2010-05-09
HTML5はFLASHより将来性がある
「徹底解説HTML5マークアップガイドブック」を苦労して全部読みました。
非常にぶ厚い本だけどよくまとまってると思います。
おすすめです。
読んで分かったけど、HTML5ってビジュアル表現だけにとどまらず、
よりセマンティックス(意味論)を追求してんだね。
めっちゃ厳密だぁ!参った(/´△`\)
もう安易にDivで囲んで済ますわけにはいかないみたいです。
この厳密なルールは今後マークアップエンジニアを数多く泣かせることでしょう。てかもう泣いてます(涙)
FLASHは今後どんな形で生き残ってゆくのだろうか?
HTML5の溢れる可能性を知った今そう悲観的に考えざるを得ない。
2009-01-07
和辻哲郎の云う「善」。
本日は、『日本の「哲学」を読み解く〜「無」の時代を生きぬくために』(田中久文)を参考図書として綴っていくことにします。和辻哲郎(哲学者)の項より参照。
和辻哲郎は
「我々の出てきた究極の根源こそ我々の還り行く究極の行く末にほかならない」
といいます。
究極的には「自他不二の絶対的全体性」を目指していると。
この考えは以前私が記事で取り上げた、ティヤール・ド・シャルダンの「オメガポイント」説と相似しています。
また和辻が考える「善」とは、
他者の「信頼」に応え、「信頼」に値するように「行為」することが、人間存在の「真理」を生起させること
であるといいます。
さらに和辻は、何らかの意味で宇宙は善の方向をめざしているとお考えになられていたようです。
本書で和辻の思想の一端に触れただけではありますが、おそらく和辻は予定調和的に物事は進んでいるのだぁ〜って言いたかったんじゃないのかなぁ。
まぁ肩ひじ張らずに気楽に行こうやというメッセージを和辻からは受け取った気がします。(終わり)
2009-01-06
レヴィナスの云う「善」。
まずレヴィナス(哲学者)が云うところの「欲求」と「欲望」の違いを見ていくことにします。
(以下、「はじめたばかりの浄土真宗」内田樹・釈徹宗、共著より、内田樹氏の解説抜粋含む。)
「欠如が満たされる得るものが"欲求"、欠如が充足されるにつれてますます欠落感が昂進するようなものが"欲望"」
んで、レヴィナスは"欲望"の方を「善」とするんだって。
『善とは、「自分は何をしたらよいのかわからない」のだが、「自分は何をしたらよいのかわからない」という世界に投じられてあることを「絶対的な遅れ」として引き受け、おのれに「絶対的に先んじているもの」(言い換えれば「存在するとは別の仕方で」私たちにかかわってくるもの)を欲望するという事況そのものを指しているのです。』
「絶対的に先んじているもの」とは神とか仏とかいう言葉にできない「何か」。
"事況そのもの"ということがミソかな。
『「善悪」にかかわる戒律は、「絶対的に遅れているもの」に「絶対的に先んじているもの」が「贈与」したものであり、それを「遅れているもの」は拒否することができないという物語と込みで与えられている』
『ですからむしろ重要なのは、戒律の文言ではなく、神の与えた戒律を人間は拒否することができないという「無能の覚知」の方にある。つまり「善」というのは、戒律の「コンテンツ」ではなく、戒律が与えられる「仕方」のことを指す』
分かるような分からないような・・・・
『私たちは、それが絶対に不可能であるということを分っていながら、私たち自身を世界に誕生させたものが「何のために、私たちをこの世界に送り込んだのか」を知りたく願います。
「私がここに生きているのは、自明のことである」という無反省のうちにまどろんでいる人間はいってしまえば「動物」的な存在者です。
「私はいかなる意味があって、この世界に送り出されたのか」という(答えが得られるはずのない)問いから逃れられないという宿命が人間の人間性を、言い換えれば人間の「善性」を構成している。』
普通言うところの「善悪」の概念とは大分異なっているということは理解できますが・・・難解です。
かくしてレヴィナスは真理を希求せざるをえないという状況下に置かれていること(「事況そのもの」)が「善」であるというわけです。
さらに付け加えさせてもらえれば、追及する余地をあえて人間に与えることによって欲望を掻き立てることができ、また時に欲望に振り回されることで快楽という経験を味わうことができると。すべてはこの不可解な状況下のおかげなんでしょうね。
だから現在の未曾有("みぞゆう"じゃないよ)の大不況でも、大局の立場でもって享受できる(楽しめる)人間こそが神の願いに適っているということか。
「人生思い通りにならないからこそ意義がある」
果たしてここまで達観できる人間がどれだけ存在するだろうか。


