手紙「関東大震災時朝鮮人虐殺・千葉フィールドワークに参加して」

 5月24日、「関東大震災朝鮮人虐殺の事実を知り追悼する神奈川実行委員会」が主催した「千葉フィールドワーク」に参加した。その時の感想を実行委に送ったので転載する。

【千葉フィールドワークをどこで知ったか。参加のきっかけなど】
 2012年9月、久保山墓地で行われた追悼式に参加し、その際メールアドレスを記していたので、時折お知らせを送って頂いていました。13年9月には川崎教育文化会館で開かれた「関東大震災90周年記念シンポジウム-関東大震災から学ぶ多民族共生への道」に行き、田中正敬氏(専修大学教授)の講演を聴いて「いわれなく殺された人びと」(青木書店)のご紹介を受け、衝撃を受けました。→掘り起こされた朝鮮人虐殺の歴史と語り継がれる日本人名士の美談 - 緑の五月通信
 今回の千葉フィールドワークが何とか参加できる日取りだったのと、あの本の「舞台」になった場所に何としても行きたくなり申し込みました。
【千葉フィールドワークの感想】
 これまでいくつかの催しや集会、講演会などに参加してきましたが、屈指の内容の濃さ、有意義さでした。1週間経ちましたが、今も反芻しています。このような素晴らしい企画を立てて下さった神奈川実行委の皆様に感謝します。
 そして何よりも現地を案内して下さった千葉の実行委の皆様、ありがとうございました。同書の著者である大竹米子さん、平形知惠子さんが直接ご案内して下さるとは知らず望外の喜びでした。

 私は、この「いわれなく殺された人びと」や「風よ 鳳仙花の歌をはこべ」(教育史料出版会)を読み、「震災後にパニックで自然発生的に流言飛語が流れ、自警団が過剰に反応して朝鮮人を殺してしまった」というよくある見方から、「実は軍が関与した国家犯罪の側面があるのではないか」という考え方に変わりつつありましたが、今回のフィールドワークとその前週に鑑賞させて頂いた呉充功監督の映画「払い下げられた朝鮮人」を見て、「軍関与」というより「軍主導」であり、「はっきり国家犯罪と言うべきだろう」と考えるようになりました。本を読めばそう理解できる方もいるでしょうが、私の場合、このフィールドワークを通じ、実感をもって考えられるようになったということです。

 船橋の無線塔記念碑に始まり、習志野騎兵連隊跡地、習志野毒ガス学校と、「軍都・船橋」「軍郷・習志野」という、この地域が負わされた歴史の「大枠」について見学した後の、軍が収容所から朝鮮人を払い下げ、村人に殺させた「現場」である「なぎの原」での大竹さんの遺骨発掘についてのご説明は、その荒れ野のような殺風景さと併せて忘れられないものとなりました。
私たちが立っている辺りを指し、「そこから(遺骨が)出たんです」と切り出し、「掘っている間、住人の男性たちは外を向いて発掘作業を見ようとしなかった。たぶん怖かったんだろう。しかし、作業をしていた人たちが出てきた遺骨を洗い始めると、彼らも一緒に洗骨に加わった」と大竹さんが話された時は時間が止まったかと思われるほど引き込まれ、味わったことのない感情を覚えました。

 すなわち、軍は収容した朝鮮人を自分らで虐殺するだけでなく、村人たちにも殺させたという関係こそが、戒厳令を敷き、機関銃まで使用して朝鮮人を殺戮しながら、一方では住民たちに自警団を組織させ、煽り立てて殺させたという歴史の事実を象徴していると言うべきではないでしょうか。

皆さんの活動に敬意を表します。重ねて、ありがとうございました。

朝鮮人虐殺ー問うべきは軍の関与、国家犯罪の側面

 横浜で「払い下げられた朝鮮人関東大震災習志野収容所」という記録映画(呉充功監督、1986年制作)を観た。(主催は関東大震災朝鮮人虐殺の事実を知り追悼する神奈川実行委員会)。関東大震災直後に、千葉・習志野の収容所に集められた朝鮮人を軍が殺害したのみならず、近隣の村に朝鮮人を「払い下げ」、村民に殺させた事実を明らかにした映画だ。
 映画を観る前に、「地域に学ぶ関東大震災ー千葉における朝鮮人虐殺 その解明・追悼はいかになされたか」を読み直したのだが、一市民としてこの重大な事実の発掘、発表に貢献した平形知惠子氏が「そういう軍隊がやっていたこと(朝鮮人殺害)を転嫁するために、朝鮮人を周辺の自警団に渡して殺させていたのではないか」と話しているのを読んで、ハッとなった。私は平形氏らの調査の集大成である「いわれなく殺された人々」(千葉県における追悼・調査実行委員会編)を読んでいたはずなのに、なぜかそのことをあまり意識していなかったからだ。
 そして映画を観た。習志野に駐屯する軍にいた兵士の証言が紹介された。大震災直後に東京への緊急出動命令が出され、実弾60発をもって向かい、列車などに乗っている朝鮮人を引きずり出し、銃剣などで殺害して回ったという。また、当時、船橋署の警官だったという渡辺良雄氏は50人ぐらいの朝鮮人を連れた騎兵に出くわし、「この人たちをわれわれに渡してくれ」と頼んだが、騎兵は「上官から船橋の自警団に(!筆者)引き渡せと命令されている」と言って聞かず、渡辺氏が応援を求めて署に向かったが結局間に合わず、全員が自警団などに殺されてしまったのだそうだ。
 さらに肝心の、習志野の軍から朝鮮人を「払い下げ」られた一部始終を目撃した君塚氏という高齢の地元住民の証言。住民たちはどうやって殺したらよいのか分からず、かといって逃がすわけにもいかず、同様に「払い下げ」を受けた他村からはすでに殺害したとの情報も入ってくるに及び、考えあぐねた末に外部の人に頼んで「鉄砲でぶって(撃って)」穴に埋めたという。
 観終わって何より強く感じたのは、軍の関与の度合いの大きさだ。船橋習志野およびその周辺について言えば、「首謀者」「先導者」としか言いようがないように感じられる。
 あらためて書籍で該当箇所を確認してみた。

 戒厳令が下って、習志野騎兵××連隊が出動したのは9月2日の時刻にして正午少し前頃であったろうか。とにかく恐ろしく急であった。普段から他の兵科よりも『敏速』という云うことに就いては特に八釜(やかま)しく云われてるので可成り慣れているのだが、あの時許(ばか)りは全く面喰ってしまった。・・・さて、二日分の糧食及馬糧、予備蹄鉄まで携行、それに実弾60発を渡されて、いざ出発となると、将校は自宅から、箪笥の奥に、奥さんの一張羅と一しょに蔵ってあった真刀を取り出して来て出発の指揮号令をしたのであるから、宛(さながら)戦争気分![「風よ 鳳仙花の歌をはこべ」(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会)所収の習志野騎兵連隊所属・越中谷利一氏の作品]

亀戸駅付近は罹災民でハンランする洪水のようであった。と、直ちに活動の手始めとして先ず列車改め、と云うのが行われた。数名の将校が抜剣して発車間際の列車の内外を調べるのである。と、機関車に積まれてある石炭の上に蠅のように群がりたかった中から果たして1名の朝鮮人が引摺り降ろされた。憐れむべし、数千の避難民環視の中で、安寧秩序の名の下に、逃れようとするのを背後(うし)ろから白刃と銃剣下に次々と仆れたのである。と、避難民の中から思わず湧き起る嵐のような万歳歓喜の声。(国賊朝鮮人は皆殺しにしろ)。[同上]

「くれてやるからとりにこい」と軍からいわれて断ることはできなかったろう。「主望(ママ)者をとりにやった」という日記の記述には気になるものがある。流言と自警団の緊張のなかで村人はどんな気持ちでいたのだろうか。軍隊のやっていることが伝わらないはずがなかったのではないだろうか。
 受けとりにいった村人に対して、悪いことをした(「あばれた」)不逞鮮人として払い下げた。軍隊から渡された村人にとって、ゆだねられた朝鮮人を生かしておくことはできなかったのだろう。
 のがれたいような、ゆずりあいのあと、村人たちは次々と加害者になってしまった。(「いわれなく殺された人々」)

これは、軍隊のやったこと(注)をカモフラージュし、追及されたときの責任を民衆、自警団に転嫁するためにおこなわれたのではないだろうか。(同上)

 「関東大震災時・朝鮮人虐殺」は「朝鮮人が井戸に毒を入れた」といった流言飛語があり、それを信じて日本刀や鳶口で朝鮮人を血祭りにしていった自警団、住民の話があり、活動家や社会主義者の軍による虐殺があり・・・といった諸々の重要な事実があるが、いまだにそれらの事実のようには明瞭に語られないのが(自分の不勉強をタナにあげるようで恐縮だが)、「軍による朝鮮人殺戮」の事実ではないだろうか。いや、「明瞭に語られない」どころか、絶えず隠蔽したり印象操作したりする力が働いていないだろうか。次の文章のように。

 未曽有の被災の中で狂乱状況に陥った武装群衆を鎮圧するには軍隊の出動しかなかった。戒厳令によって大きな権限を与えられた軍隊が本格的に出動することにより、9月5日ごろから秩序は回復に向かった。当時、日本陸軍の総兵力は21個師団であったが、ほぼ6個師団に相当する大軍が投入され、治安回復をもたらすとともに、災害復旧に決定的な役割を果たした。(波多野勝・飯森明子「関東大震災と日米外交」を五百籏頭真氏が引用。太字化は筆者)五百旗頭真「関東大震災時の大量殺戮 情報暗黒下の異常心理」への疑問 - 緑の五月通信

 そのため、どうしても「流言飛語にのせられてパニックになった日本人がマイノリティの朝鮮人を殺してしまったが、震災直後だったのでやむを得なかった」という無責任な歴史観が流布してしまうのではないだろうか。問われなければならないのは軍の関与ー国家犯罪の側面である。



 

現天皇が「反安保」で「反安倍」で「脱原発」?

 前回すこし触れた矢部宏治氏の「日本はなぜ、『基地』と『原発」を止められないのか」を読み、「あとがき」にこうあるのに気づいた。

 私は政治的には中道・リベラル派の人間ということになるのでしょうが、現在の明仁天皇美智子皇后のおふたりに対しては、大きな尊敬の念をもっています。
 本書でこれまでのべてきたような、沖縄・福島で起きている重大な人権侵害、官僚や政治家たちによる立憲主義の否定。そうした問題について間接的な表現ながら、はっきりと遺憾の念を公式に表明されているのは、国家の中枢においてはおふたりだけだからです。

 立憲主義の否定に対して天皇・皇后がはっきりと遺憾の念を公式に表明していただろうか?しかも大きな二人に「大きな尊敬の念」をもっているとは?同書の本文に対しても違和感や疑問を持っていたが、この文章は明瞭に筆者の考え方が示されていると感じたので、矢部氏のツイッターアカウントに質問を投げかけてみた。

前泊博盛著「日米地位協定入門」に感銘を受け、同シリーズをプロデュースされた矢部さんの「日本はなぜ、『基地」と『原発』を止められないのか」を買いましたが、後書きに現天皇と皇后を尊敬していると書かれてあり、愕然としました。同書の内容と矛盾するのではないでしょうか?https://twitter.com/takammmmm/status/532938770002108416

 矢部氏から返事がきた。

ご連絡ありがとうございます。そうお感じになったとしたら、私の筆力不足です。天皇という地位ではなく、現実の行動、発言を見るかぎり、現在の天皇皇后両陛下は、私のいう「安保村」への、もっとも大きな批判者であると考えています。また、もっと調べてご報告します。https://twitter.com/yabekoji/status/533076665648164864

 これに対して私は、

これは具体的には天皇のどういう行動や発言なのですか?@yabekoji 現実の行動、発言を見るかぎり、現在の天皇皇后両陛下は、私のいう「安保村」への、もっとも大きな批判者であると考えています。https://twitter.com/takammmmm/status/533110094687264769

 と応じた。これは昨年11月のやり取りだが、矢部氏からいまだ返事はない。
 
 本件のやり取りと直接関係はないが、天皇については想田和弘氏もこういうことを書いている。

天皇の「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び」という言葉も新鮮に聞こえる。なぜなら日本では「悲惨な戦争」などという主語のない言葉であの戦争を語ることが常態化しているからだ。しかし「満州事変に始まる」とするならば、その主語は謀略で戦争を始めた日本である。それ以外にはない。https://twitter.com/KazuhiroSoda/status/550677348060651521

 これは、天皇が「15年戦争」についてきちんと批判的な視点で語っているという称賛のようだ。その天皇の発言とは以下のとおり。

 本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々,広島,長崎の原爆,東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています。(2015年・新年にあたっての「感想」)天皇陛下のご感想(新年に当たり):平成27年 - 宮内庁

 想田氏は、天皇が「満州事変に始まる」と言ったのは、その主語が「謀略で戦争を始めた日本」であり、「それ以外にない」と断定している。つまり、「謀略で日本が戦争を起こしたことへの反省」を天皇が述べていると称賛しているのだ。
 だが、言うまでもなく天皇は「謀略」という言葉は一度も使っていない。想田氏は何の脈絡もなく「謀略で戦争を始めた」というフレーズを持ち出してきている。「満州事変と言えば、関東軍の『張作霖爆殺』という謀略によって始まったのだ」という認識を抱いたのは想田であって天皇ではないにもかかわらず、天皇がそう考えていたかのように書いているのだ。ようするに、想田氏は「天皇も自分と同じように謀略で始まった満州事変であると考えているに違いない」という、ある種の「願望」を語ったということだろう。
 さらに言えば、天皇の「各戦場で亡くなった人々,広島,長崎の原爆,東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々」とは日本人犠牲者だけのことであって、日本の侵略によるアジアの犠牲者への言及がないのを知れば、天皇のこれまでの「感想」と大差ないことも分かる。
 
 これはどういうことかと思っていたら、田原総一郎が同様のことをnikkei BP netに書いている。http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20150107/430946/
天皇陛下満州事変から太平洋戦争に至るまでの日本の戦争を深く反省している。これはとても貴重なこと」
「日本の保守の象徴のように思われる天皇は、実は現憲法を守り、靖国神社にも参拝しない」
 天皇明仁)が戦争犯罪人である親の所業を反省するのは当然のことであり、むしろ、その「感想」においてアジア人犠牲者に対する反省が語られないことこそが問題ではないだろうか。また、憲法の制定と日米安保条約の締結によって戦犯として裁かれることを免れ、今日の安泰を得たのだから、『護憲』を表明するのは当然だろう。憲法に明文化された義務でもある。靖国への参拝をやめたのも、自分の戦争犯罪を全部かぶせた東條英機A級戦犯がそこに祀られたら、論理的にいって参拝するわけにはいかないのは当然だろう。田原は本当にこの経緯を知らないのだろうか?
 そして、こんな感想を語っている。
「(天皇は)現在の安倍政権に対する不安も感じておられるのかもしれない。また、時代への危機感を抱いておられるのかもしれない」
 これも、「かもしれない」「かもしれない」と続いているように、矢部氏、想田氏と同じように根拠のない田原の願望あるいは妄想と言わざるを得ない。
 ついでに言うと、原発問題については坂本龍一が2013年2月発行の週刊金曜日鈴木邦男との対談で、「今上天皇は福島の原発事故のことを大変憂慮されています。僕は、口には出さないけれど今上天皇は完全に脱原発だと思っていす」と語ったそうだ。https://twitter.com/inaho28/status/300770397165613056
 これなども根拠のない妄想、願望だろう。あえてその根拠と言えば、その前文の「福島の原発事故のことを大変憂慮」していることが当たるのかもしれないが、福島を憂慮することが必ずしもイコール脱原発にはならないということは、ここ2〜3年の再稼働へ向かう流れを見れば誰の目にも明らかだろう。
 
 彼らはなぜこのような論理的とは言えないことを書き、しゃべるのだろう。一つは、それがマスメディアの中で自分の身の安泰を図る「通行証」のようなものだからだろう。その世界で安定して生き残っていくためには、天皇への尊崇の念を表明しなければならない。あるいは表明しなくとも決して天皇批判はしてはならないし、敬意を抱いていることを疑われてはならないのだろう。これはテレビ番組やメジャーな新聞・雑誌に登場し続けているのがどのような人たちであるか(あるいはどんな発言をする人は登場しないか)を考えれば容易に考えつくことだ。
 だが、このように日米安保に(矢部)、侵略戦争に(想田、田原)、原発に(坂本)-と天皇への熱心な思い入れが語られるのに接すれば、ただの「通行証」ではないことは明らかだろう。もっと能動的な何かだ。この点分かりやすいのは、胎児性水俣病患者と面会してほしいと皇后美智子に手紙を送った石牟礼道子だろう。

 「もしお出(い)でになったら、ぜひとも胎児性患者の人たちに会ってくださいませんでしょうか。生まれて以来、一言もものが言えなかった人たちを察してくださいませ」。熊本訪問が近づいた今月初め、石牟礼さんは皇后さまに手紙をしたため、面会を再びお願いした。希望がかなったことを知った石牟礼さんは「知性と愛情にあふれた方。あらためて尊敬します」と感激した様子で話したが、「私が申し上げなくても、皇后さまは必ず会ってくださったはず」と言い切った。つなごう医療 中日メディカルサイト

 胎児性水俣病患者たちは皇后に会うことを願ったのか?そうではなかろう。石牟礼なりの思惑があってやったことかもしれない(注)が、山を越えたとはいえ裁判は続いており、膨大な患者が存在する。なぜこのような皇室と水俣病患者の和解の演出に一役を買うことをするのだろう。これでは虐げられた者が天皇・皇后の「慈愛」を「享受」することによって丸く収まり、国家的な和解(=和)が回復されるという天皇制の機能を強化するだけではないか。
 このように見てくると、国家体制に関することや大事故・大事件が起きた時、ジャーナリストや文化人、作家の少なからぬ部分が「慈悲深い天皇・皇后様に尊崇し、おすがりすることが正しい道である」という言動をとることが分かる。だがこの社会は、そのような権威主義的な呼びかけに対する反骨心をほとんど持ち合わせていない。安倍政権が今後、さらに傍若無人に振る舞うようになればなるほど天皇への尊崇を呼びかける声は高まり、人々はこれにすがろうとするに違いない。

 矢部宏治氏の「日本はなぜ、『基地』と『原発」を止められないのか」の書評のようなものをと思って書き始めた文章だが、あらぬ方向に進んでしまった。これから読むかどうするか迷っている人は、冒頭に引用した同書のあとがきと私とのツイッターのやり取りを参考にしてほしい。
 
(注)皇太子妃・雅子の祖父はチッソの元社長・江頭豊である。

丸山真男と邦男‐「無責任の体系」をめぐって

 むかし誰かが「丸山真男より弟の邦男の方がいい」と話しているのを聞き、さっそく丸山邦男の「天皇観の戦後史」を買って読んだ。戦前、「神」だったはずの天皇が「人間宣言」し、もとから平和主義者であったかのような態度をとる欺瞞を批判した著作だった。
 兄の丸山真男のほうは岩波新書の「日本の思想」を読んだが、何が言いたいのかよく分からなかった。後年、読んだ「現代政治の思想と行動」ほうがまだ分かりやすかった。
 その著書の中に「軍国支配者の精神形態」という論文がある。ニュルンベルグ裁判で悪びれずに侵略の意思を語るナチス幹部と、責任逃れのような曖昧な発言を続けた東京裁判の日本軍人を対比した論文だ。 
 たとえば、ナチ親衛隊長ヒムラーが「ロシア人やチェコ人がどうなろうと関心はない。関心を惹くのは、われわれがその民族を奴隷として必要とする限りにおいてのみだ」とナチズム全開で語るのに対し、元朝鮮総督の南次郎は極東軍事裁判で検察官から「なぜ聖戦と呼ぶのか」と聞かれた時、「聖戦と一般に言っていたから、ついそういう言葉を使った。侵略的というような戦争ではなく、状況上余儀なき戦争だったと思っていた」(!)と答えている。丸山真男はこうした日本軍人の姿を「主体性を喪失して盲目的な外力にひきまわされる日本軍国主義の『精神』」とたとえ、「日本ファシズムの『無責任の体系』の素描である」と書いている。
 この「無責任の体系」という言葉は戦後、大きな事件を起こした組織が幹部のリーダーシップの欠如のため、より事態を悪化させたり、トップが部下に責任をなすりつけ居座り続けたりするときにしばしば使われてきたのでよく知られている。自分が属する組織で責任の押しつけ合いが始まると、自ずと浮かぶ言葉でもある。 
 丸山真男は「無責任の体系」の基本的類型として、最上位から「神輿」、「役人」、「無法者」の三つを措定し、軍幹部や佐官、民間右翼らはそのどれかに当てはまるとする。だが、この論文を一読してただちに疑問が浮かぶのは「昭和天皇の戦争責任についてはなぜ書かないのだろうか」ということだ(注)。
 哀しいかな、素人は「学問とはそういうものか」「丸山真男だからな」(?)で疑問に封印してしまうものだが、そうした安易なスルーの結果が現代の「丸山真男崇拝」というものだろう。アマゾンのブックレビューなどを見れば、それがよく分かる。
 だが実は、比較的早い時期に丸山真男ははっきりと批判を受けている。ほかでもない弟・丸山邦男の冒頭の著書で。丸山邦男は、天皇が対米戦を決断するにあたり、3ヶ月でカタをつけると上奏する杉山参謀長に対し、「支那事変は1ヶ月で片付けると言ったくせに4年かかって片づかない。支那は広いが、太平洋はもっと広い。3ヶ月で片づけられるという根拠を言え」と迫った話を引き、こう書く。

天皇をロボットであるとし、軍部にあやつられた”恍惚人間”として軽視し、そのような天皇の権限を至上絶対のものとした戦前の〈絶対天皇制〉に対し、あれは『無責任の体系』だったという定義を下した近代デモクラシーの復権者たちの思想は、まことに犯罪的であり、戦争裁判を通じて、国民大衆の天皇呪詛の感情をそらし、さらに、天皇個人の責任を免罪することによって、より無責任な『象徴天皇制下の戦後民主主義政治体系』をなし崩しに容認し、国民の中から戦犯追及のホコ先が天皇に向けられるのを巧妙にそらす役割を果たしたことになる」
 
 真男の論文を読んで「腹」や「背中」、「手足」は飽きるぐらい見せられて消化不良な思いでいたところに、ようやく肝心の「顔」が姿を現した感じがすると言ったらおおげさだろうか。「なぜ『無責任の体系」が成立してしまったのか」と考えた時、個人が負うべき責任を「絶対君主」に委ねられるがゆえに「無責任の体系」だったというのは一定の説得力を持とう。
 さらにその後の歴史を見れば、「責任」を問われた君主は「自分は絶対君主ではなかった。軍部のロボットだった。悪いのは東條」と責任回避につとめ、断罪から逃げおおせた。邦男が書くとおり「象徴天皇制下の戦後民主主義政治体系」がなし崩しで敷かれてしまったのである。
 「ようするにお前は肝心なことを述べていない丸山真男はあかんと言いたいのか」と聞かれたら、一義的にはそうだと答える。特に歴史の彼方に埋もれようとしている弟・邦男と比べたとき、「戦後政治学の神様」(?)のように祭りあげられている姿には疑問を感じる。今こそ、弟の思想が復権されなければならないと思う。
 だが、弟の的を射た批判をくぐった上であらためて兄の「無責任の体系」論を読むと、別の意味で迫ってくるものがある。
 たとえば東条内閣の外相だった東郷茂徳は日独伊三国同盟結成について問われ、「個人的には反対だったが、すべて物事にはなり行きがあります」と答えている。あるいは東條の辞任のあと首相についた小磯國昭も裁判でこんなことを話している。「われわれ日本人の行き方として、自分の意見は意見、議論は議論といたしまして、国策がいやしくも決定せられました以上、その国策に従って努力するというのがわれわれに課せられた従来の慣習であり・・・」。
 現代のこの社会においてこのような弁明ははたして絶滅したかというと、そんなことはないだろう。自分自身をふり返っても、こうした心境は克服し切れてはいないと感じる。戦後70年経とうが天皇が代替わりしようが、この社会は「無責任の体系」を乗り越えた経験を持たないのだから当然のことだろう。
 だとするならば、「象徴天皇」とははたして何かという疑問がわく。もはや「下々」から責任を委譲される「君主」ではない。だが、決して私たちと同じでもないのだ。
 彼を「今上天皇」と呼んで人々が無上の尊敬を示すのを見るとき、象徴天皇を頂点に、別種の「無責任の体系」が形成されているのではないかと疑いたくなる。特に、尊敬に値するリベラル、左翼の人々明仁、美智子に手放しの尊敬を表す姿に接すると、その感は深い(注2)。思考停止、判断停止。イコール「無責任」ということだ。


(注)天皇についてまったく記述がないわけではない。が、その書きぶりは、天皇重臣たちは天皇や自分たちに政治的責任が帰するのを恐れて天皇の絶対主義的側面を除去し、軍部や右翼は天皇の権威をふり回して立憲君主としての国民的親近性を薄めたとし、「天皇制を禿頭にしたのはほかならぬその忠臣たちであった」とあるのみ。天皇の戦争責任を論じるつもりがないことがうがえる文章である。
(注2)具体的には「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」の著者・矢部宏治氏をさす。矢部氏はあとがきで、自分はリベラル派と目されるが、「明仁天皇美智子皇后のおふたりに対しては、大きな尊敬の念をもっています」と書いている。


〔新装版〕 現代政治の思想と行動

〔新装版〕 現代政治の思想と行動

天皇観の戦後史 (1975年)

天皇観の戦後史 (1975年)

掘り起こされた朝鮮人虐殺の歴史と語り継がれる日本人名士の美談

 一抹の不安を感じながら、川崎市教育文化会館で開かれた「関東大震災90周年記念シンポジウム―関東大震災から学ぶ多民族共生のへの道」を聴きに行った。「一抹の不安」というのは、もらったチラシに「この流言飛語を信じなかった人たちによって、川崎区の新田神社に朝鮮人約180名は保護・収容されました。この岐路に、多民族共生への道のヒントがあると思います」とあったからだ。
 関東大震災直後に虐殺された朝鮮人は推計されているだけで6600人、このうち氏名が分かっているのはたったの80数名に過ぎないとされる。その時の首相・山本権兵衛は国会答弁で「調査中」と答え、それから現在まで90年にわたり、政府は何らの調査結果も公表していない(当然、謝罪もしていない)。これは異常なことだと思うが、このような状態が続いているのに、180人の朝鮮人を守ったエピソードに注目する目的は何か?
 あらためて、この催しの主催を確認すると、「川崎市教育委員会教育文化会館」と「多民族共生のまちづくり企画運営委員会『川崎マウル(朝鮮語で村、里の意)』」となっており、「2013年度川崎市教育文化会館市民自主企画事業」として開催されている。
 主催者である「川崎マウル」の代表の話はやはり、川崎で殺害または重傷を負った犠牲者6人の氏名を紹介しつつ、川崎の土建事業者や町長、隣の横浜市・鶴見の警察署長が何百人かの朝鮮人をかくまって守った話だったのだが、話の筋としてはこの「4人の犠牲者に対して救われた大勢の朝鮮人」という図式が印象づけられる話だった。
 ただ、報告の途中でときどき、「新聞はこういう美談めいた話だけを取り上げるのではなく、当時の地域の人の様子を掲載すべきだった…朝鮮人が怖い思いをしたことが教育によって伝えられていかないという問題もある」と、報道が美談調だったのを批判したりするので趣旨が混乱する。しかも、市民たちが虐殺に加わらなかった理由として「隣近所として朝鮮人と交流があり、『あの人たちが井戸に毒を入れたりするわけがない』と、信頼関係が作られていたため」と結論づけらたのも釈然としなかった。これは「調査した結論」と言えるものだろうか。「気心が知れていたから殺さなかった」などという結論は、調査などしなくても分かることではないだろうか。
 つづいて川崎市議会の飯塚正良副議長があいさつ。市内・田島町の吉沢保三町長が朝鮮人180人を神社に保護したため、「鮮人親友会」(注)という組織から銀杯をもらい、しばらくのあいだ行方知れずになっていたが、それが最近発見された話をし、「今に生きる吉沢町長の精神を検討するよい機会。90年を機にその今日的な意味を考えたい」とした。
 ここまでが主催者らの報告だった。第二部は基調提起として、田中正敬・専修大学準教授が「朝鮮人虐殺を調査し、記憶する意味―『千葉県における関東大震災朝鮮人追悼・調査実行委員会』を例にして」の演題で講演した。田中氏の講演は先ほどの川崎マウルとは違って、厳しく日本政府の責任を問う内容で、美談めいた話は一つもなかった。催しの第一部と第二部の相反する関係は何なのかということは後で考えるとして、田中氏の話で心に残ったのは軍や政府が朝鮮人虐殺を主導した責任を明瞭に指摘したことであり、地域の人々の地道な研究で真相が掘り起こされたがゆえに、それが可能になったと指摘したことだった。
 ふつう関東大震災時の朝鮮人虐殺というと、「破壊と火災でパニックになった人々が流言飛語に乗せられ、自警団を組んで朝鮮人を殺戮した。軍がこれに乗じて反体制的なアナーキストや組合活動家を虐殺した」といった認識ではないだろうか。「学術書や教科書に書かれた関東大震災朝鮮人虐殺というと、『混乱の中、虐殺され」という表現が出てくるが、東京や神奈川は(震災のあった)9月1日、2日と早い段階から、官民一体というか、民間人だけでなく軍や警察が虐殺にかかわっています。が、埼玉北部では1日ではなく4日から始まり、軍隊は朝鮮人を保護する側に回っています。『混乱の中で』という言い方があり、慌てふためく人々が流言に乗せられ虐殺する―とイメージしますが、そうではなくてもっと人為的な要素がからんでいると私は考えています。つまり流言を流した人々がいる。朝鮮人を殺戮していった自警団も、必ずしも自然発生的に発生したのではなく、往々にしてお上が組織させています。しかも1日から3日の朝にかけて、内務省は『自警団を組織して朝鮮人を処分してよろしい』という通達まで全国に無線で知らせ、地域で警察がそれを触れ歩いているのです。つまり流言飛語は、極めて人為的に流された、そこには国家が深く深くかかわっているというのが私の持論です」。
 田中氏はその典型例といえるものとして、習志野・高津地区の住民による朝鮮人虐殺事件をあげた。
 日露戦争に出兵した騎兵隊の根拠地である習志野駐屯地に収容所が設けられ、5日、暴行や殺害を逃れて保護された朝鮮人、中国人が送られてきたが、「保護」とは名目ばかりで憲兵が思想調査を行い、怪しいと思った者をピックアップして殺害。のみならず7日には、地域住民に「朝鮮人をくれてやるから取りに来い」として来させ、住民らの手で殺させている。犠牲者として明らかになっているのは18人。「朝鮮人虐殺はさまざまな側面があるが、千葉の船橋習志野〜八千代は虐殺の象徴的な場所だと思う」と田中氏。
 たしかに、軍が虐殺の主導的役割を担い、民間人に命じて殺させてもいるという点では「象徴的な場所」だろう。
 ここで当然のように気づかせられるのは、「朝鮮人虐殺が被災の後の大混乱の中、パニックに陥った民衆がデマに乗せられて朝鮮人を殺した」という解釈には「誰がデマを流し」「朝鮮人を殺すようそそのかした」かという主語がないことだ。隠されてしまったと言ってもいいかもしれない。それは言うまでもなく、軍ー国家である。このように理解すればようやく、日本政府が虐殺関与の責任を認めず真相調査もしない理由が明瞭に認識できるように思われる。アジア太平洋戦争における戦争犯罪の扱い同様、隠蔽し、忘却に追いやるためではないだろうか。
 このようにみると、虐殺から朝鮮人を守った日本人のことを調べ、そこから多文化共生のヒントを探る川崎マウルの取り組みはあまりに時期尚早であることが分かる。まず明らかにされるべき軍と日本の民衆による朝鮮人虐殺の全容が、何ら解明されていないのだから。
 後日、この催しを共催した川崎区役所生涯学習支援課に電話してみたところ、「川崎マウル」は純粋な市民団体であり、前述のような調査をしたいとの提案があり、区として支援し、あの催しを開催したという。それにしても区によって選定されたのが、なぜ「日本人の美談の追求」だったのか。仮に、「日本人がいかに虐殺を繰り広げたかの追及」だったら、区役所は支援していただろうか?
 「軍の民間人への朝鮮人『払い下げ』」という決定的な事実が市民の手で掘り起こされ、人々に伝えられようとする時、別の市民たちによって、そうした事実を弱めるかのような調査がなされ、それを市が支援し、同じ催しの中で発表される。予定調和のように、朝鮮人虐殺の事実発掘と責任追及は中和され希釈される。「両者の言い分を聞く必要ある」と言いたいのかもしれないが、事の大小を考えたとき、「両者」と並列できる出来事でないのは明らかではないか。
 歴史の事実を伝えようとするたびに、それを踏みつけにするように歴史修正の「力」が発動される。そう思われてならない。

(注)「鮮人親友会」というのはどういう組織なのか。朝鮮人自らが「鮮人」という名前を組織名に冠するものなのか?実証的な裏付けは、まだなされていないようである。

いわれなく殺された人びと―関東大震災と朝鮮人

いわれなく殺された人びと―関東大震災と朝鮮人

地域に学ぶ関東大震災

地域に学ぶ関東大震災

 
 

「独自の判断」とは何か-松江市教育委員会「はだしのゲン」閲覧制限

 松江市教育委員会の幹部が正式な会議も開いていないにもかかわらず、地元小中学校に対し、中沢啓治の「はだしのゲン」を閲覧制限させたという記事を読み、抗議電話をしたら、学校教育課というところに回され、男性が電話口に出てきた。福島律子・前教育長らの独断専行を抗議すると、男性は「それは教育長の権限で決めていいことになっている」と言うので「どこにそのような規定があるのか」と聞いたら、「申し訳ない。不勉強なのではっきりしたことは分からない」と言われた。そこで、「万が一、明文化された規定があるのだとしても、このような表現や教育の自由にかかわることを、教育長の権限だけで決定できることがおかしい」と反論すると、男性は「そう言われればそのとおりだ」と恐縮気味に答えていた。
 だが、このやりとりだけでは、どういう風に「独断」で決められたのかは分からなかった。そんな時、現地で取材した朝日新聞武田肇記者のツイートが流れてきた。
はだしのゲン閉架問題取材報告by朝日新聞・武田肇記者 - Togetter
 武田記者によると、福島前教育長ら松江市教育委幹部5人は、ある時期まで「ゲン」撤去に断固拒否の姿勢だったのに、第10巻の日本軍の性暴行を含む蛮行を読んで変心、学校に閉架を求める方向にカジを切ったという。だがそんなに簡単に、5人が一度に認識を変えたりするものだろうか。どこかから圧力がかかったということはなかったのか。武田氏は「そんな単純なものではない」と書く。

 今回の問題は市教委が外部圧力に屈して行ったという単純な構図ではないと思う(現時点での取材では、だが…)。外部の陳情があり、議会が審査し、その対策として市教委事務局が「勉強」する中で、独自に問題点を「発見」し、独自に対応し、結局、陳情者らの望む方向に進んでいた。しかも、そこに重大なことをしているという自覚も乏しかった。私は、単純に政治的圧力に屈したという構図でなかったこの過程にこそ、より深刻さを感じる
はだしのゲン閉架問題取材報告by朝日新聞・武田肇記者 - Togetter

 さて、武田氏のこの見立てと、別の新聞に載った福島前教育長のコメントを並べると、複雑な思いにとらわれる。

著作の歴史観を問題視する陳情者や市議への配慮があったのではないか―。この疑問に、福島前教育長は「そうした主張に加担するつもりはない。市議との接触もなく、市教委独自の判断だ」と明確に否定した。
地域・写真ニュース | 中国新聞アルファ

 朝日の武田氏が深刻にとらえたのは、市教委が誰かに指示されたり要請されたりしたのではなく「独自に問題点を『発見』し、独自に対応し」た結果、閲覧制限に向かっていったという時、この「独自」とは何なのかということだろう。たとえば、撤去を訴える陳情者がおらず、このベテラン市議が「教育の自由」を擁護し、閲覧制限に反対するような人物だったとしても、松江市教委幹部らは「独自に問題点を発見」し、閲覧制限に持っていこうとしただろうかということだ。それはとても考えられないことだと思う。福島氏の「市教委独自の判断」という言葉は空々しく感じられる。 
 今春、東京・町田市が朝鮮学校児童にだけ防犯ベルを配らない決定を下そうとしたのも、神奈川県教委が県立高校の日本史教科書を別のものに変えさせたのも、有力者や議員の直接的な指示や要請ゆえではない。前者は朝鮮の核開発など軍事的挑発から町田市教委が独自に判断したのであり、後者は自民党議員が教科書出版会社の社長の事情聴取をしたり、右翼が抗議してきて混乱するかもしれないと校長会で伝えたりして、そうせざるを得なくなったためだ。町田にしても神奈川にしても公式見解を求められたら「総合的に考えて独自に判断した結果だ」と答えるだろうが、実態は大きく異なっている。
 歴史修正主義を隠さない安倍晋三が総理大臣になったのだから、今後、市教委や県教委が「独自の判断」をするケースはさらに増えるだろう。そもそもこの松江市教委の件も、自民党が選挙に勝ち、安倍政権が動き始めた時に始まったことだ。

 

五百旗頭真「関東大震災時の大量殺戮 情報暗黒下の異常心理」への疑問

 五百籏頭(いおきべ)真氏という学者が毎日新聞http://mainichi.jp/select/news/20130113ddm004070016000c.htmlというエッセイを書いている。
 五百籏頭氏はまずユーゴ内戦に触れたあと、こう書く。

 なぜ一緒に暮らしていた者たちが殺戮を始めたのか。「過去という扉を開けた瞬間から、悲劇は避け難いものとなった」(オイディプス王)と表現されるような歴史の傷が深いことは言うまでもない。直接の契機は、「あの連中が攻めて来る」との恐怖心から攻撃を思う集団心理の相互作用だという。そこでは断固として強硬論を吐くリーダー(扇動家)の役割も大きい。情報が不確かな中で防御的先制攻撃論が集団的に膨らむのは、その地だけの話ではない。ルワンダツチ族フツ族にも、本編の主題である関東大震災(1923年)下の自警団による虐殺にも、同種のメカニズムが認められる。http://mainichi.jp/select/news/20130113ddm004070016000c.html

 ここで引っかかるのは、ユーゴやルワンダの内戦による殺戮と、朝鮮人虐殺とが同じ次元で語られていることだ。たしかに、こうした心理はユーゴやルワンダなど内戦の最中の集団同士では起きやすいのかもしれない。しかし日本はこの時、韓国を一方的に攻めて併合してしまっている。「情報が不確かな中で防御的先制攻撃論が集団的に膨らむ」ような心理は当てはまらないはずだ。
 五百籏頭氏はさらに、1906年のサンフランシスコ大地震を例にあげ、「発災直後から略奪が始まった。市長は実弾を装備した警官150人と、1500人の軍隊を率いて前進し、警告のうえ射撃を行って2人の犠牲者を出したうえ治安を回復した」とするが、特定の民族を数千人もリンチで殺してしまったこの事件と並べて論じるのは無茶ではないだろうか。
 それにしてもなぜ、他の出来事との共通点ばかり論じようとするのだろう。この事件はむしろ、類例のない特異な事件ではないだろうか。
 五百籏頭氏は「朝鮮人が略奪や暴行を働いている」という流言飛語について、吉村昭の小説を引用して次のように書く。

 起源は激震地・横浜である。立憲労働党総理を名乗る山口正憲が避難民を扇動し、決死隊を組織して集団略奪を、地震発生4時間後の9月1日午後4時ごろに開始した。赤い布を腕に巻き、日本刀などをかざして商店を襲い、食糧や金銭を強奪した。その襲撃は17回に及んだという。それへの恐怖が折からささやかれ始めた流言と結びついた。朝鮮人による集団攻撃と誤認されたのである。そのリアリティーを帯びた流言が、横浜から東京へ北上したとする。 http://mainichi.jp/select/news/20130113ddm004070016000c2.html

 ここには「朝鮮人による集団攻撃と誤認された」のは「襲撃への恐怖が折からささやかれ始めた流言と結びついた」ためとある。では、その「流言」はどこから出てきたのだろうか。それこそが追及されねばらならないデマの根源ではないのか。
 そのことにふれた書物もある。韓桂玉「『征韓論』の系譜」(三一書房)では、おそらく吉村昭が使ったのと同じ資料(「右翼の歴史−激動の大正・昭和史への証言」都築七郎」)が引用され、

 立憲労働党(山口正憲党首)が『一見して左翼風』のいでたちで赤旗を先頭に『皆ついて来い!』と先頭に立って横浜税関倉庫に侵入、群衆も後から押し入って食料を運び出し分けて食べた。そのうえでこの右翼集団は『不逞鮮人が爆弾で税関倉庫を破壊した』『アカどもが税関倉庫をの食料を略奪した』とデマをふりまいた。これがそのまま内務省に『朝鮮人社会主義者横浜税関略奪事件』として報告された。 

としている。これによると、自然発生的に「不逞鮮人」のデマが湧いて出たのではなく、略奪行為を働いた当の立憲労働党の面々がデマをまき散らしたのである。ここを落としてはならないのではないか。
 同様に気になる箇所がある。

 警察は当初、流言の報告があると真偽を確かめるため現地を調べた。結果はことごとく事実無根であった。警察はその旨言って聞かせたが、人々は納得せず怒り出す始末であった。2日午後には「不逞鮮人」が「放火略奪を為(な)せり」とか「婦女を殺害せり」とか、切迫した事実の目撃情報が頻繁に持ち込まれた。いちいち確認する余裕もなくなった各警察署は事実情報として警視庁に報告した。数多くの重複情報を受けた警視庁もこれを事実として受けとめるに至った。2日夕5時ごろ、警視庁は各署に対し、「災害時に乗じ放火その他狂暴なる行動に出(い)づるもの無きを保せず、現に淀橋、大塚等に於(おい)て検挙したる向あり」と指摘し、「不逞者に対する取締を厳に」するよう命令した。被災地の電信、電話がすべて途絶した中で、海軍の船橋送信所のみが健在であったが、それを用いて後藤文夫警保局長名の電報が発信された。「震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し」と断定し、全国各地においても「鮮人の行動に対して厳密なる取締を加えられたし」と指示した。http://mainichi.jp/select/news/20130113ddm004070016000c3.html

 ここでも肝心なことが抜けている。警察は当初、朝鮮人に関する流言について「事実無根」と人々に言い聞かせていたにもかかわらず、なぜ9月2日夕刻には「不逞者に対する取締を厳にするよう命令」することになったのか。「数多くの重複情報を受けた警視庁もこれを事実として受けとめるに至った」とあるが、どういう経過で「事実」と受けとめられ、命令が出されたのか。これはこの事件の決定的に重要な点だと思うが、何も触れられていない。

 最も重大な瞬間に、警察が興奮した自警団なる暴徒の認識に同調したことは、汚点であるといわねばならない。

 平時の犯罪を取り締まる警察の体制は、異常事態にあっては実力に限界があった。

とあるだけだ。
 もう一つは軍の動向だ。

 未曽有の被災の中で狂乱状況に陥った武装群衆を鎮圧するには軍隊の出動しかなかった。戒厳令によって大きな権限を与えられた軍隊が本格的に出動することにより、9月5日ごろから秩序は回復に向かった。当時、日本陸軍の総兵力は21個師団であったが、ほぼ6個師団に相当する大軍が投入され、治安回復をもたらすとともに、災害復旧に決定的な役割を果たした。民間の活動の困難な被災地にあって、陸軍の工兵隊は、道路啓開30キロ、90の橋、水路21キロ、72カ所のがれき処理、電話線架設880キロなど、めざましい働きによりライフライン復旧に貢献した(波多野勝・飯森明子「関東大震災と日米外交」)。http://mainichi.jp/select/news/20130113ddm004070016000c4.html

 混乱が極まってようやく戒厳令を発令、軍隊出動となったように読める。が、実際は地震発生の翌日(2日)に戒厳令は発令されている。「帝都復興秘録」にはこう書かれている。

 翌朝(9月2日)になると人心きょうきょうたる裡にどこからともなくあらぬ朝鮮人騒ぎまで起こった。大木鉄道相の如きも朝鮮人攻め来るの報を盛んに噂して騒いでいるという報告をもたらした。早速、警視総監を呼んで聞いてみるとそういう流言飛語がどこからともなしに行われているとの事であって、そんな風ではどう処置すべきか場合が場合ゆえ種々考えてみたが、結局戒厳令を施行する外あるまいという事に決した。

 つまり、前述の警保局長が下した「朝鮮人暴動取締り」の命令は、戒厳令が敷かれた中、船橋送信所という軍(海軍)の施設から各所に届けられているのである。手違いで誤った情報を流しただけとは、とても受けとめがたいというべきではないか。歴史家のねず・まさしは「有隣」にこう書いているという。

 今日判ったことは、内務大臣の水野練太郎が、朝鮮で爆弾を投げつけられたことがあったり、大正八年の万歳事件(1919年の三・一独立運動)などから、『内地の朝鮮人が暴動を起こすだろう』と思ったこと、さらに政府が食料欠乏に苦しむ罹災者が当局の無策を恨んで暴動を起こすのを防ぐために、先手を打って、朝鮮人に対する蔑視と日本人の付和雷同性を利用して『朝鮮人暴動説』をつくり、その方向に向けるために、軍隊、警察、その他の機関を通じて流したことである」(「『征韓論』の系譜」)

 五百旗頭氏は上記のような「背景」には一切触れず、「(軍隊は)めざましい働きによりライフライン復旧に貢献した」ことを強調し、軍が大杉栄や、平沢計七ら組合員を殺害したことを「残念な汚点」というだけで片付けている。だが、はたしてそれはその程度のことなのか。
 軍自身が手を下した朝鮮人虐殺の証言はいくらもある。「救い主」だったかもしれないが、「悪鬼」でもあったがゆえに朝鮮人を虐殺し、アナーキストや戦闘的な組合員を殺したと考えないとつじつまが合わない。

 亀戸に到着したのは午後二時頃だったが、罹災民でハンランする洪水のようであった。連隊は行動の手始めとして先ず列車改めというのをやった。将校は抜剣して列車の内外を調べ回った。どの列車も超満員で機関車に積まれてある石炭の爐まで蝿のように群がりたかっていたが、その中にまじっている朝鮮人たちはみんなひきずり出された。そして直ちに白刃と銃剣のもとに次々と倒れていった。日本人避難民の中からは嵐のように湧き起こる万歳歓呼の声、国賊朝鮮人は皆殺しにしろ、ぼくたちの連隊はこれを劈頭の血祭りにして、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやり出した(上掲書より。当時、習志野騎兵隊第十三連隊の少尉・越中谷利一氏の「関東大震災の思い出」)

 軍人の手記だけでなく、「血の九月」「民族の棘」など惨劇を目撃した市民の側からの証言集もあるにもかかわらず、五百旗頭はまったく触れていない。韓桂玉氏はこう書く。

 「流言飛語が飛び交う混乱のなかで、軍・警の殺りくを目の当たりにしながら、自警団の行動も凶暴化した。戒厳令司令部の通達によって、東京はじめ近県に三千六百八十九個の自警団が作られ、抜き身の日本刀、竹槍、木刀などを持って町内を巡回しながら『朝鮮人狩り』をやった」。(「『征韓論』の系譜」)

 他方、五百旗頭氏の結語は次の通りだ。

 今日とは異なる未成熟な市民社会だったともいえよう。しかし想像もできない悲惨の極みで情報暗黒に投げ込まれれば、人間とはどんな妄想にも陥りうる。さらに、揺れる集団心理を強硬論が包む時、精神の健全さを堅持できる人がどれだけいるだろうか。被災地にも速やかに電気が戻り、テレビにより世界の報道を浴びることのできる今日の境遇に感謝すべきなのかもしれない。http://mainichi.jp/select/news/20130113ddm004070016000c4.html

 水野内相の経歴にも軍隊による朝鮮人虐殺にも触れることなく、「未成熟な市民社会」「情報暗黒」「集団心理」と、巷の民衆の手だけが汚れているかのような書きぶりだ。五百旗頭氏は「今のマスコミではこの辺りが限界」と慮ったのだろうか。だが、歴史学者によるこのような事実の取捨選択の積み重なりが、歴史修正主義者による歴史教科書の書き換えを生じさせてしまったのではなかったか。以下のように。

 副読本をめぐっては、本年度の改訂で、軍や警察も朝鮮人虐殺に主体的にかかわった、との趣旨の記述が専門家により加えられた。ところが、市会の保守系議員が「歴史認識に影響を与えかねない」とこれに反発。山田教育長は「誤解を与える記述」として関係部分の改訂を約束し、職員を処分していた。
http://news.nifty.com/cs/domestic/governmentdetail/kanaloco-20130123-1301230004/1.htm