ラヴフール (www.lovefool.jp) このページをアンテナに追加 RSSフィード

1995-11-18

「響きの水」18章

|  「響きの水」18章を含むブックマーク



「ねぇ、止めたんでしょう?」
 左手の指先を見てアサコが嫌そうな顔をした。
「これから止めるんだ、もうラス1だし」
 と僕は笑う。
「もう買わない?」
「買わないよ」
「約束する?」
「するよ、もう買わない」
 ガードレールにもたれ、やれやれというふうにアサコは下を向く。ついこないだまで自分も吸っていたくせにと僕は思う。参っちゃうな、止めた途端これだもん。
 雨に煙るバス停で始バスを待つ。腕時計は6時を過ぎたばかりだ。予定まであと23分。かなり寒い。しりとりでもしようよという僕にアサコは答えてくれない。
 最後の1本に火を付け、残ったパッケージをくしゃっとねじりあげる。先が曲がってしまっている。湿気のせいか、ほとんど味がしない。これなら丸めた新聞紙に火を点けたって変わらない。綺麗に丸めれば長い煙草ができて、残りの時間だって退屈しないで済むかもしれない。
 バス停には僕ら以外にも人が並んでいる。腰の曲がったおばあちゃんとおかっぱで赤いチェックのスカートを穿いた小さな女の子。
 始発でおばあちゃんが孫を連れて、いったい何処に向かうのだろう。手荷物がなく草履のようなものを履いているのは家が近いせいだろう。女の子はこうして並んでいるのが日課のような顔をしていて、僕らみたいにいつもと違う土地で、いつもと違う時間に起こされて眠いというふうには見えない。
東京からいらしたんですか?」
 雨の中を行き交う車を眺めていた僕におばあちゃんが声を掛けてきた。僕らは顔を見合わせてうなずいた。
東京のどの辺ですか?」
八王子です」
 あぁ、八王子ですかとおばあちゃんは言った。
「あそこはいい所ですよねぇ。まだ自然が残っていてね」
 見方によってはそんな言い方もあるのだなと僕らは山の上の学校のことを思い出し、ちょっと笑った。おばあちゃんは女の子を呼ぶ。
「ヨウコちゃん、お兄さんたち東京からいらしたんですって」
 女の子はおばあちゃんの柄もののもんぺに腕を巻き付けて、照れ臭そうに指をくわえていた。前歯が抜けている。お兄さんたちにはじめまして、こんにちわは?と言うおばあちゃんに、顔を真っ赤にした。
「あーら、照れちゃったのー?」
 やがて冬眠から覚めた熊のようにバスがぬらりとやって来て、僕らの前に停まった。僕らは二人掛けの座席に腰掛けた。女の子は一番前の席に飛び乗った。そのすぐ後ろにおばあちゃんが座った。運転手は日課にしているのか、バスを降りるとワイシャツを脱ぎ、タオルを手にバス停の脇で自己流の体操を始めた。
 寝てていいよと言う前に、アサコはとっくに寝息を立てていた。僕はその寝顔を眺めて、アサコは昨日の夜、両親に何と言って家を出てきたのだろうと思った。
 エンジンがぶるぶると震えだし、バスがゆっくりと走り始めた。空は朝らしい明るさを取り戻し、僕は今、昨日とは違う土地にいるんだと思った。雨足はすっかり自分のリズムをつかんでいて、ちょっとのことでは止みそうになかった。6時半でも道は普通以上に賑わっていて、バス停に近付く車線変更がうまくゆかなかった。市内を走ると高速バスでは見られなかった日常的な建物がいくつも現れては通り過ぎていった。乗客は少しずつ増えていった。そのほとんどが顔見知りのようだった。ある女の子は夜店で買ってもらったという赤いビニール地の財布をチェックのスカートの子に自慢していた。おかっぱの彼女も早速おばあちゃんにおねだりする。
 やがてバスは大きな建物の前に停まり、その人達は一斉に降りていった。誰もいなくなってしまうと、今まで見ていたのはがらりと空いた木張りの床が見せた短い夢のようにも思えた。案外このバスにアサコと乗っていること自体、もう夢なのかもしれない。だとしたらずっと覚めないといい。僕もそろそろ眠くなり始めていた。
 バスの大きな揺れに、掛けていた肘が外れて目を覚ました。まぶしい目を細めて窓の外を見ると、さっきまでの景色とはだいぶ様子が変わっていた。ずいぶん山の方にまでバスは来ているようだ。時計を見ると7時を回っている。車内は自分と同い年くらいの学生ばかりになっていて、さっきまで広がっていた平らな床はひしめく足で埋まっていた。次は終点というアナウンスに僕は隣の眠り姫を起こした。
 美術館の前でバスは停まり荷物を下ろした。
小さな屋根の下でアサコは鞄から手書きの地図を取り出した。泊まる予定のアパートまでの道程が書いてある。明るくても寒さは変わることがない。じっと便箋を見つめながら、けっこう遠そうなんだよねとアサコが言った。
 僕は空を見上げた。明るさのわりにはしっかりした雨足。前に進むしかないだろう。
 ふぅとアサコは弱気な声を出す。どうしたの?と僕は聞く。
「迷うかもしれない」
 僕は気にしないよというふうに笑う。アサコの不安そうな顔に向かって言う。
「だいじょうぶだよ」
 穏やかな坂が伸びていて、そこを昇るところから僕らは始めた。雨はたいしたことないように見えたけど、土地勘のない僕らの体はすぐにびしょ濡れになった。重い荷物を何度も持ち変え、濡れた髪をかき上げて、そのアパートを探した。地主が多いのか、古くて大きな家が続く。街は何も言わずに僕らの行方を見守っている。
「多分、こっち」
 アサコの示す指先に僕は黙ってついてゆく。
「あれ?」
 と先を歩くアサコが言った。アサコの足を見ながらついてきた僕はつんのめりそうになった。
「なに?」
「ないの、この辺にあるはずの目印」
 アサコは僕に荷物を預けた。不安そうな面持ちで地図を握り締めると、その先の十字路までと小走りに駆けていった。
「どーおー?」
 大声を出す僕に、アサコはもう一度だけ左右を確認して大きく首を傾げた。
「目印って?」
 戻ってきたアサコから地図を受け取る。下宿している友達が書いてくれた地図だ。水色の便箋に青い文字、アサコの友達らしいよく似た字が並んでいた。アサコは濡れた髪を耳の上に掻き上げた。弾んだ温かい息がすぐ側にある。
「これ、さっきここにいたでしょ? ね。バス停があっちだから、こうして見て‥ で、こう曲がって、こう来たから、今度はここに来るはずなのね? でもこの絵の横断歩道が、ほら、ないの」
 便箋の上の雨粒が青い文字を溶かしていってしまう。僕は道順を暗記して、それ以上濡れてしまわないよう元通りに急いで折り畳んだ。
「普通、横断歩道とかって目印にしないよねぇ」
 アサコは報われない努力につんと唇をとがらせる。僕は微笑む。
「仕方ないよ、一つ前の道まで戻ってみよう」
 重い足を引きずり、僕らは昇ってきた坂をまた下ってゆく。どこからやって来たのか地面に太いミミズが何匹も這い出していて、久し振りの雨の中で楽しそうにのた打ち回っている。真剣に道の事だけを考えていると踏んでしまいそうになる。辺りの生臭い匂いはきっとそのせいだ。
「こっちかも知れない」
 いくつかの細い道を試す。時計は8時に近付いている。もう30分近く雨の中を歩いていることになる。どこかで傘を手に入れたとしても、風邪を引く確率は変わらないだろう。濡れた髪、濡れたTシャツ。ジーンズは膝が曲がらないし、せっかくのアサコのよそ行きのワンピースも足にまとわりついてしまっていて煩わしそうだ。アパートに着いたら、持ってきた大きなバスタオルでよく拭いてあげよう。
 額から垂れてくる雨を拭う。雨をしのげそうな場所は見当たらなかった。それに今は少しでも動いていないと、眠気と寒さでくじけてしまいそうだ。
「ねぇ、朝飯、何食べたい?」
 沈んできた気持ちを切り替えようと、僕は言った。
「トモユキの好きなものでいいよ」
 とアサコはやさしく笑う。その顔を見てもう疲れを隠せなくなっているのがわかる。
「じゃあね、決めるよ。チーズのついたロールパントマトジュース
 アサコは笑い出す。そんなどうでもいいことにひたむきになれる僕をいつも笑う。
「あ、知らないんだ! どんなに疲れててもちゃんと食べれる組み合わせなのに」
「おいしんだよね」
「もちろんだよ」
 細く曲がりくねった坂道を僕らは登っていった。多分この道に違いない。はぁ、ほんともう疲れちゃったね。息を切らしながらアサコが言う。
「温かい布団で、早く寝たいね」
「死ぬほど寝ようよ」
 ふいに鼻先を青い畳の匂いがよぎった気がした。
「あ、あたしのパジャマ、きっと笑われるなぁ」
サンリオとか?」
「まさかー!」
「じゃあ、何?」
「‥んー、やっぱり似たようなもんかなぁ」
「かっこ悪かったら没収だよ」
「え、はだか?」
「夏だもん」
 遠い雲に細い切れ目ができていて、そこから微かに陽の光が漏れている。ほら夏の太陽だ。ふたりは立ち止まる。想像してみなよ。あのむこうに広がる素晴らしい青空を。風に薫る、夏の匂いを。
 ねぇとアサコが言った。
「夕飯食べながら、話そうね」
「ん?」
 と振り向きながら、僕は満たされてゆく胸の中の輝きを思った。沈まない夕日のような黄金の輝きを。
「明日、どこに行くか」
 その顔を見て僕はにっこりうなずいた。





終わり

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951118

1995-11-17

「響きの水」17章

|  「響きの水」17章を含むブックマーク



 カーテンの隙間から漏れる光は、一定の明るさを越えることをためらっている。僕はアサコの寝顔をずっと眺めていた。茶色い毛布に小さく丸まり、額や頬に差した影の色は、車の向きによって変化を繰り返す。椅子の下に垂れた手は僕の指先を放さずにいる。
 車はゆっくりとした走りを続けている。小刻みにブレーキを踏むのはもう市内に入ったからだろうか。突然2つのモニターにスイッチが入り、朝のビデオが始まる。画面の向こうの赤い髪のバスガイドは今日も冴えない。光の3原色みたいにその輪郭は三重ににじんでいる。大きな音に他の乗客たちも目を覚ます。車内の電気がつく。あくびの声、寝息の匂い、背伸びしようと天井に突き出した何本もの腕。一斉にカーテンが開けられる。僕は目を細める。そこに広がったのは鉛色の暗い朝だった。
「雨だ」
 と僕はつぶやく。舌打ちをする乗客もいる。僕もなんだか呆けてしまっている。煙るように淡い雨には音がない。音をテーマにしたスライドを見ているみたいだ。
「‥ん、雨? 雨って言ったの? トモユキ」
 まぶたをこすりながらアサコが目を覚ます。起き上がる拍子に毛布が床に落ちる。胸元のボタンが、僕が外したままになっている。白いレースの縁と大事そうに包まれた柔らかな胸元がのぞいている。僕は毛布を拾い上げて手渡した。
「おはよう」
 アサコは毛布を受け取り、その下で服装を整えた。車の椅子の上でホックを止めるのは難しそうに見えた。眺めている僕に気付くと眠そうな目で笑った。
「もう着くみたいだよ」
「雨なんだね‥」
「うん」
「全然考えてなかった」
 アサコは大きなあくびをした。僕はその向こうの窓に目をやった。まるで夢の続きみたいに遠く淡かった。セブンイレブンも、高層マンションも、デニーズも雑居ビルもなく、ただ平坦で細身の古い木造住宅ばかりが続いた。雨に濡れたひび割れた瓦や軒下には干物が干してある。
「‥寒いね」
 とアサコが首まで毛布を被り直して言った。
「上着なんて一つも持ってこなかったよ」
「傘もないね」
 ガラスは白く曇っている。アサコは寝そべったまま、指先で曇りガラスに小さな窓を作る。たまった水滴が車の振動の中で幾本かの筋になって流れる。信号を待っていると、古いポストの脇で、濡れた黒猫が二人を見上げて鳴いた。僕らは顔を見合わせて笑った。アサコの唇には色がなく、白く乾燥している。
「ずっと、雨じゃないよね」
 アサコらしくない弱音に僕は笑った。
「きっと晴れるよね」
 僕はなんだかうれしくなってしまう。
「明日は暑いよ」
「いろんなところ行こうね」
「ふたりで?」
 と言うと、今度はアサコは笑った。
「おかしいかな?」
「んーん。トモユキ、まだ信じてないんだなと思って」
 僕は照れて困ったように笑った。
「そうだよね、京都だもん」
「ホンモノの京都
 それは不思議な気持ちだった。ノットリアル。色もなく、音もなく、景色はいつも画面の向こうにあった。つけっぱなしのテレビが映す明け方の天気予報みたいに。例えこのバスが人をはねてしまっても僕は溜め息をついて目をつむるだけだろう。電源ボタンを探すだろう。何も思わない。何も感じない。アサコはまたうとうとしている。寝息で小さな窓も白く消えてゆく。バスは走り続ける。まるで演奏の終わったレコードの上を回る針のように。




 車椅子を押していた看護婦に30分の時間をもらって、二人は庭に出た。大して広い庭じゃない。短く刈られた芝があって、プランターが等間隔に並んでいるような庭。プラタナスの黄色い葉が並び、病室に差し込む光を和らげている。地面を低く走る風が冷たい。この葉もあと何日かで散ってしまうのだろう。
 僕は足速に歩いた。彼の慣れない車椅子より何歩も先を。トクシマさんがそばにいる。視界の隅にだって入れたくないし、同じ空気も吸いたくない。増してやその車椅子に手を差し延べることもない。今すぐに車椅子をひっくりかえして、治りかけたその傷を増やしてやったっていい。このまま振り返らずにイカスミで帰ったっていい。彼女は一瞬にすべてを察して「はやく行きましょう」と強く僕の手を取るだろう。爽やかな風の中で「いいのよ、忘れましょう」とやさしく髪を撫でてくれるだろう。
「なぁ、そこでいい」
 切らした息を遠くに、僕は数メートルも通過した白いスティールのベンチを振り返った。トクシマさんは顔をしかめてぐったりとしている。濁った白目が血走っている。ほんの十数メートルなのにだらだらと濃い汗を流して、首元が濡れていた。
 僕は一歩一歩をプライドを確かめるようにして、トクシマさんのいる位置まで戻っていった。早々と散ってしまった何枚かの葉が、ブーツの下で小さく乾いた悲鳴をあげた。灰色のやせたトカゲが幹の上を這って逃げる。
 トクシマさんは奇抜な柄のパジャマの胸のポケットから、煙草を取り出して火を点けた。マルボロライト・メンソール。教務室でいつも吸っていたエコーは、ここではあまり手に入らないのだろう。僕もケントに火を点ける。
「まさかこんなところでって思ったろう」
 紫色にくすんだ唇から長く煙を吐き出して、トクシマさんはそう言った。
「近いんだよ、実家が。向ヶ丘なんだ。ずっと池袋だと金が掛かるし、結局、親に頼っちゃったよ。もうすぐ30にもなるってのに」
 気持ちを和ませようとトクシマさんはぎこちなく笑ってみせる。髭の間から黄色い歯がのぞく。僕は隣の幼稚園の子供達を柵越しにずっと眺めている。
「どうだ?学校は。ちゃんと行ってるか?」
 僕は目を向けない。風が木々をさらさらと揺らしている。
「単位とか早いうちに取れるだけ取っておけよ? 学生の気持ちがどんなだったかはオレもわかるけど、そのうち就職活動が始まればさ、のんきな事言ってられなくなるぜ‥」
「やめてください」
 と僕は言った。その口調でトクシマさんは緊張なんか解けるはずがないことを悟った。一瞬、目を見開いて一拍おいてからふうと溜め息をついた。まぁこうなることはわかっていたけどね、みたいな溜め息だ。
「まるで父親ですね、その言い方」
 と僕は言った。
「いや、そんなつもりはないよ」
「伝えたいことを話してください」
 柵の向こうでは園児たちが親の迎えを待っていた。大きな複合遊具や、ぶらんこ、砂場の上に青いスモッグの小さな体がひしめいている。上り棒のてっペんで片膝をかけた男の子がじっとこちらを見ている。彼の目に映った僕らはどんな姿だろう。
 トクシマさんは汚れた包帯に包まれた爪先を見つめ、深く煙草を吸った。冷たい風が落ち葉を抱えて僕らの前を走り抜けていく。
「タイミングだと思うんだ、全部」
 墓石に向かって花を置くように落ち着いた口調でそう言った。
「オレは運命だとか、前世だとかの類いは信じない。でもその代わりに感じることがある。自分の未来を動かすてこの差し込み口が見えるんだ。節目っていうのかな。様々な時間の節目をオレはみつけることができる。そこに挿すべきカードはいつだって手の中にあるんだ。形はいつも違う。持っていようと常日頃思っているわけじゃなくて、節目を見た瞬間に手の中にあることに気が付く。カードにはオレの新しい可能性がたくさん詰まっていて、オレを先へと導いてくれる。次の朝から世界をがらりと変えてしまうんだ。昨日より住みやすいオレだけの世界に様替わりしてる。世界がオレを祝福してくれる。いつだってそうなんだ」
 慎重に言葉を選びながら抽象的にトクシマさんは言う。
「でもその方法は、オレ以外の人たちを傷つけてしまうことを知っている。誰かの不幸を束ねて成り立つ、傲慢な城だってことを知っている。昔は‥ 若い頃は、それでもいい、一度だけの限りあるオレの人生を存分に楽しく生きて何が悪いと思ってたよ。でも違う気もするんだ」
「トクシマさんの人生観なんか聞きたくないです」
 僕はトクシマさんを制した。
「僕に話しがあるんでしょう? それを話してください」
 OKOKという感じにトクシマさんは細かく何度もうなずいた。僕は唾を吐きたかった。
「クドウのことは昔からよく思ってたよ。かわいい生徒だった。何かをするわけでもないのに、そばにいることをすごく意識してしまう女の子だった。ちょっとした言葉を交わすだけでもオレの中の何かが揺れる。不思議な娘だった。
 でもそんな女の子が特別めずらしいかって言うと、そうでもなかった。不特定多数の中の一人という程度でしかなかった。クドウじゃなくても、似たような代わりなんて幾らでもいると思っていた。当時オレには大学時代に知り合った年上の恋人がいたし、地味な女だったけど、そいつと将来結婚する事も何度か考えていた。
 というか彼女が年を気にして焦り始めていたんだけどな。ほら、そういうのってなんかの弾みとか、きっかけがないと先に進まないものだろ? まぁそれもきっかけと言えば、きっかけのひとつだろうとオレは思った。
 高円寺同棲向けのそこそこいいアパートもみつけて、就職も決まった。
 端寄って言うけど、そいつとはだんだんうまくいかなくなったんだ。オレは‥ うん、そのなんつうか、アパートに生徒を連れこんじゃったんだな。そばにホテルだってあったのに、わざわざそんな危険を冒した。10才近く離れた女の子に、大丈夫なんですかって言われながら、だいじょぶだいじょぶって答えて、抱き寄せて、キスして、服を脱がしてさ、ぴったりのタイミングで、彼女が帰ってきたんだよ。仕事を早退してきた。
 彼女と目を合わせてもオレは動きを止めることさえ忘れていた。オレが立っていた地面は音を立てて崩れたよ。彼女と別れて、アパートを引き払って、卒業の単位を落として、就職浪人だって。恥ずかしいよな。親もあきれて送金してくれなくなった。オレは毎日どこかの誰かを誘っては飲んだ暮れていた。
 ある日、クローゼットもあった昔のジャケットを着て街に出たんだ。彼女と過ごした初めての誕生日にもらったツイードで、楽しかった頃によく着てた服だよ。それを着て吐くまで飲んだんだ。吐くまで飲もうってその日は決めていたんだよ。
 便器を抱えてすっきりした後にポケットにハンカチを探したら、電話番号を書いた紙切れが入ってた。紙はくしゃくしゃだった。名前もなかったけど、それが誰のかはすぐに思い出した。クドウのだったんだ。オレはそれを見て笑ったよ。そのジャケットを今さら着たくなった理由と答えがそこにあったみたいで、うれしくなってしまったんだ。店を出てドロドロのシャツのまま電話を掛けた。夜中の2時だ。驚いてたよ。だいたい電話なんて1度だって掛けたことなんてないのに、すごく酔っ払ってて、夜中の2時なんだぜ。オレは笑いながらよくわかんないことをずっとつぶやいていた。彼女と別れて、今のオレに何が必要なのかやっとわかったんだとか、神様は信じないが出会いだけは神聖だと信じてるんだとか、今日はこのボックスの中で朝までいようと思うんだとか、今だけ名前で呼んでみていいかとかそういうのだ。クドウは笑って相手にしてくれなかった。でも無視しているわけでもなかった。電話を切らずに話しを聞いていてくれた。販売機で1000円のカードを3枚も買い足したよ。同じ話題を何度繰り返したかわからない。それでもクドウは笑って聞いていてくれた。ビルの合間の空が少しずつ明るくなっていった。
 話すこともなくなって曖昧な沈黙が続いていたけど、名前を呼ぶと「なぁに」とクドウは答えた。それが心地よくって仕方がなかった。何度も名前を呼んで何度も「なぁに」という声を聞いた。ただそれだけなんだ。ただそれだけだけど、今オレに必要なものが全部つまってた。わかるだろ?」
 トクシマさんは自分にうなずいた。
「聞いてなかったんですか?」
 と僕は言った。
「聞きたくないって言ったでしょう? トクシマさんがどんな時にどんな選択をして生きて来たかなんて、僕には関係のない事です。これからどうするつもりなのか、それについて僕に関係することだけをはっきりさせてください、それを聞いたら僕は帰ります」
 トクシマさんは悲しそうな顔をした。僕はたまらなかった。事情なんてどうだっていいのだ。それはもう起こってしまったことだし、誰の手の届かない世界のことなのだ。僕は選びたい。これから迫りくる現実の中でちゃんと自分の選択をしたい。例えろくな選択肢が残されていなくても、選ぶことの中に僕という意思が存在するはずなんだ。
「‥もうクドウアサコに会わないで欲しい。これはお願いだ」
 トクシマさんはそう言った。僕は眉間に込み上げてくる熱を感じた。
「オレたちは愛し合っているんだ」
 次々に喉元に溢れ出してくる言葉はどれも感情的で情けなかった。
「アサコがここにいないのに、よくそう言い切れますね」
「君に会いたくないと言っている」
「君にだなんて、こういう話しのときは、そういう言い方になるんですね」
「茶化さないでくれ、真剣な話しをしているんだよ」
「僕だって真剣です」
「これ以上クドウを苦しめたくないんだ」
「そんな身勝手な話、聞けるわけないでしょう。僕がひとりでアサコを苦しめているんですか? つらい気持ちにさせているんですか?」
 トクシマさんは苦い汁でも飲まされたような顔をして、車椅子の上で体を屈めた。
「もう止められないんだ。これは動きだしちゃったことなんだよ」
「僕はアサコを愛しています。この先どんな困難が待っていようと構わない。トクシマさんが会いたいなら会いたいだけ会えばいい。もちろんアサコの同意は必要です。僕はそんなことにひるんだりしない。はいそうですかなんて身を引けるほどやさしくもできていない。僕にはアサコが必要だし、他の誰よりも大事にしているつもりだし、その代用は世界に一つだってないんです。だいたいアサコのいない席でこんな話しをして、何もかも綺麗に片付くと思っているんですか? 僕がそんなにできた人間だと思っているんですか? 僕は自分の目で見たものしか信じない。トクシマさんがアサコについて何と言おうとアサコから直接聞いた話し以外は信じない。大体トクシマさんが僕だったら、そんな話で、素直に納得できるんですか?」
 トクシマさんはうなだれていた。こんなはずじゃない、オレが言いたかったのはもっと単純なことだったはずだとでも言うふうに。
「言っておきたいのはオレにもクドウを好きになる権利があるし、彼女には、自分が誰を好きかを決める権利があって、そういう自由だけは誰であろうと侵すことができないってことだ」
 僕は笑った。
「権利を主張しに来たんですか? 教え子に手を出してる暇なんかあったら法律家にでもなればいいじゃないですか。好きな人を取り合おうってときにトクシマさんは権利のあるなしでそれを決めるんですか? 選ぶのはあなたじゃない、権利の有無でもない、アサコです」
「きっと醜く見えてるんだろうな。でもそれより‥」
 トクシマさんは僕を見て言った。
「‥いや、なんでもない」


 イカスミはくたびれた僕の顔を見て微笑んだ。彼女はいつだってやさしい。音のない言葉をいくつも知っていて、僕はその度にはやく元気になろうという気になる。サイクリングしながら歌う僕の歌を彼女はとても気に入っている。大丈夫、ちょっとだけ待って。すぐにまた歌ってみせるよ。
 イカスミとふたりで歩きながら病院を出た。とてもサイクリングを楽しめるような気持ちではなかった。いいのよ、無理しないでと彼女は言った。僕は微笑んでみたけど、ぎこちない皺が頬に走っただけだった。門を出たところで人影があり、振り返るとそれはイクタエリだった。僕はもう驚かなかった。




 霧のような雨なのに雨足は少しも弱まらなかった。8月とは思えないほど空気は冷たく、車を降りると鳥肌が立った。
「寒いね」
 とアサコが首をすくめた。バスのトランクから荷物を降ろしてもらい、走って駅ビルに逃げ込む。まだどの店もシャッターを降ろしている。僕らは鞄からバスタオルを出して髪や肩を拭いた。濡れた髪のアサコは室内犬みたいだ。
「どうしよう」
「ん、朝飯?」
「うん、それもあるけど、すぐ家まで行く? それとも雨が止むまで休んでからにする?」
 7時間も車で揺られたせいで、からだは重く血の巡りが悪かった。休みたかったけど、冷気はからだの奥にまで染み込んで来るようだった。石造りのベンチがある休憩所に目をやった。
「温かいお茶を買ってそれを飲む間だけ休もう。このぶんじゃ雨は止まないと思うんだ」
 声に出さないでアサコはうなずいた。やはり疲れているのだろう。財布の小銭を探し始めたアサコに、いいよと言って僕は自動販売横に向かった。
「ありがとう」
 両手で抱えて大きな缶を傾ける。季節柄かあまり熱くなっていない。白い喉が揺れている。僕は立ち上がり、奥まで続く地下街を眺めた。閉店前までは節電しているのだろうか。蛍光灯の薄暗い緑色が、閑散とした通りを余計貧弱に浮き立たせる。ムード音楽がエンドレスに流れている。くしゃくしゃに丸まった新聞紙や、タイルの染みや、隅に溜まった黒い綿埃が、色のない通路ではやたらと目についた。
 アサコはうとうとしている。僕は家に電話を掛けた。電話の脇には汚れた大きな袋が置いてあり、よく見るとそれは眠る浮浪者だ。漫画みたいな黄色い鼻提灯を膨らましている。
「行こうか」
 眠り掛けていたアサコに、僕は声を掛けた。
「布団の上でちゃんと寝ないと、ね」
 差し出した腕を引いてアサコを立たせる。手が熱い。不満そうにまぶたを擦って、唇を窄ませる。
 荷物に手を掛け、駅前のロータリーに向かって歩き始める。足は休む前よりずっと重い。急がなきゃと僕は思う。アサコの荷物を取り、手を引いて足速になる。外から差し込んでくる光はさっきより幾分明るくなったように見える。さぁ、歩こう。歩き始めよう。アパートは必ず僕らを迎えてくれるのだから。僕らはそこに、ただ辿り着くだけでいい。




 死んだような僕の目を見てもイクタは何も言わなかった。何を言おうと無駄だろうと感覚的に察しているのかもしれない。イカスミとイクタに挟まれながら、僕は黙って午後のしらちゃけた住宅街を歩き続けた。遠くの空を小さく双発のプロペラ機が横切っていく。
「紹介するよ。彼女イカスミっていうんだ」
 視界の端の方でイクタは少し笑ったけど、くすりと笑っただけで、何も言ってはこなかった。
自転車に似てるけど、女の子で、僕より2つ上。美人だろ?」
 回る車輪の鍵の辺りを見つめながら、僕はそう言った。
 イクタは黒いタートルネックにチェックのミニスカートで、ストレッチ・ブーツを履いていた。冬がそこまできているんだと僕は思った。
 交差点でさっきの幼稚園のバスが来て停まった。昇降口から同じ背丈の子供たちが溢れ、それぞれの母親のところまで駆けてゆき、抱きついた。
 信号は何度も青に変わり、点滅を繰り返しては赤になった。僕は黙って園児と保母の姿を眺めていた。子供に構っている姿を見ていると、何度もアサコのことを思い出した。アサコの声、アサコのぬくもり、アサコの笑顔、アサコの口笛、アサコの寝顔‥。それらは、もう誰かの表情や仕草であることを通り越していた。勢いで入れてしまった入れ墨のように、僕の体に深く刻み込まれていた。
「どこか、行きたいの?」
 イカスミと歩き出して、僕は言った。やっと、声らしい声になった。
「別に」
 とイクタは言った。
「待ってたんだろう?」
「うん」
 ごめん、帰るよ、気分が悪いから、と言えばすぐに一人になれたんだろうけど、いま家に帰る気はなかった。何がしたいわけでも、どこに行きたいわけでもないのに、目の前の景色をこまめに取り替えていないと、どうにかなってしまいそうだった。イカスミはそんな甘えた気持ちの僕を察してちょっと膨れた。大丈夫、ちょっと付き合ってやるだけだよ。
「うちに来ない? こないだ成城に越したの」
 小声ではにかみながらイクタは言った。ぎこちない誘い方だった。
スパゲッティを作るよ。おなかすいているでしょ?」
 スパゲッティはいま食べてきたばかりだと、僕は言わなかった。果物が食べたくなって途中のスーパーで梨を買った。イカスミとはそこで別れた。彼女は怒って口を利かなかった。僕はサドルとグリップを撫でてやり、じゃあねと言って、最後に尻を叩いた。おどけた僕に、もう!とイカスミはふくれた。
 台所にはあらかじめ決められていたみたいにパスタやポモドーロが定位置に並んでいた。暖色系のタイルの前に、木製のスパゲッティ・トングや、瓶詰めの様々なパスタが並んでいる。
「テレビでも点けて楽にしてていいよ。私つくるからさ」
 上着を脱いで、革張りのソファーベッドに座った。
 イクタは髪をアップにしてエプロンをしている。部屋は片付いていると言うより、あらかじめ物の数が少ないという感じだ。小さな冷蔵庫、電子レンジ洋書が多い本棚、おもちゃみたいに赤くて小さなテレビ、それに僕の寝そべっているソファーベッドでほとんどだった。
 玄関を仕切るふすまの前にはイーゼルが立ててあり、その上に大きな鏡を乗せている。鍵がぶら下げてあったり、時刻表やチケットや小さなカレンダーが挟んであるのは、生活感のないイクタからは想像できないことだった。玄関に詰まれた靴の箱には側面に中身のポラロイド写真が貼ってあった。イクタみたいな綺麗な女の子は、皿洗いで手を荒らしたり、商店街のスタンプを集めたりして欲しくない気がした。
「あ、そうだ、あれ聴きたい」
 イクタは濡れた手をタオルで拭いて、テレビの下の棚から化粧箱を取り出した。中身はカセットク・テープだった。ナラ・レオンや、小野リサや、ジョビンや、バカラックや、ビートルズや、バッハが並んでいた。
「あれ、ないなぁ。どうしよう」
 落ちてきた前髪を指先で耳の上にあげて、イクタは不安そうに僕を見た。
 ん?と僕は言った。
「え、宝物。ずっと大事にしてたのに」
 よほどお気に入りの音楽なのだろうと思って、僕は放っておいた。緊張が解けてきて、疲れが全身に広がり、関節を甘い眠気が蝕んでいた。
「あ、あった、あった」
 イクタが取り出した古いテープはどこか見覚えがあった。スイッチを入れボリュームを徐々に上げてゆくと、流れて来た複雑なハーモニーに僕はぎくりとした。途端に恥ずかしくなった。それは高校の時に僕が作った編集テープだった。ハーモニーの中にメロディが埋もれているような曲ばかりを集めた甘い甘いコンピレーション
「何でこんなの持ってんだよ」
「くれたんだもん、ワタナベ君が」
 イクタはうれしそうにそう言った。僕は同じテープをアサコにもあげていたことを思い出した。そして今はないあの部屋で繰り返し何度も聞いたのだ。
「捨てなよ、こんなの」
「やだ、宝物だもん」
 そうだ、思い出した。僕はイクタをあの塾へ連れて行ったのだ。
「ねぇ今度その塾へ連れていってよ。将来、予備校の講師になるかもしれないし」
 アサコにもトクシマさんにも会うことはなかったけど、大掃除の前の日かなんかで、これと言った授業を見せることができなかった。僕は仕方なく屋上でパンとコーヒーをおごったんだ。
 タカナカと昇った時は毎日が綺麗な夕焼けだったような気がしていた屋上も、その日は天気まで冴えなくて、心持ち寒くもの悲しい気持ちになった僕は、お詫びと言うわけじゃないけどと、ウォークマンに入れていたお気に入りのこのテープをあげてしまった。暗がりの中でそのときイクタはどんな気持ちでそのテープを受け取ったのかは分からない。でも発端はこの僕だったんだな、と気付いた。
 気が付くとイクタはテーブルの上にすべてを並べ終えていた。目の前で地方都市計画のように構築されてゆくさまざまな献立。後悔は募るばかりだ。
「何飲む? 温かい紅茶? それともオレンジ・ジュース?」
 髪止めを外して、イクタはエプロンを脱いだ。座る勢いと共にイクタの匂いが僕の周りに流れ込んで来た。
「いらないよ、後にしよう」
 僕はランチマットの上で湯気を立てた皿を前に、正座していただきますと言った。スパゲッティからはとてもいい匂いがする。フォークに絡めて口に運ぶ。僕は目を丸くした。そのスパゲッティには味がなかった。パスタの味はある。やや茹で過ぎの状態ではあったけど、ちゃんと小麦粉の味がした。だけどミートソースだ。味がないミートソース・スパゲッティなんて?
「どう? 口に合う?」
 とイクタが聞いた。
「え? うん、とてもおいしい」
 目線を合わせずに僕は言う。サラダを食べてみる。やはり味がない。和風ドレッシングがかかっているように見えるのに、水道水の味しかしない。僕は混乱した。手料理に塩を振るわけにもいかないので、そのまま黙って食べ続けた。
 ソウルミュージックでテープが終り、僕はすべての料理を平らげた。コンロではシュンシュン音を立ててお湯が沸いていた。イクタは紫の缶の紅茶を入れてくれた。広がる匂いと後ろ姿にあの頃のアサコを想い重ねる。あのマンション、あの時間、あの紅茶を入れてくれるアサコの後ろ姿。あの部屋の匂い、ルパン三世、柔らかい陽射し、アサコの息遣い、絨毯で擦れる膝の痛み、熱い舌先、散らばった服、月の光‥。
 僕は目の奥が重くどろりとなってきた。息も何か変だ。一体、何がそうさせてしまったのだろう。わからない、わかっていれば、こんな所にはいない。そうだ、何もわかっちゃいないんだ。僕は大きな岩を背負わされているような気になった。苦しかった。本当に苦しくなって呻き声をあげた。イクタは紅茶を入れながら、楽しそうに塾に連れていった日のことを話している。
「子供みたいに焦っててワタナベ君ったら誰もいない教室で大声で喋るの。うんうんちゃんと聞こえてるよって私は言うんだけど、ワタナベ君はちっとも聞いてなくて、一生懸命に薄汚れたホワイトボードの説明をしてるのこのボードのこのコピー機能はとても便利なんだけど5枚分スクロールさせると最後の1枚はコピーできないどうしようもない欠陥商品でまったくこんなもの造っているからリコーゼロックスに勝てないんだよとかそういう話しをしていて私は何でそんな話しをしなくちゃならないのかさっぱりわからなくておかしくておかしくてワタナベ君が一人で喋り続けるのを黙ってずっと聞いていたのそのまま椅子とかテーブルとか天井の灯りの話しに続くのかって思ってたらあぁ喉乾いたおちゃ飲みに行こうよって教室を出ていっもこのパンとこのコーヒーをここでたべるんだって私にぽテトサラだパンとカフぇ・お・レをうむをいわさずにおごってくれてあの古いほうのたて物のおくじょうに連れてって風が強いひだったから髪のけこんなふうにふり乱しながらかみこっぷがたおれないようにちゅういしてふたりでたべたんだそのうちあたりはまっくらになっちゃってさむくてさむくてさむくてさむくてもうへやにはいろうよってわたしいいたかったんだけどわたなべくんがこのてーぷをかばんからとりだしてきょくめいをかいてやるってまっくらななかではなからはなみずたらしながらまじっくでかいてくれたんだからとてもわたしとてもとても‥」
 一人暮らしだって言うのに紅茶が入ってやってきたのはボーン・チャイナだった。下品な花柄が全周にへばりついている。気持ち悪い。
「‥ね、そう、たしかそうだったよね、覚えてる?」
 親戚のおばさんのような口調にイクタはなっていて、僕は返事ができなかった。
「あれ、ワタナベ君!?」
 イクタは紅茶を乗せた銀のトレイをテーブルに置き、視点の定まらない僕のそばに寄り添った。
「大丈夫? ねぇ、調子悪いの?」
「‥大丈夫、ちょっと疲れてるだけだよ」
 背中をさすり始めたイクタの手を払い僕は起き上がった。咳払いをして、入れてくれた紅茶に手を伸ばす。お砂糖入ってないよ、いくつ?の声に、いらないと返す。僕の目は潤んでいる。正しくカップをつかめずに受け皿の上に紅茶を少しこぼしてしまう。
「‥ちょっと夜更かしが続いてたから」
 僕は笑ってそう言ったけど、それはとても乾いた笑顔に見えただろう。手には血が通わず、震えを伴う痺れがあった。意識を集中してカップに再び手を伸ばす。血の気が頭のてっペんから爪先へ抜けてゆき、僕は目に映るものは激しく反転した。ぐらりと体が傾いて、僕はイクタの肩をつかんでつかまった。そうしないとそのままぶったおれてしまいそうだった。
「ねぇ、ほんとに大丈夫? 顔色悪いよ」
 僕はイクタの肩に額を乗せたまま、しばらく深呼吸を続けていた。全身の毛穴がざわざわと開いてゆき、冷たい汗が噴き出した。黒いセーターから溢れる彼女の体温の匂いを嗅いで、君はアサコじゃないんだねと思った。痺れが再び内臓を揺らし、体の末端から抜けていく。
 立上がり、奥のトイレに向かった。手のひらと足の裏が冷たくなっていて、口の中には、ひっきりなし訳のわからない泡が溢れてきた。
 トイレは風呂場とひとつになっていて、ユニットバスではなかった。イクタは先にドアを開けてくれた。僕は扉を閉め、中で便器を抱えて何度も胃を収縮、痙攣させた。全身に鳥肌が立って、僕はそこにすべてを吐き出した。短く噛み切ったスパゲッティや、海草サラダや、茶色く濁った液体は、さっきまで皿の上にあったものとは、まるで別のもののように見えた。嘔吐物と鼻水と涙と消臭剤の匂いにまみれて、僕は膝に力が入らずに、立上がれなくなってしまった。大きく咳き込んだ拍子に涙がこぼれて、タイルの目地の上で弾けた。何やってんだ、こんなとこで何やってんだ。僕は水色のバスタブにつかまり立上がろうとした。全身の血の半分が爪先へ一斉に移動したみたいに激しい立ち眩みがして、僕は息を止めてそれに耐えた。もう一度吐きそうになったけど、口から出てくるのはわずかな胃液と嫌な匂いのする息だけだった。鼻の奥が痛い。
 ドアを開けて、コップを持って立っていたイクタから水をもらい、何度もうがいした。
「大丈夫? ねぇ、大丈夫?」
 イクタは酸っぱい水と粘液を吐き出し続ける僕の横顔をのぞき込むようにそう言った。僕は笑ってタオルで顔を拭いた。
「食事のせいかなぁ、どうしよう、ごめんね」
 僕は首を振った。
「食事のせいなんかじゃないよ。ごめん、ほんとうに今日は疲れてるだけなんだ」
 ソファの上から上着を取り、ブーツに爪先を突っ込む。ざわざわとみなぎる何かの力を感じた。
「帰っちゃうの? 少し休んだほうがいいよ?」
 返されたコップを握り締めたまま、イクタは言った。
「行かなくちゃ」
 と僕も言った。
「ねぇ!」
 イクタの声に僕は振り返った。
「もう、来ない?」
「わからない」
 と僕は言った。そんなはずはなかった。向こうには小さく確かな光が見えていて、歩き出した僕はもう2度と振り返らなかった。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951117

1995-11-16

「響きの水」16章

|  「響きの水」16章を含むブックマーク



 冷えた玄関のタイルの上でアディダスの爪先を踊らせる。ちょっと慌ててる感じを悟られないように、強引に踵を押し込む。玄関にはまだ4人だった頃の家族が寝間着姿で僕を見送りに来てくれていた。
「気をつけてね」
「はしゃぎ過ぎるなよ」
「ちゃんと連絡しなさいね」
 単位がもらえる集中講義なんだという嘘を両親は信じているのだろうか。僕の背中を見送る顔は、初めて友達だけでキャンプに出掛けた小学生の頃と何一つ変わらない。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
 終電間際の京王線新宿に向かう。へんてこな緊張感と下半身にどろりと沈む性欲が、二層のスープみたいに僕の気持ちを細かく揺らした。放っておくと体の稜線が幾つにもダブっているような気になる。
 段ボールハウスの連続を横目に小便臭い階段を昇ると、8月の夜の熱気が体にぬるりとまとわりついた。アサコはまだ来ていなかった。約束のビルの前に荷物を置き腰を降ろし、僕は舌打ちをした。よくわからないものでタイルがべたべたしていたからだ。煙草に火を点ける。深く吸い込み、細く長い煙を吐き出す。約束の時間にはまだ10分ほど余裕がある。夜の交差点をせわしなく車が駆け抜けて行く。テイルランプを逃げ惑う動物の目のように輝かせて、あるものは右折し、あるものは左折し、僕の知らない目的地に向かって消えてゆく。目に映る誰もが目的を持ってこの夜を移動しているんだと思うと、わずかに景色は傾いて見える。
 ビルを支える太く四角い柱の向こうに白いひらひらした服が見え隠れしている。気にしなかっただけでそこにはずっと前からそんなスカートがそんなふうにあったのかもしれない。僕ははっとした。見覚えのあるワンピース。僕が手を振ると半分だけ顔をのぞかせて、アサコはいたずらっぽく笑った。裾を踊らせ、まるで僕の心を見透かしたように言う。
「来ちゃったねぇ」
 木のボタンが並んだ白いタオル地のワンピースは19才の誕生日に両親からもらったものだ。小さな麦わら帽子によもぎ色の大きな鞄。そこにアンバランスなエンジニアリング・ブーツがいかにもアサコらしい。
 ほらね、みんなうまく運んだでしょって具合にアサコは笑っている。私にまかせておけば何もかもうまくいくの、何ひとつ心配することなんかないんだよ。トモユキのその不安な顔はちゃんと杞憂で終わらせるから、しっかり目を開いていて。そういう笑顔だ。
「夢かな」
 と僕が言った。
「夢じゃないよ」
 とアサコが言った。
「これは今、起こっていること、二人で紡いでゆくこれからのこと」
 ほっペたをつねったりせずに、アサコはそう言った。
「ねぇ、わくわくしない?」
 僕の手を取って、自分の胸に押し付ける。
「するよ、すごく」
 僕もアサコの手を自分の胸に押し付けた。アサコの胸は柔らかくて熱かった。指先から彼女の鼓動と、呼吸を繰り返すやさしいぬくもりが伝わって来る。僕は目を閉じて耳を澄ました。夜風が前髪を揺らし、静かに呼吸を続ける街路樹の葉の薫りを送って来た。僕は胸いっぱいに夜の空気を吸い込んだ。遠くを走る消防車のサイレンの音が聞こえる。
「二人だけの時間だよ」
 とアサコは言った。





 母親が病院からかけてくる電話を待つ。付き添いに必要なもの、父親が欲しいものを聞いて、あとから僕が持って行く為だ。父親の容態はちっとも良くなっていない。と言うより、それはきっともうとっくに「治る」のを望む状態ではないのだ。口に出しては言わなくても親戚一同はあきらめていた。どうにもならないお手上げだ、そういうムードが病室いっぱいに広がっていた。新しい誰かが来てその場を明るくしようとすればするほど、ベッドの周りの空気は暗く重く沈んだ。
 父親はもう僕の知っている父親ではなかった。始まりはただの脳内出血だった。風呂上りに、きんきんに冷やしたヱビスビールをおいしく飲むために熱くした風呂で、弱っていた血管に強い負担が掛かったのだ。やれやれ湯あたりかと壁につこうとした手も届かずに、洗面器や同じ色で揃えたプラスチックの椅子を蹴散らし、175センチの体は床のタイルに叩き付けられた。
 不審な物音を聞いた隣人が通報してくれたお陰で、父は救急車で病院に運ばれた。電気ドリルで頭を開いてそこに溢れた血を拭った。破れた血管を縫い、閉じ合わせて、外科処置は完璧だった。
 麻酔から覚め、母の顔を目にした父は、頭を抱えて大きな呻き声を上げた。あらかじめ主治医に痛がるであろうことを聞かされていた母は、やさしい笑顔を浮かべて父の覚醒を迎えた。大丈夫、麻酔が切れただけ、しばらくは痛むけど、手術は完璧だったから何も心配しなくていいのよ、大丈夫。そう小さくゆっくりした声で繰り返し言う用意をしていた。
 肩に触れようとそっと伸ばした母の手を父は届く前にはね除けた。乱暴な仕種は機嫌の悪いオラウータンのように見えた。子供染みたその動きを見て、母はよほど痛みが激しいか、自分の声が患部を刺激してしまうのかのどちらかだと思った。痛みが収まるまで小刻みに震える父の背中を母は黙って見守っていようと決めた。
 白い病室には残酷なくらい爽やかな陽射しが差し込んでいた。隣り合った小学校の校庭から体育の掛け声が聞こえる。
 やがて抱えていた頭から腕を降ろし、天井の一点を見つめると、父は大きな溜め息を漏らした。呼吸のリズムから察するにも、幾分落ち着きを取り戻したように見えた。
「大丈夫?」
 タイミングを見計らって母が聞いた。
「痛む?」
 そこに母がいたことをまるで知らなかったように、父はビクリと体を震わせた。首をすくめ、声の聞こえた方向にこわごわと向きなおし、怯えた目で母を見た。
 母は落ち着いた気持ちでいようと努めた。きっと手術のせいで声が頭に響いて、ちょっと驚いただけだ。にっこりと父親に笑って見せた。私、一晩ずっとそばにいたのよ。
 父親は目を丸くした。初めて母という人物を見るような顔をして、混乱していた。
「リンゴあるけど、むく? それともヨーグルトとかお茶の方がいいかしら」
 母は、昔の普通の家族であったときの、あるいはそれ以前の頃と同じ口調でそう言った。
 父親は黙っている。目線が定まらず、落ち着かない。なんでこんなことになってしまったんだ、助けてくれという顔をしている。
「いやだったら、また横になる? ちゃんと眠るまでそばにいるから、寝ちゃっていいわよ」
「ママ‥」
「はぁい」
 自分を呼んでくれたことで、やっと胸を撫で降ろすような気持ちになりながら、母はやさしく微笑んだ。やれやれ、相変わらず人騒がせな人だと、昔を少し思い出したかもしれない。しかし父は言ったのだ。
「ねぇ、お願い、早くママを呼んできてよ」


 いつもの時間に電話が鳴って受話器を上げる。僕は自分のスパゲッティを茹でている。
「トモユキ?」
「あぁ、オレ」
「ミユは?」
「いや、連絡なし」
「今日は学校遅くていいの?」
「うん、寄る時間くらいはあるよ」
「じゃあ、紙オムツだけ頼んでもいいかしら」
「うん、いいよ、他には?」
「んー、今のところないわ」
「いつものは? いらない?」
「あ、そうね‥うん、お願い」
「じゃ、1時前くらいに行くよ」
「よろしく」
 電話を切ってスパゲッティの茹で加減を確かめる。菜箸で一本をすくい上げ、口の中に放り込む。あと2分30秒というところだ。塩をもうひと振り加える。再び電話が鳴り出す。布巾で手を拭いて受話器を上げる。
「おぅ、オレ。元気ィ?」
 シブヤさんだった。
「久し振り、ジイちゃんは?」
「老いてますます盛んでやんす」
「そうですか」
「うん、昨日もさ、突然ばってらが食べたくなって、バイクで上野に行ってきた」
駅弁?」
「そう、動物園パンダ見てさ」
「で、ばってらなんだ」
「うん、ばってら。いいよぉ、パンダとばってら」
「楽しそうだな」
「そのうち全国のばってらを食べ歩こうと思って」
「ほんとに?」
「日本縦断ばってら行脚」
 僕は笑った。
「で、どうよ、調子は」
「いや、特に、普通だけど」
「あ、そう。アサコも?」
「‥え、うん」
 普通という言い回しにぴくりとしながら僕は言った。
「突然、変なこと聞くね」
「ふうん、あ、そう。‥いや、昨日電話したら何か落ち着かない感じだったから、また喧嘩でもしてるのかなって思ったんだけど‥」
「はは、喧嘩なんていつもだよ、しない日のほうがおかしいくらい」
 と僕はジイちゃんを誘い込んでみる。
「いや、だからそういう喧嘩じゃなくて、ほら、もっと深刻なさ」
「まさか! なんで?」
「え? いやいや。なら ‥うん、いいんだけど」
「心配してくれてんのね、一応」
「いちおう、ね」




 深夜バスが夜の街に滑り出す。水色に塗られた車体は巨大な深海魚のように音もなく高速道路に滑り込む。無数の光の帯に加わり交じり合っていく。
 京都駅までの行程を説明するビデオが流れる。トイレの位置、休憩時間、セルフサービスのお茶の入れ方、備え付けのラジオや毛布の使い方、椅子の倒し方の説明までひととおり終えると消灯時間になった。一斉にカーテンを閉めて椅子を低く倒す。こんな風に時間を決めて寝かされるのは、中学の修学旅行以来だ。アスファルトの繋ぎ目を越える規則的な音は、意識を覚醒させたまま体だけを見知らぬ遠くに連れていってしまう。
 アサコは窓側の席で、やはり僕と同じように落ち着きがない。暗い中で椅子にさしてあるパンフレットを読んだり、車内に余計な光が入ってこないように、カーテンを首に巻き付けるようにして向こうをのぞいたり、ひざ掛けの裾を気にしたり、思い出したように僕にキスしたりした。
「眠い?」
 とアサコが声を押し殺して聞いた。
 僕は全然と首を振った。
「あたしも」
 僕は微笑む。
「手ぇ、繋いでていい?」
 うなずいて触れ合わせた指先は赤ん坊のように熱い。僕は目を閉じて楽な姿勢を探した。薄目を開けて壁に埋め込まれた青白いデジタル時計を読む。3:14。他の乗客は誰ひとりとして、ぴくりとも動かない。こんな時間に起きているのは、夜勤の運転手と、親に内緒で京都に出掛けるカップルぐらいのものだ。
 トンネルのオレンジ色の光がアサコの膝の上を滑っている。アサコは体を僕の方に向けて、握った手を両手で包み込んで胸の前まで導くと、その指先をすっと口に含んだ。小さく窄ませた舌先のぬくもりが指の腹や甘皮のあたりを濡らして転がる。アサコは目を閉じている。手がとても熱い。僕はゆっくり指を引き抜いて体を起こし、やさしく額にくちづける。
「もう、寝ないと。明日つらくなっちゃうよ?」
 アサコはうなずく。でも寂しそうな顔をしている。
「寂しい?」
 と僕は聞く。
 アサコは強く首を振る。
「キスしよう」
 離れた座席からお互いに体を乗り出して深いキスをする。開いた距離を温度で埋め合わせるみたいに、そのキスは重く長い。僕は肩を抱いて首を引き寄せ、奥まで舌を差し込んでゆく。彼女の指先が僕の膝の上をさまよい、落ち着く場所を探している。ワンピースの上から胸の膨らみに触れる。肩を一瞬すくめるようにして体を震わせるけど、拒む様子はない。僕は木のボタンを親指一つで外し、胸元に手を滑り込ませてゆく。しっとりとした柔らかなぬくもりを、僕は大きく開いた指先で確かめる。声を出しそうにうごめく唇を僕はふさいで黙らせる。指先でブラジャーを掻き分けて、先端の突起を探し出す。もう一方の手でボタンを下まで外してしまう。僕はゆっくりと両足を開せようとする。
「‥だめ」
 アサコは押し殺した声で繰り返す。僕は喉が乾いた。
「触りたい」
 と僕は言う。
「今?」
 信じられないというふうに、アサコは首を傾げる。
「ここで、今」
 当然だろう、というふうに僕は言う。返事をする代わりにアサコはゆっくり僕の頭を抱きしめる。はぁと溜め息をつく。あきらめたのだろうか。私から見えないところでそっとして、と僕には聞こえる。
 割り込ませたままの手を内股に沿って広げてゆく。強張ってはいるけど、そこにはもう強い拒絶の色はない。太ももの内側は汗でちょっと湿っている。シルクのペチコートの裾をつまみ上げる。アサコは、僕の肩の向こうに頭を乗せたまま動こうとしない。窮屈な指先が、薄い2枚の布地で覆われたその部分に到達する。一瞬、開きかけた両足がまた強く閉じてしまいそうになる。僕は残した左手でやさしく他の部分を撫でながら緊張が解けてゆくのを待つ。ジーンズばかりに慣れている彼女のワンピース姿は腰からの曲線がとてもなまめかしく思える。柔らかい布越しに彼女の動揺が伝わって来る。触れたり、触れなかったり、曖昧な距離を保ちつつ、僕は核心に近づいてゆく。耳たぶを舐めて、噛んだ。アサコもそれに答える。耳元に伝わる彼女の呼吸は言葉にならない声を発する。僕は目を閉じ、彼女の鼓動と重なりたいと思った。





 自転車に乗って病院に向かう。この自転車には立派な名前がある。イカスミ。ショッピング・サイクルなのに、不自然にのっペりと黒いからだ。変速ギヤこそついていないけど、走りは軽快だ。
 薬局で成人用オムツを、コンビニでいつものを買って病院に向かう。病院に向かう道はいつだってあっけらかんと晴れていて、これでもかと言うくらい爽やかな風が吹いている。まるで5月で時計を止めたみたいだ。
 揺れる灌木の葉のざわめき、女子中学生のうわさ話し、早くて高い雲。ユキの病院に通っていた頃からそれらは何一つ変わる事がない。労わりなんだと僕はいつも思う。もし神様みたいな存在がどこかにいるとしたら、彼はきっと万能ではない。僕らが火を使うくらいの幅でしか人の運命も扱えない気がする。だからその周辺の環境をちょっとだけコントロールして当人に促す。直接運命をいじらなくても本人が本質的な何かから逃げないようにとバランスを取っている気がする。理不尽な遠回りしたり、無駄な苦労まで背負い込まないようにと、たくさんたくさん他の部分を許してくれている気がする。そして僕がやらなきゃいけないことをちゃんと終えるまでは、何があっても死ぬことはないだろう。世界はそういうバランスでできているはずだ。


 イカスミブレーキはどんな金切り声もあげない。彼女は寡黙で上品なのだ。イカスミを見ていると肌の白い、手の綺麗な女の人を思い浮かべる。普通のレストランでカプチーノを頼んでも、細く巻いた外国の香料入り煙草を吸っても、白いブラウスの下に濃い色の複雑なレースの下着を付けていても、僕はきっと不快に思わない。大きな理由の一つは彼女に顔がないことかもしれない。
 彼女を駐輪場に待たせ、青いスモークガラスの静かな自動ドアを抜けてゆく。目の前に病院的世界が広がり、その瞬間に僕の頭に中でスイッチが切り変わる。自然に肩に力が入る。色のないインテリアNHKの番組、消毒薬の匂い、病人の匂い、老人の匂い、小便の匂い、事務員の怠慢なマイクアナウンス。たったそれだけで、僕は今までどんなに素敵な世界に生きていたんだろうという気になる。だけどその一方で、不公平な人生を引き受けている人たちのお陰で、僕がのうのうとした平和な毎日を生きていられるのかもしれないとも思う。よくわからない。
 父親が入院しているのは、4階の奥のほうにある小さな個室だ。テレビと、冷蔵庫と、専属のベテラン看護士がついている。もちろん僕のうちは裕福じゃない。できれば1日でも早く、普通の病室に移してもらいたいくらいだ。でもどの部屋も病人が溢れていて、精密検査の結果がまとまらない父は退院も許されない。
「おまたせ」
 と僕は白くのっペりとしたドアを開ける。父親はベッドの上でプリンを片手ににこにこ笑っている。
「ト、モ、ユ、キ、くん‥」
「そう、トモユキくんね」
 傍らにいた母親が、白髪に染まった父の頭を撫でてやる。淡い色のパジャマを着た彼は、大手柄をあげたみたいに体を振って喜ぶ。髭は剃ってあり、いつもポマードでまとめていた前髪はさらさらになって額に垂れている。
「今日はご飯、全部食べた?」
 僕はやさしい口調で、一語一句をはっきりと話す。必要以上に近かづき過ぎたり、笑顔を絶やさぬように気をつける。怯えさせないための努力だ。
「食べたよねー、ちゃんと」
 でも返事をするのは母の方だ。父はまだ僕に慣れていない。今もプリンに夢中なふりをして、僕に目線を合わせない工夫をしている。カップの端まで綺麗に平らげてしまうと、今度は汚れたスプーンが元のように輝き出すまで舐めることに没頭した。
「ほら、約束のだよ」
 と言って僕は、スーパーの袋から切り札を取り出す。ピスタチオ、それにビールだ。子供のようになってしまっても、嗜好品は変わらないらしい。煙草だって吸う。彼は僕の手を見て目の色を変え、乱暴ともとれるくらい勢いよく包みを取った。さっそくビールを開けてうまそうにごくりと喉を震わせる。ピスタチオの殻を割る。その夢中な横顔を母は眩しそうに眺める。ここが病院の個室であることさえ忘れてしまえば、それはとても幸せな光景に映った。まるで何も変わってないみたいに。
「おいしい?」
 僕がそう聞くと、父は顔を見ずに平坦な声でおいしいと答えた。母親はくしゃくしゃな顔でうなずいていた。


 病室を出て、中庭を望む廊下を歩く。四方をガラスに囲まれたその空間には、10月の太陽が差し込んでいた。小さな池の周りに名も知れぬ白い花が咲いている。
 僕は胸のポケットから煙草を出して火を点けた。父親が僕の手に握らせたピスタチオを爪を入れて割って食べた。
 一体何が始まりで、どこに向かっているんだろう。たくさんの選択肢から、常にベストを選び抜いてきたはずじゃなかったのか? ちっとも前に進めない。いつまでたっても底に着かない。車椅子を押していた看護婦が振り返った。僕は彼女に微笑んで見せて、そのふたりの横を足速に追い抜こうと思った。廊下の広くなった部分をうまく使って、僕は車椅子の横にまわりこんだ。途端にざわざわと鳥肌が立ってゆくのを感じた。指先から何かに反応して、毛が逆立つような寒気がした。。
「あ」
 とその車椅子の男は言った。僕はそのまま歩いていってしまいたかった。何も見ていない。何も僕は知らないから、何も話すことなんかない。
「なぁ、おい」
 聞き慣れた声でそいつは僕をそう呼んだ。
「ワタナベ!」
 僕は呪文を掛けられたみたいに、その場で凍りついて動けなくなった。車椅子は僕の前まで押されると、くるりと向き直った。僕は目を合わせられなかった。彼に視線が僕の全身を舐め、縛り上げてゆくのを感じる。
「会えてよかったよ。ちょうど、おまえと話したかったんだ」
 顎髭に手をやりながら、首と腰と足にギプスをはめた男はそう言った。そうは思わないと、僕はきっぱり言いたかった。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951116

1995-11-15

「響きの水」15章

|  「響きの水」15章を含むブックマーク



「え? 何て言ったの?」
「できるかもって言ったの」
「うそでしょ?」
「まだわかんないけど、多分できると思う」
京都?」
「うん」
 アサコの髪はまだ長くて、ワードローブ予備校の頃のものが大半だった。スギノの写真にあった膝上ジーンズだってきっと持っていたはずだ。ピアノ弾きの彼と別れてまだ3ヶ月しか経っていなかった。
「少しは長く居れると思うんだ」
「3、4日?」
「ううん、1週間か10日ぐらいかな」
 大好きな女の子と親に内緒で旅行に行く。まったく健全で素晴らしい企画だ。とても大学生らしい。僕が今「京都に行きたい」と言った。でもそれは「うまいもん食いたい」とか「なんか楽しいことないかな」というのと同じで、景品のない射的のような気持ちだったはずなんだ。おもちゃの銃をただパンと鳴らしてみたかっただけ。
「やっぱり、やめる?」
 僕の顔色をうかがって、アサコは不満そうな顔をした。
「突然、夢が叶っちゃいそうになったから驚いただけだよ」
 アサコは床に視線を落とした。
「うれしいよ、もしそんなことが本当にできたら」
「やっぱり、あたし変?」
 子供のように首を傾げるアサコに僕は微笑んだ。
「変じゃないよ。すごくうれしいんだ。もしやる気ならきちんと実現させよう。完璧な計画を立てよう。ふたりで旅行できるなんてほんと夢みたいだ」
 アサコは複雑な顔をしている。そう思っているならどうして素直に喜んでくれないんだろうと不思議がっているのかもしれない。
「ごめん素直に喜べなくて」
「トモユキっていつもそうだよね。時々、可哀相になる」
「可哀相?」
「だって、伝わりにくいよ。喜んでいるようにはとても見えないもん」
「すごくうれしいんだけどな」
「断ってるみたいにしか聞こえないよ」
 僕はしゅんとなる。いつからこんなに軟弱になったんだろう。女の子にちょっと何か言われたくらいでどきどきしたり、暗い気持ちになったり、やけっぱちになったり。
「トモユキ?」
「ん?」
 アサコは僕の顔をのぞきこむ。まるで母親のような顔で微笑む。
「行くよね、京都
 僕も笑ってうなずいた。




 アサコのマンションの階段からゴトリとトランクを降ろした。よもぎ色のドアを見上げる。何かの間違いだと思いたかった。窓にはカーテンも灯りもなかった。あの赤いテレビも、ただいまと訪ねるあやふやな空気の匂いも、ふたりで積み重ねた幾つかの夜も、どこかに全部消えてしまったのだ。


 家に帰ると母親は電話をしている最中で、僕のただいまに誰も返事をしてくれなかった。そんなことは珍しかった。何かあったのかもしれない。そう思うと部屋の空気もどこか不安定な気もした。電話の横を通り過ぎた。途端に母親は背を向けた。反射的な動作だ。隠したってこんな狭い家じゃどこにいたって筒抜けなのにそうせずにはいられない。深刻な内容のものなのだろうとわかった。
「稲田登戸病院だって」
 バラエティー番組から目を離さずにミユが言った。僕は耳を凝った。
「誰? おばあちゃん?」
「電話?」
「入院した人だよ」
「パパ」
 不幸ってのはいつだって束になってやってくる。どうして僕を放っておいてくれないのだろう。母が電話の合間にミユの肩を叩いてガス台を指差す。夕飯のおかずの鍋が乗っている。不機嫌な顔をしたままテレビから離れようとしないミユを横目に、僕は自分で火をつける。リンナイの安っぽいコンロ。ダウングレードした生活用品には耐える必要のないストレスがもれなく付いて来た。2階の夫婦がどんなに静かに歩いても天井はミシミシたわんで埃が落ちてくる。風呂はたいしたお湯も出ないのに、追い炊きができない。台所の蛇口もお湯が出ない。ちょっと水を飲もうとコップ一杯分の水を注いだだけでも、アパートの全体にキュイーンと金属音がして、どんなに固く締めてもボタボタと水が垂れて止まらない。波打ったシンクに響く水の音はもの悲しい。それがうらぶれた木造アパートで聞く音ならなおさらだ。それは水の響きというより、何かをリミットを告げる秒針の音のようだ。ミユが家出した夜や、アサコと喧嘩した夜や、課題で徹夜が続くときには、耳の奥に様々なエコーが聞こえ、僕は僕の居場所を見失いそうになる。僕はここにいる。たったそれだけのことを何時間掛けても取り戻せない夜もある。


 電話を終えた母の顔は重い。思えばもうずっとそんな顔の母しか見たことがない
「入院したの?」
 僕の言葉は母の耳には届いていない。僕は自分のおかずをよそりながら、母のためにお茶を沸かす。こんなときには砂糖をたっぶり入れたミルクティーがいいかなと思う。
「‥まいっちゃうわよね」
 テーブルにことりと置かれた紅茶をのぞき込みながら、母はつぶやく。
「もう関係ないじゃないのよねぇ、別れようってあっちから言って、一方的に捨てられたんだから、ふざけんなって言ってやりたいわよねぇ」
 長いまつげを細かく揺らしながら、母はそううそぶく。
「心細くなったんじゃないかなぁ」
 僕は無関心を装いながら慎重に近付いてゆく。ミユは立上がり、奥の部屋のラジカセにヘッドフォンをつないだ。引っ越してから自慢の大きなステレオは一度も満足に音を出したことがない。
「借金だって全然減ってないのよ? 誰に入院費払えって言うのよ。ほんと頭に来る」
 うーんとか、まぁねぇとか曖昧な返事で受け流しながら、僕は貝に砂を吐かせるように母をなだめる。テーブルの上に一通りの不満を並べてしまうと母は疲れて寝てしまった。ミユは部屋を追い出されて台所に戻ると、暗い明かりの下で小さな紙に手紙か何かを書き始めた。誰に何を書いているのか、そこには青いペンで羽虫のような小さな字がびっしり並んでいる。読むにしろ書くにしろ、そんな字を見るのは僕の気を滅入らせる。
 夜の虫が大きな声で鳴いている。あちこちで重なりあって波のように揺れている。15階では聞こえなかった様々な音が、夜を違う質のものに変えている。ドアの向こうの砂利を踏む誰かの足音も聞こえる。




 八王子図書館で僕らは京都の打ち合わせをした。木漏れ日が机の上に綺麗な斑模様を作る。重ねて塗られたニスの匂いは古い本の匂いと混じり合って僕に眠気を誘う。
「ねぇ、どこか行きたいところある? リクエストしてよ」
 僕は肘の上で頭をゴロリとさせている。頬や、前髪や、まぶたに降る細切れの太陽が、学校の机とは違う安らぎを僕に与えていた。こんな気持にはもうずっとなったことがないみたいだ。
「ねぇ、聞いてる?」
「んー?」
 僕は半開きのまぶたの間からアサコの横顔を眺める。逆光の中でアサコはありがたい仏様のようだ。
金閣寺でしょ、竜安寺の石庭でしょ、清水寺でしょ、仁和寺二条城京都御所‥ あとは?」
 黙ってアサコの顔を見続ける。アサコは僕の右目と左目を交互に見て、大きな溜め息をつく。本を閉じる。光の中に埃の粒が舞いあがる。
「ね、京都じゃない方がいい?」
 アサコは頭を低く僕の高さまで降ろして、あくまでやさしい口調で言う。
京都じゃなくたっていいよ。熊本でも、愛媛でも、北海道でも、箱根でも、アサコと行くなら僕はどこでもいい」
「じゃあ、京都でもいいんでしょ?」
 やさしくアサコは誘導する。怒らないアサコを知っていて、僕はただじゃれている。
「どうやって行くの? 新幹線?」
夜行バスがいいと思う、やっぱり一番安いし」
「全部でいくらくらい掛かるんだろう」
「5万以内が目標かな」
 体育館の巨大ドミノの全景を眺めるようなまなざしでアサコはそう言った。私にまかせておけば大丈夫。1を倒せば必ず100まで届く。そういう強い目だった。僕はアサコが眩しかった。




 父親が入院した二週間後にさらにミユが家出して、静かな家がさらに静かになった。帰宅が遅い日が続いたので母が叱ったら、翌朝出掛けたまま帰ってこなかったのだ。家出といっても2、3日外泊するだけのミユのことだ「放っておきなよ」と僕は言ったけど、タンスから無くなっているいくつかの服や、母の財布からクレジットカードが抜かれていたことに気付くと、やっと計画的な家出だとわかった。準備をしておいてきっかけだけをずっと待っていたのだ。
 大事な歯車は錆び付いて見慣れない歯車ばかりが回っていると僕は思った。どこがどこをどう動かしているのかつながりが分からない。慌てて僕は首を振る。まだ引っ越して3ヶ月じゃないか。


 学校に通い始めてもアサコには会えなかった。同じ学部の生徒に聞くと毎日普通に来ていると言うのだけど、いつ訪れてみても僕の行く先にはもういなかった。学食を探し、売店を探し、屋上に上がり、図書館を見て、校庭の隅まで回っても、僕はアサコに会えなかった。一通り巡って、あきらめて教室に戻ると、「今帰ったよ」と言われる始末だ。タイミングが悪いのか、巧妙に僕を避けているのか、あるいはその両方なのだろう。
 そうして夏の最後の1週間は過ぎ、静かに秋が訪れ、僕は今、自分がどこに立っているのかよくわからなかった。ただ日に日に気温は下がり、夜が早まり、僕の体は冷えてこわばっていった。関節がきしみ、声が出なくなり、瞼が重くなった。


 結局のところ、誰一人とも何ひとつわかりあえなんかしない。アサコと喧嘩するに僕はそう思った。心臓や脳味噌を取り出して自分でその大きさや色や形を知ることができないように、誰かが誰かを想う気持ちも死ぬまで目で計れないものなのだ。だからこそ僕らはわかりあおうと思う。受け止める努力を怠らないようにする。それでも細かいすれ違いは積み重なっていく。もともと同じ気持ちなわけがないのだから、お互いがした勝手な思い込みに、お互いが勝手に失望してるだけなんだ。
 幾つもの夜を祈りに費やし、愛のかたちを知りたいと願う。あらゆる音や匂いに耳を澄ます。ひとつだけ、愛して欲しいと思う気持ちはとてもグロテスクなんだなということだけはわかった。


 イクタにでも会えば、少しは気持ちが変わるのかもしれない。やさしい声で慰めてくれるかもしれない。何も聞かずに黙って抱き締めてくれるかもしれない。そう思うことも何度かあった。でもきっと僕は彼女に甘えるだけだ。懲りもせずにまた押し倒すだけかもしれない。そして彼女の気持ちも考えずにアサコばかりを想うのだ。


 僕は今日もひとりよもぎ色のドアの前に立つ。何度見てもそこには303号室の空のネームプレートと見慣れたたくさんの傷がある。アサコが越して来る前からついていたものばかりだったけど、こうして見ると、そのすべてに二人の生活が染み込んでいるみたいな気になった。
 ポケットから合鍵を出し差し込んでみる。新しい鍵は僕の合鍵の先っちょさえ受け入れてくれない。僕のいない間にもう新しい契約が済んでいるのだろう。ここはもうアサコの部屋ではないのだ。僕をやさしく受け入れてくれる懐かしいあの部屋ではないのだ。
 クリーム色の学バスが何台も僕の下で停まっては過ぎてゆく。溢れ出してくる学生たちには笑いあっていて、何も悩みごとがないように見える。もうニュースの音を聞きながらこの部屋で抱き合ったり、おいしいとは言えない手料理を食べたりすることもないのだと思うと、僕は急に年を取ったような気になった。いくら暗くなってもアサコの部屋の電気は灯ることがない。僕は薄手のコートの前を合わせて、ドアの前の冷えたコンクリートに腰を降ろす。首元にひっそりと冬の空気が絡みついてくる。早くうちに帰りたいと僕は思う。こんな所にいるべきじゃない、早くほんとのうちに帰りたいと僕は思う。瞼を閉じて濡れたような月の表面を思い浮かべる。アサコと手を伸ばした3年前のあの月、僕のうちはきっとその下のあるはずだった。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951115

1995-11-14

「響きの水」14章

|  「響きの水」14章を含むブックマーク



 約束の場所にアサコはいなかった。せっかくのローションの匂いも汗と煙草のせいですっかり消えてしまっている。僕は口にガムを放り込んだ。
 夜の熱気と人混みは水族館を思わせる。分厚いガラス越しに見る水槽のように、そこには正しい色と時間が失われている。僕は湖に沈められたスーツケースのような気持ちになる。
 残りの煙草を吸い終えてしまってもアサコは来ない。池袋で待ち合わせしているのだから、この時刻に来ていないということは、おそらく約束の時間にまだ家にいたということだ。僕は何度も腕時計を見た。
 30分が過ぎ、僕は電話ボックスに入った。
「アサコですか?」
 とお母さんは言った。
「ちょっと待ってください‥」
 僕は体を巡っていた力が爪先から染み出してゆくのを感じた。
「‥はい」
 明らかに寝起きの声だ。
「どうしたの?」
「え、どうもしないよ」
「だって来ないから」
「‥あ、ごめん。もうそんな時間?」
「寝てたの?」
「うん」
「調子悪いの?」
「ん、ちょっと疲れてただけ、大丈夫」
「どうする?」
「え?」
「今日」
「あ、そっか」
「会うのなし?」
「ん、行くよ」
「だって寝起きでしょ?」
「急いで支度する」
「じゃ、待ってるよ」
「うん、ごめん。後でね」
 受話器を置いて溜め息をついた。アサコが来たのはそれから一時間近く後のことだ。時計は9時を回っていた。
「おまたせー」
 相変わらずの笑顔だ。僕の顔色をうかがういたずらっ子の目。胸を揺さぶられながらも僕はそれに気付かない振りをする。
「怒ってんの?」
「怒ってないよ」
 と僕は言う。でも口調は完全に駄々っ子だ。
「ごめん、ほんとに調子悪くって」
「疲れるようなことしたの?」
「うん、ちょっと」
「なに?」
「いろいろ」
「看病?」
「ちがう」
 僕のこめかみはきりきりと痛んだ。煙草を吸い過ぎたせいだと自分に言い聞かせる。
「ねぇ、どうする今日」
 何事もなかったみたいにアサコはにこにこしている。耐えられないなと思う。
「わからない」
「何がしたい? おなかは?」
「あんまり」
「じゃあ、映画? それとも散歩しよっか?」
「セックスしたい」
 と僕は言った。途端にアサコは嫌な顔をした。
「‥やだ」
「どうして?」
「だって、今あたし工事中だもん」
「じゃあ、添い寝してくれるだけでもいい。キスをして抱きしめたい」
「どこで?」
「どこだっていいよ」


 ホテルに入ってから何かがおかしいと思った。すべてが少しずつずれていて、何かにそっくり似ているのだ。そこはイクタと入った部屋だった。モンドリアンの絵とひびの入ったテレビのリモコンに見覚えがあった。
 ベッドの上でアサコを抱きしめた。アサコの体はいつもより熱かった。アサコは僕の背をやさしく撫でた。耳の奥に流れる血液の音。
 僕らはまだお互いを取り戻せずにいる。それは手の届く距離にきっとあるはずだ。だけど僕らはそれにちゃんと気付けるだろうか。見つけられずに通り過ぎてしまわないだろうか。
 こうしてアサコのそばにいるのは何ヶ月ぶりだろう。肌や匂いや温度が恋しかった。八王子のマンションで抱き合った日々は、もう思い出せないくらいに遠くにあった。
 丹念に繋ぎ止めた真珠の一つ一つを測り直すような気持ちでキスをした。まぶた、おでこ、鼻の頭、頬、耳、下唇、上唇。しかしどの部分にも僕は正確にくちづけることができなかった。イメージのアサコと本物のアサコは、ぴったりと重なることがなかった。僕には違いがわからないほど精巧でリアルなのに、印刷の版ずれのように何一つ正しい像を結んではいなかった。イクタと混ざってしまっているのだろうか。僕は初めてのキスのようにぎくしゃくした。それはほんのちょっと遠かったり、思いの他近くにあったりした。


 誰かの大げさなよがり声が天井から落ちてきた。驚いて僕らは顔を見合わせた。
「気持ちいい?」
 天井に向かってアサコは首を傾げてみせた。僕はその頬に手を差し延べた。
「ねぇ」
 アサコが僕の手を取った。
「シャワー、浴びてきたい」
 アサコは冷めている。僕だけの熱気が彼女の体にとぐろを巻いている。
「いいでしょ?」
 黙って僕がうなずくと、逃げ出すみたいにアサコはバスルームに駆けていった。衣擦れの音、ガラスの扉を閉める音、シャワーのバルブをひねって温度を調節する音が順序よく聞こえた。僕はガラス戸を打つシャワーの音を聞いた。
 声はまだ続いている。壊れたテレビのような音量だ。僕はその声から抱かれている女の姿を想像した。とっている体位は騎乗位から崩した対面座位だ。細いウエストに乗った腹筋の中心にある窪みが汗で濡れている。彼女は両足を開き陰毛をあらわにしてのけ反り、後ろ手をついて、男の動きに答えようとする。新しい踊りを踊っているみたいにシーツの上で体をくねらせて、目を閉じては声を上げる。闇の中で男の顔はだんだん僕に似てゆき、女はアサコやイクタやイッチー(だかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだか)のようになっていった。女の声は頭の中で複雑に重なり響き合った。僕は誰と寝たいんだろう。一番誰が好きなんだろう。わかっているはずでも、どこかつかみ損ねているような気になった。
 目の前に白いバスタオルを巻いたアサコが立っていた。アサコはもう何秒も前からそこにいたような感じだった。
「ごめん、ちょっとウトウトしちゃった」
 僕はまぶたを擦って大袈裟に目をしばしばさせる。彼女の前髪から落ちる雫が、絨毯に黒い染みをつくってゆく。
「終わったみたい」
 子供のようにアサコはそう言った。それが生理の事を言っているのだと理解するのに、ちょっと時間が掛かった。僕は笑ってみせた。アサコは直立したままだ。
「おいで」
 僕は微笑み、ベッドの上から手を差し出した。アサコはおさえていたバスタオルの胸元から手を離して、僕と手を重ねた。僕は彼女をベッドの上に導き、アサコを抱きしめた。それが本物のアサコであることを確かめながら僕はもう少しで涙が出そうになった。キスをする。やさしい、ゆっくりした気持ちのこもったキスを。大丈夫と僕は自分に言い聞かせた。大丈夫きっと伝わるよ。
「電気」
 とアサコが言った。キスをしながら伸ばした指先のパネルのボタンが、弱気な音を立てて部屋を暗くしていった。
 バスタオルを外す。肌の匂いと体の白さが浮かび上がる。ゆっくりと体を寝かせる。首筋は熱く甘い匂いを発している。アサコは僕を見て微笑み、目を閉じる。僕はアサコの全身に舌を這わす。指、手首、耳の下、肩、下腹、内股、くるぶし、足の指‥。アサコは体をくねらせて何かを小さく呟いている。聞き取れない。僕はその顔を眺める。目を閉じ顎を上げて、唇と他の何かを噛みしめている。
 アサコが声を上げる。いつもより反応が大きいように思える。でもそれが僕の気持ちのせいなのか、アサコの体調のせいなのかわからない。体をよじってのけ反り、シーツの端を握り締め、口元に言葉にならない言葉を探す。
「舐めさせて」
 とアサコは言った。やはりどこかが少し以前のアサコと違うみたいだ。僕はとてもつらい気持ちになる。アサコは瞬間瞬間に僕以外の顔を思い出しているに違いなかった。それは彼女を暗い闇へと追い込んでしまうだろう。アサコは激しく頭を動かし続ける。僕は快感が痛みに変わってゆくような気になった。トクシマさんにもこんなことをすすんでしたんだろうか。だとしたらとても悲しかった。
「アサコ、もういいよ」
「よくない?」
「いや、気持ちよすぎて」
「よくないんでしょ?」
「そうじゃないよ。よすぎて、なんか痛いんだ」
 アサコは悲しそうに見える。
「キスしよう?」
 もう一度深くてやさしいキスをした。脳味噌の中に何かが染み出してゆくのを感じる。全身でつながりたいと強く願う。アサコの両足をゆっくり開いてゆく。アサコが薄目を開けて僕を見た。何かに怖がっているような顔だ。初めてしたときだってそんな顔をしなかったのに、どうしてそんな‥。
 大丈夫と僕が言う。大丈夫きっと元通りになると僕が僕に言う。
「いい?」
 と僕は聞いた。こくりとアサコがうなずいた。


「安心するよ、こうしていると」
「ほんとう?」
「ほんとうだよ、一番安心する。落ち着く」
「あたしが?」
「誰よりもね」
 と僕は言った。
「なんか、懐かしいくらいだ」
「会えなかったね」
「長かったよ」


 ホテルを出ると11時を回っていた。アサコは改札まで僕を送ってくれた。
「夏休みももう終りだね」
「学校で毎日会えるよ」
イタリア、行くの? また」
「うん、わからないけど、行くことになると思う、多分」
「大丈夫、だよね」
 何が? と言えない。僕らはうまく踊れたのだろうか。
「大丈夫、僕はアサコのそばにいる」
 アサコは汚れた床のタイルに目線を落としたまま、何度も小さくうなずいた。
「また、来る」
「ほんとう?」
 僕は仕方なく笑って見せる。
「ほんとうだよ、会いにくる」
「もっと好きになれるよね?」
 アサコはお父さんを見上げるような顔で僕を見る。
「今も昔もずっと好きだよ、たぶんこれからも」
 笑って僕は言う。
「学校が始まったら、またあのマンションに行くよ。一緒にルパン三世を見よう」
 それを聞いてアサコは微笑む。でもそれはガラス越しに見せるような笑顔だ。
「何もなかったようにっていうのは無理だと思うんだ」
 真剣なはっきりした口調で、確信を持って続ける。
「つらくても現実を受け入れながらじゃないと、とてもやっていけないよ。今までとは違う部分で、同じくらいかそれ以上好きって言えたら最高だと思う」
「痛みと共存してゆくの?」
「共存‥ ん、まぁそれが一番近い言葉かな。自分に嘘はつけないし、ついても苦しくなるときが必ずくるからさ」
「そばに置いておくんだ」
「そうだね、目障りだとは思うけど。でもそれについてちゃんと喧嘩できるってことの方が大事じゃない?」
「時間かかる?」
「かかるだろうね。でもそれでいい。今日明日だけの話しをしているわけじやないから」
「私、ちゃんと喧嘩できるかな」
「あせることないよ、ゆっくり考えよう。オレだってまだちゃんと落ちついているわけじゃないし」
 それを聞いて、アサコはちょっとうつむいた。
「ふたりで考えようという気持ちと、それに割く時間があれば、道は自然に開けると思うよ」
「‥そうだよ、ね」
「大丈夫、できるよ!」
 僕はめいっぱい笑って見せた。アサコも笑った。
「がんばろうね」
 そうして軽いキスをして別れた。ちゃんといい力がみなぎっていたと思う。振り返ってアサコを見たとき、悲しいようには見えなかった。アサコはそこにいて、ちゃんと僕を待っていたんだ。僕が帰ってくるのを。




 再びイタリアに渡り、僕は生徒の前で校長の紹介を受けた。サムライの国から来た優秀な男だ、とかそんな感じだったと思う。僕は習いたてのイタリア語で短い自己紹介をした。
 30分刻みの接待のようなスケジュールをこなし、夜にはドライブやパーティーがあり、その合間を縫ってアサコに何通かの手紙を書いた。ほとんど毎日欠かさなかった。瞬く間の二週間だった。8時間向こうの世界では夏休みが終り、後期の授業が始まっていた。僕は日本が待ち遠しかった。
 空港に着くと、僕は大きな手荷物のまま八王子のマンションに寄ることにした。電話は掛けない。アサコが驚いて喜ぶ顔を見たいからだ。
 懐かしい匂いのする階段を昇りながら、おかえりと言うアサコを想像した。アサコは僕の顔を見て抱きついてくるかもしれない。旅の疲れも忘れて僕はにやにやした。キスの嵐が襲って来たら、ちゃんと後でお返しをしよう。
 チャイムを押す。返事がない。出掛けているのだろうか。夜の11時だ。もう一度押す。何かが違う。何かがおかしい。決定的な何かが足りない。落ち着け、整理しよう。アサコは出掛けているんじゃない。それだけが直観的に理解できた。
 荷物を床に置いてドアに近づき、チャイムに耳を澄ます。もえぎ色のドアは死んだように冷たい。何度押したってそこには電気なんて通っていない。まるで石になった象を撫でているみたいに音や時間が欠けている。そこには生命の記憶はあっても水がない。ひとかけらだってないのだ。水、命の水。僕は僕てて辺りを見回す。台所の窓は鍵が掛けられていて、擦りガラス越しに見えるはずのディズニーのグラスやふたりの歯ブラシが見えない。新聞受けは裏からガムテープか何かで止めてある。ドアの脇のプレートに目をやる。クドウアサコの表札はもうなかった。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951114

1995-11-13

「響きの水」13章

|  「響きの水」13章を含むブックマーク



「おなか空いたでしょう」
 と言いながらイッチーだかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだかいうジイちゃんの彼女は、笑顔で大きなスーパーの袋を持ってやってきた。彼女の荷物はいつだって大きくて重そうだ。
オムレツ作るよ。卵、大丈夫だったよね」
「うん」
「よかった」
 彼女は袋から材料を取り出し手を洗うと、置いてあった包丁でおもむろに野菜を切り始めた。玉葱はみじん切り、レタスはざっくり、醤油と砂糖とみりんで挽き肉に下味を付けて、卵はボールでかき混ぜる‥。


 僕はつけっ放しのテレビを忘れて、その台所姿を眺めていた。彼女は耳に小さなガラスのピアスを光らせていた。薄手のTシャツに、ホットパンツ、そこからすらりと少年のような足が伸びていて、素足だった。染みだらけの汚い床に立たせておくのがもったいないくらいだ。
「そう言えば、手紙ありがとう」
 思い出したように僕は言った。
「すごくうれしかったよ」
「うん、遊びにおいで。うちのお母さんも待ってるからさ」
「お母さん?」
「うん、ナベちゃんのこと、知ってるんだよ」
「なんて話すの?」
多摩川べりに住んでて、シブヤケイと同じクラスで、背が高くて、眼鏡を掛けてるやさしい人」
「仲いいの? お母さんと」
「うん、友達みたい」
「妹に聞かせたいよ」
「どうして?」
「だって喧嘩して母親のすね蹴っ飛ばして、青あざつくったりしてるからさ」
「そうなの?」
「親父がいなくなったせいもあるんだろうね。まるで中学生だよ。二次性徴期」
「反抗期なの?」
「19だよ」
「あたし反抗期ってなかったんだ」
「一回も?」
「いや、もちろん5才とかそんくらいの時はあったかもしれないけど」
「その後のやつはなかったんだ」
「そうなの」
「オレ、みんなあるもんだとばかり思ってたけど」
「おかしいかなぁ」
「でも、なくても誰も困らないか」
 それを聞いて彼女は笑った。温めたフライパンに卵を落とす音。水分があっという間に蒸発して、手首を上手に使い、フライパンの底にできた膜を薄く広げる。
「帰ってこないねぇ」
 と彼女が言った。
「あいつのこういうとこ、あたしすっげー嫌い」
「ルーズなところ?」
「いくら相手があたしやナベちゃんだからって、待たせていいって話しはないわよね」
「わかんない、それがシブヤさんなりの信頼なのかもしれないよ」
「えー!?」
「違う?」
「ただの甘えだよ」
「そう?」
「だって誰にでもおんなじだもん」
 そう言う彼女はちょっと寂しそうに見えた。シブヤさんがいつ帰ってくるのか。最後に帰ってくるところは本当に自分なのか。可能性の一つでしかないのか。いずれにせよ、信頼なら信頼らしい素振りが欲しいんだろうなと僕は思った。
「でもシブヤさんは口を開けばいつもイッチー(だかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキー)の話しばかりしてるよ」
 彼女は黙って首を振った。もううんざりって風に。でも現実問題、今シブヤさんの部屋にいるんだよなぁ。それもほかほかの素敵なオムレツまで用意して。
「食べよう先に。待ってるとこっちがやられちゃうよ」
 何に何がやられちゃうのか気になったけど、彼女が台所から両手に持ってやってきたオムレツを見て、僕は思わず歓声をあげた。
 素敵なオムレツだった。黄色くて、小人の幸せを詰め込んだみたいに綺麗に膨らんで、とてもいい匂いがした。僕の大好きなチーズ入りだ。レタスミニトマトも添えてある。
「こんなオムレツ、オレが先に食べちゃっていいの?」
 僕はそのコンパクトで具体的な幸せを前に、ちょっとたじろいだ。
「食べて、お口に合うかわかりませんけど」
 と彼女は僕の目を見ずに微笑んだ。
「うん、いただきます」
 僕はオムレツを食べた。彼女の人柄がよく出た、やさしい味のするオムレツだった。
「おいしいよ」
「ほんとう?」
 彼女はどうでもよさそうにそう言った。そりゃそうだ。そもそも僕が食べるはずのオムレツじゃなかったんだから。
「シブヤさんが食べれた方がよかったんだろうけど、うん、とてもおいしい」
 そう言うと不格好な沈黙が続いた。いつもひとこと余計なのだ。適当な言葉が出てこなくて、仕方なくつけっぱなしのテレビを映めた。
「時々わからなくなるよ」
 彼女はテーブルの隅を見つめて呟いた。僕は黙っていた。
「この先、就職とかあるでしょ? そうしたらシブヤケイと同じ会社で働く事はたぶんないでしょ? そうなったらさ、いやそうなるしかないんだけど、ちゃんと続いていけるのかなって。学生の今でさえなかなか会えないのに、気持ちを保ち続けていけるのかなって」
 僕はフォークを置いてティッシュで口を拭いた。彼女がそんなストレートな話しを口にするのは初めてだった。
「言ってることはよくわかるよ。でも先の事は誰もわからない。だけどお互いにどうにかしようって気があれば、大抵のことは何とかなるよ」
「ほんと?」
「絶対、ほんとう」
「残りは?」
 僕は腕を組んで難しそうな顔をした。
「月の満干だね」
「何それ」
 冗談が通じなかったので僕は仕方なく自分で笑った。
「いや、つまりタイミングだと思う」
「そっか、なるほど」
「どんな無謀な作戦もタイミングさえ合ってれば、それはちゃんと成功するんだ。それを人は奇跡なんて呼んだりするけど」
「そうじゃないって言いたいのね」




 終バスで家に帰ると、アサコから二度電話があったと知らされた。
「あ、アサコ? オレだけど」
「トモユキ? ちょっと待っててね」
 とアサコは受話器を保留して子機の方に移った。
「もしもし」
「もしもし」
「はぁ、暑いね」
「暑い、べたべたする」
「明日さ、空いてる?」
「明日?」
「何か用事ある? バイト?」
「うん、あ、でも早番だから4時半までだけど。その後でもよければ」
「会わない?」
「もちろん」
「もちろんって?」
「もちろんだから、会いたい、だよ」
「会いたい?」
「すごく」
「じゃ、あたし行くよ、予備校まで」
「え?」
 とつい僕は声に出して言ってしまった。
「あ、そか」
 アサコは空気を重くしないように、明るめに言った。あ、そか、トクシマさんとイクタさんがいるんだもんね、あたしが行ったら困るよね、という意味だ。
「ごめん」
「いいよ、待ってるから電話して」
「うん、必ずするよ」




 夏期講習最終日。十日間通いつめた教室の、きちんと並べられた白い長机に問題と解答用紙を配り終えた。窓を開けてみる。陽射しの鋭さは失せたものの、アスファルトの焼ける匂いにまだ夏が感じられる。トクシマさんは来なかった。僕は生徒に夏の間身に付けた学力を総動員してがんばれと言って教室を出た。入試並みのレベルに合わせてあり問題数もいつもよりちょっと多めだ。


 カフェテラスを望む吹き抜けに出て、煙草に火を点けた。そしてこの二週間で起こった事を思い返した。アサコが交通事故に遭った、そのとき僕はそばにいなかった。僕はイクタと抱き合い、アサコはトクシマさんと抱き合っていた。


 まだ途中なんだろうなと思った。真っ直ぐに続くシンプルな道の、たくさんの立体交差の数に混乱してるだけなんだ。いつかずっと先から振り返って見れば、それらがどういう位置関係で重なっていた立体交差なのか知ることができる。そしてそのほとんどがねじれの位置にある、僕が歩く道とは無関係な交差で迷っていたことに笑い出してしまうだろう。


「今日で終りね」
 振り返るとイクタが壁際で腕を組んでいた。
「あっという間だったね」
「ホント」
「オレ、なんか心配だよ」
「心配って何が?」
 イクタもそばに来て同じように下をのぞき込んだ。
「いや、何にも教えられなかったなと思ってさ、生徒に」
「生徒だった頃、先生に何か教えてもらったの?」
 僕はとぼけてみた。
「うん、だってたくさんお金払ったよ?」
「先生に? この建物に?」
「‥あ、そうか。友達か」
「そうじゃないの?」
「そうだね。友達が一番の先生だったかもね」
「私たちはただのきっかけ、答えは始めから全部生徒の中にあるよ」
「まだうまく言えないけどって?」
「私たちは、生徒たちがもつそれぞれのベクトルに、ちょっとだけ手を貸すことしか出来ないんだと思う。私たちの力で引っ張るんじゃないの。成長ってそういうものでしょ?」
「そんな風に守られながら自分の価値観に気付くのかもしれないね」
「美大の友達が言ってたよ。デッサンに似てるんだって。ひとつのモチーフをそれぞれの視点から解釈、比較しあって、磨かれてゆくんだって」
「イクタは?」
「私はやさしさが欲しい。それもこう、突き刺さるようなやさしさ」
「突き刺さる?」
「お金で買える情報の中には存在しないやさしさ、マニュアルのない、私にしかできないやさしさ」
「なるほど」
「私は、私を取り囲むすべての人にやさしくありたいの。例え嘘をついてでも、私と過ごす以上は幸せでいてほしいの」
「幸せかどうか、イクタにはわかる?」
「わかるよ。だって、そうでなきゃそんな事できないじゃない」
「正しく?」
「わかるよ。そうね ‥少なくとも、ワタナベ君はいま幸せじゃないかな」
 挑戦的な目線でそう言い放つイクタに、僕は言葉を詰まらせた。
「‥どうして?」
「だって顔に書いてある。迷ってるって」
「何を迷ってんだろう」
「さぁ、見当もつかないけど」
 嫌な感じにイクタは笑った。やっぱりまだ怒っているのだ。まぁ当然か。
「迷ってなんかいないよ」
 と僕は言った。
「すまないとは思っているけど、もう迷ってなんかいない」
 僕の言葉にイクタは細い目をして、
「どうせ、今日でもう会わなくて済むしね」
 と言った。
「いや、そんなことじゃない。会いたくなればいつだって会いに行くよ。でも僕にはイクタより大事な人がいる。それに」
 と僕は目を伏せて、
「イクタとは関係なく、もうこの予備校にに来たくないんだ」
 彼女は笑った。
「トクシマさんだ」
 僕はイクタを見た。
「知ってたのか」
「知ってた。クドウさんと付き合ってることも、トクシマさんを看病してることも」
「それで、オレに?」
「それこそ無関係よ。ただ、ずっと好きだっただけ。そういうのって理由にならない?」
「いや‥」
「チャンスだとは思ったんだ。そんなときなら、横取りなんて簡単だしね」
 僕は黙っていた。
「でも、もう駄目、だね」
 イクタが笑顔を浮かべてそう言った。
「わからない」
 と僕は言った。
「イクタのこと今でも好きだよ。でもアサコのことは「大事」なんだ。比べようがないんだ」
「私としたセックスは?」
「え?」
「よかった?」
「‥うん、素敵だったと思う」


 イクタは手摺の上に重ねた腕の中に静かに顔を埋めた。耳を真っ赤にしてそのままじっと動かなかった。体の底から吹き上げて来る何かに耐えているんだと思った。肩が小刻みに震え始め、すすり泣くような声が聞こえた。芝居掛かっていると言えばその通りにも見えたけど、それでも良かった。きっとそういう方法でしか自分を表現できない女の子なのだ。
「ごめん」
 イクタの背中を触りたかったけど、触れなかった。そもそも今の僕にはとてもそんな資格なんてないのだ。揺らめきと薄っペらい感情の中、こわばった指先が汗ばんだジーンズの上でもどかしかった。
「‥もう、会えない?」
 鼻声でイクタは言った。
「会えるよ、きっと」
「いいの?」
「イクタさえよければね」
「ほんとう?」
「うん」
 たまらなくなって、僕はイクタの背中を擦った。体がいつもよりずっと熱かった。
「‥今日、が最後、じゃないよね」
「うん」
「ねぇ‥ 今日‥」
 とイクタは言った。
「お願い‥」
 いいよと言い掛けて、アサコの約束を思い出した。イクタは両目で僕を見ていた。全然自信のないイクタはイクタじゃないみたいだった。僕は「ほんの少しだけなら」と言った。


 教室を出て行く生徒ひとりひとりに握手をした。さようなら、頑張ってね、よくやったな、だいじょうぶさ‥。肩に手をやったり、頭をなでたり。ありがとうございましたなんてお世辞にも言われてしまうと、急に何歳も老けたような気になった。


 幾つかの手紙と細長い箱に入った小さなプレゼントをもらった。1通は簡単なお礼の手紙で、1通は電話番号を書いただけのもの、もう1通はラブレターだった。うれしかったけど溜め息が出た。先生に恋しちゃうなんて切なすぎるよ。断言したっていい、そんなのまやかしなんだよ。頼りになる年上の異性、隅々まで手の届くやさしさ、仕事じゃないときに見せる素顔。全部、先生対生徒っていう約束事の中でしか成立しない幻想じゃないか。


 僕はアサコがどうしてそんな安っぽいマジックに引っ掛かってしまったのか理解できなかった。今アサコが立っている場所を外側からはっきりと見せてあげたかった。


「終わったね」
 とイクタが言った。小さなバーの中だ。
「終わったらいいのに」
 紫色の甘ったるいカクテルを傾けて、僕は言った。とても上の空だ。
「ねぇ」
 イクタが体ごと僕の方に向いて、膝をぶつけながら僕の足を揺する。
「んー?」
「んー? じゃないよ、もう‥。聞いてる? さっきから」
「聞いてるよ」
「じゃあ、何の話しした?」
「だから、夏期講習が終わったねって話しでしょ? お疲れ様」
「その前は?」
 彼女を慰めるために今ここにいるはずなのに、どうしてもその気が起きない。アサコのことが頭から離れなかった。分厚いガラス越しに灰色の世界を見下していると、なぜわざわざこの無限に広がる可能性の中で、僕はアサコだけを愛してるなんて言い切れるのだろうと思った。何故もうほかを探さなくていいと思えるんだろう。自分以外の男に抱かれた女をどうしてわざわざもう一度好きと言わなくちゃならないんだろう。目の前にいる綺麗な女の子になんで乗り換えたいと思わないんだろう。
「ねぇ」
 と僕は言った。
「イクタは悲しい目に遭ったことある?」
「例えば?」
「だから、オレみたいにさ、かっこ悪い目」
「あるよ、何度も」
「どうやって乗り越えたの?」
「その人より幸せになってやろうと思って、実際なってみせた」
「なるほど、シンプルだ」
「でも」
 とイクタは言った。
「そうする度に、すぐまた別の悲しい目に遭わされたりしてね」
 イクタはどうしようもないという顔で笑った。
「それでも続けたい?」
「だって、前より前に進みたいもん」
「そうだよね」
 ウェイターがトム・コリンズを持ってきて、目の前の空のグラスと替えた。炭酸の泡が弾けてゆくのをぼんやりと眺めた。
「取り戻せそう?」
 とイクタが言った。
「わからないよ」
 と僕は言った。的確すぎる言葉が悲しくて吹き出してしまった。
「どうして笑うの?」
「だって、慰められてる」
 僕は起き上がってイクタの顔を見た。イクタは困っていた。
「‥悲しそうにするから」
「ごめん、ごめん」
 そう言って、僕はうつむいてしまったイクタの手を取った。イクタはもっと深くうつむいた。
「オレ駄目なんだよ。とてもたくさんのことなんて考えられない」
「大事、なんだもんね」
 大事な気持ちをしめ殺すような声でイクタが言った。
「うん」
 と僕も言った。
「でも、私も大事なんだよ? ワタナベ君のこと」
「うん」
「わかる?」
「わかるよ」
「何でもしたいの。ワタナベ君が安らぐことなら何でもしてあげたいの。一生懸命になれるの。そうしている自分も好き。本当ならワタナベ君がクドウさんのことをとても大事に思ってる気持ちだって、応援してあげたいくらいなの」
 僕はイクタの脆さをとても愛しく思った。でもかけてあげる言葉がなかった。
「でも、それはできない。悲しいから」
 イクタはカウンターの黒い天板に向かってそう言った。二人のグラスと二人の顔が逆さまに映り込んでいる。像はぼんやりとして、泣きながら見た鏡のようだった。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951113

1995-11-12

「響きの水」12章

|  「響きの水」12章を含むブックマーク



 澱んだまどろみの中で音もなく夏は過ぎていった。交換留学生の話しが持ち上がったのも、ちょうどその頃のことだ。代表として僕が選ばれた理由は冴えない。優秀な科目があるとか語学力に長けているとかではなく、単に担当の教授の授業の出席率がたまたま他の生徒より多かっただけのことだ。


 うちの大学はミラノに姉妹校があった。パネルの写真を見る限り、古風な金持ち学校だった。
「ワタナベお前、ちょうどいい機会だ、行ってみないか」
 進路指導に強い権限を持つサワラギ先生が電話を掛けてきたのは、僕がバイトに急ぐ朝のことだった。彼の授業は恐ろしく退屈な事で有名だった。まだ単位を気にして皆が出席してた頃は、わざわざ夜更かししてから授業に出て、どちらが先に寝てしまうか昼飯代を賭け合ったりしたこともあった。「でも僕、イタリアには行ってきたばかりです」
 僕は面倒臭いのを悟られない程度にそう言った。
「だからと思って電話しているんじゃないか。これは遊びじゃないんだ。旅行気分で行かれちゃ困るんだよ。学校の品位に関わる問題だからな。しっかりやりそうな生徒に行って欲しいんだよ」
 品位!と僕は思った。あの学校のどこにそんな大層なものがあるのだ。世界トップレベルの学費の桁のことか?
「シブヤさんはどうですか? 僕より海外には詳しいし、優秀だし、適任じゃないですか?」
「シブヤはなー」
 そう言うと途端にサワラギ先生は渋い声を出した。
「確かに優秀は優秀だが、出席日数が足りん。それに年齢も年齢だ」
「でも僕には向いていないと思います」
 僕はきっぱりと言った。
「んーまぁ、そう言わずに考えておいてくれよ。また連格するからよろしく頼むよ。君を見込んで頼んでんだからさ、な」
 それだけ言うと電話は一方的に切られた。僕の意見など始めから聞く気がないのだ。それなら「行って来い」とだけ言えばいいのに。




「夏期講習も残されるところあと1日となりました。皆さんどうですか、しっかり実力をつけましたか?」
 ミハラはマイクを手にうれしそうに言った。4階の大講義室には昼間の授業を受講しているすべての生徒が集められていた。これだけ血気盛んな年頃の人間が一部屋に詰め込まれると、めいっぱい<強>にしたエアコンもカビ臭い換気扇ほどの役にしか立たない。
「今日はね、レクリエーションという意味も兼ねてちょっと集まって頂いたわけなんですけど、どうかな、時間とお金がもったいないから今すぐ授業にして欲しいって人いますか? なるべく早く終わらせるつもりではいますけどね。どうでしょうか? いい?」
 返事はない。ただ暑いなぁと思うばかりだ。僕のシャツも張り付いている。暑いだけならまだしも、女の子がつけるいろんな種類の制汗剤や香水、誰かのひどいわきがとカビの匂いが混じり合って、不快感を一層複雑なものにしている。
「じゃあ、ささやかではあるんですけれども、前回の実力試験の全員分の点数がこう出ましたんで、成続優秀者にちょっとしたプレゼントを用意させていただきました」
 暑さにだれながらも、おおとか、へえとかいう声があがる。ミハラはテーブルの下にあった紙袋を上げた。カラフルなプラスチックのカメラと花火セットが10個ずつ対になって詰まっていた。ざわめく生徒たちを制してミハラは言った。
「えー、ひと夏の恋の思い出を写すもよし、気になってたけど声を掛けられなかったあの娘を花火に誘うもよし、その後のほにゃほにゃを写しちゃうのもよし、何にもなかった人は花火してる自分の手でも撮ってねーつーことで、今年はカメラと花火です」
 何人かの生徒が拍手をして、そのまばらさに残りの生徒が笑った。
「ただ、くれぐれも花火だけはここの塾の人だとわかんないようにやってくださいね。何年か前も配ったんだけど、苦情が来ちゃって、謝りに行くの大変だったからさ。あと火事も起こさないように。あ、ハメ撮りは現像所じゃ現像してもらえないんでそれも気をつけて」
 ミハラのジョークに男の子たちはゲラゲラ笑った。僕はイクタの方をちらりと見た。今日は特に機嫌が悪いみたいだ。いつもよりファンデーションが濃いし、その下の肌もがさがさして見える。彼女はみんなの笑い声の中で下らないという感じに肩をすくめて椅子を立ち、教室を出ていこうとしたところだった。生徒を掻き分けその後を追った。イクタは吹き抜けを臨む廊下の突き当たりで、ちょうどエレベーターに乗り込むところだった。薄い生地の黒いパンツに包まれた長い足が箱の中に吸い込まれる。僕は慌てて駆け出した。イクタは扉を開けたまま、僕が追いつくまで待っていてくれた。駆け込んだところでボタンから白い指先を放した。急いでいた僕の足音はその中の静けさには不釣合で、その乱暴さが他人のものであるかのように僕は咳払いをした。エレベーターの中には彼女の微かな匂いが満ちていた。ひゅーんという小さな音を立ててモーターが回り始め、そのすきにできた短い沈黙は僕の理性をひりひりと逆撫でた。
「何?」
 イクタは折り畳んだハンカチを団扇代わりにしながら言った。
「謝ろうと思って」
 階数表示をじっと見据えて目も合わせてくれない。
「何を?」
「こないだは ‥ごめん」
「‥ふうん」
「この通り謝るよ」
「‥‥」
 1階です、という合成音と共に扉が開き、それが開き切るより早くイクタは足速に歩き出した。
「あのときほんとオレどうにかしてた」
 イクタは黙って歩き続ける。大股でプライドにいからせた肩で風を切りながら。
「ねぇ、待ってくれよ」
 足並みを揃えられない僕はとっさにイクタの腕を取った。つかむと言うほどではない、肩を叩いて呼び止めるぐらいの力だ。イクタは服に付いた巨大な害虫を振り払うかのように、僕の手を振り払った。女の子にそんな嫌そうな素振りをされたのは初めてだった。唇は怒りにゆがみ、眉間には深いしわが刻まれ、そこにいるのがイクタなのか確信が持てないほどだった。突き刺すような視線をはっきりと僕の両目に浴びせてイクタは再び歩き始めた。僕はその背中を追うことができなかった。
「ねぇ!」
 地面から靴の裏を剥がせなかった。
「気持ちを踏みにじったことはよくわかってる。謝らせてほしいだけなんだ」
 強風の岩場でしゃべらされてるみたいな声でそう言うと、イクタはぴたりとその足を止めた。その場でよく訓練された兵隊のようにくるりと振り返り、威圧的なくらいはっきりとしたヒールの音を立てて、僕の前まで戻ってきた。
「あなた自分の言っていることが勝手すぎると思わない? そんなふうに謝れば何もかも元通りになると思ってるの? なかったことになると思ってるの?」
 イクタの目は強かった。ひるまずに僕は言った。
「そうじゃない。僕が一方的に悪かったと思うからそれについてまず謝りたいだけだよ。元通りとか、なかったことっていうのは、謝ることとは別の問題だし、少なくとも僕が決めることじゃない」
 イクタは次に続ける言葉の勢いを失った。すかさず僕は言った。
「この間はごめん。オレはイクタのことが好きだけど、本当は他にもっと好きな女の子がいたんだ。付き合って2年になる。イクタとするセックスはとても素敵だったけど、その間、僕はその娘のことばかり考えていた。今、二人の関係がちょっと不安定になっているんだ。それで僕は荒れてた。でもそれとイクタを無理矢理抱くこととは無関係だし、ひどいことだと反省してる。だから謝ります。二度とそんなことはしません。ごめんなさい」
 一息に言って、僕は深く頭を下げた。
 イクタは僕の方を向いたまま、しばらく固まったままでいた。そして普段の思考の回転と時間の感覚を取り戻すと、何も言わず焼けたアスファルトに靴音を響かせて歩き出した。
「帰るの?」
「気分が悪いの」
 振り返りもせずにイクタはそう言った。

 
 家に帰ると、ポストにはシブヤさんの彼女から暑中見舞いが届いていた。あのイッチーだかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだかいうあの彼女だ。


ナベちゃん、お元気? 私は元気。もう8月も
なかばだね。 どう? いい夏にしてる?
引っ越ししたって言うから、私の家の近所に来
るとばかり思ってたのに、地図で調べたら前と
おんなじじゃないの! せっかく一緒に帰れる
と思ってたのにざーんねん。
ナベちゃん、夏休みの間に遊ぼう。
うちはお母さんが勤めをやめたので、毎日二人
で遊んでいるよ。たのしいよ。
うちにお茶を飲みにおいでと言いつつ、ずっと
来てもらってなくて、このまま卒業になっちゃ
うと嫌なので、本当においで。平日においで。
バイトのない日にゆっくりしよう。
都合のいい日を教えてください。
                 8月4日」


 便箋の余白には彼女の電話番号と家にいる時間が記されていた。僕はうれしかった。イクタでもアサコでもない女の子が僕に会いたいと言っている。手紙を書いてくれる。切手を貼ってポストに入れてくれる。それだけで救われた気になれた。


 僕はその手紙を封筒に戻し引き出しの奥にしまった。電話は掛けないつもりだし、家に行く気もない。行きたくないわけじゃない。どちらかと言えばかなり行きたい。でも行かない。そういう気持ちが文字になってここにあるだけで僕はもう十分だったのだ。そうしていつか気が向いたら返事を書こう。簡潔でやさしい気持ちになれる、無意味な手紙を。彼女はまた返事をくれるだろう。僕にはそれがわかる。そうしてどちらかがもう一方を必要としなくなるまで、あるいは手紙を書くほどの決心ができなくなるまで、この関係は細々と、でもしっかりと続いていくのだ。ジイちゃんといつか結婚しようとすまいときっと。永遠に一番近いのはそういうことかもしれないと僕は思う。


「彼女から暑中見舞いをもらったよ」
「あ、何か言ってたな、そんなこと」
 ジイちゃんは壊れた冷風機に足を乗せ、『東京』と書いてある団扇を動かしながら、そう言った。
「いい手紙だったよ。遊びにおいでって書いてあった」
「へえ、で、いつ行くの?」
「行かないよ、うれしかったけど」
 僕はすぐ脇に置いた氷が溶けてぬるくなった麦茶のコップの位置をずらした。汗を掻いた底面の水滴が床にいびつな形の軌跡を描いた。
「だって行かないよ、普通」
 普通、なんて言葉がどこから出てきたのかわからなかったけど、僕はそう言った。
「変なの」
「お礼を言っといてよ。喜んでたってさ」
「自分で言えばいいじゃん」
「もちろん言うけど、ジイちゃんに会うことのほうが多いだろ?」
「ふー‥ん、ま、いいけどね」
 ジイちゃんは、僕が彼女の話しをしているのがあんまり好きじゃないみたいだ。
「そう言えば、もうずいぶん会ってないよ」
 と僕は言った。麦茶はぬるい。
「あ、そう?」
「多分ね、学食で6月に会ったっきりだよ」
「じゃ、結構経ってるな」
「ねぇ」
「ん?」
「オレとさ、彼女ってそんなに似てる?」
「うん。意識してないとそうでもないけど、似てるんじゃん?」
「じゃ、もし女の子だったりしたら、どうだったろう」
「迷ったりしたかってこと?」
「そう」
「んー、そうねぇ、どうだろう‥」
 彼は鼻先に人差し指をあてて目をきょろきょろと動かした。
「迷いかけて、悩んで悩んで、結局どっちもどうでも良くなっちゃうんじやないかな」
 僕は部屋の隅に置かれた深いブルーグレーのソファーベッドに目をやった。コンペの賞金でそれを手に入れた。『資本主義と私のエコロジー』とかいう、うさん臭い論文のコンペだった。
 あのソファを倒して、と僕は思った。イッチー(だかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキー)はこの空気を吸いながらジイちゃんに抱かれてるんだろうか。そう思うとなんか不思議だった。裸になった彼女はきっと透き通った少年のように見えることだろう。大きめのあの唇でフェラチオしたりもするのかな。


「あれ? 例の病気のおじいちゃんはどうなったの?」
「あぁ、なんかいきなり回復して退院しちゃったらしいよ」
植物人間状態って言わなかったっけ?」
「いや、完全にじゃなくて、自分じゃ動けないってぐらい」
「でも、治るんだ‥」
「治るんだね」
「早く死ねとか言われてたんでしょう?」
「うん、いろいろ。遺産とかね、あるし」
「死ねなんて言われたら、病人じゃなくても元気なくなっちゃうのに。えらいな」
「治ったらまた楽しいことしようって、ずっと幸せなことを考えて頑張ったんじゃないかな」
「いくつだったっけ?」
「96」
「わ、4倍以上生きてるんだ、オレの」
「あぁ、でももう4分の1は終わるんだね」
「何か不安?」
「いや、だって、ピザを食べてたとしたらさ、4分の1って結構大きいぜ。あと4分の3食ったら、空っぽじゃん」
「そりゃ食べればいつかはなくなるよ。増える方が気味悪い」
「ちゃんと、おなかいっぱいになんのかな」
「うーん、それは食べ終わってから考えればいいんじゃない? で、食い足らなかったら化けて出ればいいし」
「そっか」
「そうだよ」


 ジジイは天井を見ながら、子供のように目をきょろきょろと動かしている。同じように彼の頭の中も細かく配置換えをしているのだろう。そういう他愛のないことをぼんやり話していると、僕の気持ちはぐんぐん軽くなった。無意味で非生産的な会話が僕の生活の大半を支えているんだと思った。


 ジイちゃんはアンビエントのCDを掛けた。ジイちゃんのCDライブラリーは半分以上ジャケット買いと衝動買いなので、一貫性とか、脈絡とか、ポリシーとかいうものがない。彼にとってはその場その時の欲求こそがすべてであり、真実なのだ。そういうのって確かに楽しいし、時にはかっこいいかも知れないけど、大事な人を一番傷つける生き方なんだと、事あるごとに僕は言った。しかし「オレは他人を傷つけないで生きるなんてできないし、そんなことを気にした生き方なんてまっぴらだ」と言うのがジイちゃんの言い分だった。僕は気にくわなかった。彼女の涙はいつだってジイちゃんの知らないところで流されていたからだ。


「あ、オレちょっと出掛けてきていいかな」
 とジイちゃんが言った。
「もちろんいいけど、オレここにいていいの?」
「うん、MOを近所の友達に届けるだけだからそんなかかんない。それにだって、今日飲むだろ?」
 と当然のように言うので思わず言ってしまう。
「馬鹿、聞くなよ、決まってんだろ?」
「じゃ、適当にのんびりしててよ」
「OK」


 ジイちゃんがいなくなった後の部屋は、謎の失踪を遂げた天才エンジニアの部屋みたいに散らかっていた。積まれた本の間からスケッチや図面が飛び出して、脱ぎ散らかした服の下からはペンチやドリルがのぞいてるし、机の脇にあるコルクボードには何通ものエアメールが画鋲で止めてあるし、走り書きした誰かの電話番号や、新聞の切抜き、彼女の写真、SF文庫本プラモデル、自作の楽器。今ではもう懐かしいPCエンジンがテレビの前にあったので、手に取ってみると異常に軽く、中身はすぐそばで分解されて何か別の部品と接続されていた。


 僕は窓から体を乗り出して煙草を吸った。日が暮れてしまってもジイちゃんは帰ってこなかった。相変わらずだなと思った。僕はその間に3杯の紅茶を飲み、勝手に音楽を聴き、8本の煙草を吸った。こういう目に遭わされると、自分が女の子じゃなく、ジイちゃんに恋しなくて済んだことがとても幸福に思える。彼のそばにいる人はいつだって笑って見えるけど、本当に彼のことを待っている人にとっては、身を切られるような思いが続く。人が人を呼んでなかなか戻ってこないからだ。


 ファックスつきの留守番電話が鳴り出した。夕方の6畳一間で鳴る人のうちの電話はやけに大きな音に聞こえる。無視しようとしたが、もしかしたらジイちゃんかも知れないと思い、結局5コール目に受話器を上げた。


「はい、シブヤですが」
「あ、あれ?」
 受話器の向こうから戸惑った若い女の子の声がした。ほんの一瞬のやり取りでもその娘がシブヤさんに強い好意を持っていることがわかった。やはりひとんちの電話になんか出るべきではないのだ。
「‥シブヤ、さん?」
 シルエット・クイズをしているような口調でその人は言った。
「いえ、違います。シブヤさんは出掛けていて、僕は留守番です」
「あれ!?」
 と突然声色が変わった。
「‥ナベちゃん、だよね?」
 親しげに話し掛けて来る声に、僕は首を傾げた。
「あ、シブヤさんの‥」
 と言い掛けてイッチーだかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだか名前がわからなかった。
「シブヤさん、オレのこと置き去りにしたまま、もう3時間も帰ってこないんだよ」
「ひどーい、どこに行ったの?」
「なんか近所の友達のうちにMOを届けるだけって言ってたんだけどな」
「あ、そうなんだ。じゃあ、そこで遊んでんだね」
「今、どこ? 外でしょ?」
「うん、すぐそばまで来てるんだけど、どうしようかなぁ」
「いくらなんでももうそろそろ帰ってくるとは思うけど ‥ひょっとして約束してたの? 今日」
「ううん、そんな事ないよ。えーと、じゃ行くよ、そっち。お話ししよう」
「迎えに行こうか?」
「大丈夫、心配しないで」


 僕は自分ちに女の子を呼ぶような気になってばたばたした。散らばった本を正したり、窓の外でクッションの挨をはたいたり、ちじれっ毛を拾ったり、台所を片付けたり(口紅のついたマグがあったのだ)、床の服を押し入れに押し込んだり。


 しばらくするとチャイムの壊れたドアをこんこんとノックする音が聞こえた。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951112

1995-11-11

「響きの水」11章

|  「響きの水」11章を含むブックマーク



 あの時と同じ砂浜を僕らは逆行してゆく。爪先から行く手には真っ黒な影が伸びて、首の付け根が焼かれてゆくのがわかる。


 逆光の中でアサコは難しい顔をしている。その表情は昔、美術で習ったマーブリングを思い出させる。たくさんの淡い色がけして交じり合うことなく複雑に隣りあっているあの感じ。


 積み上げられたテトラポットの上を僕は歩いた。赤い髪の男がウェットスーツの女子高生に声を掛けている。僕は一番海に近い側に座って足をぶらりとさせた。アサコは僕の後ろの一段高くなったところに座った。


「こっちにおいでよ」
 僕がそう言うと、アサコは目を反らした。
「遠くて話しができないよ」
 そう言うとアサコはしぶしぶ立ち上がり、僕が示した位置からまた少し離れたところにやっと腰を降ろした。
「暑い、ね」


 アサコは声を出してくれない。OKと僕は思った。OK、そこから始めよう。ちゃんと元通りにしてみせる。時間はたっぶりある。チャンスだってたくさんある。ちゃんと元通りにしてみせる。
 僕は左手を伸ばした。アサコはそれを無視した。
「ずっと会いたかったよ。イタリアに行ってたときも、事故と知って帰って来てからも」
 僕は胸のポケットから手紙を取り出した。イタリアでしたためた例の手紙だった。
「読んでくれる?」


 アサコは手を伸ばし、表情を1ミリも変えないまま便箋を広げ、僕の書いた古い手紙を読んだ。読むというより便箋のデザイン案を確認してもらっているような目付きと手つきだった。そこに書いてある字が僕のものであることぐらいは伝わったんだと思う。読み終えて言った。


「‥これ、もらっていいの?」
「もちろん」
 と僕は言った。アサコは便箋を丁寧に折り畳んで足のそばに置いた。そして溜め息をつき、さっきと同じようにはしゃぐ子供達に目を向けた。その仕種は僕の時間をちょっとだけ巻き戻したみたいな気にさせた。すべてが数分前のままで、伝えたかった僕の気持ちだけがぽっかりと宙吊りになった。
「どうだった?」
 たまらなくなって僕は聞いた。
「何が?」
 新聞のチラシでも見てたみたいな口調でアサコは言う。
「ん、だから、手紙」
「あぁ、うん、いい手紙だった」
「伝わるかな」
「え?」
「ちゃんとさ」
「‥わかんない」


 沖でたゆとうウインドサーフィンが水辺に集まった蝶のように見える。透明のビニールを貼ったところはアオスジアゲハの模様によく似ている。ほら、あれ蝶に見えない?と言おうとして、アサコが極度の蝶嫌いだということを思い出した。長い長い沈黙が続いた。波が何度も寄せては返した。波打ち際では3才くらいの女の子がプラスチックの熊手で、貝殻やガラスの破片を集めている。その手前には家事と育児に疲れたお母さんが白くむくんだ背中を太陽にさらしている。


「アサコがいないと」
 と僕は言った。
「どうしていいかわからなくなる」
 自分の言ったことを反芻して続けた。
「女の子なら誰でもよくなっちゃうときがある」
「だからキス?」
 アサコが初めて僕の目を見た。
「あのときはキスがしたくてたまらなかった。会いたくてもアサコがいなかった。気持ちを通じさせる自信がなかった」
「だから?」
「そばにいたイクタさんとキスをした」
「トモユキ、その人のことを好き?」
「わからない」
「大事にしてあげられる?」
「自信がない」
「でも、キスしたんだ」
「うん」
 僕はいたたまれない気持ちになって白状した。
「でも、キスだけじゃない」
「え?」
 アサコの顔色が変わっていくのが見えた。
「キスだけじゃないって言ったんだ」
 アサコはもうどうしようもないという笑いを浮かべた。
「セックスした。2回」
 僕はきっぱりと言った。
「彼女の体はとても綺麗なんだ。今まで見たことないくらいに。彼女は僕に好意を持っていた。僕も彼女を見て好意を持った。そんな女の子とするのはとても素敵なはずだと思った」
 僕は縛られたまま腕の中で踊る、あの白く細い体を思い出した。
「でも楽しくなかった。実際にはアサコのことばかり思い浮かべていた」
 僕は頭を振った。何を言っているのか自分でよくわからなかった。
「悲しい」
 としばらくの沈黙のあと、アサコは言った。
「男の子がどんな気持ちでしちゃうのかなんてわかんないけど、でもなんか、それって悲しい」
 アサコは指先でコンクリートの上の砂を落としている。
「悲しいよ」
「‥うん」
「でもしなきゃそれ、わからなかったんだよね?」
 イクタが遠い異国の人のように思えてきてしまった。でもおとといのことなんだよなぁと思い直した。
「でもね‥ 私も、したんだ」
 と夕立のようにアサコは言った。僕はそれがどういう意味だかよくわからなかった。
「したって?」
「だから、セックス」
 アサコはうつむいたまま、さっきの僕みたいな口調で話し続けた。
「トモユキがいない間にある人から手紙をもらったの。何気ない、元気? みたいな短い手紙」
 僕の頭はぐるぐる回った。ありとあらゆる引き出しを開けて、すべてのファイルを確認する必要があった。
「うれしかったの。その手紙をもらった私はとてもはしゃいでた。病気の時、クラスの子が給食のパンとプリントを持って来てくれたでしょう。あのときみたいに自分が誰かの気に掛かっているんだって感じられて、なんか内容とは無関係に、私にとって特別な手紙だったのね。と言うか、ホントのこと言うと、あの人どうしてるかなって思ってたら、ちょうど手紙が来ちゃっただけのことなんだけど」
 アサコはうれしそうに、また恥ずかしそうにそのできごとを話した。まるで酒の席で若い頃の話しをしているみたいに。「そしてお礼の電話をしたの。便箋の端に携帯の番号が書いてあったからそこにかけて。そしたら今度の休みを取るから久し振りに会わないかって言うから、懐かしくて私も会いたいって言った。それで何度か電話しあって、休みが取れたからどこ行きたい? そうだ、プールに行こうっていうことになったの。押し入れから水着を出して、近くていいプールを探して」


 僕は黙ったままだ。なんて言っていいのか、言葉が出てこないのだ。蛇ににらまれたネズミみたいに僕には人格も権利も与えられていないんだという気になった。
「でも約束した日にはそのプールはお休みだったの。だから私たちは行くところをなくして、ただその市営のプールの前に立って、困ったなぁ、どうしよう、じゃあバイクでとりあえずどこかへ走ろうかってことになったの。あてもなく交差点に来たらじゃんけんで進む方向を決めて、ただ走った。そのままバイクは熱海の方まで行っちゃったの。ずいぶん飛ばしたしすごく疲れたけど、天気はよくてとても楽しかった。ヘルメットを被っているから乗っている間は大して話さなかったのに、二人を過ぎてった風が全部会話だったみたいで。そうだ温泉に入ろうって言い出して、民宿を見つけてお風呂だけを借りたの。それで浴衣で少し濡れたアスファルトの上を散歩して、その下を流れる川を眺めて昔の予備校の話しなんかをした。ずいぶんたくさんの時間が経っているんだなと思った。それでまっすぐ帰ってきたの。帰りは道が空いてて駅に着いたのはまだ夕方の4時で、もう帰る?って聞くから、まだ明るいしせっかくだからもう少しだけ一緒にいたいって言った。じゃあうちで夕飯を食べようよって話しになって、そのまままたバイクに乗ったの。でも着いたのはその人のうちじゃなくて、その、車で入る、汚いホテルで」
「そこで、したの?」
「‥うん。でも私はそのときちょっと怒ったの。だって夕飯は買い物に行って、私が特製スパゲッティを作る約束をしていたし、走りながらその作り方を耳元で大声で説明していたのに、ホテルなんかに入ったから」
「それで?」
 僕は仕方なく先を促した。
「でも結局は逆らえなかった。だってそんなこと本当はわかってたはずだもん。知らないでここまで無理やり連れてこられたってわけじゃないもん。離れていてもお互い密かに求めあってたことはわかっていたしね。でも行為そのものはとてもあっさりしてた。とくに感じたわけでもない、始まりがあって終りのある普通のセックスだった。
 でもしてしまった後はなんだかほっとしたの。借し合っていた本を返したみたいに。なんて言うのかな、ちょうどドローになった気がしたの。大地震を起こした大陸のプレートが元通りになるみたいに、また明日からいつものお互いの生活に帰るんだなって、わかり合ってたはずだった」


 話しはそこで終わらなかった。僕はただでさえ混乱しているのに、それを聞いて頭の中に小さな火花が散ってゆくのを感じた。目が熱くなった。
「でも、それは一日で済ます出来事の量としてはちょっと多すぎたみたい。許容量を越えてたと思うの。しちゃいけないところまでいってたの。だからそうなっちゃったと思うの。私はもちろんぐったりだったし、彼も働いている身だから疲れが溜まってた。気がつくともう私たちは対向車線を走ってた。それがどういう事なのか、次に何が起きようとしているのか考える暇なんてなかった。赤い軽自動車を運転してた女の人の顔が、向かって来る私たちに驚いていく過程がビデオのコマ送りみたいに見えて、あー人の顔っておもしろいなって思ったら二人とも空を飛んでた。私の方がひどい姿勢だった。頭から地面に向かっていたから、ほんとだったらそのまま死んでたと思うの。でも彼がかばってくれたからそれできっと和らいだの。まだちょっとは痛むけどね」


 アサコは後頭部に触れた。そこにはもうガーゼも絆創膏もなかった。いびつに盛り上がった赤い髪があるだけだ。僕はその髪が血でべっとり濡れたときのことを思い浮かべようとした。でも僕が描くのは映画に出てくるケチャップのような血糊だけだった。僕はいつもと変わらない気持ちでいた自分をとても情けなく思った。


「救急車で運ばれた病院がたまたま家の近くで、私はだらだら血を流しながら何より先に親に知られるのが怖いって言ったの。おかしいよね。死んだり、体が麻痺して動かなくなったりするより、そういうことの方がリアルって言うか、とにかく大事に思えたの。事故の責任はオレがなんとかするからって彼も動けない体で言ったわ。警察の人も来たし、車の女の人も来たし、たくさんの人が私たちのところに来たわ。もう絶体絶命だって思ったけど、運転してたせいなのかな、彼の方にその人達は行っていることが多かったの。そして結局、親のいるときに会うことは1度だってなかったの。だから‥」
自転車で事故を起こしたって嘘ついたんだ」
「そうなの」
 歴史を証言するような口調でアサコは言った。
「それで私はすぐに退院して池袋の実家で休んだの。事故は偶然向こうが信号無視してたせいもあってお金は全部出たし、家まで謝りにも来てくれたから親はすっかり信じたみたい。それから何度か病院に行く度に彼の世話を手伝って、汗をふいたり、果物をむいたり、体を起こしてあげたりして、話し相手になったの。彼は一人暮らしだから付き添う人がいなくて、ちょっと心細くなっていたのね。だから私みたいにそばにいられる人が必要だったし、私もそうしたいと思ったの。ほら、体を動かせないと人間って‥」
「背骨を折ったんだろ? その彼」
 際限なく話し続けるアサコを僕は制した。
「‥うん」
 僕だけが無知で僕だけが孤独だった。
「トクシマさん」
「そう」


 ほんとうに悲しい時は涙も出ないんだとそのとき知った。体中の水分が干上がってしまったみたいに、どこからもどんな液体も出てこなかった。こんなのありかよと思った。僕は震えていた。目を引きつらせて、喉の奥をひりひりさせて、イクタと最後の夜のアサコの裸を目の裏側でちかちかと瞬かせて、僕は激しい吐き気を覚え、むせ返った。
「トモユキ!」
 アサコは僕の背中を擦ってくれた。そのぬくもりはいつもと変わらないアサコの手に思えた。
「ねぇ、トモユキ!」
 僕の咳は止まらない。空っぽの胃が跳ね上がり、目の端には脂汗みたいな涙がにじんできた。手のひらにかいた汗がいやに冷たい。
「くるしい」
 咳の合間に僕は言った。そばにいた高校生たちがこっちを気にするのが見えた。女の子の笑い声。夏なのに勿体ないと言うイケガミの声も聞こえる。
「大丈夫!トモユキ、ね? 大丈夫だから」
 アサコは叫ぶようにそう言った。僕は何を言っているのかよくわからなかった。大丈夫? 大丈夫って何が? 涙を浮かべながら、それが僕の体調のことを言っているのか、これからの僕のことを言っているのか、それとも二人のことを指しているのかわからなかった。
「‥大丈夫?」
 と僕は言った。吐き気を飲み込みながらやっとだ。
「ここにいるから」
 とアサコは言った。
「トモユキのそばに」
「僕のそばに」
「‥うん」
 僕はまだ何度かむせ返りながら、呼吸を整えて言った。
「‥何で? 言ってる意味がわからない」
 アサコは視線を反らした。そして眉を寄せた。自分の中で抑えつけてる何かと葛藤している顔だと僕は思った。
「もう、いいの」
 とアサコは言った。ますますよくわからない。咳のしすぎで鼻の奥がつーんとする。
「いいの。今はトモユキといたいの。ね?」
 何でこんな簡単な言葉がわからないのという顔でアサコは言った。怒っているようにさえ僕には見えた。僕は何にアサコがそんな気持ちを抱いているのか、さっぱりわからなかった。お互いにそんな遠い心を持っていたっけと心配になった。僕の知ってるアサコには、とても思えなかった。
「オレが苦しそうにしているから?」
 と僕は言った。
「そう言えば、治ることを知っているから?」
 余計なことを言うと、アサコは絶望的な顛をした。
「違う!」
「だって、わかんないよ」
「なんでそんなこといちいち言わせるの?」
「いちいちって?」
「そんなのトモユキの方が好きだからに決まっているじゃない」


 僕は悲しかった。今日、聞きたかったはずの言葉を聞いたにも関わらず、振られてしまったような気になった。排水口に消えるシャンプーの泡のようにたくさんの僕が、渦に巻かれて暗闇の中に消えていった。




 その日から、僕はアサコに素直になれなくなった。仲直りという意味合いなのか、あの後ふたりで食べに行った中華粥もちっとも喉を通らなかった。
「トクシマさんとはもう会わないの?」
 と僕が聞くと
「うん、まだ病院にいるし、世話も必要だからわかんないけど、たぶん、もう」
 と言った。僕はあまり納得できなかった。かと言って僕だってイクタとの関係をはっきりさせてるわけでもないのだ。


 トクシマさんが来ると言った8月8日、僕は予備校を休んだ。本当はそのままアルバイトを辞めてしまいたかったけど、残りはあと10日を切っていたし、それまでにトクシマさんが完全復帰することも有り得なかった。


 イクタは2日間休んだだけで、ちゃんと仕事を続けていた。「おはよう」と言うと同じくらいのボリュームでちゃんと「おはよう」と返ってきた。でも僕の目を見てくれることは一度もなかった。彼女は特に落ち込んでいる様子もなく、怒っている風でもなかったけど、そこにはいつも息を詰まらせる空気があった。同じ教務室にいることを1秒でも縮めようとしているみたいだった。急ぎ足で次の講義に向かっていった。


「今度は喧嘩?」
 ミハラは鼠みたいにやってきて囁いた。
「んー? 違うよ、生理かなんかじゃない?」
 僕はミハラの方を見ずに書類の整理を続けた。ミハラはつまらなそうな顔をして、ちぇっと舌打ちをした。
「あ、おい、なぁ」
 といなくなろうとするミハラを僕は呼び止めて、
「トクシマさん来たって?」
 と聞いた。
「あ、昨日、来たたよ。一瞬だけど」
「どんな感じだった?」
「なんか見たことのない人に付き添われてタクシーで来たんだけど、教務室まで来て、元気ー?なんて言って、すぐ帰っちゃったよ」
「何それ」
「うん、オレもよくわからない」
「背骨折ったんだろ?」
「うん、そうだってな。でももう退院して自家静養するみたいよ。 ‥あれ? え、でもなんでワタナベそれ知ってんの?」
「ん、いやそこで生徒に聞いてさ」
「ふうん」
「で、付き添いの人って?」
「うん、なんか背の低い‥」
「女の子?」
「いや、筋肉質の男。女の子じゃトクシマさんを連れて歩けないよ」
「そっか、そうだな」
「ま、何して折った骨だか知んないけどさ」
 口を歪ませてミハラはそう言った。


 講義はいつになくすんなり進んだ。よからぬ考えごとをしているときには、何かしら手や頭を動かしていた方がいいのだとよくわかった。そうして気持ちにすきを作らないようにしていないと、背後霊みたいな憂鬱にたちまち元気を吸い取られてしまう。食事も取らずに溜め息ばかりついていたら、誰だって病気になってしまう。


 いつもこのくらいの感じで教えられたら、と生徒の反応を見て僕は思った。僕は本気で教師を目指していたかもしれない。声は通るし、洒落は冴えるし、黒板に挙げた例題も明解だった。
「先生‥」
 講義が終わったあと集めたプリントをまとめて黒坂からマグネットを外していると、帰らずに残っている生徒がいた。短く揃えた前髪で、そばかすの多い、おとなしそうな女の子だ。
「相談があるんですけど」
 僕は顔には出さなかったもののつい苦笑した。悩んでいる人はどうしてわざわざ悩んでいる人を選んで引きつけられるのだろう。どうして今の僕が解決してくれそうに思えるのだろう。
 僕は興味本位に、実は先生も相談があるんだ、聞いてもらってもいいかな、と言いそうになったけど、
「あぁ、聞くよ。言ってごらん」
 なんてにこやかに笑って、理解のある先生の顔をしていた。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951111

1995-11-10

「響きの水」10章

|  「響きの水」10章を含むブックマーク



「いい匂い」
 アサコがそう言ってくれる度に僕はいつも照れた。
「ただのアフターシェーブ・ローションだよ」
「それだけじゃない、トモユキの匂いだよ」


 そうなのかもしれない。そんな風にアサコが好きだと言ってくれたことで、そのローションは掛け替えがなくなった。抱きしめたときアサコがいつも嗅いでいるはずの匂い。アサコがワタナベトモユキとして認識している匂い。お互い一人になった後で服やからだのどこかに残っているはずの匂い。


 それに、と僕は思う。アサコがこの匂いさえ覚えていれば、例え暗闇でも僕を探せるかもしれない。この匂いを嗅げば緊張しているときも僕がそばにいるみたいに安心できるときがあるかもしれない。誰かのつけた同じ匂いに僕を思い出すかもしれない。


 だから、新しい朝を迎える度、この匂いをつけ続けることに決めたんだ。それはいつしか自分の匂いというより、まるでアサコの匂いをまとう気持ちにずっと近くなっていった。アサコを抜きにしてその行為は成立しないように、僕がローションをつけ続ける以上、僕はアサコのそば(匂いを嗅げる距離)を離れる事はないし、離れないでいて欲しいというサインになるつもりだった。


 あぁ、でも、なんてことになっちゃったんだろう。会いたい会いたいって言っていた矢先にこんな目に遭うなんて。


 アサコは頭の後ろに大きなガーゼを貼っていた。頬骨の上には擦り傷、肘にも包帯を巻いていた。
「元気そうだね」
 とアサコは言った。不自然に垂らした前髪の向こうには薄い影のようなあざがあった。僕が何かを言いたかったけど、できたことと言えば幽霊みたいにアサコの方に手を差し出したことぐらいだ。
「じゃ、私、急いでいるから」
 とアサコはペダルに足をかけた。去年、京都で部屋着にしていた短いジャージを穿いていた。いつものお尻の線と膝小僧が見えた。膝はすりむいていなかった。見慣れた膝と白い足だった。
「あ‥」
 僕に言えたのはその力ない無意味なつぶやき一つだった。アサコは軽快に漕ぎ出し、その背中を小さくしていった。見たことのない新しい自転車だった。
 取り残された時間に固まったままの僕のそばにはまだイクタがいた。
「大丈夫?」
 突き飛ばしてしまった僕にイクタはやさしかった。
「大事な人でしょ?」
「‥うん」
「追い掛けないの?」


 僕はイクタの顔を見ることができなかった。イクタがちっとも動じないから自分が今どれだけ怯えているのかよくわかった。はやくひとりになりたくてしようがなかったけど、イクタは僕のすぐそばに寄り添って、固く綻んだ手の指を解き指を絡ませ、なだめるように左手を僕の腰の後ろに添えた。
「ごめん、ひどいことしちゃったな」
 僕はとぼとぼ歩きながら爪先を見つめた。イクタの手は温かった。彼女は幼稚園の先生みたいな笑顔を浮かべて、僕の横顔を見ていた。
「いいよ、何も言わなくて」
 そうして黙って駅まで送ってくれた。辺りはどんどん暗くなってゆき、黒い鳥が何匹か頭上を飛んでいった。とてもみじめな気持ちだった。
「大丈夫だよね?」
 改札口でイクタが言った。僕はうなだれたままうなずかなかった。
「帰るからね? じゃあ‥」
 僕は行こうとするイクタの手をつかんだ。痕がつくぐらいぎゅっと。それは僕の気持ちとは無関係の出来事のように映った。まるでアサコんちでしてるときに聞こえてくるあのありきたりなニュースみたいに。


 イクタが悲しそうな目で僕を見た。僕は僕を覆っているこの体を馬鹿みたいだと思った。何やってんだよと思った。でも馬鹿な体はその手をつかんだまま足速に歩き始めた。イクタはずっと何かを言い続けていたような気がする。でも聞いていなかった。意味のある言葉として届かなかった。イクタは諦めたように肩の力を抜き、されるままについてきた。


 感情のヒューズが飛んだまま、一番近くのホテルに入った。嫌な匂いのするエレベーターに乗って薄暗い廊下を歩き、突き当たりの部屋の鍵を開けた。イクタは黙って中に進むと前かがみになってサンダルの止め金を外した。僕は頭の中がぼんやりと熱くなるのを感じた。イクタのその背中を突き飛ばした。イクタは部屋の入り口の薄汚いカーペットの上に声を上げて倒れた。拡がる髪や乱れたワンピースの裾を、アスファルトに叩きつけられた花束みたいだと思った。僕はその体に乗って押さえつけた。


「止めてよ!」
 とイクタは言った。僕はその目をにらんでから頬を鷲づかみにした。
「ねぇ、わかったから」
 指の隙間からしかめた顔でイクタは言った。
「ベッドにしてよ、ね?」


 僕はイクタのにの腕にすねを乗せたままバスタオルの入った化繊の袋に手を伸ばして、その中の黒い帯でイクタの顔を巻いた。目と口を覆うように。もう一本は後ろ手に縛った。そうしている間イクタは何一つ抵抗する様子はなかった。僕はイクタの両脇に手を入れて立ちあがらせると顔を壁に押し付けた。壁紙はざらついたきめの荒いものだった。イクタは何かを言おうとしたけど、口に食い込んだ帯が息でちょっと湿っただけだった。僕はワンピースの中に手を入れて下着をくるぶしまで引き下ろした。そしてスカートをまくりあげた。イクタは目隠しのせいかバランスを崩しながらのろのろと尻を突き出した。薄明りの中で白い尻は壁から飛び出したふざけたオブジェのように見えた。


 僕はイクタが両足をもっと開くようにと内股に触れた。頭に血が昇ってゆくのがよくわかった。僕は突き出してるイクタの白い尻を割り、その間の熱く湿り気を帯びた部分に舌を這わせた。


 イクタは反応しなかった。頬を壁に押しつけたまま、おとなしく尻を突き出したままでいた。僕は鼻先を埋めるようにしてそこを舐めながら、捲れ上がったワンピースの裾からブラジャーをずり降ろた。ブラジャーはへその上で上品な腹巻きのように丸まった。


 僕は丁寧に丁寧に舐め続けた。アサコが昔してくれたみたいに、呆れるほどの時間を掛けて。イクタはとてもそんな気分じゃなかったんだろうけど、徐々に潤んでいった。僕は音を立てて舐め続けた。イクタは広げていた足を耐えられないというように膝を擦り寄せ、閉じようとした。
「‥駄目だよ」
 と僕は言った。ふくらはぎをつかんでさっきよりも大きく足を広げさせ、深く指を沈めた。そしてそれを不規則に出し入れさせて、一方で顔に巻いた帯の猿ぐつわの部分だけを解き、苦しそうに呼吸をする口にまず舌を絡ませた。


 それからイクタを立ち上がらせ、ベッドのそばまで引き寄せて裸にした。でも手を縛ったままなので肘から先が抜けなかった。僕は手も解いてあげようかと思ったけど、結局そのまま放っておいた。僕の両足を跨がせるように抱き寄せた。そしてゆっくり腰を降ろさせ深く挿入した。両足を抱え上げ、体を上下に揺すった。首に余った目隠しの帯を格ませながらイクタは僕の腕の中で踊った。僕は何度も突き上げた。揺れるイクタはどこの誰とも変わらないただの裸の女の子に見えた。あんとかうんとか言いながら肌を赤く染めてゆくただの女の子の体に。


「‥いが、する」
 イクタがだらしなく開けた口から何かを言った。
「何?」
 僕はイクタの口に耳を近付けた。
「いい匂いがする」


 イクタははっきりそう言った。僕は途端に体と意識が元通りになるのを感じた。鼻の奥がつんとして、涙がこぼれそうになった。悟られないようにイクタの頭を肩の向こうに抱き締めた。ここにいるのはアサコじゃないんだ。ここにある快感はアサコとのものじゃないんだ。そう思うと密着しているはずのふたりの肌からすっと体温が消えてゆくような気になった。僕は途端に怖くなった。遠ざかる快感に怯えながら僕はむきになって腰を振り続けた。




 翌日イクタは予備校を休んだ。僕がイクタでもきっとそうしたと思う。僕は悲しさとも自己嫌悪ともつかない感情に覆われて、食事もできずに、口の中を病人みたいに苦い味でいっぱいにしていた。
「おいおい大丈夫かよ、顔色悪いぜぇ」
 体育会系のイケガミが見るだけで息苦しくなるオレンジ色のパチパチのポロシャツを着て言った。僕は精いっぱい笑って見せたけど、苦笑いにしか見えなかったようだ。
「夏なんだからよ、もっといい顔しろよー。もったいないよー」


 教務室のエアコンは故障していて、取り調べ室についているような扇風機がのろのろ回っていた。室温は体温を越えている。僕は近所に冷やし中華を食べに行ったが、ふたくちつまんだだけで突っぱねてしまった。体が受け付けないのだ。


 アサコ‥。
 と僕は思った。オレやっぱりアサコがいい。アサコのまずい料理や、へんてこな音楽や、意地悪なおしゃべりが恋しいよ。僕の前で今笑ってくれたら、それだけで元気になるよ。


「話したいことがあるの」
 アサコからの電話を受けとったのは、その夜のことだった。
「うん‥」
 僕は裁判官に向かうような気持ちで電話の前で気をつけをしていた。
「明日会える?」
「会えるよ」
池袋まで来れる?」
「行けるけど、違うところじゃ駄目?」
「どこ?」
「海」
「海?」
「駄目?」
「ん‥ いいよ」
「行きたいんだ。アサコと」
「わかった」


 電話を切ってしまうとなんて甘えた奴だと自分の事を思った。海に行けば、今までの思い出や繰り返す波の音が問題をやさしく解決してくれると思っているのだ。明日がもう最後かもしれないというときに、僕はふたりで行く海のことをとても懐かしく待ち遠しく思った。


 薄く低い雲の立ち込めた、でも眩しいくらいに明るい日だった。茅ヶ崎に向かう東海道線に揺られながら、僕は本を読んでいた。家から茅ヶ崎までは100分きっかり掛かる。それは思考を堂々巡りさせるには十分すぎる時間だった。本でも読んで気を散らさないとやり切れなかった。電車はまだ大船辺りを走っていた。青いシャツについていた糸屑を取って捨てた。朝につけたローションの匂いが消えていないか確かめた。銀のバングル越しに腕時計を見た。予定通りの時間に着きそうだった。大丈夫だよ、きっとうまくいく。僕は目を閉じて息をゆっくりと吐き出した。


 アサコは駅でとっくに待っていた。なぜか置物のように小さく見えた。その顔は疲れて見えたけど、その表情が僕を待っていた時間からきているのか、それ以外のものなのか僕にはわからなかった。


 僕は黙ってアサコの目を見て両手をアサコの前に差し出した。アサコは眉間に皺を寄せ首を強く振った。目を合わせようとはしなかった。手をつなぎたくないという意味だ。僕は構わずその手を取った。アサコは小さな声でやだと言った。僕の手を解こうとした。でも僕は放さなかった。アサコの目をじっと見つめた。昨日までとは違うのなんて言わないで、という目でじっと。


 アサコの手は砂場で遊んだ子供のようにかさかさして熱かった。眠れなかった朝、自分もそんな手を持ったことを思い出した。


 海までの道のり、僕らは一言も口をきかなかった。海へ続くゆるい板道を下っていきながら、空の広さを思った。丁寧に磨いたアルミのようにのっペりとした大きな空が、僕らを風呂敷みたいに覆っていた。アサコは顎を引いた嫌そうな顔で僕に手を引かれていた。不貞腐れた子供のように足を地面に突っ張っていた。僕はその顔に微笑んでみせた。ちょっと胸が痛むけど、青いシャツの僕は無敵なのだ。


 道にまでせり出した松の影を過ぎ、ホテル『ラ・プラージュ』を過ぎて、懐かしい海にたどり着いた。沖に見えるいくつものウインドサーフィン、朝早起きして電車に乗ってきた高校生のサーファー、赤い髪の女子高生がウェットスーツを半分脱いで、白い流木の上でKOOLを吸っている。
「海だー」
 と僕は言った。
「うん」
 興味なさそうにアサコが言った。
「覚えてる? おととしの冬」
「‥覚えてるよ」
「初めてさ、手ぇつないだんだよ」
「そうだね」


 僕らはその時正確には恋人同士ではなかった。アサコには例のピアノ上手な彼がいた。僕にも別の彼女がいた。でももうお互いの恋人と会っている時間よりふたりで会っている時間の方が多くなり始めている、そんな時期だった。


 アサコは中学生が受験に着てくるような毛玉でいっぱいの紺のダッフルコートを着ていた。お母さんが編んだというベージュのマフラーを首にぐるぐると巻きつけ、今はもう切ってしまった長く茶色い髪を下の方で軽くゴムで結わき、ほっペたと鼻の頭を田舎の子供みたいに赤くしていた。


 ふたりは砂浜を江ノ島方面に向かって歩いた。歩きながら僕の左手とアサコの右手は不安定に近づいたり遠ざかったりした。僕らが二人で会うのはもう珍しいことではなくなっていたけど、まだ1度も手をつないだことがなかった。お互いをまだ名字で呼びあっていた頃の話だ。


「ねぇ、そう言えばさ」
「ん?」
 海を見ていたアサコが両目で僕を見た。
煙草やめたね、いつの間にか」
煙草?」
 それを聞いてアサコはばつの悪そうな顛をした。
「ね、どうして?」
 僕はいじわるしてそう聞いた。アサコの恥かしがる顔をもっと見たかったからだ。
「んー、いや、ただなんとなく ‥うん、もういいかなって思って」
 アサコは水平にかざした両手で輪っかをつくり、片目で切り取った海を見ている。
「ねぇ、コーヒー飲もうよ」
 アサコが僕のポケットに手を入れた。
 僕はリングプルを引いて、生温い缶コーヒーを分けあった。
「汗かいちゃったね」
 アサコが鼻の下の汗を拭きながら笑った。
「だって、急に走ったりするから」
 僕も彼女の汗に濡れた生え際を指先で拭った。
「ねぇ」
 と声色を変えて、アサコが言った。
「私、ね」
 と僕の顔色を確認するようにゆっくり、
「まだ、会ってるの ‥時々」
「え? うん」
 身の上相談かしら、と僕は思った。
「ねぇ、そういうの、だめ? ふふ ‥だめだよね、やっぱり」
 当時の僕にはその言葉の本当の意味がわからなかった。
「会いたい人には会った方がいいし、会いたくなければ、会いたくなるまで会わない方がいいんじゃない?」
 真顔でそんなことを言った。でも正解は違った。「だめも何もほんとはもう決まってんだろ?」とか「足んない? オレだけじゃ」とか、多分そういうのだった。
 アサコは僕の答えに困ったような顔をした。きっと決定的な決め台詞を返してくれるとばかり思っていたからだ。
ナベちゃん‥」
 としなだれるように僕の肩に顔を埋めた。はぁ、と声に出して溜め息をついた。そして顔を上げて、にひひと笑った。そうして一字一句がはっきり聞こえるように言った。
「やーれやれ!」
 空を見上げ、アサコは両手で僕の腕を抱いた。何でこんな無神経な人を好きになっちゃったんだろう。今思えばそのやれやれはそういう意味だ。


 だけど僕はなぜやれやれと言われたのか、そしてそれにシンクロする行動が両手で腕を抱くことなのか1ミリもわからなかった。でもそうして近づいたアサコの匂いは僕の気持ちをいやらしく掻き乱しながらも、僕の生活に馴染んでゆくだろう予感をしっかりと感じさせた。


 どこかの女の子が毛の長い小型犬を連れて散歩に来ていた。首には紐をつないでいたが、その端は握られておらず、犬がよくその女の子になついているのがわかった。僕は見るともなくその女の子と犬が砂浜で遊んでいるのを見た。女の子が跳ねると首に巻いた毛糸のマフラーが跳ね、犬が飛び上がってその端を追い掛けた。冬の太陽が砂の上に長い影を走らせていた。


「知ってる?」
 アサコが言った。
「海ってね、毎日色が違うんだよ」
 僕は微笑んだ。
「今日は?」
「‥うん、なんか、深い色」
「あんまり綺麗じゃない?」
「そんなことないけど‥」
「昔、住んでたんだよね」
「うん」
「どう? 池袋と」
「そうだね、悪くないけど、やっぱりいつかは帰ってきたいな」
「海のそばに?」
「んーん、茅ヶ崎に」


 僕はアサコの肩に手を回した。アサコは回り込んだその指先をそっと握った。太陽はまだ沈みきってはいなかったけど、東の空からは青い静寂が忍び寄っていた。アサコは姿勢を崩し、僕に寄り掛かった。そうする間ちょっとだけ長く目を閉じていた。頬と鼻の頭を真っ赤にして、閉じたまぶたにも赤みがさしていた。キスしたいなと僕は思った。でもきっとまたすぐにできるような気がした。もっとアサコといる時間が増えること、その時間がお互いにとって掛け替えのないものになってゆくこと。それらをもう当たり前のことのように感じた。そう、今沈んでゆく太陽のように。


 アサコは僕の腕を抱きもう沈んでしまった太陽がいるはずの水平線を見ていた。時折にらみつけるような鋭い目つきで。


 水平線の向こうには僕とピアノ弾きの彼がいるのかなと僕は思った。僕は黙ってアサコの背中を抱いていた。いつまでもいつまでもそうして背中を抱いていた。背中は温かく、今ここだけが世界だった。沈黙は暗闇がお互いの顔を見えなくさせるまで続いた。


「行こうか」
 と僕は言った。体の芯まで冷えきって、同じ姿勢を続けていた為に全身の節々が痛くなっていた。アサコは僕の言葉に驚いたような顔をした。きっと自分の考えがループに入ったままフリーズしていたことに気付いていなかったのだ。


 僕は立ち上がりコーデュロイについた砂を払った。寒さが骨にまで染み込んでいるのがわかった。アサコも同じ動作をした。
「ごめんね」
 アサコは言った。
「んー?」
 と僕は微笑んで見せた。アサコは明らかに悩んだ後の顔をしていた。微妙な時期なんだなと僕は思った。


 そうして手をつないで駅まで帰った。犬を連れた女の子はもうどこにもいなかった。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951110

1995-11-09

「響きの水」9章

|  「響きの水」9章を含むブックマーク



 父親からの電話で起こされた。8月の朝だ。
「どうだ、ちゃんとやってるか」
 よく言うよ、と思った。
「まぁ、普通だよ」
イタリアはどうだった? 楽しかったか?」
「楽しかったよ。でも途中で帰ってきた」
「どうして」
「アサコが交通事故に遭っちゃってさ、心配で」
「それで、どうなんだ?」
「うん、頭打ったから何とも言えないみたいだけど、昨日も電話したら元気だったよ」
「そうか‥」
 僕の喉は寝起きでいがいがしている。咳払いをしながら手元のリモコンでテレビをつけた。ワイドショーは昨日から行方不明の幼児を報道していた。僕はひと通りチャンネルを回した。冷蔵庫の冷たい牛乳がはやく飲みたい。
「トモユキ」
「ん?」
「彼女、やさしくしてやれよ」
 母親にもな、と思うがもちろん言えない。
「なぁ、大事なもんはそばから手放しちゃ駄目だぞ」
「うん」
「それと」
「ん?」
「時には電話くらい掛けてこいよ」
「そうだね」
「いつ遊びに来たっていいんだぞ」
「うん」
「オレは何も変わっちゃいないから」
「うん」
「離れてても父親なんだから」
 言えば言うほど苦しかった。全部さかさまに聞こえた。
「今日はバイトか?」
予備校の講師を始めたんだ」
「そうか」
「また、こんど」
「ミユは?」
「うん、どこか出掛けたみたい」
「そうか、じゃあがんばれよって、伝えといてくれな」
「わかってる」
「またな」


 受話器を置くと自然に溜め息が出た。親父を見ていると男の脆さを感じずにはいられない。あー、やっぱりオレがあのとき働くべきだったんだ。苦笑いされようがドラマみたいと言われようが、死ぬ気でやればよかったんだ。そういう現実的な行動こそあの時一番必要だったんだ。その額で4人家族は満足に暮らせなくたって、働きに出ること自体は具体的なメッセージにはなったはずだ。待ってる必要なんてなかった。


 僕は自分の浅はかさに嫌気がさした。こうしてもたもたしている間にも僕はあいつの遺伝子通りに成長してゆくのだ。何年後にか別の新しい家庭と、別の新しい問題を背負い込んで、今のこの気持ちを忘れて翻弄されてしまうのだ。それがやるせなかった。




 シャワーを浴びて予備校に行く。青いシャツと銀のバングルをはめて。青いシャツ。アサコが僕の為に探して選んでくれた特別なシャツだ。
「ありがとう、大事に着るよ」
 アサコは慣れないプレゼントなんかをしている自分に照れたような顔をして、
「うん、大事にしなくてもいいから、たくさん着て」
 と言った。
 僕は涙が出そうになった。
「たくさん、大事に着るよ」
 青いシャツを着ると何もかもがうまく行くような気がする。嫌なことがあった日や人生を左右する大事な日には必ずそのシャツに袖を通した。そうすると大抵いい結果が生まれたし、そうじゃなくても気持ちはずっと穏やかになった。アサコがそばにいてくれるような気になった。


 何人かの生徒に「こんにちわ」と言われる。笑顔で答える。強い陽射しの中からコンクリートの作るひんやりした影の中に逃げこむようにして教務室に向かう。トクシマさんのバイクが植え込みの前に駐めてある。トクシマさんのバイクはスティードだ。アメリカン・タイプ、座面の低い、フロントフォークの長いバイク。トクシマさんはそのハンドル幅を縮め、フロントフォークを20センチ延ばし、タンクに大股開きの裸の女をペイントしている。知り合いの有名なイラストレーターの作らしい。


「おはよー」
 教務室のあちこちから同僚の挨拶が飛んでくる。見慣れた僕のとなりの机がぽっかり空いていた。
「あれ? 今日トクシマさんは?」
「ん、なんかしばらく休むらしいよ」とイケガミ。
「なんで?」
「知らない」
 今日は1回目の実力判定試験だ。僕らは講義の代わりに試験監督をする。
「ナベナベー」
 とそそくさそばによってきたのはミハラだった。僕の肩に手を置き、耳元で囁く。
「聞いたぜー、お前イクタとやっちゃったんだってぇ?」
 一体こういうのってどこから広まるんだろう。僕はやれやれと思いながら笑って言った。
「昼間から何言ってんだよ」
「またまたぁ、嘘がお上手でぇ」
「やってないやってない。いいなとは思ってるけど、手ぇ届かないよ、オレには」
「あれー、オレの情報と違うなぁ。おととい二人でチヨモトだったんだろ?」
 チヨモト?と僕はとぼけた。
「‥あぁ、芸術劇場のところかぁ。あそこさ、知ってる? 内装こわいんだぜ。壁紙にでっかい変な染みがあったりしてさ」
「げ! まじで?」
「まじまじ。だからそんなとこには行かないよ、もしうまくいってたとしても。ムードなさ過ぎるじゃん。せめて隣のやすだとか駅の向こう側に行くって」
「ははは、そうかー」
「やったらちゃんと報告するから安心しとけ、な」
「OK、約束だぞ」
 何がOKだと思いつつ、僕はおうと返事をした。この感じだと生徒にも広まってしまっているだろうな。


「おはよ、ワタナベ君」
 吹き抜けのところでアイスコーヒーを飲んでいると、イクタが肩をたたいた。イクタが居心地悪そうに立っているので向かいの席を勧めた。腰掛けたイクタはいつもより顔色が悪いように見えた。
「どうしたの?」
「ん? 別に」
 イクタは明らかにそわそわしていた。僕は気付かない振りをして言った。
「今日、実力判定試験だね」
「え? あ、あぁ、そう」
「イクタって高校の頃こういうところ通ってた?」
「ん、私は自宅」
「そうだよね、独学だったよな」
「ねぇ」
「ん?」
「聞いた?」
 僕はさっそくさっきの話しかなと思ってやさしく促した。
「何を?」
「トクさん」
「トクさん?」
「バイクで事故起こして入院だって」
「だって上にあるバイク。あれトクさんのだろう?」
「そうよ。でもあのバイクじゃないんだって。何台も持ってるの。他のバイクで転んじゃったのよ」
「事故ってどんな? 怪我は?」
「なんかね、まだ詳しくは知らないんだけど、背骨をね、折ったらしいの。圧迫骨折っていうの?」
「それじゃあ‥」
「うん、全治2ヶ月は掛かるんじゃないかなぁ」
「そうだよな」
 テーブルの上の空気がどんよりとした。僕は残りのアイスコーヒーに口をつけた。イクタは黙っている。
「上の連中は? みんな知らないように見えたけど」
「知らないと思う。私がたまたまトクシマ先生に連絡があって電話したらわかったことだから」
「誰が世話しているんだろう、独身だよね」
「うん、なんか彼女? 昔の生徒らしいけど」
「へえ」


 僕は僕の知らない誰かがトクシマさんの口に卵粥のスプーンを近付けてゆく姿を想像した。陽当たりのいい病院の個室で、包帯の間から唇と髭だけが飛び出してるミイラみたいなトクシマ先生。付き添いの女性はきっと髪が長い古風な美人だろう。逆光の中で女性はやさしい口調で言う。はい、あーんして。もじゃもじゃした口元がウニみたいに動いて‥。


「でも2ヶ月も休んだら‥」
「うん、それなんだけど、来るみたい、8日に」
「来るって何が?」
「トクさん」
「は?」
 僕は混乱した。ちょっと待ってよ。
「今、背骨を折ったって言わなかった?」
「うん、でも来るんだって」
「どうやって?」
「ギプスはめて、じゃない?」
「圧迫骨折した知り合いがいたけど、まる1ヶ月は寝たきりだったって聞いたよ」
「うーん、でも、トクさんはトクさんだからねぇ」


 そう言われると確かにそんな気にもなった。あの人のバイク事故も考えてみれば3度目だ。左腕を折り、鎖骨を折り、そして今回背骨を折った。左腕を折ったときはもちろん、鎖骨を折ったときもどういうわけだか翌日から生徒を叱り飛ばしていた。背骨の一本や二本と彼ならきっと言うだろう。「スペアがあるから大丈夫なんだよ」。僕らがいくら休んでくださいと言ったって、彼が8日に来ると言ったらまず間違いなく来るのだ。そしてにっこり笑って「大した事ないんだけどさ」と言うはずだ。




 人は切羽詰まると恋に落ちやすいらしい。受験生たちもそうだった。徹夜した朝に痛いほど勃起してしまうみたいに、体や気持ちがピンチな時には本能的に異性を求めてしまうものなのだろう。それが時に錯覚混じりの感情だと気付いていても、寂しさにはなかなか逆らう事ができない。そうして状況が変わってみて初めてわかるわけだ。これはいわゆる恋ではなかったと。


 僕は溜め息をつく。結局みんな同じじゃないか。受験の頃につかんだつもりの「本当」と大学に入ってからの「本当」と、その先の「本当」。おんなじ種類の誤解と、おんなじ種類の理解の中で、いつしか打算的な結婚、育児、定年を迎えてしまうだけなんだろうか。僕だけの「本当」私だけの「本当」なんて実はどこにも存在しないんじゃないか。


 わからない。そういう事を感じて、シブヤさんは幸せの素材を知りたいと言ったのかもしれない。わかりあった上でその先を見たいと言ったのかもしれない。でもわかったとして、それが古今東西みんなおんなじ種類の素材を「みつけた!」「みつけた!」と言ってるだけだとしたら‥。


「先生…?」
 パイプ椅子でブーツの爪先を見つめていた僕は、髪の長い女の子に顔をのぞき込まれた。
「まだ時間じゃないんですけど、もう終わったんで、外に出てもいいですか?」
 僕は咳払いをして腕時計を見た。教室は静かだった。試験が始まりから30分以上経ったのを確認して席を立った。
「試験を続けながら聞いてください。30分経ちましたんで、もうこれ以上いい答えを書けないって人は、退出してもけっこうです」


 そう言うと、何人かの生徒がばらばらと席を立った。僕は女の子に君もだよという笑顔でうなずいて見せた。女の子はうれしそうな表情で、小走りに教室の出口に向かい、音を立てないようにゆっくりドアを開けた。ドアの向こうにはここの生徒ではない男の子が、背中を向けて待っていた。お待たせーと女の子が小声で言った。男の子が彼女の白いヘアバンドあたりに手をやるのが見え、遠慮がちな音を立ててドアが閉まった。閉じてしまった隙間の向こうに、僕は19才だったアサコと自分の姿を重ねた。二人は楽しそうに笑いあっていた。




「もう8月かぁ」
 とイクタが言った。噂なんか知らないのか彼女は帰り道に平気で僕を誘った。
「覚えてる? 私、浴衣着て、ワタナベ君に会いたいなって手紙書いたの」
「もちろん覚えてるよ」
「あのときね、こんな日だったらいいなって思ってたよ」
 イクタは僕の顔ではなく、空に向かってそう言った。確かにとても綺麗な夕焼けだった。そして両手を広げてくるりと回って、青いワンピースのスカートをひらひらさせた。
「お祭り行ってないなぁ」


 四角く開いた胸元と、首筋にかいた汗が、きめの細かそうな肌を紅く濡らしていた。それは蒸し暑い夜に揺れるお互いの裸や呼吸を想像させた。僕は夏のありふれた欲望の中に沈んでいくのを感じた。イワシミズを連れてお祭りに出かけたのは、もう三年も前のことだ。風の強かったあの日、イワシミズはイクタと同じようなワンピースを着て「パンツにすればよかった」と僕の背中を離れなかった。あの娘ももうどこかの大学生なのかな。元気にしているといいな。そう思うと僕の顔は自然にやさしくなった。


「イクタ」
 振り返ったイクタは、僕の先を踊るように歩いていた。僕は左手を差し出した。
「なぁに?」
 飲んでもいないのにほろ酔いのような顔をして、イクタは僕の手を取った。
「キスしていい?」
 と僕は聞いた。イクタは一瞬困ったような素振りを見せたけど、すぐに始めからわかっていたような顔で笑った。そして目を閉じてみせた。そうして差し出されたイクタの顔はむいたばかりのゆで卵みたいにつるりとやさしかった。夕闇の中で白く浮かんで傾いた体からは、胸元に続くなだらかな隆起と下着の青いレースが見えた。音が消えていく。僕は細い顎に触れてからその指で頬まで辿った。手を背筋の方へ回すとイクタは口を半開きにして、そこにあった僕の手を取り、顎をすこし突き出した。僕は首筋から立ち上ぼる汗混じりのコロンの匂いを感じながらキスをした。


「ん‥」


 イクタは小さく声を上げた。それから閉じていた目を半分だけ開けて僕の顔を見てから、両手を首に絡めた。夏らしい匂いがした。物影に入って舌を絡み合わせた。イクタはこないだと同じように興奮していた。息を荒くして体を僕に押し付けるようにしてくねらせた。僕は彼女の体を強く抱き寄せた。溺れるように抱き合った。自転車が僕らのそばを通過して、あまり使い込んでいない感じのブレーキを掛ける音が聞こえた。新品のゴムとステンレスが擦れる、勘に触る音だ。僕は左目を開けて何気なくその音の方を見た。そしてその瞬間にイクタを突き飛ばしてしまった。


 3週間ぶりに会うアサコだった。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951109

1995-11-08

「響きの水」8章

|  「響きの水」8章を含むブックマーク



 イクタエリは僕を見て、にっこり笑って立っていた。僕は手で口についた口紅をぬぐい、乱れた手荷物をまとめた。彼女は何ごともなかったようにひらりと出ていった。僕の手に赤い印だけを残して。


 授業でミスばかりするので、生徒に指摘された。当然だ。集中できるはずがない。前の方の女の子たちが「今日ナベちゃんダメダメー」なんて囁ている。余計な汗をたくさんかいて講義を終わると、イクタエリはエントランスで待っていた。エレベーターの女がイクタエリだと気付くには時間がかかった。それほど彼女は以前と変わっていた。無造作ってくらいに自然な髪や、ちょっとだけ彩度を落とした感じの口紅や、綺麗に切り揃えた眉、涼しげな首元や鎖骨、吸い込まれそうな胸のスロープ、細くて責任感を感じさせるくるぶし、そしてあのペティギュア。大体、背だって高校の時よりずっと伸びてるんじゃないか? そもそも彼女ははんとにイクタエリなのか? よく似た別人じゃないか? 僕は壁に寄り掛かっていた彼女をまた0.1秒ほど凝視してしまった。


「ワタナベ先生」
 彼女は僕をそう呼んだ。
「ひょっとしてイクタさん?」
 僕は聞いた。
「イクタさんじゃないわ」
 と彼女は言った。
「イクタ先生よ」
 僕は笑った。
「久し振り」
 彼女も笑った。
「電話してって言ったわよ、私」
「ごめん」
「今日空いてるの?」
「空いてなくても、空けるよ」
 と言うと彼女は微笑んだ。


 歩きながら、彼女の後ろ姿を眺めていると、僕の知らない2年の間の厚みが、肩越しからひしひしと伝わって来た。トクシマ先生が「女は19、20で変わる」と言うのもわかる気がする。思春期の無駄な力が抜けて、相応な自信をつけたということなんだろう。異性のご機嫌を取らなくても、雑誌通りのお洒落をしなくても、気合いを入れてコンパに参加しなくても、周囲の人達が放っておくはずがなかった。つまりもてるのだ。


 駅前の地下の喫茶店でコーヒーを飲んだ。店は狭くて薄暗く僕ら以外の客がいなかった。一枚板から切り出した不定形の天板のテーブルに大きくて薄く挨の積もった船の模型が乗っていた。僕らは隣り合って座った。


「どう、大学の方は?」
 イクタが聞いた。
「うん、楽しいよ」
「思った通り?」
「うーん、あんまりかなぁ」
「こんなはずじゃなかった?」
「そうだね」
「けっこう厳しいんでしょ? そう聞いたけど」
「うん、半期ごとに1割は留年が決まってる」
「1割!」
「だから4年になるまでに半分は違う生徒になるんだ」
「すごいね、ワタナベ君は?」
「しがみついてるのがやっとだよ、イクタは?」
「うん、うちはそんなでもないよ。厳しいことは厳しいけど」
「優秀だしなぁ、お前」
「まさかぁ。高校とは違うよ」
 僕は笑った。
「でも確かに、高校の頃とは違うのかもな」
 イクタは僕の目線と声色の変化を感じて、
「え、どういう意味?」
 と聞いた。僕は声を整えて、
「いや、綺麗になったな、と思ってさ」
 と言った。イクタは照れたような困ったような顔をした。
「そんなに変わったかなぁ‥」
 僕は笑って見せた。
「こないだアルバムを見たんだよ、高校の。別人だよ、なんか」
「‥変?」
 イクタは居心地が悪そうにもじもじとお尻を動かした。
「まさか! びっくりして、どきどきしてる」
「手紙、くれなかったじゃない、電話も」
「怒ってる?」
 僕は、ちょっと様子をうかがった。
「怒ってはいないけど‥ 寂しいじゃない、単純に。違う?」
「あの頃、オレも嫌なこといっぱいあってさ、ちょっと手紙って感じじゃなかったんだ。ほんと、ごめん」


 そうしてしばらく沈黙が続いた。僕はコーヒーを飲んで、カップから離れた右手をイクタのももの上に置いた。一瞬ピクリと動いた。僕は気づかない振りをした。その上にすぐイクタの左手が重なった。手首にくぐらせた金の鎖が、ひんやり僕の手の甲をなでた。彼女の手は熱くて、汗ばんでいるのがわかる。


「会いたかったんだよ?」
 イクタは言った。
「ずっと?」
「わかるでしょう?」
 焦れったさそうにイクタは言った。僕はさっきのキスを思い出して、うん、とうなずいた。


 西口のラブホテルに入って、イクタの服を1枚1枚脱がした。僕は緊張していた。順番がデタラメだった。腕時計、エナメルのベルト、そしてブラウス‥。アサコ、オレ、アサコが好きなんだよ、と現れた形のいい胸を見ながら思った。でもきっと思っただけだ。とても綺麗な体だった。イクタは部屋を暗くして、とは言わなかった。こうこうと明るかったわけではないけど、それは十分に明るかった。でもそう言わないだけあってと言うか、ただの偶然なのか、あるいは僕の考えすぎなのか、イクタの体は本当に綺麗だった。どこかひとつが優れているとかではなく、何と言うか、それぞれの形を繋ぐ間の部分、例えば二の腕だとか、脇と胸の間の空間だとか、へその周りの筋肉だとか、土踏まずだとか、背中から腰に続くラインとかに、独特の品と言うか、緊張感があった。そんな体を見たのは初めてだった。確認するように順番にそこにくちづけた。


 僕が服を脱ごうとすると、イクタはその手を止めて僕の目を見た。そしてすぐに視線を落とし、僕の革のベルトを外して、ジッパーを下げた。両手でジーンズを下ろしてしまうと、イクタはあっという間に中のものを口に含んだ。僕は押し寄せる快感に身を悶えさせながらも、股間にうずまっているイクタの顔を見た。やっぱりそれが同級生のイクタなのか確信が持てなかった。同姓同名のそっくりさんか、影武者だったら納得できた。それとは関係なく僕のはどんどんと大きくなっていった。天井を仰ぎ、へそまで反り返るくらいに。早くイクタに包まれたいとはち切れそうに悶えていた。


「ねぇ、入れたいよ」


 とたまらず僕は言った。彼女の濡れた唇の間に見え隠れする自分のものが、まるで心臓のように脈打っていた。イクタはいったん動作を止めて、僕の顔を仰ぎ見ると満足そうに微笑み、もうちょっとしたらねと言った。彼女の左手は自分の下着のいちばん細い部分をまくり上げて動いていた。僕は体をねじって、お互いの下半身に向き合う位置にまで動いた。そうして彼女の下着を下ろし、膝を抜いて、その部分に舌を差し込んだ。足の付け根にキスして、溢れ出してくる液体を舌先ですくいあげた。


「‥いいよ」
 とイクタが言った。
「入れて」


 僕は顔を上げ、すんなりと伸びた両の足を胸の前で大きく割った。イクタは少しも動じなかった。そんな強い顔をしている女の子を抱くのは初めてだった。先をあてがい奥まですっかり沈めてしまうと、イクタは唇を舐め、目を閉じて何かを反芻するような表情を見せた。でも不思議とそれはさっき口にしていたみたいな、何年もずっと会いたかった人としている顔には見えなかった。「僕」と「セックス」と「快感」のすべてが別々の世界で別々に存在しているような、そんな気にさせたのだ。


 僕はイクタを腹這いにして尻を高く上げさせ、顔の見えない位置に回った。イクタの体は柔らかかった。伸びをする猫みたいに反った背筋や、頭上で絡み合わせてる彼女の指先や、あんとか、だめとか言う声や、動きに合わせて揺れて乱れる髪や、男の体には絶対に現れないカーブを刻むウエストは本当に素晴らしかった。


 だけど僕は目の前にあるこの体とは別にアサコとのセックスを思い浮かべていた。こんなに気持ちよくてこんなに一体感のないのは初めてだった。すべてが等距離で人ごとのようだった交じり合う汗も、獣のようなキスも、二人を包むいやらしい匂いも体臭も。


「あぁ」


 とイクタは声をあげる。それはきっと悲しいセックスだった。彼女の尻に爪を立て、射精は長く長く続いた。




 帰り道、僕の腕を抱いていたイクタは、公園の出口で僕の唇の瑞に軽いキスをすると、じゃあね、と手を振っていなくなった。僕はその強気な後ろ姿を見て溜め息をついた。脳味噌の水分がなくなってしまったような気がした。夕立でも降らないかな。それも砂漠の色が変わるくらいのひどいやつ。昼間の熱気や湿気はどこに流れるわけでもなく辺りに澱んでいた。僕はポケットから煙草を出してくわえた。でもその先に火を点けることはなかった。アサコの声が聞きたくて仕方なかった。すぐそばの電話ボックスに入った。


「はい、クドウです」
 その声はアサコ本人だった。
「あ、オレだよ、ワタナベです」
「あ、トモユキ?」
「電話しちゃった。夕飯の時間だった?」
「んーん、もう食べ終わったけど、どうしたの?」
「いや、すごく、声聞きたくなっちゃってさ」
「ふうん‥」
「どう? アサコ、頭の方」
「別に変わんないよ、病院行ってるけどね」
「痛む?」
「うん」
「いま池袋なんだ」
「え? ‥うん」
「もうずっと会ってないね」
「‥うん」
 僕は混乱した。アサコはどこか迷惑そうに応対していた。電話なんかすると頭が痛み出すんだろうか。
「‥オレさ、予備校のね、講師を始めたんだ」
「教えてるの?」
「うん、2年生だけどね」
「楽しい?」
「え? うん、まぁね」
「ふうん‥」
 そういうとアサコまたは黙ってしまった。いい感じの沈黙ではなかった。たまらず僕は聞いた。
「調子悪いの?」
「んー? そんな事ないよ」
「あんまり話してくれないじゃん」
「あぁ、ちょっと疲れてるだけ、今日出掛けてたから」
「病院?」
「ん? 他の用事」
 なんだかとても話しづらかった。僕は着ていた黒いラコステの鰐の部分をぎゅっとつかんだ。鰐は汗ばんだ手の中で固くじっとしている。僕は深呼吸をした。少しだけ酸素が足りないみたいに胸が苦しかった。
「ねぇ、アサコ」
「んー?」
「‥会いたいよ」
「え‥? 今?」
「今もそうだし、ずっとだよ。昨日もおとといもだよ」
 アサコは黙っている。僕が思い描く顔は、迷惑そうに眉間にしわを寄せたアサコだ。
「オレ、なんか悲しいよ」
「トモユキ」
「ん?」
「悲しくなんかないよ」
「どうして?」
「だって」
「だって?」
「今も、電話してるじゃん」
「でも、会ってないよずっと」
「それは‥」
イタリアから飛んで来たのに」
「‥うん」
「なんか報われないよ」
「ねぇ、報われなくない!」
 僕は黙った。
「大丈夫だよ、ね!」


 アサコが何を言っているのか、僕にはさっぱりわからなかった。まるで恋の相談を、誰か別の人にしているみたいだ。「私じゃ力にならないかも知れないけど、陰ながら応援させていただくわ」みたいな。「頑張ってね」みたいな。


「はやく治らないかなぁ」
 独り言のように僕は言った。留守電に吹き込むような声で。
「ありがとう」
 落ち着いた口調でアサコは言った。
八王子にはいつ帰るの?」
「うん、まだわかんない」
「ずっと先?」
「夏休みだしね、あ!」
「え?」
「ごめん、キャッチ」
 ブツブツした回線の向こうでアサコが言った。僕は失恋したような気になって、涙が出そうになった。
「いい? またかける」
 喉の奥でうんと僕は言った。いいも何も他に選択肢なんかないじゃんか。
「じゃあね」
 そうして回線が切り変わった。僕はそのままじっとしていた。合成音はそのままお待ちくださいと言った。アサコは今、僕じゃない誰かと話してるんだ。赤いダイオードの度数表示が一つ減った。合成音は言い続ける。そのままお待ちください。そのままお待ちください。「そのままお待ちください」だって?




 ひどい夢を見るようになったのは、その頃が最初だ。真夜中の畑で口のきけない女の子が犯されてる夢、赤、緑、黄色のカラーボールを敷き詰めたコンクリートの用水路を殺人鬼に追われて走って逃げなくちゃならない夢、ミユがダムで溺れ死んでその死体を納屋に隠す夢。どれもが辛くて痛くて悲しいものばかりだった。見た覚えがない日でも、目が覚めると「あんた昨日ひどい寝言言ってたわよ」と母に指摘された。シーツは暑さだけじゃない汗でぐっしょりだった。


 お前痩せたんじゃないか? とサングラス越しにトクシマさんは言った。
「そうですか?」
 僕は自分の頬に両手をあて、教務室の奥に掛けてある鏡をにらんだ。
「痩せたよ、痩せた痩せた」
 と明治大学のミハラも言った。
「そうかなぁ」
 と僕はあんまり興味なさそうに、顎の下の剃り残しなんかを確認した。カチャリと音がして、イクタエリが数学の授業から帰ってきた。テキストや筆記具を机の上に置く仕種を僕は鏡越しにぼんやりと眺めた。イクタは眼鏡を掛けていた。小さなレンズのリムレスだった。彼女はすぐに僕に気付いて、やさしい笑みを送って来た。僕も鏡越しにそれを返す。


 イクタはブラウスに、透ける素材のカシュクールを重ねていた。タイトスカートに微妙な栗色のストッキングを合わせている。彼女は天井の空調に向かって不満そうに小さな溜め息をつくと、束ねていた髪を止めていたゴムを外し、自然に拡がるようにと首を左右に振った。赤く鮮やかに塗られた口元を見て、あの中に僕のが出たり入ったりしてたんだなぁとふと思った。スカートに吸い込まれているあの白い両足の付け根の感触を僕は知っているんだ。それはなんか不思議な気持ちだった。彼女がもう一度僕の方を見た。そしてくすりと笑った。きっとどうしようもなく間抜けな顔をしていたのだ。僕ははっとして次の講義の用意を始めた。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951108

1995-11-07

「響きの水」7章

|  「響きの水」7章を含むブックマーク



 空を厚い雲が覆っている。雨の降る気配はない。曇っているけど明るい、そんな日だ。どうやら僕はずいぶん前に右足の腱を切ってしまったらしい。腿から下のその部分は完全に麻痺していて、体にハムをぶら下げているみたいだ。ハムは二度と足にはなりそうにない。


 何故そうなってしまったのか、僕にはわからない。そうだと知ったとききっと泣いたはずだし、事故に関わった人を必要以上に罵ったはずだ。それらを通り越した空っぽな状態が今の自分を支配している。


 補助輪付きの自転車車椅子の中間のような機械に僕は固定されている。余生をこの冷たい金属と暮らさなくてはならないのだ。機械はまだ新しくて、ステンレスのフレームがいやなぎらつき方をする。体にもさっぱり馴染んでいない。


 父親が悲しげな目で僕を見おろす。見おろされるのは中学生以来だった。確かにひどいことになったけどと父が言う。いつまでも家に閉じこもっているわけにはいかないし、いつまでも誰かが世話してくれるものでもない。要は慣れだ。どんなに辛い事でも慣れてしまえば大したことじゃないとわかるようになる。


 マンションの前の私道で、僕はその機械をうまく扱えるように練習した。50mくらいの距離を行ったり来たり。僕は額に汗をにじませながら左足だけでペダルを踏んだ。


 父の励ましは間違っていなかった。4周、5周と繰り返すうちに僕は少しずつコツをつかんでいった。これならそう辛いこともないなと思い始めた。父親が腕を組み、目で僕の動きを追っている。僕は微笑んで手を振った。こんな時間に家にいる父は、僕を案じて、ずいぶんと長い間会社を休んだに違いない。迷惑を掛けたが、明日からはもう仕事に専念できるはずだ。


 僕は私道で遊ぶ子供達を縫って、スイスイとその機械を操った。汗もすっかり引いている。子供の蹴ったサッカーボールが横から転がってきた。ボールはフレームで弾み、機械は右へわずかに傾いた。僕は自転車の時の要領で、ペダルから足を降ろしてバランスを取ろうとした。何の造作もない事だ。僕は安心して状況には冷静だった。ところが右なのだ。足がまったく動かない。僕はそのまま機械と共に大きな音を立てて崩れた。悲しかった。これからこんな人生を歩むのかと思うと、悔しくて涙が出た。僕の周りに小さな人だかりができて、それを掻き分けて父が助けに来た。僕は子供のように大きな声を上げて泣き出し、目覚めると枕がぐっしょり濡れていた。




 引っ越し後の生活には馴染めなかった。妹のミユは自分の部屋を失ったせいで情緒不安定になり、毎朝毎晩のように母親と大喧嘩をしていた。母親のすねには青いあざがあった。ミユにおととい蹴られたのよと母は悲しそうに言う。


 生活は三人バラバラで重なることがなかった。ミユが帰ってくるのは夜中の1時すぎ、その度に夕飯を温め直し、それから風呂やなんかにゆっくり入ろうと言うのだから、早起きの母親が怒るわけだ。
「あんたね、お風呂はいいけど、もっと早く帰ってきなさいよ。バイトだって9時までなのに、なんで1時になんないと帰ってこれないのよ。上の人だって朝早いんだからね、あんたが夜中ばしゃばしゃ音立てたら寝れないでしょ」
 ミユは返事もしないでテレビを見ている。
「夜だって何やってるか知らないけど夜更かしばっかりして、勉強しているならまだしも、マニキュア塗ったり、下らない日記書いたり、足の毛抜いたりしてるだけじゃない。もっとやんなくちゃいけないことが他にあるでしょう?」
 ミユは全然聞いてない。目線も動かさない。母親は怒ってテレビの電源を切る。再び入れ直さないようにコンセントも抜く。ミユは「何すんだよ、くそババア」と怒鳴る。
「あんた親にここまで育ててもらって、くそババアじゃないでしょ。あんたの心配して言ってあげてるんでしょ」
「大きなお世話だよ、ほっといてよ」
「馬鹿言いなさんなよ。誰のお陰で大学に行ってんのよ。学費払ってんのあんた? 別に行きたくないなら行ってもらわなくて結構なんだからね」
「よく言うよ、ミユが行きたくないって言ったって辞めさせてくれないじゃない。ミユは別にバイトで一人暮らししてくって言ってんのに」
「やれるもんならやってみなさいよ。その代わり何の援助もしないし、二度と帰って来なさんな。そしたらやっと親の偉大さに気付くわよ」
「あーそー」
「大体ねー、アルバイトしたって、くだらない洋服や化粧品に全部なっちゃうんじゃなくて、もっと必要な物を買いなさいよ。ノートとか、ストッキングとか、教科書とか、いるんでしょ? 全部ママが買ってんじゃない。そんなんでどうやって一人暮らしするつもりなの?」
「静かにしなよ。寝てんでしょ上の人」
「返事をしなさいよ、ロがあるんだからはいと言いなさい。それと人の目を見て話しさい。もうあんたもハタチになるんだから、よそ行って恥かかないようにね」
「あんたと話したくないだけだよ」
 ただでさえ暑い夜が続いているのに、二人の喧嘩で更に温度が上がる。
「お前、甘えてんだよ。わかんないのかよ」
 僕は今日もミユに言う。こんな事言わなくちゃならない歳にオレもなったんだな、となんかぐったりしてしまう。
「だって、ババアうるせーんだもん」
「うるせーんだもんじゃなくてさ、ミユ、原因を考えろよ。お前独立したいようなことばっか言うけど、全然現実味ないじゃん。バイトして暮らすって言ったって、必要なのは家賃だけじゃないんだぞ。お前みたいに毎晩1時間以上電話したり、シャワーじゃんじゃん使ったりしてたら、一ヶ月で破産だよ」
 ミユは目線を泳がせて唇をとがらせる。
「いいもん、フーゾクでも何でもやって稼ぐもん」
「フーゾクって、お前それが何だか知ってんの?」
「生尺とか、花びら回転とか、素股とかでしょ」
「あのねぇ‥」
「簡単じゃん」
「そんで?」
「みんなに病気を感染させまくって、笑って死ぬの」
「みんなで死ねば寂しくないって?」
「それは嘘だけど、でも出てくよ、わたし、近いうちに」
「お前の家出って、いつも二日くらいお泊まりに行ってくるだけじゃん」
「だって、ずっといると邪魔になんだもん」
「それが甘えてるって言うんだよ」
 母親は「あの人にそっくりよ」と、別れた親父の分身のようにミユを言う。子供染みてんのよ。何をするにも自分勝手で、自分の普段の生活がどれだけ多くの人に迷惑を掛けて支えられてるのか、これっぽっちも気付かないのよ。
 そうだねぇと僕は言う。でもミユもきっともうすぐわかると思うよ。




 アサコが以前付き合っていた男はピアノを弾けたらしい。受話器の向こうで好きな曲を弾いてくれたときは、うれしくて涙が出たという話しは何度も聞かされたし、誕生日には自作の曲をプレゼントされたこともあったと言う。
「二人で弾くのも楽しいんだよ」
 どう僕に言って欲しいのだろう。アサコはうれしそうに話す。
「アサコのピアノ、オレ聴いたことないなぁ」
「えー、あたし下手くそだよ」
 そう言ってアサコはにこにこしている。いくら終わった恋とは言え、そんな顔を見せるアサコにはいい気がしなかった。
「オレにも弾いてよ、ピアノ
「やだぁ、練習もしてないし」
「いいじゃん、聴きたいよ」
「うーん、機会があったらね」




 予備校に電話をすると、トクシマさんは二つ返事で僕の講師入りを認めてくれた。
「やるか! よし、じゃ明後日からでも来なよ。一応カリキュラムとか指導要項とか渡さなくちゃいけないしさ、2、3書類書いたり、注意もあるし」
「わかりました。じゃ、あさってにお伺いいたしますので」
「はーい、お伺いいたしこましてください!」
「いたしこましまくりまするー」
 トクシマさんも笑った。
「‥あ、そうだ、ワタナベ」
「え、なんですか?」
「イクタが連絡してくれって言ってたよ、忘れるとこだった」
「あ、そうですか」
「知ってる、よ、な? 番号」
 僕は一通目の手紙にあったことを思い出し、はいと言った。
「ん、じゃな。へヘヘ」
「なんですか、それ」
「ん? 夏の恋はたのしいぞー。そんだけ」
 トクシマさんは29才だ。シブヤさんは24才だけど、中身は同一人物なんじゃないかってぐらいよく似ている。生徒を食っては捨てちゃうって噂は消えないのに、自ら志願して行く女の子が後を絶たなかったり、何だか得体の知れない、私生活の見えない先生だった。




 アサコんちに電話を掛ける。長電話しても大丈夫なように千円札を崩してから。拾いあげたコインは機械の中で熱くなっていて、いつもよりひとまわり大きく感じる。
 出掛けてます、と短くお母さんは言った。病院だろうか。あるいは事故の後処理。そうですかとしか言えなかった。八王子のマンションにはいつ帰るのだろう。コロッケ屋の前で、僕は切れた電話線の端をじっと握らされているような気持ちになった。




 僕が任されたのは基礎科文系コースだった。僕があの夏イワシミズと出会ったコースだ。生徒は高校二年生をメインにちらほら一年生がいる程度。初めて教える側としては気が楽でいい。


 僕の仕事は予備校側が用意したプリントとテキストとあんちょこを使って、自分なりにそれをよりわかりやすく楽しく教えること。まず今日の要点のプリントを配り、基本問題をホワイトボード上で簡単そうに解いてあげて、次に応用問題と実力診断のプリントを配り、タイマーをセットして退出。後は終わった頃を見計らって、解答用紙の埋まり具合を高い位置から見回し、どう?とか、かんたん?とか、ここ違うんじゃない?とか言って、最後に多くの生徒が引っかかっていた箇所をおさらいしておしまい。


 わかりやすく、のところはちょっと自信がないけど、楽しく教える、なら何とかなりそうかなぁと思う。年もそんなに離れてないから、ちゃんと言葉になってなくても伝わる部分は多かった。


 エレベーターを使って教室に向かう。コンクリート打ちっぱなしの地上4階、地下2階建てのその新館は、エントランスをくぐると大きな吹き抜けがあって、天井には可動式の屋根が広がる。そこに向かって2本のエレベーターのチューブ(ガラス張り)が伸びている。見上げると授業を抜け出した生徒達が、煙草をふかしたり、あてもなく空を見ているのが見える。吹き抜けの下は白くて円いテーブルと椅子が蓮の花のように並べてあり、オープンカフェとして使われている。環境はいいに越したことはない。しなくていい苦労はしない方がいいのだ。そのほうがおんなじ努力だって効率がいい。


 テキストを持つ。今日の日付の茶封筒に入ったプリント、使い慣れたマーカー、そして赤ペン。僕は何度もその四つの所在を確かめ、エレベーターに乗った。そしてやっぱり忘れ物をした。今日の為に作ったマグネットのシートだ。僕はやれやれと思いながら教務室に戻り、それを察した同僚にもやれやれという顔をされつつ、もう一度エレベーターに向かった。扉が開いていたのが遠くから見えたので、慌てて駆け込んだ。


「4階ですか?」
 女の人の声がしたので、顔も見ずに生徒だと思い、
「あ、うん、お願い」
 と言った。


 4のボタンが赤く点灯して扉が閉まり、合成音声が「上に参ります」と告げた。僕は今度こそ忘れ物がない事を確かめ、何処を見るわけでもなく、彼女の背中を見た。肩まで伸びた栗色の髪、シルクのブラウスから伸びる白くて細く長い腕、手首から垂れる細くねじれた金の鎖。香水をつけているんだろうか、ぎりぎりのところで届かないくらいの、もどかしいその匂い。白く細いエナメルのベルトでウエストをいっそう細く見せていた。柔らかな素材が作り出すからだの曲線が、密室の空気をぎゅっと縮めている。サンダルからのぞく爪先にはオレンジ色のペティギュア。それもぶっ飛ぶかぶっ飛ばないかの危ない線で、たまたまいい方に転んでいるという感じの‥。


 そのオレンジ色の爪先を、まるで水槽の隅に集まる小さな熱帯魚みたいだと眺めていると、それがくるりと僕の方に振り返るのが見えた。僕はすっかり魚のことばかり考えていたので、爪先を見つめたまま微笑んでいたんじゃないかと思う。それがツカツカと向かってきて、彼女のからだの影が僕の目線と足元に覆い被さったとき、やっと不自然なできごとなんだと気付いた。僕ははっとして顔を上げたけど、それとほぼ同時に僕の顔は彼女の両手の中にあった。そして相手の顔を確かめるまでもなく、唇が押しつけられ、柔らかな舌が入ってきた。僕は酸素切れを起こしたダイバーのようになった。口の中に口紅の味が広がった。僕はそれをひっペがして、息を切らせながら彼女の顔を見た。生徒ではなかった。イクタエリがそこにいた。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951107

1995-11-06

「響きの水」6章

|  「響きの水」6章を含むブックマーク



 帰国の手続きに3日掛かった。せっかく取れたチケットも気流がどうだとかで正しい時間で飛ばない。半日以上空港で足止めを食った。とにかく落ち着こうと本を開いても読むのは同じページばかりで、煙草の本数は増える一方だった。よくない想像は止まらないし、飛び立ってからも心臓をじんわり痛く感じた。僕は深呼吸して、頭の中から意味のあるものをひとつずつ消していった。アサコのお母さんの声を聞いたときに沸き起こった気持ちだけをしっかり放さずにいようと思った。それでも不安や恐怖は僕の気持ちを揺さぶった。吐き気や腹痛、目眩、頭痛になって僕の体を襲った。顔色を心配したスチュワーデスが熱いスープとパンを一切れ持って来てくれた。それをかじると頭に昇った血がゆっくり下腹に降りてゆき、やがて気持ちのいくつかはコントロールができるようになった。


 成田についたのは夜10時すぎだった。また一日が終わってゆく。いつになったら僕はアサコの声を聞けるのだろう。挨拶らしい挨拶もなしにタマキさんちを出てきたっていうのに。僕はもう一度電話をかけた。
「まだ寝てるんですよ、起こしますか?」
「いえ。起きられたら、僕から電話があったとだけ伝えていただけますか」
 受話器を置いて僕ははっとした。アサコが電話に出たら、まず始めに何を言えばいいのかわからない自分に気付いたからだ。心配したよ? 今帰ってきたんだ? 寂しかったね? どれも嘘に思えた。心配していないわけではないけど、僕は何か別の気持ちで、今ここにいるような気がした。
 成田エキスプレスのシートに身を沈める。びっしりと疲れが覆っていた。窓越しに黒くどろっとした河の流れとそこに浮かぶ木切れや発砲スチロールの破片を見て、何故か目頭が熱くなった。繊維工場の煙りのイオン遺跡のように並ぶガスタンク、その合間を夜光虫のように縫う車の赤いテイルランプ、視界の左端から右端に流れてゆく。僕は目を閉じて自分の心臓の音に耳を澄ました。飛行機の中よりは幾分穏やかになっているように思えた。大丈夫、まだ大丈夫、と僕は思った。




 大学に入ったばかりの頃、一通の手紙が届いた。最初その手紙を見て僕は何かの勧誘かと思った。ちょっと厚みがあったからだ。紫陽花柄の封筒には宛名には僕の名前が書かれている。見慣れない字だが確かに僕の名前だ。だけど花柄の封書をもらうような相手は思い浮かばなかった。裏返してみても差出人の名前はない。
 

「Hello〜★  お元気ですか。
卒業式以来、と言うよりは卒業コンパ以来かな。
卒業式、出れなかったのは残念だったね。
卒業証書をみんなが受けとって、涙ながら校歌を
歌っているときに、ワタナベ君は英文や数式や古
文とにらめっこしているんだと思うととても不思
議な気分でした。
でも、その甲斐あったよね。大学は楽しいですか?
ワタナベ君の事だから、またおかしなこと言って
周りの人を笑わせているんじゃない?
また、会いたいです。
井の頭公園の新緑が気持ちいいよ。
電話ください。
                   エリ」


 エリって誰だろう。顔が思い浮かばない。高校時代の同級生ってことかな。その手紙はそのまま机の引き出しの奥の方にしまって忘れてしまった。電話も掛けなかった。必要なら向こうから掛けてくるだろう。二通日が来たのは成田から帰った夜だ。


暑中見舞い申しあげます。5月のおわりにばっさり切った髪
が中途半端にのびてきて“暑さ倍増”って感じです。
エリはこの夏とにかく海に行きたいし、取りたての免許で遠
くの町までドライブしたり、お気に入りの浴衣で花火大会
縁日とかにも行きたいんだ。
でもバイトもたくさんしないと、学校に通えなくなっちゃう
し、課題のレポートも山積みになっているんだけど。テスト
がようやくすんで“さて夏休みだ。あそぼー”って、思った
ときに、すでに友達は実家に帰った後だったの。
このままだと今年の夏はさびしくなってしまいそう。
せっかくの夏なんだから、やっぱりいい季節にしたいもんね。
まずは海に行きたいかなぁ。ワタナベ君は海きらいって言っ
てたっけ? もし、嫌じゃなかったら行きましょう。でもな
んとなくエリからは「遊ぼうよ」って言いづいから、ワタナ
ベ君が気分転換したくなったら誘って。ナベちゃんはいっも
いそがしそうだってひとづてに聞いたから、その方がいいん
じゃないかって思うの。
みんなに会いたければ、もちろん呼んで集めるし、みんなも
会いたがってたよ。いつでも気軽に声を掛けてください。
ハルカは数学から政経に変えて良くなったって言ってるけど、
英語がきついって泣いてるし、タバタはタバタで“クラスに
かわいい子がいないっ!”って怒ってるし、みんな“相変わ
らず”って感じだよ。(エリも含めてね)
いい夏にしようね。
                         エリ」


 押し入れから卒業アルバムを引っ張り出した。クラス写真でイクタエリは先生のすぐ隣りにいた。おかっぱのようなショートヘアで、フリルのついた大きな襟のブラウスに、黒いカーディガンを着ていた。スカートの長さは膝上、真っ白なハイソックス。つぶらな瞳はまっすぐにカメラのレンズの中心に向けられ、両手をぴっちり揃えた膝の上に乗せ、あまり得意じゃないのか、申し訳なさそうな笑顔で首をかしげていた。
 少しずつ思い出してきた。彼女とはおそらく席が隣同士だったのだ。休み時間に彼女は宿題の答えをいつも写させてくれた。イクタはあの学校で貴重とも言えるくらい真面目で優秀な生徒だった。成績表は美術と体育を除けばオール5。わかりやすい模範生だった。


 留守中の手紙はもう一つあった。予備校からの手紙だった。夏期講習の後期日程に講師が足らないのでバイトをしませんか。時給は今ここでは言えませんが、けして悪いようにはしません、のような手紙だ。7月28日までに是非連絡が欲しいと隅にボールペンで走り書きがあり、カレンダーを見るとそれは今日だった。
 僕は何より先にまず、アサコんちに電話を掛けた。そろそろ連終が取れないと置き去りにしたジイちゃんやタマキさんに申し訳がない。受話器を取ったのはまたお母さんだった。
「アサコね、今、病院に検査しに行っちゃってるんですよ」
 申し訳なさそうにそう言った。
 アサコのお母さんはアサコに感じが似ている。動物で言うと子熊やビーバーとかの、ふさふさと毛が生えていて、目がつぶらな感じに近い。以前実家に伺った時、庭の手入れをしていて、そのとき被っていた白いハイキング帽がとてもよく似合っていた。その日に摘んだアスパラガスを茹でて、ベーコンとホワイトソースのスパゲッティも作ってくれた。将来アサコが年をとっても、こんな風に老けてゆくなら素晴らしい。少なくとも僕にはそう思えた。
 だけど僕にはその時、自分にもう何度も電話を掛け続ける気力がないことを知った。何度もコールを聞いて、お母さんの声を聞いて、そうですかと受話器を置く度に、あの電話を初めて聞いたときの衝動や、やるせなさや、使命感は途切れた電話線の向こうに散っていった。いま自分が誰の為にこうしてここにいるのか、見失ってしまいそうだった。僕はいけないいけないと頭を強く振り、まず池袋にまで出てみることにした。予備校に行くのもあるけど、実際のアサコに会えば、すべてが伝わるだろう。お互いに救われるだろう。安心できるだろう。電車を待っていると、ただ立っているだけだというのに、額に汗がにじんで流れて落ちた。まっすぐに伸びたレールの向こうには、いつもの駅が海底のワカメみたいに揺らいで見える。




 アサコの実家は目白台だ。僕はお見舞いにCDと絵本を持ってきた。この音楽を聴けばきっと気持ちがやさしくなるし、絵本なら頭が痛くても読めるはずと思った。アサコも読みたいと言いそうなイラストだった。もう帰ってきたかな。
 アサコんちに久し振りに来て、こんなに大きかったっけなぁと思った。5年前に建て直したばかりなのでまだ新しい。小さな庭の奥にはもう水の出ない井戸のポンプが赤く錆びている。お母さんの家庭菜園にはナスとトマトが植えてある。アサコの部屋は二階の真ん中の部屋で南向きだった。見上げるとレースのカーテンが閉じてあった。庭の洗濯物が白く反射していて、軒先に吊した風鈴が鳴っている。木の葉をざわざわと揺らして大きな風が吹いた。僕はガレージの方へ回ってみた。アサコの黒い自転車がなかった。事故は本当に起こったんだ、夢じゃないんだと思った。僕はチャイムを押そうと思って手を伸ばしたけど、指先が届く前に、それ以上何もできなかった。僕は公衆電話を探した。電話にはなかなか出てもらえなかった。あの静かな家で僕の鳴らした電話はアサコを呼び続けた。出たのは耳が遠くなった80過ぎのおばあちゃんだった。
「はい、クドウです」
「あ、ワタナベと申しますけど、アサコさんは御在宅でしょうか?」
 返事をしながら僕は驚いた。アサコのおばあちゃんは耳が遠いし、足が悪いから、家にいても電話に出なくていいことになっていると聞かされていたからだ。
「は? 誰さん?」
「あ、あの、ワ、タ、ナ、べって言いますけど、アサコさんはいらっしゃいますか?」
「ターカ‥ナベさん? アサコ? アサコね。 おーい、アサコーアサコー。 ‥ちょっと待っててくださいね」
 置き去りにされた受話器から、階段の下からおばあちゃんが「アサコー、アサコやー」と呼び続ける声が聞こえた。おばあちゃんは階段を登れないのだ。悪いことした。冷たい廊下をペたペたとスリッパで戻ってくる足音が聞こえて、アサコねぇ、まだ帰ってきてないみたいです、と言った。
 電話を切ってから、アサコはほんとはもう帰ってきているような気がした。疲れてぐっすり寝てしまっているのだ。レントゲンや、CTスキャンや、心電図を取る度に、あの黒くて固いソファの上で何分も何分も待たされて、こんな消毒薬臭くて冷たい廊下から、はやく帰って暖かいベッドで眠りたいと思っただろう。そんな気がした。僕はアサコの眠りを邪魔したくなかった。起きるまでただ待てばいいだけの話しだ。僕はアサコの寝顔を思い出した。京都の夜、青い闇の中ですぐそばにあった寝顔。それは悪くなかった。


 僕は腕時計を見て、予備校に行くことに決めた。
 予備校は様替わりしていた。新館が2つもできたせいで教務室や受付がどこにあるかわからなかった。生徒も自分がいた二年前とは違った。長髪や、ブリーチや、ブギーパンツや、舌ピアスや、入れ墨。女の子ならへそを出していたり、胸を暴力的な形に変えるワイヤー入りのブラジャーアクリルのヒールがついたサンダル、どピンクの口紅、透明のビニールの鞄に、タオル地のだぶだぶした靴下を糊で止めていた。
 久し振りに会ったトクシマ先生だけは相変わらずだ。青いサングラスと伸ばした髭と木彫り怪しい首飾りと、ラスタカラーの派手なファッションで、これなら生徒にも負けっこないと吹き出してしまった。
「そんで、いつから来れるわけ」
 いきなり本題から入るのもトクシマさんならではだ。よく見るとこの人も携帯をベルトから下げている。
「どんな感じかなと、様子を見に来ました」
「時給もさ、一応2000出すって言うし、悪くない話しだと思うよ」
 事務椅子にどっかと腰掛け、顎髭を撫でながら、どうでもよさそうに言う。
「でも僕なんかでいいんですか?」
「あぁ、大丈夫だよ。まだ夏期講習はそんなにウエイト大きくないしさ、徐々に感じさえつかんでくれれば、この先ほんと、なんとかなるから」
 トクシマさんは非常勤講師にリストアップされている大学生の名簿のコピーを左手でひらひらさせている。必ずしも予備校卒の成績優秀者に声を掛けているというわけではないようだ。備考欄には英語がしゃべれるとか、代ゼミで講師経験ありとかが書いてある。
「やってね、もし駄目だったら駄目でいいんだけど、肌に合ったらさ、常勤にもなれるわけ。そしたら時給ニーゴーだよ。いい話しだと思わない? 車とかマッキントッシュとかスキーとかセックスとか、やりたい盛りじゃん。やっぱ金いるでしょ?」
「そうですねぇ‥」
 それくらいあれば、母が楽になるかもな、とは思った。
「いいと思うよ」
 僕は名簿をもう一度のぞき込んだ。僕の他に赤いマジックで斜線を引かれている人が何人かいて、僕のすぐ上でキムラの名前が消されていた。きっと「人に教える余裕があるくらいなら、オレは大学になんか行かない」とかなんとか言って拒んだのだろう。僕がその代わりというわけだ。丸をつけられた方のメンバーを見た。
法政大学 イケガミキョウタロウ』、『中央大学 ミハラユタカ』、『早稲田大学シバタマリ』、『T大学 ワタナベトモユキ』、『多摩大学 ヤスダケイジ』、『学習院大学 イクタエリ』
 僕は自分の目を疑った。イクタエリ? あの手紙の?
「あの、このイクタエリさんて‥」
「ん? あぁあぁ、なんか知り合いなんだって? そうなんだよ。この春からずっと入ってもらってるんだけど、彼女優秀でさぁ。この夏講師に誰呼ぼうかってときに、真っ先にお前の名前が出てきたんだよね。ワタナベならオレも知ってるし、じゃあそうしようってことになったんだけどさ、話し聞いてなかった?」
「いや、暑中見舞いはもらったんですけど、そんなことは全然」
「あ、そう。頼んどいたんだけどな」
「びっくりしました」
「人気あるんだぜー、教務室でも彼女倍率たけーんだから」
「そうなんですか? オレ高校以来会ってないから」
「バッカだなー。女は19、20で脱皮すんだよ。高校のイメージで判断してたらお前損するぞ」
「はぁ」
「ん、まぁ、いいや。とにかく早めに結論出して連絡してくれよ。オレ毎日ここ来てるからさ。あさってくらいまでに決められるだろ?」
「あ、はい」
「うん、オレ今から授業だからさ、また今度な」
 イクタエリの推薦? どうりでおかしな話しだと思った。大学に受かったことが教務室中の話題にのぼってしまうくらい成績の悪かった僕が、講師をしてみませんかなんて誘われるはずがないのだ。ブサイクな女ほど「モデルになりませんか」という誘いに引っ掛かりやすいという話しを思い出して、腹が立ってきた。時給2000円は惜しい気もしたけど、僕はこの話を断る事に決めた。


 もう一度駅の方まで戻って、アサコに電話を掛けた。時計は5時を回っていた。トゥルルルルルルー‥、ガチャリ。
「はいクドウです」
 出たのはアサコ本人だった。
「え? ‥あ、ワタナベですけど」
 僕は混乱した。どうせ、また出ないと思っていたから、何にも心の準備がなかったのだ。
「あ、トモユキ? ちょっと待ってくださいね」
 アサコはそう言って保留ボタンを押した。二週間ぶりの肉声だった。きっと親がそばにいない子機の方へ移動しているのだ。オルゴールの『禁じられた遊び』が鳴ってる。
「はい、もしもし」
「アサコ? オレだよ」
「あー、トモユキだー」
「頭ぶつけちゃったんだって?」
「うん、教習所に遅刻しててね、急いで行こうとしてたら、十字路でね、単に自転車の後ろを突き飛ばされたの、で、転んで、頭うっちゃって」
「強く?」
「うん、多分。何かね、うわー、死ぬかもーっていう感じは覚えてるんだけど、直接の痛みとかね、どんな風に転んだかとか、ちょっと記憶がない」
「‥そっか」
「トモユキ、イタリアから帰ってきちゃったの?」
「2日に電話して知ったんだけど、どうしてもこんなに遅くなっちゃった。ごめんね」
「もうね、だいぶ落ち着いたよ」
「まだ、痛む?」
「さすがにねー。血もたくさん出たし、外には出掛けちゃいけないって言われてるんだ」
CTは?」
「うん、たくさん撮ったけど、はっきりと異常ないって言えないんだって。脳障害とかさ、目に見える部分じゃないから、おそらく大丈夫でしょうとは言ってくれたけど、今から1年間は何が起きてもおかしくはないって」
「怖かったろうね」
「怖いよー。頭なんか打つから、怖い夢ばっかり見るんだ。黒くてとぐろ巻いてるでっかいのが、天井を何匹も這ってるようなやつとか、多摩動物園昆虫館に置き去りにされるのとか」
 アサコは昆虫が大の苦手なのだ。僕は言った。
「大丈夫、虫なんていないよ、怖くないよ」
「蝶がね、たくさんたくさん飛んで来て、手とか肩とかにとまろうとするんだよ?」
「もう、とまらないよ」
「ほんとう?」
「ほんとうだよ」
「よかった」
「ねぇ、お見舞いに行くよ」
「え、今?」
「あ、今じゃなくても、そうだな、明日にでもさ」
「ん、うーん、私すごいかっこしてるし」
「怪我人はかっこなんて気にするなよ」
「だってぇ」
「駄目?」
「‥うん、お母さんもみんないるし」
「そう」
「会いたいけどね」
「ほんとう?」
イタリアから帰ってきてくれたんだもんね」
「うん、遅くなってほんとにごめん」
「うれしかったよ」
「また今度?」
「うん」
 話の内容とは裏腹に、アサコの声は元気のない小さな声になっていった。何かを隠しているときの口調にそっくりだったけど、怪我人を問い詰めるための電話ではないので黙っていた。
「それじゃ、また電話する」
「バイバイ」
 アサコはブツリと電話を切った。何週間かぶりの恋人の声なのに余韻が感じられなかった。僕はいつまでも受話器を手から放せずにいた。僕は4日間何をしていたのだろう。誰にどんな気持ちを渡したくって何万キロも飛んできたと言うのだろう。自分でもよくわからなかった。やっぱりバイトしてみようかなぁと思った。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951106

1995-11-05

「響きの水」5章

|  「響きの水」5章を含むブックマーク



 保養所は海のそばの見晴らしのいい丘の上にあった。レアチーズケーキみたいな白い塗り壁、黒い鉄枠の窓、ぶ厚くて全然平らじゃないガラス、逃げ出そうとする建物を地面に繋ぎ止めるように伸び続けるツタ。背が高く大きな門をくぐると広い庭園が迎えてくれる。刈り揃えられた芝の中にレンガの道が伸びている。その先は小さな礼拝堂だ。藤棚に大きなブドウがなっていて、その下には板金を曲げてつくった重そうな椅子が置いてある。大きく派手な麦わら帽子(きっと思い出の品なのだろう)を被ったおばあさんが、宝石みたいなカットのサングラスを掛けて読書をしている。溢れるほどのパンジーが咲き乱れる花壇は誰かが撒いたばかりの水できらきらしている。看護服を着ている人や、点滴を下げた車椅子の人もいるけど、ほとんどは普段着で、アロハシャツの人もいれば、冬服のようなツイードのスーツの人、ピンクのトレーナーの人、女性ならアクセサリーや化粧もしていたし、喫煙も自由で、病院や学校のようなルールに縛られている感じがなかった。各々が最も愛した時間の中に生きているような印象を受けた。遠くに聞こえるピアノのメロディがやさしく陽の光に溶けている。


 昨日アサコは電話に出なかった。教習所に行ってたんだろうか。それとも何かあったのかな。いや、まさかね。離れているときはついそんなふうに物事を悪く悪く考えてしまう。そうだよ、アサコだってよく言うじゃない「トモユキが電話に出ないと、なんかよくないことが起きたんじゃないかって心配しちゃうよ」って。心配じゃなかったら、そもそも電話なんてしないもんな。きっと夕飯の買い物にでも行ってたんだろう。


 スギノは日当たりのよい部屋の中で、大きく育った観葉植物の葉を1枚1枚拭いていた。
「おはよう」
 僕が言うと、スギノは昨日よりずっと落ち着いた表情で僕を見た。
「あぁ、呼んでくれれば、門まで迎えに行ったのに」
「ん、だいじょぶだよ」
「迷ったでしょう、何にも標識とかないから」
「でも、来れたよ」
「ひとり?」
「うん、今日はね」
「お茶いれるから、座ってちょっと待ってて」
 そう言ってスギノは部屋を出ていった。僕は上着を脱いで椅子の腰掛けた。高い天井には天窓があり、古い木貼りの床を柔らかな光で照らしている。昔スギノと行ったアトリエにそっくりだ。大きくて頑丈そうな金属のパイプベッドを中心に、大きなベンジャミンと小さな鉢植えが4つ、古く小さな書きもの用の木の机とアルミの読書灯、繰り返し何度も読んだと思われるハードカバーの本が数冊、化粧品の瓶、小さな流木と青いビーズの入った素朴な焼き物の皿、テレビやラジカセのような音がするものはない。
 漆喰の壁には小さな額がたくさん掛けてある。スギノの家族らしい写真、僕の知らない友達の写真、映画のチラシの切抜き、絵葉書、淡彩の風景画、僕の写真も混じっていた。
コーヒーでいい?」
 スギノが戻って来た。木の皿の上にラスクが乗っている。
「ありがとう」
「あ、写真見たの?」
 スギノが照れ臭そうに言った。
「なつかしいよ。これ現役のときだったよね」
「うん、スイカ割りのとき。覚えてる?」
「あぁ、あの時か」
「みんなでお金集めてさ、公園で花火とビールカレーとスイカ割りした」
「あの頃の人達と会ったりする?」
「今は会えないけど、うん、時々手紙を書いたりね」
「そっか」
「でも日本にいたとしても、会いたいって感じではないかな」
「そう?」
「うん、なんか」
「会うのいや?」
「ん、そうかも」
 スギノの痩せてしまった首もとや、金色に染めた水気のないぱさぱさした髪、表情が乏しく透き通っていないまなざしを見ていると、彼女が過去の止まった時間の中に生きている気がしてならなかった。前に進めてないんじゃないかと不安だった。
「オレは?」
「ワタナベ君は‥」
「会わないはうが良かった?」
「そんなことない」
「昨日はそんなふうに見えなかったよ」
「いや、びっくりしただけよ、ほんとに」
「そう?」
「どうして?」
「昔のこと思い出してつらくなったのかと思った」
「‥それは、うん、そうかもね」
「傷つけたよね。ごめん」
「だって‥ 仕方ないじゃない、本当の事だったんでしょ」
「わかんない。昨日スギノに会って、オレがスギノをイタリアまで連れて来ちゃったのかなって思った」
「そんなことない」
「なんか、謝りたくなって」
「‥やめて!」
 僕は混乱してる。今更こんなこと言ってなんになるというんだ。あの頃みたいにきらきらと輝いて見えるスギノに僕は会いたかったんだな、と思った。
「オレ、今アサコと付き合っているんだ」
「うん、誰かから聞いたよ」
「すごくいい娘なんだ。僕にはもったいない。とても大事に思っているし、大事にされてると感じる」
 スギノは黙っている。
「こないださ、うちの親が別れたんだ。家もなくなっちゃった。学校ももうちょっとで行けなくなりそうだった。そのときオレはすごく荒れてた。アサコに笑顔を見せたことがなかった。どうにもならないものに向かって不平ばかり漏らしていた。でもアサコは毎日僕を笑顔で抱きしめて、好きだと言ってくれた。そう言われると早くしっかりしなくちゃって思えた。自分を見失わずに済んだ。オレさ、ねぇ、そのとき気付いたんだ」
 僕はスギノの目を見て言った。
「アサコが今、オレにしてくれてるみたいに、なんであの時スギノにやさしくできなかったんだろうって。そしたらスギノだけじゃなくても傷つかずに済んだ人達はたくさんいたし、例え同じようにあの時に別れたとしても、お互いもっとやさしい気持ちになれたに違いないんだ。オレさえしっかりしてたら、スギノがこんな所に来ることもなかったんじゃないかって」
「ワタナベ君、わがまますぎるよ」
 スギノは言った。
「そんなの誰だってそう思うよ。みんなにやさしくなれたらって私も思うよ。でもあの時あの場所のあの言葉は、あの時のワタナベ君にとっては、ワタナベ君に出来る選択の中で想像する、精いっぱいのやさしさだったの。そうでしょう? 意地悪しようと思って言ったんじゃないでしょう? 傷つけたくてそうしたわけじゃないでしょう?」
「そうだけど‥」
「いいの。それでいいの。いちいち全部を振り返って反省、確認してたら、時間がいくらあっても足りないし、これから起こる未来のたくさんの事にきちんと向かい合う余裕がなくなっちゃうの。あの時の私はワタナベ君をとても好きだったし、あの時のワタナベ君はそれに応えないことが一番いいと思った。ただそれだけのこと、もう済んだこと、そこには『もし』なんて可能性はないの、1%もないの。ね、わかるでしょう?」
「振り返って思うことは、ただ後悔するだけじゃなくて、これからのことに生かせってこと?」
「んーん、ちょっと違う。あのね、知ってる? 時間には過去も未来もないんだよ。ずっと今が続いてるだけなの。私たちは『今』っていうほんの一瞬を繰り返し選んでいくことで過去を作り、そこから見える未来を迎えてゆくの。だから一生懸命にならなくちゃいけないのは過去の反省でもなく未来を夢見ることでもなく、ただ『今』を大事にすること。『今』を抜きにして何かを作っていくことなんてできないの。先のことも後のことも考えなくったって今を生きれば勝手にできてゆくの。大事なのは今をちゃんと全力で選ぶ事、それに一生懸命になることなの。嘘をつかないことなの」
「懐かしい日々のことは?」
「過去は過去、思い出は思い出、今は今、そうでしょ?」
 過去の中の止まった時間の中に生きているのは、前に進めずにいるのは、スギノではなく僕の方だった。冷めてしまったコーヒーに手を伸ばした。ソーサーとカップが震えてカタカタ音を立てた。僕は自惚れていたのだ。誰もがまだあの時間の中にいて、僕を必要だと言い続けてくれると思い込んでいた。そうだ、誰ももうあの時間の中になんか生きてはいない。イワシミズがセーラー服の短いスカートをひらひらさせて僕の指先だけをぎゅっと握ったままついて来ることもないし、その僕をタカナカがにらみつけることもないし、ヤマダユリコがあらかじめループしてる問題を僕に突きつけてくることもないのだ。
「何やってんだ、オレ」
 僕は手のひらにべったり汗を掻きながら、スギノの目を見ることができなかった。
「おかしくないよ、ワタナベ君」
 スギノは優しく微笑む。
「だって、なんか悲しいよ」
「やさしいだけよ」
 スギノはそう言ってくれるけど、もちろん逆効果だ。
「人にやさしくしようって思うのはいいことだよ。みんなワタナベ君みたいに、早くその事に気づいたらいいのにって、私も思うよ」
 どんどん暗い気持ちになってきた。スギノってこんな娘だったかなぁ。おかしいな。僕の冗談に素敵な笑顔を見せてくれる、肌の綺麗な女の子じゃなかったっけ。灰色のブレザーの制服に、豚皮のお手製鞄を背負ってトコトコ歩く、キュートな娘じゃなかったっけ。僕を好きだと言って、わんわん泣いたあの娘は誰だっけ。
 誰でもないのだ。全部それは思い出の中に生きてるスギノなんだ。僕だけがちっとも前に進んでいないのだ。止まったままなのだ。そうだ。僕がアサコのうちから帰るときに探していたスギノは、今ここにいるスギノじゃない。19才のスギノであり、あの夏のスギノであり、僕を好きなままのスギノなのだ。僕だけを好きでいるスギノの幻想なんだ。僕はぞっとした。
「オレ、なんかまだスギノのこと好きみたいだ」
 スギノが笑った。言った途端に僕は恥ずかしさにまみれた。
「私も好きよ」
「‥ありがとう」
 と僕は言った。これじゃあべこべだ。


 保養所の周りを一緒に歩いた。スギノが育てたブドウを食べて、日系のおばあさんの死に別れた恋人の話を聞いたり、熊みたいに大きなセントバーナードをこわごわなでたりした。
遺跡を掘ってるとね。いろんなものが出てくるでしょう? 壺や骨や花粉や火山灰とか囲炉裏とか。あれってね、どんなものが出てきても、もう新しい発見なんてほとんどないんだって」
「でも新聞とかによく載ってたりするじゃない、国宝級の錆びた銅の剣とかさ」
「いや、あれもそんなにすごいことじゃないらしいの。いままでたくさん出たうちの、比較的損傷の少ないものとかその程度なの。歴史を塗り替える大発見なんてないんだって。じゃあなんで掘り続けて壊れた壺を修復したり、何万枚も写真を撮って溜めこんでるのかって言うと、やっぱり人を説得するためなの。そうしないと国からお金を出してもらえないからなの。こんなに大変で大事な事をやってるんだからお金がもっと必要です、足りないんですって言い続けないと、文化的に本当に大事な研究ができないからなの」
 スギノは海を見つめたまま話し続ける。
「本当に大事な研究っていうのは、どの時代のどの流行のどの辺に位置するのか系統的にマッピングしていったり、革新的な人が作ったオリジナルなのか、下手な人がその真似をしたものなのか見分けたり、隣りの村の文明との混ざり具合の比率や順序を測ったり、いつが終わりともわからないそういう類いの研究なの」
「ものではなく関係ってこと?」
「関係、そう、まさにそうなの。でも、それじゃあ誰もお金をくれないの。成果として形になりにくいの。だから、現地の作業をたくさん増やして請求額を水増しするんだけど、そのとき私が思ったのはね」
 スギノは海から目を離さずに喉に手を当てて、声が出やすいか確認した。
「幸せっていうのはものや人ではなくて、その関係に含まれているんじゃないかってこと」
 スギノは続ける。
「壺なんていくら掘ったって、そんなのただの壺でしかないの。家の戸棚にある何気ないお茶碗や湯のみと同じで、単体ではたいした意味も価値もないの。大事なのはそれがどの時代の文化から現れて、それが他のものの中でどういう役割や位置を占めていたのか。あるいはその周辺から掘り出したすべてのものから浮かび上がってくる当時の気候なり食生活なり信仰心の方が、考古学としてはむしろ重要なのよ」
「目に見えにくい部分だ」
「そうなの」
「その信仰心や生活に当たるのがスギノの言う幸せなんだ」
「現実的なかけらを集めて、しかもそのものじゃないものをイメージすることでしか構築できないっていう意味で、すごくそう思ったんだ。だって考えてよ。そんな時間の層が私たちの生まれる前からずっとずっと積み重なっていくつもいくつも土の中に眠っているんだよ? 昨日の次に必ず今日という日が来て、今日の次に明日が積み重なって、その順番は絶対に間違うことがないでしょ? 縄文土器の下に不発弾は埋もれてないでしょ? その絶対の中の点と点をつなぎ合わせて、きっとどこかにある真実を探し求めてる考古学者っていうのは、きっと私たちが幸せになりたい、幸せってなんだろうって考えてる気持ちに、とても近いんじゃないかな」
 順番が変わらないってことは、と僕は言った。
「やっぱり不都合が多いかな」
「始めから、全部が全部決まってんじゃないかって思う時もあるよ。それこそ宇宙的な意味で」
「こうしてスギノに会えたことも?」
「そうだね、決まってたのかもね」
「あらかじめ決まった何かの中でしか、幸せって手に入らないのかな」
「実態はないかもしれないけど、なんとなくの輪郭はみんなの共通の意識やルールとしてしっかりあるような気がする」
「運命みたいなものも含めて?」
「うん、時間はやっぱり偉いと思うよ」
「オレ、よくわからないよ」
「だって思い出を水に流すのも、傷穴をやさしく覆うのも、より一層思いを募らせるのも、すべて時間だもん」
「逆らえない?」
「逆らう、逆らわないっていう問題じゃないよ。そんな選択肢はあらかじめないんじゃない? だって誰にも抗えないもん。違う? あ、でもスーパーマン地球を逆回しにして好きな人助けたんだっけ」
 僕は水平線を見つめながら、この海のずっと向こうにはちゃんとアサコがいるのかなぁと不安になった。ひょっとしたらもう地球上のどこにもいないような気がした。僕が知らないだけで、数秒前の八王子核爆弾が落ちていて、アサコは粒子になってしまっているかもしれない。
 スギノはそっとそばに近づいて僕の頬にキスをした。大丈夫だよと囁いた。
「ワタナベ君なら、きっと大丈夫だから。ね?」
 それは何だか意味がわからないキスだった。あの夏の新宿の時みたいなやさしい石鹸の匂いもしなかった。スギノはにこにこして僕の横顔を見ている。僕は黙って海を見続けた。




 保養所から帰ってくると、シブヤさんとタマキさんはセックスをしていた。僕は口笛を吹きながら、呑気に合鍵で玄関のドアを開けて、もう少しでただいまーと元気に言ってしまいそうになった。いつも開いてる居間の扉が閉めてあって、そのガラス越しにシブヤさんの顔が見えた。僕は「今日は早いんだ」と思い扉に手を伸ばしかけた瞬間、その表情からすべてが同時に理解できた。僕は抜き足差し足で外に出たけど、多分ばれてたと思う。やっぱりタマキさんはシブヤさんと昔、何かあったんだ。何百分の1秒かわからないけど、ちらっと見えたタマキさんは、両足を天井に突き出して、やっぱりオンナの顔をしてた。心を許した人にしか見せない表情だ。タマキさんのそんな顔を見たのは初めてだ。知人のセックスを見たのももちろん初めてだったけど。


 自転車を借りて海に行った。砂浜に自転車を倒して靴と靴下を放り投げ、ジーンズのままバシャバシャ海に入る。冷たい海水と砂の粒が足の指の間を抜けてゆく。こめかみのあたりまでざわざわしたものが昇ってきて、星のように弾ける。大声で叫んでみた。気持ちがいい。バカヤローとも言ってみた。防波堤にいた何人かがこっちを向いた。僕は笑った。すっきりした。僕は思いつく限りの言葉を片っ端から全部叫んでみた。砂浜でジーンズが乾くのを待った。太陽が沈み始めていたので乾くのには時間が掛かりそうだった。待っていると無意味に勃起した。そうか今日でもう8日もアサコとしてないんだなぁと思った。アサコの言葉を思い出す。
「何で、これ、覚えて、らんないん、だろう」
 腰を使いながら、全部覚えてたら他のことが手に付かなくなっちゃうだろ、と僕は言った。アサコは朦朧として息を荒げていた。僕が再び深く腰を沈めると、短い悲鳴のような声をあげて抱きついてきた。
 アサコの夢中な顔は何度見てもいい。上気した肌に触るのも好きだ。アサコはみんなと比べると全然美人じゃない、背も低いし、胸だって小さくて固い。持ち物の趣味だってけしていい方じゃないし、人付き合いも下手だ。でも僕といる時のアサコは他の誰にも代え難い。肌を合わせていると、朝露の中で羽化したばかりのように透きとおって、危なげでどうしようもなく「本当」をむき出しにした無防備な生き物が、僕の腕の中で踊る。僕が守ってやらなきゃなぁと思わせる。実際アサコにそういう気持ちを抱く男は少なくない。かつてタカナカがそうであったように、ジイちゃんもイッチー(だかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだか)の次にアサコを愛してるなーなんて軽々しく言う。


 辺りはもう暗くなっている。セックスはもう済んだかな。僕は自転車を起こして、道路まで押して行った。チェーンについた砂が嫌な音を立てた。水平線の向こうに沈んだ太陽が、海面にオレンジ色のヘアラインを作っている。あんな綺麗な曲線を、あんな綺麗な色で光らせてしまったら、どんな絵の具も勝ち目がない。僕は『ルパン三世』のエンディングの歌を歌いながら、タマキさんちに帰った。


「あ、おかえりー」
 二人はもう裸ではなく、タマキさんがカレーを作って待っていてくれた。グリーンサラダに缶詰のアスパラがのっている。病人のちんちんみたいだ。あとは白ワイン、ゆで卵をスライスしたもの。僕をずっと待っていたのか、氷水を入れたピッチャーも汗を掻いている。
「会えた? 昨日の彼女」
 シブヤさんは、さっきまで二人のベッドの代わりになってたテレビの前のソファで野球を見ながら、タマキさんは髪をアップにまとめたエプロン姿で、カレーをよそりながら僕を迎えた。
「ん、あぁ、元気だったよ。ブドウを御馳走になったよ」
 僕はしゃべると二人になんか余計なことを言ってしまいそうで、よそってもらったカレーを間髪入れずに口に頬張った。目線もなるべく合わせず、テレビに夢中な振りをした。シブヤさんは、呆れたような顔で僕を見ていた。その目線が僕には「わかりやすすぎんだよなぁ、ナベの反応は」という声で聞こえた。僕は昔から隠しごとが下手なのだ。


 今日こそアサコの声を聞こう。僕はそう決心した。日本はいま朝の5時だ。時差は8時間ある。僕は腕時計とにらめっこしてあと3時間待つことにした。バルコニーに出て煙草を吸い、昨日スーパーで買ってきた新しい長編小説を読んだ。テレビでは『ロボコップ』をやっている。僕が見たことのない場面をやっているので、きっと続編なのだろう。日系の悪役が走り回る後ろで、叫び声や爆発音が続く。
 本を読み終えても1時間以上が余ったままでいた。『ロボコップ』はもう終わって、49ersフットボールをしていた。
 もう一度煙草を吸いにバルコニーヘ出て、それからアサコに手紙を書こうと思った。お気に入りの万年筆を持ってきていたから、手紙を書くのに使いたかったのだ。




「  アサコヘ

 これから僕はアサコんちに電話を掛けようと思う。もうすぐこっち
は夜の12時だよ。そっちは朝の8時になるはずだけど、いつものお迎え
よりちょっと早いかな。
 免許はどう? 進んでる? 僕は今イタリアにいるんだよ。何か不
思議だね。ジイちゃんもすごい元気だし、食事がうまいよ。いつもの
倍くらい食べちゃってる気がする。今日はシーフードカレーだった。
暑くてビールばかり飲んでるよ。
 昨日、丘の上から海を見ていたら、この海の端っこはちゃんとアサ
コのところまで続いてるのかなと思ったよ。僕がいない家はどう?
僕はアサコがいなくて毎日じたばたしているよ。一緒に来れたらよか
ったのにね。
 離れているといろんな事がわかるよ。おとといの夜パーティーをし
たときは、飲み過ぎて心臓がバクバクいって寝れなくなったんだけど、
そんときはほんとに背中と胸を擦ってほしかったよ。アサコの手や体
温や匂いがとても必要だと思った。アサコにもそういう日や時がある
のかな。
 あと22日で東京に帰ります。あそんでね。


                         トモユキ 」




 時計を見ると12時を回っていた。僕は受話器を取った。募る気持ちを確かめるみたいに慎重に慎重に番号を押してゆき、回線が海を渡ってゆくのを待った。朝の8時だもんな。今日こそきっと話せるよ。トゥルルルルルルー‥ トゥルルルルルルー‥。1コール、2コール、3コール、4コール。朝だよアサコ。5コール、6コール。低血圧なのはわかってる。一声だけでいいから聞かせてよ。7コール、8コール。顔に血が昇ってゆくのがわかる。9コール。喉がひりひりしてきた。受話器を置いて番号を確かめながらもう一度かけ直した。結果は同じだった。眠ってるのかな。友達のうち? でも泊まりなんて。あ、と僕は声をあげた。池袋の実家! アドレス帳を走って取りにゆき、慌てて番号を押していった。
「はいクドウです」
 出たのはお母さんだ。さすがに遠くて、声ががさがさする。
「朝はやくから申し訳ございません。ワタナベと申しますけど、アサコさんはそちらにいらっしゃいますでしょうか?」
 僕の心臓はもう飛び出しそうだ。
「あぁ、アサコねぇ、いますけど、今ずっと寝てるんですよ。あの、おととい教習所行くときにね、交差点で車に自転車引っ掛けられて地面に頭ぶつけちゃってね…」

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951105

1995-11-04

「響きの水」4章

|  「響きの水」4章を含むブックマーク



 色の濃い、異国のきらめきが僕らを包んだ。ジイちゃんと顔を見合わせる。サングラス越しに喜びを隠せない24才のまなざしが見える。僕も駆け出した。
 シブヤさんの知り合いタマキさんは、絵に描いたような健康美人だった。腕なんか僕よりずっと太いし、白い歯が綺麗で、ピンク色のラバーに包まれた小さなバーベルやエクスパンダーなんかが無造作に床に転がっていたりする。


 ジイちゃんは毎日、カメラを片手に駆けずり回っていた。寺院や橋の写真を撮っているみたいだ。僕は時差ボケを理由にゴロゴロさせてもらっていた。合鍵を領かっているので、彼女の仕事中、自由に出掛ける事はできた。僕は毎日自分の昼食を作っては言葉のわからないテレビをつけて食べた。レコードをかけて、植物に水をやったり、洗濯をしたり、掃除をしたりして昼間を過ごした。日が傾いて涼しくなってからやっとシャワーを浴びて、散歩を兼ねた夕飯の買出しに出掛ける。
 西日をサングラスで避けながら海沿いをぼんやり歩いていると、お爺さんがくしゃくしゃの煙草をくわえながら何かを構えていた。よく見るとライフルで飛んでるハトを無表情に撃っている。しかし音からするとあれはエアガンだろう。酒に酔ってる様子もないところを見ると、ただの暇潰しか、稼業に関係のある何かの恨みかも知れない。隣に息子ぐらいの年の若者がいて、落ちる鳩を指差し大声で笑っていた。
 そうだ、今日は週末だからパーティーだな、と勝手にそう決めつけた僕は、食材をたくさん買いこんだ。2種類のパスタワインビール、チキンと、ピザと、茹でたソーセージと、魚介サラダを用意した。ジイちゃんは本当に容赦なく食べた。彼女にも喜んでもらえた。ずっと誰かの手料理が食べたかったの、と彼女は言った。何か、涙が出そうだわ。
 お祝いっぽいレコードがあまりなかったのでクリスマスソングで我慢した。蒸し暑くてとにかくビールがうまい。
「んあー! もうサイコー」
 ジイちゃんが叫んだ。
「来てよかったねー」
 乾杯しながら僕も言った。
「ずっといてよー、日本語しゃべるの久し振りなのよ」
 タマキさんが言った。
イタリア語はもうペラペラなんですか?」
「ははは、いや全然。英語とごっちゃにして伝わればいいかって感じ」
「言葉なんて伝わりゃいいんだよ」
 もっともらしくシブヤさんは言う。
「そうは言うけど、商談だしねぇ」
「どんな時困ります?」
「うーん、何か発注された数ひと桁間違ってたりとか、サイズもね、メートル法じゃないから時々違うサイズを送っちゃうの」
 タマキさんの勤めている会社はカーペットの商社だ。
「色もさ、現物の見本があるんだけど、いかんせん中国のだから、染めが全部違うのよ。怒られてばっかりよ」
「んーでも、いいとこに住めてよかったじゃん」
「まーねー、唯一の救いって感じだけどねー」
 タマキさんは、後ろの大きな棚から、高そうなワインと冷やしたグラスを3つ器用に持ってきた。ソムリエナイフを使って包装を剥ぎ、もう日常的な動作という感じに簡単に栓を抜いた。
「あれ、そういやぁ、男は? 結婚するんじゃなかったっけ?」
 ジイちゃんはソファにうつぶせになりながら、腕をだらりとさせて、目も向けずに言う。
「それがさー」
 タマキさんは大きな声でジイちゃんの注意を向けて、
「ダメんなっちゃったのよー。信じられるー?」
「あらー」
 ジイちゃんはどうでもよさそうだ。たぶん恐竜の脳味噌以外は寝てしまっているのだろう。タマキさんは仕方なく相手を僕に代えて話し始めた。僕は空いた彼女のグラスにワインを注いだ。
「今年の春にね、結婚を約束した人がいたの。会社によく出入りしてる業者で、イタリア人だったんだけど、英語しか喋れないっていう人で、ずーっと仲良くって。あたしの仕事の終りをいつも向かいの喫茶店で待っててくれるの。お互いの家にもよく行ったし、映画やバーや海にもよく行ったな。イタリア人て誰でもそうなのかも知れないけど、女の人を喜ばすことにすごく真剣なのね。お花を買ってきてくれたり、ちょっとしたアクセサリー全然おもちゃみたいなやつだけどくれたり、海に行けば自分の上着を敷いて、その上に座らせてくれたり ‥あ、ほら、わたし特に女っけない感じだから、やっぱり余計ね、そういうのがうれしかったの。足りなかったのよ。そういう風にされて初めて、誰よりも大事にされてる気になれたの。で、わたし、この年でばっちり夢を見ちゃったのよ。白馬の王子様がやってきたんだじゃないけど、何か、こう自己暗示みたいなのに掛かってね‥・」
 ジイちゃんは寝息をかき始めている。僕らは顔を見合わせて笑った。
「シブヤくんて昔からこうなのよね。一人でガーッて飲んで、一人で寝ちゃうの」
「ほんとですね」
「女の子と二人でも平気でこうなのよ、ひどいでしょう」
 僕は笑った。
「苦労するわよ、彼みたいなタイプ好きになっちゃった娘は」
「なんとなくわかります」
「聞いたわよ。いるんでしょ、すごい可愛い彼女が」
 タマキさんのしゃべり方は、僕が知らない頃の二人の関係を想像させる。ジイちゃんはどう思っているか知らないが、これは昔の恋を語る口調だ。
「そうですね。とても明るくて魅力的な人です。僕も仲よくしてもらってます」
「きっと、髪が短くて口の大きな娘でしょ? 違う?」
 僕は笑った。
「そうです。昔からそうなんですか?」
「いや、見た目で決めてるって訳でもないんだろうけど、うーん、でも結果的にはいつもそうかもね」
 窓の外には月がのぞいていた。カボチャみたいに重い色の月だ。アサコは今教習所に通っているだろうか。僕のことを時々は思い出してくれてるかな。いなくなってせいせいしてるだろうか。僕は君のことばかり考えているよ。今日みたいに酒を飲んだりすると、もう反射的に恋しくなる。べっとりしたキスがしたくなる。あーもう! やっぱり危険を犯してでもつれてくるべきだったかなぁ。すんげー寂しいよ。
「まだ飲む?」
 タマキさんは空いた食器を台所に運んでいた。彼女もけっこう酔っていた。
「あ、僕、明日洗いますから」
 僕は慌てて立ち上がったけど、足元がふらふらしていた。サイドボードに手をついて、危うく植木鉢を落としそうになった。タマキさんがそれを見て笑った。仕方なく僕も笑った。
「もうやめときましょう。明日は外に出たいしね」
 僕はうなずき、毛布をもらって部屋の電気が消えた。


 心臓が弱い僕は、ワインのせいか動悸がして、眠ることができなかった。さすってみたり、目を閉じて深呼吸してみたり、忘れた振りをしたりするものの、一向に穏やかになる気配はなかった。ベランダの窓が開けっ放しになっている。僕は起き上がり、差し込む月明りの中で風に揺れるカーテンを見ていた。やがてそれにも飽きて、大きな音を立てないように裸足のままバルコニーに出て、煙草をもう1本だけ吸った。今日は吸い過ぎだ。アルコールが入ると止まらなくなってしまう。
 外はまだ蒸し暑い。空には馬鹿みたいに星があふれてる。画鋲のケースをぶちまけたみたいにギラギラしている。
 京都で見た星空は綺麗だった。去年、僕とアサコは夏休みの今頃、ふたりだけの小さな旅行をした。お金なんか全然用意できなかったから、帰郷中のアサコの友達の下宿を借してもらった。往復も夜行バスで食事は自炊した。でもそのお陰で1週間も一緒にいられた。夜通しセックスして、ぐったり昼過ぎまで寝て、夕方涼しくなってから服を着て外に出た。アサコの作る飛んでもないセンスのスパゲッティや、スーパーで買ってきた小さな花火セットも楽しかった。そんな誰にも急かされない二人の時間は、もう二度と来ない気がした。
 僕は今、イタリアにいる。アサコは今、八王子にいる(はず)。僕は今、夜空を見ている。アサコは今、車に乗っているかな。教習所の話しばかりしていたので、それ以外の姿がさっぱり思い浮かばない。今みたいに学校の課題がないときは尚更だ。僕が来ない部屋はやっぱり寂しいかな。僕以外の誰かが来てるのかな。買い物に出掛けてるかな。それとも何もなかったみたいにテレビを見て笑ってるだろうか。全然わからない。僕が普段いてもたってもいられなくなってアサコに電話を掛けると、5コールも6コールもしてからじゃないとなかなか出ないくせに「いま私もトモユキのこと考えてたんだ」なんて無邪気に言う。「何してた?」って聞いても「えー、テレビ見てたー」とか「ベッドの上で本読んでたー」って答える。きっとそれは本当の事なんだ。
 バルコニーから見える海は、夜なのに青くきらめいて見える。細く裂いた黒いビニールのようにも見える。波が弱いのと月の光が強いせいだ。海沿いの道を歩く僕らみたいに酔った若い連中の笑い声が聞こえた。




 翌日タマキさんは僕らの観光ガイドになってくれた。とは言っても名所や買いものにはハナから興味のない僕らだ。タマキさんはレンタカーで、見晴らしのいい雑居ビルの屋上や、おいしいホットドッグの出店や、裸で泳げるビーチ(多分誰かのプライベート・ビーチだ)や、品のよいギャラリーや、日本の雑誌を置いている本屋や、初めてでも危なくないクラブに連れていってくれた。
 借りた車がオープンカーだったせいもあって、頭上を吹き抜けてゆく潮風と太陽に心も体も充電されるような気分だった。
 その時だ。歩道に溢れる人ごみの中で、僕はレコード屋の万引き防止装置みたいにその存在を感じ取った。僕が反対の歩道を見ていたとしてもきっと見逃さなかったと思う。
「停めて!」
 と僕が叫ぶと、つんのめるようにして車は停まった。驚くタマキさんとジイちゃんを置きざりにしたまま、オープンカーからドアを開けずに飛び出して、今来た道を走り出した。歩道の人混みはまるで僕の行く手を遮るように向かってくる。真夏の太陽が走ってる僕の肌を焦がした。ソフトクリームを持った子供にぶつかって、それが僕の脇腹に当たって落ちた。子供は泣いた。ごめん、今それどころじゃないんだ。なかなか前に進めない。僕は通勤ラッシュの山手線に乗りたいわけじゃない。外人と体をこすり合わせているうちに、僕のシャツは自分のではない汗ですぐにべたべたになった。首を振って行き交う人々の顔をひとりひとり確認していると、振り向きざまサングラスが弾け飛んだ。飛んだ先を探す前に、誰かに踏まれて割れた音がした。汗が流れて顎の先まで垂れてくる。シャツについていたアイスクリームは溶けてジーンズを汚している。眼鏡がなくなり、人の顔もよくわからない。目の端に映っただけだというのに、人違いはありえないと僕は確信していた。しかし見失ってしまったかもしれない。そうだ青いシャツだ。青いTシャツを着ていた。僕は何度も飛び上がって青い色を探した。みつからない。僕は縁石にへたってしまった。でもそれは結果的に正しい選択だった。縁石の脇で露天でシルバーのアクセサリーを見ているその華奢な後姿。僕は思わず笑い転げそうになり、こぼれる汗と呼吸を整え、ついに声を掛けた。
「スギノ!」
 スギノマリアはイタリアで聞く自分の名前を、自分にしか話しかけない妖精の声でも聞いたかのような顔で振り返った。
「ワ ‥タナベ、くん?」
 僕は思わず汗でべったりの両手を差し延べた。
「やっぱりスギノだったんだ−。さっがしたー」
 スギノは状況が未だに飲み込めずにいるらしく、大きな目を何度もばちくりさせて、笑った方がいいのか泣いた方がいいのか、それとも怒るべきなのかと、どの表情からも中途半端な顔をした。
「ど、どうしちゃったの? なんでここにいるの?」
 僕が手品を披露したような顔だった。
「たまたま車で通り掛かっただけなんだけどさ」
「たまたまって、え、なんで? うそでしょ?」
「うそじゃないよ。オレもすごくびっくりしてる」
「なんでイタリアでたまたま会えるの?」
「わからない、でも会えたんだ」
 僕は両手を固く取り合ったまま、収まらない心臓の鼓動と、スギノの不安そうな顔をなくそうと笑った。彼女の不安が僕の手を伝わってくるのがわかった。
「元気そうだね」
 僕は言った。そう言わなくちゃならないほど選択肢がなかった。少し会わない間にスギノはずいぶん変わっていた。栗色の髪は金色になり、目から怯えた小動物のような色が消えないし、第一あの素敵な笑顔がない。色白で赤ちゃんみたいに透き通った肌も、色っぽかった細い指先もなんか前と違った。
「ほんとう久し振り、2年、振り?」
「そうだね、2年になるかな」
「大学は? T大、受かったんでしょう」
「うん、楽しくやってるよ。スギノは?」
「あたしは駄目。学校行ってないの、今」
「ずっと?」
「‥うん」
「こっちに引っ越したの?」
「‥ん、ん−ん、遊びに来てるだけ。ワタナベ君は?」
「ん、オレも友達と来ててさ。実は、そこに待たせてるんだ」
「え、いいの?」
「いいよ。ね、それで普段は?」
「普段は‥ 平日は遺跡発掘のお手伝いとかしてる」
「発掘? 掘ったり?」
「うん、掘ったりとか‥ 計ったりとか‥ 写真撮ったりとか、壺の破片洗ったりとか、いろいろ」
「へえ」
「雑用みたいな感じだけど」
「もう長いの?」
「んー、まだそんなに。半年とかね、そんくらい」
「あ、そっか。そういう調査って時間かけてやるんだよね」
「うん、1年とか2年とかね」
「少しずつ大事に大事に掘るんだ」
「粘土べらとブラシで、しゃかしゃかって。1日にね、ほんの少ししか進まないの。スコップはね、移植ごてって言うんだよ」
「そういうの向いてそうだね、スギノ」
「うん、向いてると思う。わたし」
「楽しそうだ、どろんこになって」
「あのね、穴の中ってね、いいんだよ」
「静かで?」
「うーん、一人で集中するのに向いてるから、かな」
「絵を描くのに似てるのかな」
「ん、そうね」
「時間を忘れる?」
「うん、変な姿勢で何時間もいて、穴から出れなくなったりする」
 そう聞いて僕は笑ったけど、長いインターバルのせいか、それとも今日という日と場所のせいなのか、うまく笑えなかった。その不安の理由はすぐに分かった。
「あのね、遊びに来てるっていうのはほんとは嘘」
 スギノが申し訳なさそうに言った。
「保養所があるの、そばに。そこにいるのあたし」
 スギノがうなだれてしまったので、慌ててまた手をとった。
「つらい?」
「んーん、楽しい。でも突然ワタナベ君に会ったから、すごくびっくりして‥」
 僕は途端に申し訳ない気分になってきた。リハビリの中で僕は彼女の障害になっているかもしれなかった。
「ごめん、驚かしに来たわけじゃなかったんだけど‥」
「ワタナベ君、元気にしてた?」
 スギノは無理な笑顔で言う。
「うん、ずっと元気でいたよ」
「あたし変わった? ねぇ、変わって見える?」
 すがるような目で彼女は言った。
「ううん。昔のまんまだ」
「寂しそうな顔してない? 悲しそうに見えない?」
「してないよ」
「どんなふう?」
 僕は彼女の目を見て、馬鹿なこと聞くなというふうに言った。
「僕の好きなスギノのままだよ」
 スギノはほんの一瞬笑顔を見せた。
「‥ありがとう」
 でも、それはとても悲しげな笑顔だった。


 保養所の電話番号と住所をもらって車に戻ると、二人は椅子を倒して大きなソフトクリームを舐めていた。さっきの子供に買ってあげるの忘れちゃったな。それにこの染み‥。
 僕は二人に謝り、夕飯はおごるからと約束した。もう夕方だ。
「昔の女?」
 見てもいないくせにジイちゃんは的確な突っ込みを入れてくる。
「帰ったら、アサコに言っちゃおー」
「ちょ、ちょっと」
「あら! ワタナベ君、いるんだー彼女」
「あー、なにおまえ、昨日オレが寝てる間にタマちゃんに言い寄ったの?」
「しないわよ。誰かさんじゃないんだから」
「オレ、ジイちゃんに毛布かけてやったのに」
「あ、ごめんなさい。悪かったです」
「ねぇねぇ、彼女ってどんな人?」
「え、どんな人って‥」
「はーい、僕が言いまーす。やさしくて可愛くてやらしくて、ナベにはもったいない娘ー」
「えー、やらしいのー?」
「やらしくないですよ、ジイちゃん何言ってんだよ!」
「えー、洒、コップにこーんなちょこっとですぐ酔って、やらしい目するじゃん」
「やらしい目するとやらしいのかよ」
統計学的には」
「オレの経験では、の間違いでしょ」
 タマキさんの指摘にみんなが笑った。夕飯はロブスターの店で、安くてでかい海老やカニをたらふく食べた。ビールがとにかくうまい。昼間たくさん汗をかいて、うまい飯にありついてる証拠だ。これ以上口に入れたら戻ってくるというところまで詰め込んで、また下らない冗談を言い合いながら家路に就いた。ドラえもんの『どこでもドア』を開けたとき、裏側に回ると開いたドアの空間には何が見えるのかみたいな話しだ。
「多分ね、ドアの裏側の絵が貼ってあるんじゃないかと思うわけ」


 みんながアサコの話しなんかするから声が聞きたくなった。迷ったけど、電話を借りることにした。日本は今は朝かな、夕方だろうか。長い長い電話番号をたどたどしく押しながら、ブツブツと回線が海を渡ってつながってゆく音を聞いた。電気と電話を考えた奴は偉いな。僕はこんな時いつもそう思う。どんなに離れていたって、僕が番号を知ってる電話のそばにいさえすれば、今が繋がるのだ。今を伝えられるのだ。1台目の電話を作った人はどんな気持ちになったんだろう。
 僕はうきうきしながら回線が繋がるのを待った。もうすぐだ。アサコは今寝ているかも知れない。でもこの気持ちを抑えてくれるのは君の声以外にないんだ。世界中探したって代わりがないんだ。国際電話で喧嘩したって僕は構わない。声さえ聞けたら満足なんだ。トモユキって呼んでよ。今何時だかわかってんのって怒ってよ。あ、回線が繋がった。トゥルルルルルルー‥ トゥルルルルルルー‥。何コール目にアサコは受話器を上げるかな。3コール目? 5コール目? それとも8コール目? 僕は今にもほころびそうな顔でコールを聞き続けた。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951104

1995-11-03

「響きの水」3章

|  「響きの水」3章を含むブックマーク



 不景気で親父の仕事がなくなってから2年が経った。母親の再就職と貯金で埋めてきた出費にも、もう限界が見えていた。
「オレ学校やめて働くよ」
 1年前、僕は鼻息も荒くそう言った。それを聞いて母親はため息をついた。
「あんたがいま学校やめてどうすんの。アルバイトでもするつもり? 就職は?」
「そんなのいつかどうにかなるよ。問題は今だろ?」
「せっかくいい大学に苦労して入ったんじゃない。今までのお金も全部無駄にするの? あんたの気持ちはわかるけどね、ほんとに家のことを考えてるなら、ちゃんと卒業していい仕事に就きなさい。いつかは結婚だってするんでしょ? ふらふらバイトなんかしてたら、きっとあなたのためにならないわよ」
 でも、と僕は言った。
 さえぎるように妹が言った。
「おにいちゃんって何かドラマの人みたい」


 そうは言っても状況は悪くなる一方だった。少なくとも8月には今を維持する事はできなくなる。親父はそう言った。ここを売ろうと思うんだ。
「引っ越すの?」
 妹が一番動揺していた。
「それに、パパとママは別れようと思うんだ」
 ドラマみたいと笑った妹の言葉が遠い昔に思えた。
「もう今のままは、疲れちゃったんだよ」
 親父には愛人がいた。大学時代の恋人だった人らしい。母がよくそう罵倒していた。仕事がない親父は毎日、家でごろごろしていた。母は働き詰めで、体調をおかしくしていた。病院と仕事場を経て家に帰り、母がまず目にするのは、大きな音で鳴っているテレビと、パジャマのまま寝そべり顔も見ずに「おかえり」と言う親父の背中だった。とても耐え切れないという感じによく母は言った。
「あんた一人ちょっとでも働く気があれば、家はとても助かるのよ。なのになぜ毎日そう寝転んでテレビを見ていられるの? 恥ずかしくないの? テレビだって新聞だってトイレの水を流すんだって、みんなお金がかかってんだからね。わかるでしょう? お金がいるの。ただじゃないのよ?」
 それに対して親父の言い分はこうだ。
「景気が悪くなったのは俺のせいじゃないし、俺は自分の稼業以外で食っていく気はない。なぜなら腕に自信があるからだ。今までそうして成功してきたし、それでお前らを食わせてきたし、こうしてオートロックつきのマンションにだって住めたじゃないか。資本主義である以上、仕事のあるなしの波は避けられないものだし、そんなことにいちいち大声張り上げてるようじゃきりがないだろ」
「ええ、その通りだわ。今まであなたの腕で食べさせて頂きました。感謝してます。でもね、もう貯金は尽きたの。プライドだけであなたはここまできたつもりかも知れないけど、家族4人がこれから生活する事を考えたら、それよりも大事なものがあるでしょう? それを言ってるのよ。わたしだって、あんたにこんな事言いたくないわよ。だいたい借金の催促の手紙だって毎日何通も来てるのに、封も切らずに積んでおくだけだし、あなたが昼間どこかをふらふらしている間だって、借金取りからの電話が鳴りっぱなしなのよ。どうして1円でも早く返そうって思えないの?」
「金々ってしっこく言うけど、お前は俺の仕事の一つでも理解してるか? どんな仕事か知ってんのか? 何一つわかっちゃいないじゃないか! 知ったような口ばかり聞きやがって、俺がどれだけ苦労して、今の会社を転がしてきたかわかってんのかよ。20何年かけて、たくさん辛い思いをしてここまできたんだぞ。はい、明日から運送屋やりますってわけにはいかないんだよ」
「苦労したのはわかってるわよ。私だってずっと一緒にいたんだから、あなたにすごい才能があることもちゃんと知ってるの。でも、それはそれ、借金は借金でしょう。プライドだけじゃ誰も食べていけないのよ。飢え死にしちゃうのよ」
「だからマンション売ろうって決めたんじゃないか」
「呆れた。その程度の気持ちで家族を路頭に迷わすつもりなの?」
「路頭になんか迷わないだろ。マンションを売れば、お前の言ってる金が手に入るじゃないか。トモユキとミユの卒業までの学費も出るし、借金も全部返せるし、残りの金でアパートなり何なり借りればいいじゃないか」
「ふうん。で、あんたはその女のとこ行くわけ。万々歳ね」
 親父の声色が変わった。
「関係ない話しを混ぜるなよ」
「別に無関係な話しじゃないでしょ。別れようって話しだって、マンションのことだってあんたが一方的に決めたことだし」
「一方的? 他に選びようがあんのか?」
「よく言うわよ。何百回あたしが働きなさいって言ったと思ってんの? あたし一人でもう2年以上経つのよ。その間あんた何してたのよ。テレビのお守りしてただけ? どっかの女に長電話してただけ? マンション売れば何とかなるわって思ってただけ? ねぇ、言ってごらんなさいよ」
 親父は顔を真っ赤にして立ち上がった。でも何も言えなかった。パジャマを服に着替え、ボルボの鍵を取ると、いつものように乱暴に外へ出て行った。ドア越しに母が叫ぶ。
「そのあんたのポロ外車売れば、どれだけ助かるかわかってんの! 今度停めといたらぶっこわしてやるから!」
 僕は母の肩を持っていたが、ミユは父親に付いていた。本当は両親が違うんじゃないかと思うくらい、僕ら兄弟も物の尺度が違った。ミユと時々部屋で話す。
「なんで親父の味方なの?」
「だってママの言い方すごく頭来るじゃん。あんな言われ方したらミユだって家出したくなるよ」
「おまえが親父ぐらいの年になっても、家出したくなると思う?」
「わかんない。でもやなもんはやだ」
「やなもんはやだじゃ、きっと親なんて仕事は続かないよ」
「べつにいいよ」
 あまり生産的な会話ではなかったけど、まぁ血の繋がった兄弟の貴重な一意見ではあった。


 日曜日になると母方の祖母や祖父が来た。母は僕らを部屋から追い出して、親父の説得に精を出していた。でも50間近の男が決めたことなんてそう簡単に変わるはずもなかった。ましてや政治家の跡取りとして甘やかされて育ったうちの親父が相手では、どんなに親身な提案もラジオのように扱われるばかりだった。
 僕とミユは外で時間を潰した。僕らには何も交わす言葉がなかった。待ち疲れて家に帰ると、そこには必ず泣いている母親の背中とそれを慰める祖母の姿が見えた。たくさんの吸い殻と、一口も減ってない客用の湯のみと、やり場のない虚ろな空気が、話し合いの行く末が芳しくないことを物語っていた。祖母は母の背中を子供のようにさすってやりながら、僕らの帰りに気付くと、厳しい口調で言った。
「トモユキ、よくその目に焼き付けておきなさいよ。何が正しいのか、何が親なのか」


 アサコと抱き合っていると、そうした吐き気や痛みは薄いオブラートに包まれるように曖昧になっていった。セックスの後の心地よい疲れと眠気、僕は毎日のようにアサコのからだに甘えた。そうすると大抵の気持ちは落ち着いて、僕は僕であり続ける事ができた。
 アサコには家のことをきちんと説明していない。言い訳をするようでどうしても嫌だった。卑怯な気がした。愛情が同情に変化してしまうのが怖かったのかも知れない。事が一通り済んでから、少しずつ話した方が、お互いの為にもいいんだとか勝手に決めこんでいた。それでもアサコは僕を毎日優しく迎えてくれた。僕が行くのを待っていてくれた。素敵な笑顔で微笑んでくれた。理由を聞かないでいてくれた。明日も来てねと言ってくれた。トモユキが好きだと言ってくれた。そういう一つ一つの行為が、その頃の僕にはとても必要だった。
「僕もアサコが好きだよ」
 アサコはブラジャーに小さな胸を納めながら、うれしいような悲しいような顔で僕を見た。僕もジーンズに足を通した。体中くたくただった。
「いつだって味方だよ」
 アサコは言った。




 家に帰ると、たくさんの洋服や食器が床を埋め尽くしていて、小さな工場みたいに手際よく段ボールに詰められていた。白い手ぬぐいを被った母親は、戦中の女工さんに見えた。散らかっているせいもあるが、挨とナフタリンと古い洋服の匂いが混ざって、自分ちじゃないみたいだ。母は僕を見ると、漫画みたいに大袈裟な溜め息をついて、フフフと笑った。前髪についた綿ぼこりを取ってあげる。どんな種類にせよ数ヶ月ぶりに見た母の笑顔だった。
 引っ越し先は隣町の木造アパートと決まった。親父は田舎に帰るのだろうか?
 ミユも荷物をまとめ始めていた。彼女の財産らしいものはフェイクファーの毛皮と、テニスのラケットと、CDラジカセと、ゲームボーイくらいしかなかったけど、しまってあった子供の頃のアルバムなどを見つけると、さすがに時の流れを感じずにはいられなかった。もう4人で撮る写真は1枚も増えないのかも知れないのだ。
 僕も本棚から順に部屋を片付け始めた。大半のものを捨てたけど、それでも段ボールは20箱近くになった。アサコの写真や手紙も増えていた。塾の頃に撮った数枚の小さなアサコから、水族館や、教室や、食堂や、クリスマスや、横浜や、京都の小旅行や、誕生日のアサコが僕に笑っていた。手紙を読み返すともうきりがなかった。思いつく限りのありとあらゆる言葉を使って、僕らは「あなたが一番大事だ」「掛け替えがない」「もっとわかりあいたい」と言っていた。もう解決してしまった問題もあったし、乗り越えられずに積まれたままの問題もあった。しかしその時々のひたむきが胸を痛くしてしまうほどだった。とてもうれしかった。アサコといてよかったと思った。僕は気持ちを抑えられなくなって、この家で書く最後の手紙を書いた。


 引っ越しはよく晴れた日の午前中にあっさりと済んだ。住宅街の細い私道の突き当たりにある、とても小さなアパートだった。引っ越しセンターの髪の赤いふたりが、手際よくせっせと家具や段ボールを運んでくれた。
 エアコンがまだ繋がらないので、首を振る扇風機の前で3人並んでちらし寿司弁当を食べた。アルバイトのふたりは居心地が悪そうに隅の方でもそもそと食べた。暑いのと疲れたのとでみんな無口だった。まだ青い畳から蒸れた匂いがした。マンションから運ばれたシステム家具は檻に入れられた熊のように窮屈そうな顔をしている。僕達もやっぱりそんな顔をしているのだろうか。


 昨日の夜は高く積まれた段ボールの中で、布団に入ってもそわそわと落ち着かずに、白い天井をみつめているうちに涙がこぼれた。僕が見てきたたくさんのものを壁紙は吸い込んでいた。たくさんの染み、たくさんの匂い。そう思うと部屋の四隅がバーッと拡がって、皮膚の感覚が麻痺していくようだ。何日後にか、この壁紙は剥がされて真新しい別の壁紙が貼られることだろう。新しい絨毯が敷かれ、誰かの家具が運びこまれ、何事もなかったように誰かの生活が始まるのだろう。


 手紙の中で僕はこう結んだ。

      この部屋から出る僕は8年前とどこがどう変わったんだろう。
      ちゃんと8年分オトナになっているかな。昔より垢抜けたかな。
      優しくなったかな。昔より一生懸命生きていることだけは自分
      でもわかる。でも、それがいい方向を向いた一生懸命かどうか
      は続けてみないとまだわからない。いつか遠い未来にこの部屋
      をのぞくことがあったら、この部屋に笑われない人になりたい。
      今、僕を支えている様々な人達ごと幸せになった自分を見せに
      きてあげたい。何年後になるか分からないけど、そんときはア
      サコと来れたらいいなと思っているよ。




「アサコはイタリアに連れていかないの?」
「その前にジイちゃんの彼女の方が先なんじゃないの?」
「いや、イッチー(だかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキー)は行けないんだよ。なんかおじいちゃんの具合がずっと悪くてさ、今はもう機械につながれて生きているだけの延命治療って感じらしいんだけどさ。かと言って、その機械だって誰かの一存じゃ外せないじゃない。遺産とかからむとさ。だけどさぁ、現実問題、世話してどうなるって状態でもないから、おじいちゃんそのものは親戚中をたらい回しにされてて、たまたま今はイッチー(だかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキー)が世話役を一挙に引き受けてるらしいんだ」
「初めて聞いたよ」
「初めて言ったもん」
「それなのにジイちゃん、一ヶ月もイタリア行っちゃってていいわけ?」
「だって遊べないからどっか行っておいでって言うんだもーん」
「だもんじゃないだろ24才!」
「だもーん!」
「なんか申し訳なくなってきちゃったよ」
「何で? 関係ないじゃん」
「そういうの好きじゃないんだ」
「いいの。そういう時はそういう時なの。深く考えちゃいけないんだよ」
「どうして? 彼女のこと心配じゃないの? そばにいてあげたくないの?」
「いない方が安心する時だってあるんだよ」
「そうか?」
「わかんないんだろー? わかんないよなー。だからアサコ連れてきゃいいじゃん。な!」
 こう言うとアレなんだけど、僕はシブヤさんを男として全然信用してはいなかった。頼りになる先輩であり、触発してくれるライバルであり、気の合う友人ではあったけど、けして相談を持ち掛けることはなかった。
 僕はアサコに、この夏イタリアに行くとだけ話した。
「あたしも行きたいなー」
 僕は黙った。
イタリアいーよねー。でもあたし、夏休みは免許取るんだ」
「免許?」
「うん、お父さんが車買いかえるから、古いの使ってもいいって言うんだ。だから」
 僕は胸を撫でおろした。
八王子で取るの?」
「うん、秋には一緒にドライブできるよ」
「やった! 楽しみ」
「行こうね」
「うん」
 キスをして、もう一度僕らは笑った。ひと月くらい会わなくたって、何も変わるはずがない。僕らはまた抱き合った。昨日の疲れがまだ皮膚の下で薄く全身を覆っていた。アサコは僕のベルトを外してフェラチオしてくれた。初めてしてから1年経たないうちに僕の泣き所を全部覚えてしまった。どうしてそんなに気持ちよくできるの?と僕が聞くと、アサコは僕の顔ではなく、彼女の手の中にあるものに向かって、
「昔はうまくしゃべれなかったけど、仲良しになったんだもんねっ。ねー!」
 と人形劇みたいな事をやっている。


 アサコはその日、駅まで僕を送ってくれた。そんな事はめったにない。あんまり上手にできなかったから物足りなかったのかな。アサコはもの寂しそうに僕の後ろを離れてついてきて、駅の間近になって急に腕を抱いた。
「あたしが運転する車乗りたい?」
 僕はちょっと面食らって、返事が遅れた。
「もちろん乗りたいよ」
「一緒にドライブ?」
「そ、おべんと持ってさ」
「遠くはまだ行けないよー」
「近場でもおべんと持っていくんだ」
「それって楽しい?」
「最高だね」
「‥ほんとう?」
 何でアサコがそんなに悲しそうに見えたのか、その時にはまったくわからなかった。
教習所がんばってね。オレ楽しみにしてるからさ」
「‥うん」
 なんだか胸騒ぎがして、僕は激しい人通りの中でアサコを抱きしめてキスした。
「じゃあね」
 アサコが手を振って、僕は自動改札に定期を入れた。ガシャンと音がして向こう側に定期が飛び出したけど、今はとても帰りたくない気持ちだった。
「バイバイ」
 改札に定期を通して振り向くと、アサコはもういなかった。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951103

1995-11-02

「響きの水」2章

|  「響きの水」2章を含むブックマーク



 ねぇ、幸せってどんな素材でできてると思う? シブヤケイがそう聞いた。
「何、素材って言ったの? 今」
「幸せって何でできてるんだろう。目に見えないけど」
「素材?? 考えたこともないよ」
 放課後の教室には僕ら以外の人がいなかった。単館ロードショーのチラシ、アルミのペンケース、スプレーで塗りかけのヘルメット。
「幸せってさ、どこかにあることはみんな知ってるじゃん。自分が幸せかどうかはわかるでしょ? でも人よりどれだけ幸せかは比べられないじゃん。なんで?」
 毒にも薬にもならないこんな話しが、暗くなり始めた教室にはよく似合った。
「わかんないけど、幸せって幻想だからじゃない?」
「うん、じゃあ幻想だとしよう。幻想はどうして比べられないんだろう」
「一方通行だからだよ。インタラクティブじゃないから」
インタラクティブじゃないって?」
「『好き』って気持ちがそうじゃない? 『信じ合っているから』とかさ。比べようがないもん。お互いに一方通行な気持ちをぶつけ合ってるだけで、それは絶対同じものじゃない。重ならないし重ねようがないでしょ。だからぶつけた気持ちと返ってくる相手の気持ちがだいたい釣り合うなーって思える場合は恋になるけど、それを支えている気持ちはやっぱり幻想としか言いようがないんじゃないの?」
「じゃ、この話しは? ナベがさ、砂漠を歩いているのね。もう何日も水を飲んでなくて、今にも死にそうなわけ。そこにね、オレが突然現れて、ほらナベ!ってコップ一杯の水を差し出したら、かなり幸せでしょう?」
「うん」
「でも湖で溺れているナベに、ほらナベ!ってコップ一杯の水を出してもあんまり幸せじゃないよね」
「化けて出るよ」
「一杯の水をあげたいっていう親切な気持ちは変わらないのに?」
「なるほど」
「おかしいだろ? オレさぁ考えるんだけど、そんときコップの後ろにはオレ達には見えない『幸せ度』みたいなのがバーって伸びてんじゃないかと思うわけ。でもナベやオレ側からはコップの正面からしか見えないから、それはただの一杯の水でしかないんだけど、きっとどうにかすればオレらにも見えるんじゃないかなーって思うんだ。アリが一枚の紙の上を歩いててさ、2つの円筒形したものの断面を見るわけ。でもアリは2次元の世界に近い生き物だから、その円筒形の高さはわからずにその丸い断面の面積でしか比べられないんだよ。でも3次元のオレらが見るとドミノピザ電柱ぐらい違うものだったりすんだよ」
「変なこと考えるなぁ」
「その違いをわかりたいんだよ。わかんねーかなぁ」
 シブヤさんはうやうやしく腕組みなんかしている。
「ねぇジイちゃん、最近なんかよくないことでもあった?」
「ないよ、別に」
「ならいいんだけど」
「えーでもわかりたくない? 単純に」
「んーどうかな。思い込みじゃなくってことだよね? それって案外残酷なことかも知んないよ?」
「いや、わかったら、きっともっとうれしいよ」
「どうして? わかんないことを想像しあうことが重要なんじゃないの?」
「うん、それは確かにその通りだと思うよ。そうじゃなくてもっとお互いの趣味的な部分というか、質感的な部分でもっともっと深く共感できるじゃないかって思うんだ」
「それってさ、オレはオレ、君は君の好きなことやって楽しいねーってこと?」
「それそれ。でも今の言い方だと『勝手にやってな』って感じだけど、そうじゃなくてそういうおもしろさをわりと肌で共感しつつ、共有したいわけよ」
 僕は溜息をついた。シブヤさんの話しには時々こう出口がない。シブヤさんは目をきらきらさせて爪を噛む。たまらなくなって僕は言う。
「お茶でも飲む?」
「あ、飲みたい。いや、それよりまず飯かな」


 学バスで駅前に出る。降りる時、ちらりとアサコのマンションを見た。カーテンの隙間から明りが漏れている。きっと僕が来るのを待っているのだろう。窓際のテレビの光が見えた。僕はすぐに目線を戻した。
「ジイちゃん、彼女は? 元気?」
「あ、うん、元気だよ」
「こないだ、カエルだらけの傘を自慢してたよ」
「あれオレが買ってあげたんだよ。子供用の傘でしょ」
「あたし、カエル大好きなのって言ってた」
「だって、そうなんだもん」
「何でもカエルなの?」
「確かパジャマもカエルだって言ってたよ。見たことねーけど」
 いつものトンカツ屋には行かずに、その日は行ったことのない洋食屋に入った。二階席には僕らだけで、ウエイトレスはインターフォンで注文を1階に告げてしまうと、退屈そうに壁に寄り掛かった。
「ナベってスパゲッティ好きだよな」
「好きだね。毎日でもいいくらい」
イタリアは?」
「いつか行きたいと思ってる」
「行こうぜ、今度」
 ジイちゃんがまた突拍子もないことを言う。
「何? イタリア?」
「そうイタリアスパゲッティの」
「何でまた。思いつきで言ってみただけ?」
「いや、それもあるけど、前から行きたいなーと思ってて、そしたら向こうに越した友達からこないだ手紙が来てさ、遊びにおいでよって書いてあったから」
 僕は笑った。
「遊びにおいでよって、だってオレ知らないよその人。誰? 日本人?」
「日本人。高校の友達の女の子だよ」
「家族で住んでんの?」
「ひとり」
「へえ」
「まだ詳しい話しはしてないけど、飛行機代さえ用意すれば1ヶ月くらい面倒見るって言ってくれてるからさ」
「‥いや、それは願ってもない話しだけど、だってあまりにオレ関係なくない? その人と」
「あー、だいじょぶだと思うよ。気さくな子だし」
「気さくって言っても、見たことない男1ヶ月泊めるか、ふつー」
「わからんが、オレは泊めてもいい気がする」
「一人暮らしじゃ三人が寝泊まりする用意なんてできないんじゃない?」
「ばーか、雑魚寝だよ、雑魚寝
「1ヶ月? 男二人と?」
「だいじょぶだって、暖かい季節だし」




 次の日アサコは膨れていた。迎えに行っても、講義が始まっても終わっても、アサコは口を利いてくれない。食堂に行くまで、アサコは結局言葉らしい言葉の一つも僕にくれなかった。きっかけになったのはイッチーだかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだかいうジイちゃんの彼女だ。
「やぁ、アサコにナベちゃん、ひっさしぶり−!」
「あ、ひさしぶり−!」
 彼女はいつものサングラスをして、キャンバス地の重そうな荷物をテーブルの端に乗せた。
「何それ、何入ってんの?」
「あ、うん、これ子供用の教材なんだけど、『子供の城』で使うやつ、ちょっと自分でも予習しておこうかなって思って」
「あぁ、まだバイト続けてるんだ」
「うん」
 彼女はアサコの方に向き直した。
「二人でいるときに会ったの、今学期はじめてだねー」
「そうだねー」
「こないだアサコには会ったよね、バスで」
「一緒に帰ったんだよね」
「じゃまじゃなかったら、あたしも一緒に食べたいなー、いーい?」
「うん、食べよ」
 僕もうなずく。鞄から大きな財布を取りだし、イッチーだかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだかいうジイちゃんの彼女は食券を買いに行く。僕はアサコの方を向く。
「ねぇ、アサコ、もういいじゃん」
「なんのこと? 何がもういいの?」
 意地悪な顔してアサコはそう言った。僕は何も言えなくなった。イッチーだかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだかいうジイちゃんの彼女が、今年最初の冷やし中華を持って帰ってくると、もう僕の事なんかここにはいないみたいにしゃべり始めた。雑誌を開いてこんな部屋住みたーいとか、今度新宿コンランショップ行こーねーとか、ポンキッキーズのボーズくんやるきなくなくなーいとか、らんらんの方が嫌いとか、あたしアムロだめーとか、矢野顕子のあの曲可愛いとか、原美術館いま何やってたっけ?とか、あたし今靴ほしーの、え、あたしもーとか。もうすっごいイライラして、テーブルばぁんて叩いて出て行きたかったけど、そんな状況にしたのはそもそも僕なので黙ってにこにこしていた。
 そのうちイッチーだかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだかいうジイちゃんの彼女は、午後の授業があるからと言っていなくなってしまい、食べ終わった僕らも続いて食堂を出た。グラウンドまで黙ったまま歩いていると、アサコが言った。
「昨日来なかった事を怒ってんじゃないよ」
 僕は振り返った。
「シブヤさんといたんでしょ?」
 僕は黙ってた。
「隠さなくたっていいじゃない、そんなこと」
 僕は目を伏せた。そうじゃなくて、昨日は会いたくなかったから行かなかったんだと言ってしまいそうだったからだ。
「シブヤさんがごめんねって電話掛けてきたの。オレがナベ連れ回しちゃったから迷惑したでしょって。一緒に夕飯食べたんでしょ?」
「‥そうだよ」
 なんだか浮気をたしなめられてるような気分だ。声が音になる前にいちいち喉に引っ掛かる。
「それならそれでいいじゃない。別にそんなこと気にしないのに」
「‥うん」
「あたしね、トモユキと毎日一緒にいたいけど、なんて言うの? 束縛したいわけじゃないから」
「うん、ごめん」
「ね、あたしの言いたいことわかるよね?」
「うん」
「ん、なら、もういい」
 そう言うとアサコは走って教室に帰っていってしまった。


 シブヤさんは幸せの素材を知りたいと言う。僕にはよくわからない。それにわかりたいという気持ちもない。日常にありふれた妥協や束縛や嘘の合間には何があるんだろう。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951102

1995-11-01

「響きの水」1章

|  「響きの水」1章を含むブックマーク



 暗闇の中でつかもうとしてたもの、つかみかけて失ったもの、あの頃の本当。数年経って振り返ってみると、それらは純度の高くない酒のように、酔っていたことが馬鹿馬鹿しく思える。たくさんの空笑い、無計画な悪酔い、そして翌朝の徒労感。
 3年前の僕は22才の今と変わらず一生懸命だった。いや、今よりずっと一生懸命だったかも知れない。でも一生懸命だった部分が違うのだ。一生懸命をあるべきところに使っていなかったのだ。今の僕になら、あの頃の本当はたやすく手に入れられる気がする。それをあるべき姿に近づけるだけの知識や経験や実行力がある。
 でもそうしない。そうしたいと思わない。輝いて見えたはずのそれらはもう、僕を揺り動かすだけの力を持っていない。手には入れられても、もうそんなに大事じゃない気がする。
 しかし今つかもうとしている本当はどうだろう。3年後の僕には子供染みたものになるのだろうか。
きっとそうなのだろう。そうして重ねてゆく時間にこそ意味や価値があるのかもしれない。今の僕にはそう思えるのだ。




 学バス乗り場の向かいにクリーム色のワンルーム・マンションがあった。大学に入るとクドウアサコはそこで一人暮らしを始めた。僕は毎朝、まだそんなに長くない学バスの列に並んで、煙草に火を点ける。そしてそこから見えるアサコんちのよもぎ色のドアを眺める。1本目を吸い終わる頃にはばたばたと出てくる彼女が見える。玄関を出てから靴にかかとを入れるその仕草は何があっても変わることがない。寒い日もあれば、暑い日もある。雨も降れば、風だって吹く。僕も変わらず同じ姿で、そこでアサコが駆けてくるのを待つ。その時々の笑顔を見て、この瞬間瞬間が恋なんだなーとよくわかんないことを考える。
「おはよー、間に合ったぁー?」
 アサコの髪はまだ湿っていて、嗅ぎ慣れたシャンプーと石鹸の匂いがする。
「一本いっちゃったよ」
 混じりけのないその匂いに僕はいつも安心することができる。
「えー、ごめん、次もう30分しかない?」
「ん、すぐ来るよ」
「今日って長くかかる?」
「えーと、4限だから5時前かな」
「あれ? 英語でしょ? 確か休講だよ」
「え? そう。じゃ3時過ぎだ」
「‥ねぇ」
「ん?」
「終わったらさ、空いてる? そのあと」
「なんで?」
「うち寄ってよ」
「いいよ。でも昨日もおとといもその前も寄った気がするけど」
「じゃあ明日もあさっても寄ってよ」
 彼女は笑う。
「ご飯作ってくれる?」
「あ、ご飯がないと寄ってくんないんだ」
「いや、そんなことないけど」
「いいもん、もう呼ばないもん」
 慌てて僕は言う。
「いや、だって、アサコと食事するの好きだからさ」
「ふうん」
「違う?」
ほか弁でも?」
ほか弁??」
ほか弁でも一緒に食べるのがいい?」
ほか弁だっていいよ、一緒なら」
「じゃ、あたしが作った料理を一人で食べるのと、ほか弁とならどっち?」
「またそういう難しいこと言う」
「どっち?」
「ほら、バス来たよ。詰めなきゃ」
「聞いてんの!」
「どっちも好きだよ、あー、でもほか弁で一緒にの方がいいかな」
「じゃ、今日ほか弁ね」
「ホントに?」
「のり弁としゃけ弁、290円の」
 僕はちょっと悩む振りをする。
「‥半分ずっこしてくれる?」
「やだ」
 八王子の山の上に僕らの大学はあった。春のキャンパスは八重桜やキャベツやつくしに囲まれて賑やかだ。山の麓には羊の小屋がある。近所のジンギスカン料理屋の羊だ。薄汚れた狭いプレハブの中で、人間に食べられる順番を待って生きるって、どんな感じだろう。殺される瞬間に羊たちは何を思うのだろう。それを知りながら僕らはその肉をやっぱりおいしいと思うんだろうな。夜道で聞こえる羊の泣き声は夏の終わりの蝉の声に似て、どこか悲痛だ。


 僕とアサコは違う学部の違う教室で授業を受けていたけど、それ以外の時間はいつも一緒だった。屋上はお気に入りの場所だった。昔、誰かが焼身自殺したとかいう噂のせいか、なかなか誰も上がってこない。
「はやいな、雲」
 目を細めて僕はアサコ越しに世界を眺めた。5月の風はまだ冷たくて、僕らは肩を寄せ合っている。
「1年なんてあっという間だ」
「成績表取りに行った?」
「あ、まだだ」
「学生証の更新も」
「あ、そっか、そうだ」
履修登録に名簿もあるよ」
「噛む?」
「あ、ガムはいい」
「だって、ネガがあるのってまだ学生服のだよ」
「新しいのちゃんと撮ればいいじゃない」
 大学は退屈だ。ここには僕の欲しいものは見当たらない。何の不安もなく楽しそうに笑って遊んでいられるみんなを信じられなくなってしまう。夕暮れの広場で、太陽に見捨てられた泥んこの子供のような気持ちになる。僕はどこに行きたくて浪人していたのだろう。
「トクシマさん、覚えてる?」
 ぽつりとアサコが言った。予備校の担任の名前だった。
「覚えてるよ」
「こないだ電話が掛かってきた」
「へぇ、で、何だって?」
「ん? ‥あ、ほら、実家に帰った日あったでしょ? あのときで、なんか夜中の2時過ぎだったんだよ」
「何それ」
「なんか、すごく酔っぱらってたみたい」
 アサコがどう言って欲しいのかわからなくて、僕はとりあえずふうんと言った。アサコは時々そんな風になることがあった。
「何を言っているのかよくわかんなかったんだよね」
「長く話したの?」
「ううん。10分も話してないと思う」
 そう言ってアサコはもじもじとした。よくわかんないのはアサコの方だと思った。僕は根拠のない不安のさざ波を感じた。しかしその中から何かを読みとることはできなかった。空は晴れていたし、どこまでも澄んでいたから。




 同級生のシブヤケイはいつも長袖のボーダーのTシャツを着ている。がっちりした体型とひげが濃いせいもあるけど、どこかホモっぽく見える。財布と鍵を首から紐で下げている。襟のあるシャツもきちっとした服も見たことがない。下手すれば冬でもビーチサンダルだ。僕より三歳年上だけど、四浪というわけではない。高卒でバイク便のアルバイトと設計事務所のアシスタントをやっていたらしい。そしてある日ふと「若さと体力を時給に変えてる場合じゃない」と思い立ち、大学を受験しなおしたのだという。一見近所の人のいい兄ちゃんという感じだけど、底なしに酒は強いし、クスリにも詳しいし、家出中に出会った女の子との同棲生活や、ホモの誘いにあった雨の日や、極度の下痢に襲われながら、2年間ペルービザなしで放浪していた話なんかを聞くと、全然、近所の人のいい兄ちゃんではない。左耳にはピアスの穴があるけど、これも酒の勢いで、コンビニで買ったアイスキャンディーとその場にあった安全ピンで空けたものらしい。年をとっているせいでみんなからは「ジイちゃん」と呼ばれていた。
「なんで仕事は辞めたの?」
「年をとっていろんなことに気づいてくると、本当にやりたいことと違ってきたのがわかってさ。小さい会社だったし、今から道を変えるには大卒の方が都合がよかったし、なんかそういう考える時間もどかっとまとめて欲しかったんだ」
「ジイちゃんにとって大学ってそういうとこ?」
「だって4年間も自分のことだけ考えさせてくれるとこないじゃん、ほかに」
「別にバイトでも何でも働きながら考えられるんじゃないの?」
「いや、お金もらっちゃうとよくないんだ、そういうときは」
「そういうものかな」
「んー、例えばほら、安くない学費を毎年払っているわけじゃん。それだけでかなり選ばれている人たちが集まっていると思うわけ。バイトはさ、違うだろ? やったらやっただけ見返りがあるじゃん。それじゃあまずいんだよ。ボランティアも困るし。100万わざわざ払ってみんなの中で考えるというか、みんなの中で考えることに100万払っているというか」
「環境に払ってんだ」
「そうそう、オレらがこうやって牛乳パック片手に屋上で語るこの時間にお金を払っているんだよ。無能な教授や設備に払っているんじゃなくて」




 大学に入ってからクドウアサコはあまり友達を作らなかった。僕といる時間が多いせいだ。僕はアサコと過ごす時間のひとつひとつを愛おしく思っていたが、かたくなに友達の誘いを断ってばかりいるのは、あまりよくない気がした。食事だって1日2食はふたりで食べていたし、授業以外の許される限りの時間、アサコは僕のそばを離れなかった。ふたりの密度は高まったけど、僕の友達も少しずつ減っていった。
 毎日、僕はアサコんちのよもぎ色のドアの前に立ちチャイムを押した。まるで世界の切り替えスイッチだとよく僕は思った。アサコONとアサコOFF。家と学校はこのドアの中のアサコを抜けないと行き来できない別世界なのだ。ガチャリとドアが開いてアサコが現れる。
「おかえりー」
「ただいま」
 アサコの部屋には、3分の1ぐらい僕の匂いが混じっている。部屋に僕がいることはもう日常だった。リモコン付きで拾ったという小さなテレビが、ルパン三世の再放送を流している。僕はいつもの場所に帽子を脱ぎ、荷物を置く。
「あとでほか弁を買いに行こ」
「あー、うん」
「ねぇ、紅茶でいい?」
「何でもいいよ」
ウェッジウッドがあるの」
「あ、いいね」
「クッキーもあるんだから」
「え、作ったの?」
「へへへ」
「いつ?」
「けさ」
 僕はちょっと驚いた。昨日は呆れるほど抱き合って、それで朝8時に迎えに行ったのに、よくそんな気が起こるな。
 丸くて古いちゃぶ台の上に白いレースが敷いてある。彼女のセンスはよくわからない。電話もわざわざ黒電話を払い下げてきてしっかりレースのカバーを掛けているし、グラスには必ずアンティークディズニーがプリントされているし、トイレットペーパーは花柄だし、お父さんのゴルフのトロフィーがあったり、法律と関係ない学部にいながらポケット六法があったりする。
 ところでアサコは一向に料理が上達しない。クッキーは出来損ないのパンケーキみたいにぶわぶわしていて、味らしい味がしなかった。アサコの舌は僕のと少し構造が違っているのかも知れない。
「どう、おいし?」
「‥え、うん」
「バターをね、多めにしたの。やさしくなったでしょ、味が」
「そうだね」
「この紅茶に合わせようと思って苦労したんだから」
「ありがとう」
「おいしい?」
「うん」
 アサコはクッキーに手をつけず、満足そうに僕の食べる手つきや表情を眺めている。僕はもう終わってしまったルパン三世の画面を見て、息を止めたまま飲み込んでいるのを悟られないようにする。
「たしかに、やさしいかもね」
同じペースを保ちながらクッキーをサクサクと詰め込む。
「リスみたい、冬眠する前の」
 アサコは子供を見るような目で笑った。そばに来てほっぺたに口づけた。アサコの舌は紅茶の匂いがしてまだ熱い。こぼしそうになった紅茶を置く。
「まだ食べてるよ?」
 アサコの手が僕のももに置かれている。下半身に血が巡ってゆくのがわかる。くすぐられてるみたいなキスの雨に応えて、唇を重ねて舌を絡め合う。傾いた太陽が床をオレンジ色に染めている。磨りガラスの向こうに何度も学バスが停まる。生徒たちの喧騒。アサコの肌や声や温度を感じている間にオレンジ色は深い青に染まっていく。テレビではニュースが始まる。同じ地面の上で起きたはずの誰かの不幸なニュースは、いつもどこかのおとぎ話のように聞こえた。


 アサコは買い物に行ってくると言って、本当にほか弁を買ってきた。僕は真っ赤なタコさんウインナーの入ったのり弁を食べた。終わってしまった後のひどいご飯は、あの醒めてしまった現実感に近くて意外と好きだ。いくら好きだの、なんだのと言っても、済んでしまえばそれは性器の結合であり、粘膜の摩擦なのだとよくわかる。そうして裸のまま、適当な食事を取ると、渇いた喉に引っかかりながらそれらが胃に落ちて、汗が乾いて冷えた体をまた少し熱くしてゆくのを感じる。生きてゆくためには睡眠と食事とセックスのどれもが大事なんだと体が僕に言う。満腹になった腹とかさかさになった顔を見合わせて僕らは照れ笑いをする。もう一度キスをする。外は真っ暗で換気するために開けた窓からは夜の匂いが忍び込んでくる。部屋には脱ぎ散らかしたふたりの服が、社交ダンスをしていたみたいに円を描いている。


 疲れ切った顔で8時間の別れを告げる。そうした後の帰りの電車は頭の芯が痛くて、蛍光灯の緑色が目に刺さるようだ。指先や口の周りに残るアサコの匂い。
 僕は目をつむり暗闇の中に耳を澄ます。足の裏が冷たくて、腰から背骨にかけてがずんと重い。反復される電車のノイズの中で、僕の意識は水銀の海に沈むように遠くなってゆく。熱いまぶたの裏側に幾何学模様が飛び交ったり、覚めたくない夢の狭間を漂ったり、アサコの言葉や体のパーツが細切れになっていたり、いろいろだ。


 予備校に通っていた頃のみんなは僕の中で息づいている。アサコはもちろん、イワシミズカオリ、スギノマリア、タカナカ、キムラ、オクちゃんにカル。みんなそれぞれの道を歩いているだろうか。
 スギノマリアの家は僕が乗っている電車の沿線にあるはずだった。
「家‥ どこなの?」
京王多摩センター
「へぇ、近いんだ」
「一緒に帰れるね」
「ねぇ」
「ん?」
「こないだの映画の話し、いつにしよっか」
アトリエがない日にゆっくりしようよ」
「8月の頭くらいかな」
「そうだね」
「連絡してよ」
「うん、私のも教えとくね」


 大通りの向こうにそびえるパルテノン多摩。その大きな階段。今日も僕はその駅を過ぎる。いるはずのないスギノを流れるホームの中に探してしまう。腕組みを解いて、文庫から目を上げて、腕時計を忘れてホームの時計をあてにする振りをして。
 もちろん会えたことはない。今日も昨日もおとといも。でも僕は探し続ける。階段に消えてゆく人の波の中に、公衆電話の前の列に、キオスクでファッション誌を買い求める女の子の後ろ姿に。例えいつか見かけることがあったとしても、走り始めた電車の中では声さえも届かないだろう。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takanabe/19951101
1995 | 11 |
1997 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
1998 | 03 | 04 | 05 | 06 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
1999 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2000 | 01 | 02 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2001 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2002 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2003 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2004 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2005 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2006 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2007 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2008 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2009 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2010 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2011 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2012 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2013 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2014 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2015 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2016 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2017 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2018 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2019 | 01 |