十数時間の過程は、自分の想像をはるかに越えており、妻の顔は痛さでのたうちまわる西川のりおと化しており、私も仕事終わりで直行したため、ほぼ不眠不休の状態。

今この日記を書いている間にも意識を失いかけております。


そんな辛い思いがあるからこそ、これから育てて行く過程の中で、どんな困難があろうとも、乗り越えていけるんだろうなと、改めて実感したわけであります。


なんにしても、取り合えず母子共々、無事であった事を感謝して、今日の締めとさせていただきます。

感謝の意

誰もいない休日を過ごすことは久々だったが、仕事と酒で限界だった体力を回復するため、昼に起き、飯を食い、昼寝をして、飯を食い・・・、みたいな絵に描いたような体たらくな一日を過ごしてみた訳だが、さすがにこのまま本日を終らせるのはもったいないと一念発起し、先日実家より持って帰って部屋の隅に放置していたアルバム等々の整理をしてみた。

今でもそうだが、写真とかもらった手紙とか、そういう思い出の品々を捨てたりするのは、今まで生きてきた自分の記憶を消す作業になりそうで、そうなるとそれはそれでとても寂しいので、その殆どを取っておいたりしている。中にはどこで拾ったかわからない石や鈴木あみの切り抜きまで、その数は凄まじいものであるが、もうすぐ生まれる子供の事や、引越しの事を考えると、さすがに整理しなければとおもった訳である。

その作業の中、当時バイトで一緒だった友達からもらった手紙があり、正直何故この手紙をもらったのか忘れていたので改めて読み返してみた。
手紙の内容は、その当時人間関係でごちゃごちゃしていて、手紙の送り主はバイトを一時辞めた形となった訳だが、そのごちゃごちゃした最中の心境や私に対しての感謝の気持ちが述べられていた。

思えばこのところ、仕事、妻のこと、子供のこと、家のことetc、自分が責任を持ってやらなければいけない事が沢山あり、毎日その場しのぎでどうにか過ごして、もちろんたまたま今がそういう時で、この問題を乗り越えなければいけないのは仕方がないというか、当たり前なのだが、それでも何かそういう日々を過ごしていると自分自身に余裕がなくなっていく。




当時の情景と私。
今の状況と私。


どちらも私であることに変わらないし、これからも私であることに変りはないのだから、どんな状況でも、昔も今もこれからも、少しでもいろんな人に感謝される存在でありたいと思った。そして、今までの人生で出会った人に、こちらこそありがとうと伝えたい。


今頑張り過ぎているあなたへ。思い出の振り返り、お勧めします。

泥酔の交わり

基本的に毎日泥酔を強いられる、いや自らの糧として泥酔を課して日々焼酎をロックで煽るわけだが、流石に忘年会シーズンということもあり煽り過ぎて、毎日午前中の仕事といえばトイレに篭る所から始まるわけである。

そんな泥酔の低迷状態のふとした瞬間に文章が書きたくなるのだから、それは当然ではあるが、何を伝えたくて書いているのかその文章を見るだけでは全く理解出来ない。

ただそういう時に書く文章は泥酔の低迷状態であるにも関わらず、明日の朝にはスッカリ抜けてしまう記憶の中で、後日トイレにうずくまる自分に向けて託した手紙で、それはある一辺からみれば、5分後の記憶がない自分に向けて、なんとか覚えていられるように一生懸命メモを残していく、感動的エピソードと同じではないかと思うわけである。

そんなわけで無くした記憶を後日読み返してもわからない文章で今日も綴る。

紫式部

お金を拾うという現実に直面する機会はさして人生の中でもある事では無いが、その現実に直前に出くわす自分を想像するのは実にたやすい。
誰にも見られていない事を確認後、すばやく財布を取り上げパブITALIANに突っ込む。これ常識。

金色エイヒレの包み揚げ

常に仕事が舞い降りる中で自分のポテンシャルで最大限、能率的に仕事がこなせる日なんて一ヶ月に一回あるかどうかですが、そういう日に限って飲みに行こうなんて誘いが入るもんだから、能率的な仕事なんてさっさと諦めて当然の如く飲みに行く。

仕事の何が楽しくて何がつまらなくて何が性的快楽かなんてわかりませんが、とにかく定年退職後は都心の喧騒を忘れて縁側でお茶を飲む人生の終末を送りたいと思う日々。

その為に今現実における飲み会は、能率的かつ効率的に飲み泥酔する毎日。