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1997-09-27

七夕

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 へたくそなスナップみたいに、君の笑顔はいつもはみ出してた。銀色の鉄塔の下で抱き合い、小さな魔法を授けてくれる。晴れた丘の上で渓の白い尻を撫でる。夏の草いきれ、脱ぎ捨てた彼女の白い下着に這っているフタホシてんとう。背骨の窪みにたまった汗のしずく、照りつける太陽に届くまで、僕らは手を伸ばし続ける。


「ピアス、増やしたんだ」
「‥ん、うん」
「まだ少し、腫れてる」


 僕はその左耳に舌を這わせた。渓は羽化をするように小さく震えた。淡い唇、果てしない空、快感に溺れながら、僕らはもつれ何度も転げ合った。


「今日、行く?」
「ん?」
「お祭り、七夕でしょ」


 鉄塔に昇った。乾いた汗に風が気持ちいい。そこから町を見渡した。神社に集まる人達、屋台を組み立てる人達、学校帰りの子供達がはしゃいでいる声も聞こえる。河原の方では花火も控えているだろう。この町一番のイベントだ。


「なぁ、最後のお祭りになるな」
「最後の、とか言わないでよ」
 下着をつけながら渓は言った。
「だってそうだろ」
東京に出るくらいでまったく、この世が終わるわけでもあるまいし」
 そう言っていつも僕にするみたいに笑った。そんな笑顔を僕はひとつひとつパックにしておかなくちゃならなかった。
七夕ってさ」
「んー?」
遠距離恋愛の話なのかな」
「えー?」
「だってさ、織り姫と彦星は1年に一回しか会えないんだろ?」


 渓はつまらなそうな顔をした。僕もつまんないこと言っちゃったなぁと思った。わざとらしく声をあげて伸びをして、鉄塔を飛び降り、鉄条網の中から出た。


「行こうぜ、お祭り。オレ橋のとこにいるからさ、着替えてこいよ」
「いいよ、このままで」
「着替えてこいよ、最後だろう?」
「だから、最後最後って言わないでよ」


 僕は笑って丘を駆けて下った。最後の夏だ、と思った。七夕祭りが終わると、この町の秋冬は、のっぺりと何もなかったみたいに過ぎてしまう。僕は思った。今までの夏より眩しくしよう。思い出そうとしても眩しすぎて目がくらむような夏だ。光さえ残っていれば、光のことさえ渓が覚えておいてくれれば、僕なんか忘れてくれたって構わないのだ。


 口笛を吹いて橋のところで待っている間、いろんな人達が通り過ぎる。魚屋の兄貴、地主のおじさん、クラスではいつも目立たない美代子まで今日はおめかしして輝いて見える。


「誘って欲しい?」
「何、言ってんだよ。お前となんか行かないよ」
「かっこうつけんな。誰も待っていないくせに」
「待ってない? そう見える?」
「見える。だから誘ってやる」
「だめだ、先約あるから」
「嘘ばっかり」


 そんな押し問答をしていたら、美代子の勢いがぱたっと消えた。僕も薄笑いを浮かべたままその目線の先を追ったが、同じように固まった。


 ‥綺麗だった。だって他に言いようがない。僕はくわえていた煙草を落としそうになった。美代子は黙ってその場から退散し、渓はくすくすと笑ったけど、それはなんだかもう、別の世界からやってきたみたいな美しさだった。


「ご希望に添えたかしら?」


 と自慢げにその浴衣で気取って見せたけど、僕の喉はからからだった。うんうんとうなずき、犬みたいに尻尾を振った。


 ベッコウ飴、ソース煎餅、くじ引き、あんず飴、チョコバナナ、カルメラ焼き、スーパーボールに金魚すくい。渓の手を引いて屋台の喧噪と明かりの中を歩くのは悪くなかった。すれ違う人はもちろんうらやましそうな顔をしたし、みんなが二人のために道を開け、まるでどこかへ導いているようにも見えた。湯上がりなのか、渓のうなじからはいい匂いがした。多分ただの牛乳石鹸だ。さっきまで抱き合っていたっていうのに、僕はまたいやらしい気持ちになった。


 境内で鐘を鳴らし、お互いの願い事をした。
「何をお願いしたの?」
「教えない」
「いいじゃん」
「願い事は人には言わないの」


 神社の裏から丘に昇り、鉄塔の下でもう一度抱き合った。彼女は浴衣の下に下着をつけていなかった。足を割り、指を沈めると、彼女は昼間と時よりずっと熱い吐息をもらし、僕の首に白く長い手を絡ませた。


「もうずっと、帰らないのか?」
「そんなこと、ないよ」
「1年に1度?」
「‥そんな、こと、ない」
「嘘でもいい」
「嘘でもって?」
「信じられるんだったら、何でも」
「そんなこと、言わないでよ」
「だって、離ればなれだ」
「大丈夫よ」
「あーあ、オレももっとがんばればよかった」
「もう、ホントだよ」
「こういうことの積み重ねでさ、きっとダメんなったりするんだよなぁ」
「ばっかみたい」


 そう言って彼女は僕の頭を抱えキスをした。やさしく温かいキスだ。なんかちょっと涙が出た。


「何、泣いてんのよ」
「泣いてねぇよ」
「だって、目が‥」
「来年はチュウしたりできないなぁと思って」
「できない? できるよ、夏休みだもん」
「帰ってこないかも知れないじゃん」
「帰ってくるよ」
「信じとこうかな」
「信じとけよ」


 そう言って渓は男の子みたいにからっと笑った。そうして抱き合って、お互いがそこにいることを確かめあった。通算おそらく一番のセックスだった。目を閉じて快感に身を委ねながら、眩しいな、と僕は思った。その後、何年待ったって渓が帰る夏は来なかったけど、その眩しさは忘れようがなかった。

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1997-09-20

スイミング

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 白く長い2本の足が私の前でひらひらと揺れている。私は青いプラスチック越しにその長いその尾ひれに手を伸ばす。自分の心臓が、水の中で正確なリズムを刻むのを感じる。


 由希子先生の後について水に体を沈めていると、このまま温度の保たれた水の中で、言葉のない世界の中で、ずっと生きてゆけないかなと言う気になる。それはもちろん家庭や仕事を抱えた50間近の私の、他愛のない逃避願望に他ならないのだけど、そうした曖昧で軟弱な気持ちを肯定せずにはいられなくなってきたのも、年のせいだけではないような気がしていた。 


 再来年に予定されていた常磐新幹線の建設が気まぐれにルートを変えたせいで、自社で進めていた大規模な建て売り住宅の販売計画は、簡単に頓挫してしまった。何日も掛けて築きあげた砂の城が、波にさらわれて跡形もなくなること以上に、それはあまりにあっけなく、儚いことのように思えた。プロジェクト・マネージャーであった私は仕事をなくし、ボーナスを失い、部下の信用を失った。5年越しの計画だったために、私も会社も受けた損害は計り知れなかった。0のたくさん並んだ請求書はもちろん、私個人で言えば、課長昇進で勢いづいたときに購入してしまった埼玉のマイホームがあった。高2の娘、中3の息子に与えたそれぞれの個室。この年になるまで、ずいぶん長い間、同じ部屋の中で我慢してもらった。学校は山の手線圏内の私立だったから、西武線沿線にあるその建て売りはうってつけだった。妻も喜んだ。20年ローンだって、本当ならずいぶん早く返せる予定だったんだ。


 溜息ばかりついていても仕方がないと、妻も前向きにパートを始めた。午後の短い時間だけの話なので大した金にはならないし、私だって失業したわけではないのだから生活ぐらいは何とかすると言ったが、妻は聞かなかった。食費ぐらいは浮かすことが出来るから、あなたは仕事に気持ちを専念してくださいというのが、妻なりの心遣いらしかった。


 とは言え、会社に行っても仕事は依然ないままだ。私の管轄であるプロジェクトは解散になり、それぞれ別のプロジェクトに散っていった。私はその後の片づけを一人でまかされていた。金の流れ、人の流れを時間軸に沿って並べ直し、プロジェクト失敗のプロセスデータベース化する。そんな数字の羅列やハンコばかりの紙切れが誰の何の役に立つのかは疑問だ。はしゃぎすぎて反省文を書かされている子供より、私の気持ちは釈然としなかった。誰もが、私のせいではないよ、あれは災難だったと慰めてはくれるのだが、書類上は明らかに私の責任として日々処理されてゆくのだった。


 飲みにつきあうこともめっきり減り、私は疲れていた。家に帰っても誰も不平を言わなかった。妻も子供たちも無言のまま私に同情してくれた。それが辛かった。


「楽にしてなよ、父さんはだいたい働きすぎだ」とか
「休みの時はゴルフでも行けばいいのに」とか
「今度のバイト代でみんなで焼き肉を食べに行こう」とか


 本当はそんなに強くなかったはずの家族の絆が、私の失敗を期に無理に強まった気がしてやるせなかった。そんなのちっとも健康的じゃないのだ。していい家庭崩壊など、どこの世界にも存在しないのはわかっていても、ダメな父親を見て妻が浮気したり、娘が家出したり、息子が反抗期を迎えたりという方が、私の中では遥かに自然に受け入れられた。それが誰かの目に間違って映ろうとも、私には演じられた家族の幸せの方が、気味が悪くて仕方がなかった。


「はい、じゃあ、ラスト3本で今日はおしまいにします。お疲れさまでした」


 由希子先生が笛を吹いてそう言った。私はゴーグルをはめなおして、また全身を伸ばし正しく浮かぶところからやり直した。2週間たった今でも、私は5メートル以上泳ぐことが出来ない。由希子先生にはもとより、息子に毛が生えたくらいの年のインストラクターにも毎日のようにしごかれる。だが、それは悪くなかった。ダメな奴がダメと言われ、出来る奴との差異をはっきりと見せつけられる世界で、私はどこにもない安心感を得ることが出来た。


 そのスイミング・スクールはドルフィン・クラブと言って、会社とも家ともどこにも近くないところの住宅街にぽっかりとある。ジムにあるような近代的な設備もないし、入学するのにも何の審査もないし、昼間は小さい子供たちに教えているような、いわゆるスイミング・スクールである。その夜のコースに通うようになったのは、もちろん泳いでみたかったからだけども、私が熱帯魚を好きなせいもあった。家の書斎には大きな水槽があって、そこに私はたくさんの熱帯魚を飼っている。高い水草を買い、水温をコントロールし、phを管理して、私はそこにいつも自分だけの小さな楽園を見ている。虹色の長い尾ひれをはためかせて優雅に泳ぐ魚たちは、まるで小さな天使に見えた。何より彼女たちは言葉を話さないという点で完璧だった。私が手入れをし続けなければ、この小さな楽園は明日にでも簡単に終わってしまうのだろう。でもそうして終わってしまっても、彼女たちは私に何一つ媚びることなく、美しいまま死んでゆくのだろう。そこがよかった。嘘がない気がした。そういう魚たちを眺めている間に、自分もその楽園の中で暮らしてみたい、彼女たちの美しさのそばにありたいと思うようになったのだ。


 楽園が楽園であり続けるためには、私の所属する現実に可能な限り遠い方がよかった。私は自分の生活範囲を記した大きめの地図を手に入れ、コンパスで仕事が終わった後に1時間半以内に行ける範囲の円を書いた。それは意外にも大きかった。調べると、その中にあるスイミング・スクールだけで14校あることがわかった。そこからより家に遠く、派手すぎるジムを除き、最終的には魚の名前の付いたドルフィン・クラブに決めた。本当はもう一つ、もっと熱帯魚らしい名前のいいスクールがあったのだけど、由希子先生の姿を2階から初めて眺めた瞬間に決まった。このドルフィン・クラブが一番、私の楽園に近い気がしたのだ。


「笹山さん、明日からヘルパーを一つに減らして泳いでみましょう」


 その日、私が由希子先生と交わした言葉はそれで全部だ。言葉はより少ないに限る。私も由希子先生に、会釈はしても返事をしない。


 由希子先生は授業の終わった生徒を更衣室に見送ると、スイマーとしての自分の時間になるのか、ひとりでプールに戻ってゆく。私はその姿を見たくて、ロッカーに戻るとろくに髪も拭かずに2階の見学席に走ってゆく。背広で息を切らせ、濡れた髪を振り乱して走る私を、他の生徒は冷ややかに笑う。当たり前だ。他の人がそうしていたら、私だって笑う。そうしていつもの手すりまでたどり着いて、老いた体の息を整える。私だけの特等席だ。誰も知らない。ここからだと見晴らしがいいのはもちろんのこと、由希子先生からはこちらが見えないはずなのだ。由希子先生の泳ぐ姿を眼下に確認して、私はやっと誰でもない誰かになれる。水槽熱帯魚を眺めるように、私は由希子先生の泳ぐプールを眺める。そこは私の意志で存在している楽園ではないけれども、由希子先生の涼しげな背泳ぎを見るそのときが、他のどんなときよりも落ちついた自分でいられるのだった。


「最近、お疲れなのね」
 私の鞄を手に取り、妻は心配そうに言う。
「お仕事大変なの?」
「いや、それほどでもないよ」
「あまり無理をなさらないでください」
「大丈夫だ」
「父さん、遅いね、最近」
「疲れてるんじゃないの?」


 プレイステーションをやりながら、娘と息子も私を気遣う。私はそうして現実世界の父親としてこのフローリングの床の上に帰ってくる。重力の少ない水の中とは違い、そこには見えない糸が無数に絡んでいて、私の足をきつく縛り上げる。2児の父親として、夫として、男として、限られた選択の中での行動を強いられることになる。妻のつくるいつもの夕食、テーブルの同じ位置に置かれた冷えたモルトの缶、綺麗に折り畳まれた今日の夕刊。風呂の温度や水位が変わらぬように、娘や息子もまた悩みのない若者を演じ、私の前で気丈に振る舞う。建て売りのこの家はまるで、精巧につくられた舞台装置のようだ。


 とは言え、このちんけなホームドラマを終わりにしようと大見得を切れるほど、私も力に満ちていない。きっとみんなも同じ想いなのだろう。無駄な傷や面倒を家族内で背負い込むよりは、表面上の安定を求めるよう、実践しているのだろう。そしてそこで使うべき体力を、もっと個人的で建設的な問題にまわしているのだろう。そうであれば、私の出る幕などない。一人で部屋にこもり、安心して水槽やプールに楽園を夢想していられると言うものだ。


 由希子先生の背泳ぎを想いながら、妻の体を抱く。由希子先生をまとう、やさしく軟らかな水のように私は妻の体を撫でてゆく。それはとてもエロティックな気持ちだ。43才を迎える妻の体は由希子先生ほどではないにせよ、無駄がなく、美しい。パート先でもきっと誘いの一つや二つあるだろうに、彼女は私の妻であることを自分に課している。休日も出掛けたことがない。そしてそれについて何一つ不満を言うこともない。ときどき、おいしいものでも食べに連れていってくださいと私に甘える程度だ。母としてもよくやってくれている。悪びれずに育ったあの二人を見れば、妻が私のいない間、どれだけよくやってくれていたかがわかる。私だけがつまらぬ妄想にばかりふけって、あるべき父親としての姿をゆらゆらと保てずにいるのだ。


 由希子先生の泳ぎ、長くのびた腕と足。言葉のいらない完璧で揺るぎのない世界。私は同じ水の中で届かない楽園の姿にと手を伸ばす。彼女の蹴りあげる遠い水の音、私の中を流れる赤い血液の音、今日もおいぼれた醜態をさらしながら、私はドルフィン・クラブに通う。

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1997-09-17

ビーボくん

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 彼がいつから僕の家にいるのか思い出すことができない。彼の名前がビーボくんだってことも、彼の口から聞いた割には、最初から知っていたような感じに響いたもんだ。学校から帰ると、大抵ビーボくんは僕の部屋の真ん中で何かをしている。昨日買ってもらったばっかりの漫画を楽しそうに広げていたり、楽しみにとっておいた僕のお菓子をほとんど食べてしまっていたり、ともすれば遊びあきたおもちゃを散らかしたまま、どこかに出かけた後だったりする。


 テレビも大好きで、夕方のアニメ番組なんかほとんど全部網羅しているし、近所のペットとして飼われている動物を部屋に連れ込んで、日が暮れるまでおしゃべりしたり、自作の詩を詠んだり、何語だかわからない歌を歌ったり、昼間っからぬるい風呂で長々と半身浴するのも好きだ。そうしているビーボくんを誰もとがめようとしない。朝何時まで寝ていようと、好き勝手な時間におなかを空かせて機嫌を損ねても、出掛け先で疲れて寝てしまっても、パパやママはペットや実の息子である僕にするよりはるかに、ビーボくんを労わるのだった。


「トン太はいいな、ビーボくんがいてさ」
「私もビーボくんと暮らしてみたいな」


 学校のみんなにもすこぶる評判がいい。毎日誰かがビーボくんを見にやってくる。そのせいでチカちゃんがときどき部屋に来てくれるのはホントありがとうとしか言いようがないけど、なんで動物でも人間でもないビーボくんが、漫画や小説じゃない世界に生きている僕らの街に、ニュースにさえならずに当たり前のように受け入れられているのか、よくわからなかった。


 ビーボくんに直接聞いてみたことも何度かある。


「ビーボくんは僕んちに来る前はどこに住んでいたの?」


 ビーボくんはその言葉を聞くと首を振った。ちょっと疲れたように溜息をつき、窓の外の星を悲しそうに見上げ、何も話してはくれなかった。


 一緒にお風呂に入ることもある。頭の上に伸びた黄色いアンテナみたいなところを洗ってやると、くすぐったがって嫌がる。浴槽につかっている時は水を吸っているのか、なんだかいつもよりひとまわり大きくなって見えた。そしてよく詩吟を詠む。


「ビーボくん、僕、明日チカちゃんをデートに誘おうと思うんだ。チカちゃんOKしてくれるかな」


 ビーボくんはびっくりしたような顔をして、詩吟をやめてしまったけど、少し考えてから4本しかない手の親指をぐっと突き出して、うれしそうにウインクしてみせたりするのだった。


 風呂から上がるとビーボくんは信じられないことにビールを飲む。それもパパのアサヒじゃ気に入らないらしくて、いつも黒ビールを買って冷やさせている。首にタオルを巻いたまま、縁側でビールを飲み、新聞を広げながらげっぷをするよくわからない生き物を、僕はあまり可愛いとは思えない。ママが当たり前のようにおつまみのブルーチーズとサラミなんかをうれしそうに刻んでいると、何かが間違っていると思わずにはいられない。


 夕飯時もパパは見たいはずの巨人戦を我慢して、ビーボくんの見るNHKアニメをおとなしく眺めている。そんなの僕が見たってくそおもしろくないのに、なんで黙ってビーボくんに合わせてしまうのかよくわからない。パパなんかそのためにイヤフォンでラジオを聴きながら、ご飯を食べているのだ。そしてビーボくんの空いたグラスにいそいそとビールを継ぎ足したりなんかしている。


 ビーボくんはテレビゲームもする。むちゃくちゃ下手な割にはうれしそうだ。観覧車に乗った子供みたいにはしゃぐのは、ゲームの内容云々よりまず派手な音とめまぐるしく変わる画面が気持ちがいいんだと思う。だからロールプレイング・ゲームとか、シミュレーション・ゲームはほとんどやらない。画面の変化に乏しいからだ。でも「ときめきメモリアル」は好きだったりするから、実際のところはよくわからない。


 そうやってビーボくんは誰の目にも映っていながら、なおかつ誰にも嫌がられることなく、その存在を受け入れられていた。空き地に落ちてきた巨大な隕石のように、飛び抜けた異物でありながら、あたかも始めから街の一部だったかのように平然と生きているのだった。


 僕はチカちゃんと帰りの道を歩きながら、胸の鼓動を抑えきれなかった。勇気を出して早く切り出さなくちゃ。僕の毎日をバラ色に変えるんだ。分かれ道までもうすぐじゃないか。今ここで切り出すんだ、勇気を出せ。僕は深く息を吸い込んだ。


「ここここんどのに日曜日だけどさぁ」
「んー?」
「チカちゃん、あ、あいてるのかなってお、思って」
「えー?」
「あ、ああ、い、いそがしいよね、やっぱ」
「デートの誘い?」
「いいいいいいいいいいいや、そそ、そういう訳じゃないんだけど」
「え、なんだ、ちがうんだぁ」
「えーと、だから、ほら、なんて言うの‥」
「ね、ちょっと公園に寄っていこうよ」
「う、うん」


 僕は飛び出しそうな心臓を抑えて、息を整えた。こんな時ビーボくんがいたらずいぶん話しやすいのにな。いけないいけない、そんなこと考えること自体ビーボくんに負けてる証拠じゃないか、僕はビーボくんなしだって僕なんだ。っていうか僕は被害者だぞ。便利な道具を出してくれる猫型ロボットならともかく、あんなおやじくさい生き物に何で僕の毎日が振り回されなくちゃいけないんだ。間違ってるよ。


「トン太くんさぁ」
 土管の上に並んで座りながら、チカちゃんは言った。
「え、なななんだい、チカちゃん」
「キスしたことある」
「キキキキス!?」
「ないでしょう」
「う、うん、ない、ないな」


 チカちゃんはランドセルの中から煙草を取り出した。それを見て僕はぎょっとしたが、とたんに目をそらしてそこから動かせなかった。何も言えなかった。チカちゃんは慣れた手つきで煙草に火をつけた。


「あたしね、キスっていいなぁって思ったの」
「え、うん。いいよね、キスは。うん、キスは、いい」
「すてきなキスをね、してもらうと、ここのところがすごく気持ちがよくなるのよ」
 チカちゃんは煙草を持っていない方の手で、まだ膨らみ始めたばかりの胸のあたりを撫でた。
「したの? キス」


 その言葉にチカちゃんはうれしそうにうつむいて、小さく微笑んだだけだった。煙草のけむりがやたら不釣り合いに思えた。僕はヒネオやブブゴジラがチカちゃんを抱きしめている姿を思い浮かべたけど、それはなんかしっくり来なかった。いつものチカちゃんからはしない煙草の匂い。それが僕のよく知っているはずの匂いだったせいかも知れない。


 トン太くんも早くいい人つくるといいよ、とチカちゃんは言った。


「毎日がね、こうキラキラして見えるんだから」


 家に向かって走りながら、僕はそのときのチカちゃんの笑顔を一生忘れないと思った。 答えはものすごく近くにある。僕は玄関にランドセルを放り投げると、階段を駆け上がり、部屋にいたビーボくんを全身の力で蹴り飛ばした。昼寝していたビーボくんは訳の分からぬまま本棚まで飛んでいって、貯金箱やプラモデルをけちらし、頭のてっぺんから血を吹いた。


「ちくしょう!」


 こぶしをふりあげ、目を見開いて、僕はまぶしそうに見上げるビーボくんにすごんでみせた。ビーボくんは状況が飲み込めないのか、とぼけるつもりなのか、あたりをきょろきょろ見渡して、コメディ映画のように首をすくめた。噴水のように血を吹いたままだ。


「君のことを好きになれなかった。でも少しは信じていた。なんで、なんで、そんなことしたんだ」


 ビーボくんはぽかんとして、信じられないように僕を見ていた。


「大好きだったのに、すごく大好きだったのに」


 とたんに悔しさがこみ上げてきて、僕は膝をついた。泣き崩れた僕にビーボくんは起きあがって、そばによると、流れた血も拭わずに背中をさすりに来るのだった。なぐさめているつもりなのか、イルカの鳴くような声を出して、背中をさするビーボくん。その手のひらはやさしくあたたかだった。僕は訳が分からなかった。


「なんで、なんでだよ‥」


 ビーボくんは何も言わずに、ただ背中をさすっている。慰めるわけでも、同情するわけでもなく、その手はただただ背中を撫でていた。僕はちょっと混乱した。


「ひょっとして、違うの? ‥ビーボくんじゃ、ないの?」


 そう言って顔を上げると、ビーボくんは無理矢理作った笑顔のまま、僕よりひどいくらいに涙を流して、鼻血とか鼻水でぐちゃぐちゃの顔になっているのだった。


「ごめん! ビーボくん、疑ったりしてごめん!」


 僕はビーボくんを抱きしめ、ビーボくんもそれに答えた。僕の胸の中は、死にたいくらいに恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。一緒に住んでいる人も信じられずに何が家族だ。最低だ。僕はわんわん泣き始めた。


「許してくれ、ビーボくん、僕を許してくれ」


 そう言う僕にビーボくんはただ、いいよいいよと首を振るばかりだった。




 やがて僕たちは思春期を迎え、同じ街の高校を卒業し、それぞれが向かう道へと進んでいった。僕も一人前に煙草なんか吸うようになったけど、チカちゃんとはあれ以来うまく話せなかった。彼女は唯一僕と同じ高校に通った幼なじみだったけれど、同級生だった時間は数日間だけだった。中退してしまったからだ。ヒネオやブブゴジラたちが言うには、彼女はいい「ウリ」として、この辺では知れた顔になっているらしい。少し昔の話になるけど、僕も1度だけ街でチカちゃんらしい人を見かけたことがある。ハタチを迎えようかって時に、見慣れないどこかの学校の制服を着て、暇そうに繁華街で立っていた。通り過ぎるとき目があったけど、僕を見て驚くような顔をしたから、きっとチカちゃんだと思う。僕は何も言わずに彼女の前を通り過ぎた。


 そして、わが家には依然ビーボくんがいる。ここ何年か羽振りがいいらしく、近所の猫に金の首輪を買ってやったり、犬には神戸牛をプレゼントしたりしている。僕もこないだタグホイヤーの腕時計を買ってもらった。何でそんなにお金があるのかは教えてくれない。ダイヤとかエメラルドとかの指輪をいくつもはめて、口のまわりに緑色したいやらしい髭のようなものが生えてきたけど、あいかわらず見ている番組や、好きなビールの種類は変わらないらしい。

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1997-09-12

マーマレイド

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 死んでしまったら、お花畑とか光とか透き通った階段が見えるもんだとばかり思っていた。嘘だった。今の今までいた世界がカーボン・コピーみたく、そのままそこにもう一つあるだけだった。おそらくこれが僕の望んだ天国の姿そのものなのだろう。ちょっとだけ色あせて見えるのも、つまりはあやふやな僕の記憶の産物として再構成されているとすれば説明が付く。惜しむらくは僕がまるっきり天国を信じていなかったことだ。きっと信仰の厚い人は天使なんかに導かれて、永遠の至福のイメージに浸れるんだろう。望みの神様に抱かれれば、胎児に戻ったみたいに安心できるかな。それとも案外はやくに飽きたりするもんだろうか。逆に罪悪感みたいなものにかられて生きてきた人は辛いだろう。地獄みたいなイメージで構成された世界に連れて行かれて、それこそ永劫に罪を責められてしまうのだから。


 僕は天国を信じなかった代わりに、自分の死についても大学を留年したときより早く現実として受け入れることが出来た。人が出来ているからだ。僕の天国は昔バイトしたデニーズや、やっぱり息苦しい満員電車や、高2の時に振られたチーコの家や、終わらない試験休みや、発売停止にならないメッツ・ガラナ味とかで構成されている。毎日、好きな時間に起きて、好きなところに行って、好きなことをする。欲望まかせだ。何しても捕まらない。強盗も強姦も殺人も、僕がやる分には罪にならない。僕の天国だから、僕が不都合になることなんて一つもないのだ。もしあるとすれば、それは僕がそういう筋書きを望んだときに他ならない。だから君にも想像がつくと思うけど、案外そういう派手な行動というのはしない。そこいらじゅうの銀行の金という金を集めて、映画の中の泥棒を気取って旅をしてもいいし、昼間の町中で派手なかっこをした女を押し倒して裸にしたっていいわけだけど、やっていいよと言われている世界では、そういうことがあまり価値や意味を持たない。むしろ、生前やり残していた普通の楽しみをしみじみと端の方からつぶしていく方が、気分がよいことにに気づく。そうなんだ。わかると思うけど、時間が永遠にあるっていうのは、その時間の長さをどう受け入れるかってことなんだ。


 僕の部屋は生きていた時のまんまだ。好きなものに囲まれてて汚い。両親は都合のいいときしか出てこないが、それでもときどきは寂しくなって、僕のだらしなさを叱らせてみたりもする。別れてしまった彼女ともちゃんと喧嘩するし、やりたくてもさせてくれないときもある。そうじゃないと僕が飽きてしまうのだ。圧倒的な永遠の平和。脚本、監督、主演は自分。考えようによってはこれも一つの地獄だなとも思えてくる。


 定番にしている脚本も何本かある。夕飯のネタに困った母親みたく、週に一回くらい使い回すお気に入りの脚本だ。そのひとつに「マーマレイド」と呼んでいるものがある。大した話じゃないけど、他に目を引くようなこともないのでこの話をするよ。




 目が覚めると両親は出掛けたあとで日はずいぶん高くまで昇っている。時計を見ると10時過ぎ、学校は試験休みのまっただ中だ。僕は布団の中から、もう別れてしまっているはずの彼女に電話を掛ける。僕の望み通り、彼女は少し嫌そうな声で僕の電話を受け取る。でも最終的には僕の家に来てくれることを受け入れてくれる。僕はうれしさを抱えて、そこでまた一寝入りする。2時間後、彼女が鳴らす玄関のチャイムで僕は目覚める。それは幸せの知らせだ。彼女は小さな包みを持っていて、その中身を僕は知っている。僕は包みを受け取り、パジャマのまま彼女を抱きしめて、外の風に冷えたからだを端から順に温めてゆく。芯の残るような堅いしぐさで、彼女の中にいろんな想いが巡っているのがわかる。僕を振ってしまうあの日まで、もう幾日も残されていないのだ。彼女は自分の気持ちを押し殺すような顔をしたまま、僕にゆっくりと体を開いてゆく。僕は黙って愛撫を続ける。お互いに好き合っていたときより、感じやすくなっているのはきっと気のせいじゃないなと僕は思う。


 終わってしまったあとは裸のまま抱き合って少し眠る。この辺はシナリオにも少し幅があって、彼女の寝顔をしばらく眺めるときもあれば、夕方まで眠りこけてしまうときもある。顔を眺められるときはやっぱりいい。彼女が何を思ってここまで来ていたのかは、死んだ身の今からしたって知る由もないけど、そのときだけは、少なくとも僕の腕の中で眠る彼女の寝顔だけは、100%僕だけのものだ。そう思うと少しだけ元気が出た。彼女が繰り返し見せる悲しい顔も、僕に突きつけられた現実と受け入れなくてはならないのだけど、僕に抱かれてる彼女の、誰からも許されているその素顔は、そうやって疲れて眠ってしまったあとでしか見ることが出来なかった。


 目が覚める頃を見計らって、僕は台所でコーヒーを入れ始める。彼女のために、僕は自分の飲めないコーヒーのネルドリップの機械を買った。コーヒーを入れている間、トースターでパンを焼く。数少ない僕のレパートリー、コンビーフサンドをつくるためだ。やがて匂いと音で彼女は目を覚ます。眩しそうにまぶたをこすりながら、僕のTシャツを着て、テーブルの椅子の端にちょこんと腰掛ける。


「もうすぐ出来るから」


 と言う僕に、彼女はただ眠そうにうなずくだけだ。壁の時計を見て、残された時間があまりないことを知り、彼女はまた大きなため息をつき、テーブルに大きくうなだれる。僕は焼きあがったパンに、マヨネーズペッパーを利かせたコンビーフを乗せる。


「お待たせ」


 いつものトレイに乗せて、彼女の前にコーヒーコンビーフサンドを置く。


「ありがとう」


 と眠い顔のままでちょっと微笑んで彼女が言う。


「おいしい?」
「うん」


 不器用なその料理を、彼女は出来の悪い子どもを見るように愛しそうに食べてくれる。僕はその姿を見るのが一番幸せなのだ。だから飲めないコーヒーの匂いもとても好きになった。そこには愛しい彼女の姿が切り放せないものとして存在しているから。


「包み、私、どこに置いたっけ」


 ティッシュで口元を拭きながら、持ってきた包みを彼女は探し、僕の前に置く。僕は中身を知っているので、彼女を見て微笑む。


「食べて」
「うん、いただきます」


 中身は彼女のつくったマーマレード・ジャム。休日、僕は彼女とどこかに出掛けたことがない。家の用事というのが彼女の言い分だったけど、それは自家製マーマレードをつくっている時間に他ならないのだった。


 トーストに新しいマーマレイドを塗る。同じマーマレイドというのは、後にも先にも2度と存在しない。季節によってももちろん違うし、果実の出来にも左右されるし、何よりその時々の彼女自身の想いが、そこには反映されているように思えた。


「どう?」


 と彼女が言った。


「うん、今度のはやさしいね、気に入ったよ。ありがと」


 そういう僕は嘘をついている。甘さの中に彼女の悲しさが染み込んでいることを知っているから。煮詰めたオレンジの皮と蜂蜜の隙間に潜んだ鋭い苦み。喉につくとむせてしまいそうだった。僕は笑顔を絶やさない。


 ともあれ、そうした時間は僕にとって掛け替えのない時間であることには間違いがなかった。僕らは無言のまま見つめ合い、お互いのつくったものを食べながら、つかの間の幸せに温められた。


 食べ終わったものをキッチンに戻して洗っている間、彼女はひとり部屋に戻って服を着る。僕は皿を洗いながら、鏡に映って見えるその背中を眺める。Tシャツを脱ぎ、スカートをはいて、ブラジャーを胸の前で止める。そうやって僕から離れていくためにする準備を、僕は鏡越しにしか眺めることが出来ない。


「ごめんね」


 洗い物を終えた僕に、準備をすませた彼女が立っている。


「そうだね、もう遅いもんな」
コーヒー、ありがと」
「うん、マーマレイドも」
「うん」
「また、来れる?」


 それを聞いて、彼女は困ったようにうつむく。


「ごめん、辛いよな」


 彼女は強く首を振る。でも何も言ってくれない。奴のことを考えているんだな、と僕は思う。


「今日はありがとう、うれしかった」


 としかたなく僕は言う。


「うん‥」


 と力無く彼女が言う。「ここにずっといて欲しい」と言いたいのだけど、言葉に出来ない。抱きしめて口づけて、彼女の唇からマーマレイドの味を感じる。やさしく苦い、彼女のマーマレイドの味。でもそれは自分の唇から移った、彼女の味でしかなかった。抱きしめ続けようとする僕の腕の中で彼女は体をこわばらせる。そしてそっとではあったけど、確実な力で彼女は僕の胸を押して離れた。


「帰らなきゃ」


 彼女の帰るところが、僕がいつも呼ばれていたあの家じゃないことを僕は知っている。彼女は僕の恋人ではない普段の自分に「返る」のだ。あるいは奴の家に将来を誓った恋人として「帰る」のだ。僕はここが自分の天国で、望めば思い通り変化してゆく世界であることを知りながら、去ってゆく彼女に何も言うことが出来ない。背中に手を伸ばせないまま、時間は彼女の閉めたドアとともに凍りつく。口元にはマーマレイドと彼女の残り香。世界は色を失い灰色になる。何も進まない。分かってる、分かってるんだ。それでも僕は、また同じ1日を繰り返し、何度となくその日の朝を迎えてしまうのだ。

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1997-09-11

惑星喫茶

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 らしくないんだ。触覚器真っ赤にはらしてさ、熱い息ふんふん吹き出しながら
「あなたとは住む星が違うのよ」
 バシーン!だってさ。たまんないよ。


 だいたいそんなこと最初っからわかってたことだろ? 初めて会った夜、何万光年離れていたって私たちはずっと一緒よって甘えたの、おまえの方だったよな? 全身の吸盤をこすりあわせながら抱きしめると、100人の僕に同時にキスされているみたいって、いつもあんなに紫色になって喜んでいたのに。何だよ、今度は金星の両性具有人種? 全くふざけた話だぜ。


 とかげミルクをダブルでやりながら、僕は背中の廃熱板を閉じたり開いたりした。隣の席の猫ババアが自分の香水のひどい匂いもわからないくせに、それを見ていやな顔をした。青白い僕の息がぬらりと背中を伝って、床の上で丸く固まる。そんなやつがもういくつも床に転がっている。誰かがふんづけて割れてしまった息もある。中から染みだした青い息が揮発して酸味のある匂いを散らす。猫ババアがそれを見て、またいやな顔をする。


「いつかあの太陽がさ」
「うん」
「こう、目の前まで落ちてきたら、おまえどうする?」
「落ちてきたら?」
 もちろん僕は末期的な状況での選択肢という意味でそう聞いたんだけど、
「そうね‥」
 と彼女はやたらに長い人差し指を鼻の下に添えて
「最高にホットね」
 なんて、うれしそうに目を輝かせてた。


 短い間だったけど、一緒に暮らせて楽しかったよ。マグマみたいに熱い風呂が好きっていうから、わざわざ木星から取り寄せたんだ、あのミニチュア火山。僕だってどちらかと言えば熱いほうが好きだけど、君のはもう水銀が蒸発するくらいの熱いやつだもんな、風呂上がりは最新型みたくいつもぴかぴかにメッキコートされててセクシーだった。見るからに風呂上がりって感じがした。すべすべしてるから僕の吸盤も吸い付きやすくなるし。


「何か、おつくりしましょうか?」


 冥王星人のバーテンがしゃがれた声でそう言った。青く血管の浮き出た細い腕。僕はとかげミルクをやめて、ファイヤースリングを注文した。グラスの上で炎が燃えっぱなしのあのカクテル。汚れた壁には賞金首の張り紙。また同郷の軟体人種が追っかけられてるらしい。何かオレに人相が似てなくもない。あらら、頭の後ろの痣までそっくりじゃんか。


 ステージの方にライトが照らされて、ジプシーの楽団が演奏を始めた。オルガンジャズをやりたいのか? 地球の古い音楽をまねてるつもりなのか、なんだか山奥で巨大な象ツバメに会った時みたいな風に聞こえるな。


「ねぇ、元気ないじゃない?」
 そんな声に顔を向けると派手な化粧の土星女が隣の席に座ってた。
「ファイヤースリング?」
 刺さりそうに長く鋭いまつげをばたばたさせて、丸い水槽の中の頭をゆらゆらと動かしている。
「そう」
「じゃあ、あたしも」
 バーテンは興味なさそうな声ではいと言って、拭いていたムーンストーンのグラスを置き、シェイカーに手を伸ばした。
「ここにはよく来るの?」
 女が言った。
「ときどき」
「あまり見ないけど」
「最近はそうかも」
 女はビスチェ風のの大きくあいた胸元を直すと、ハンドバックにの中から長い管のついた小さなボンベのようなものを取り出した。
煙草、いい?」
「ああ」


 水槽の端についたいくつかのバルブに管を固定して、水の中の頭で彼女はぶくぶくと音を立てて煙草を吸った。平べったい顔の左右に離れた大きな目玉が、ぐるぐる回って何度も瞬く。 声はよく見ると水槽の裏っかわのスピーカーから聞こえている。


「どうして床にそんな青いのを並べているのか、聞いていい?」
 僕は笑った。
「聞いていい?なんて変な聞き方するなよ。もう聞いているじゃない」
「そうね、ごめんなさい」
「飲み屋で男がさ、青い固まりに囲まれてるなんて、すごくはっきりしてる」
「ここに来ない誰かのことを考えてるとか」
「たぶんね」
「別れたの?」
「たぶんね」


 女は、子どもの話を聞いているような顔で満足そうに天井の一点を見つめた。僕はなんでこんな奴をかまっているんだろうと思った。


「部屋ならあいてるけど、来る?」
「君の?」
「まぁ、そんなとこ」
「まだ、1杯も飲んでないじゃない」
「いけない?」
「急ぎすぎるとね」


 僕は頬杖をして、消えそうになっているグラスの炎を眺めた。恋人とうまくいかなくなって、飲み屋で酔いつぶれ、どこかの知らない女を買う。 なんだかとても惨めだった。そうすることで、余計に自分を傷つけることで、報いや許しを得られると思ったら大間違いだ。でも結局、その女の家の前まで来てた。


「あれ、どこだよ。どこに来たの?」
「フォボス」
「うそだ、フォボスがこんな寒いわけないじゃないか。どこだよ」
「‥‥」
 いくつもの鍵でロックされた重い扉を開けると、中から熱い蒸気のようなものが吹き出して、僕は大声を出した。
「何する! 火傷しちまう」
「消毒よ、我慢して」
「むちゃくちゃ熱いぜ?」
「我慢してよ」


 そう言われてしぶしぶ浴びると、2度目はそうでもなかった。中に入るとほどよく空調のきいた、その女の部屋らしいものがあった。ただし、膝までは水浸しだったけど。


「前金?」


 と僕が財布を取り出すと、聞こえていないのか、奥の部屋で銀色のドレスのジッパーを下ろしていた。僕は背中からまた一つ大きな青い固まりを吐き出した。


「先、シャワー浴びるから、そこの針が3つ重なったら入ってきて」


 部屋にはたくさんの水棲植物が生えていて、まるでジャングルだった。そこにあるべき生態系も内包しながら、すべてがうまく生活ができているようだ。僕は上着を脱いで掛けておくものを探したが、手を伸ばすとそこにうってつけの枝が伸びてくるし、座るところがないと思ってきょろきょろしていると、大きな甲羅を持った生き物がぬっと後ろで僕が座るのを待ちかまえていたり(なぜか、ちゃんと乾いてる)、煙草を吸い始めれば灰皿風のくぼみを持った鳥がやってきて、僕の腕にとまると言った具合に。昔見た未来の家政婦システムを生き物がやっているのだ。3つの針が重なったらっていうのも、この時計草のことを言っているのか?


 やがてその針らしいものが3つとも閉じて重なったので、僕はバスルームに向かった。柳のようなカーテンをくぐって、シャワーの音が聞こえる方に向かった。女の歌う鼻歌が聞こえる。


「入るよ」


 返事がないので僕は宇宙服を脱いで、同じように伸びてきた枝に掛けた。太い砂漠みみずのようなピンク色の入り口がばかばかっと開いていって、女が見えた。水槽の中で女はかぶっていたヘルメットをはずして、口をぱくぱくさせ、僕を見て微笑んだ。


「入って」


 多分そう言ったんだと思う。ぶくぶく言っててよく聞こえなかったんだ。女は気持ちよさそうだった。僕は端にある石の階段を上り、その大きな水槽にざぶんと入った。女は惑星喫茶で会ったときより悪くなかった。プレイメイトだっけ? 地球フロッピーによく入っている、あの柔らかな毛なし猿みたいな体で、乳房が4つあった。頭が魚でまぁ、人魚人種なんだろうけど、こないだの全身刺だらけの奴よりはましだった。


 水は薄荷の入ったクールな有機水で黄色く透き通ってはいた。よく見ると無数のバクテリアたちが動めいていた。僕は全身の吸盤を広げて、8本の腕や足をその中に浸した。自然に溜息が漏れて、青い固まりが水面に浮かんでいった。女が優しく抱きついてきて、僕らはくちづけた。昔飼っていた金魚に抱かれてるみたいで、ちょっとうれしくなった。頭を水面から出さなくても、酸素は女が口移しで吸わせてくれた。粘液混じりのキスは頭の芯を重く深いところへ沈めてくれた。


 羊水の中を思い出すように僕は目を閉じ、女が僕の性器を探し当てやさしく包み込んでくれるのをさせたままでいた。僕はあいつにしたみたいに8本の腕や足で女の体を包んでいった。密着させた吸盤を順番に吸い付かせながら、全身をやさしく愛撫した。二人の性器の形はちっともあってなくて、セックスらしいセックスにはならなかったけど、それでも悪くなかった。粘液のぬめりは僕の吸盤をよく吸い付けたし、鱗の冷たさも気にならなかった。問題はそのあとだ。


 いろんな星があって、いろんな人がいる。それだけで十分すぎるくらい、惑星喫茶はいかしてる。僕とあいつもそこで出会うことが出来たんだし。でもさ、問題はそのあとなんだよ。


 快感にまかせて、僕は目をつむったまま愛撫を繰り返していた。気持ちがよかった。何が合わなかったのかな、その水がきっと良くなかったせいだと思うんだ。体がしびれて動けなくなっちゃったんだよ。目を開けて女に助けを求めようとした。でもダメだった。ぶくぶく歯の隙間から、悲鳴みたいに空気をもらしているって言うのに、女はうれしそうに笑って、僕の両手をきつく握りしめていた。ぶくぶくぶくぶく、僕の口からはありったけの空気が漏れていった。大きな物音がして、奥から木星人らしい図体の大きな奴等が入ってきて、僕を水から抱えあげた。でももう僕は1ミリだって動けなかった。男たちは口々に「こいつだ、でかした」「賞金で来週はバカンスだ」とか言っていたけど、それは明らかに間違いだった。僕はでかい釘で壁に打ちつけられると、肛門から腕をつっこまれ骨抜きにされた。


「どうだい、こいつだろ? 探しもんは」


 なんてな具合にしたり顔でポリスボックスに投げ込まれて、眼鏡をかけた小柄な警官は迷惑そうな顔をした。手近の判別機で僕の眼紋を調べたけど、そんなの一致するわけがない。間違いだ。引き取ってくれ、とすぐに追い出されたのさ。僕がその指名手配犯じゃないとわかると、女とその大きな男たちは喧嘩を始めた。


「おまえがガセネタを持ってきたんじゃねぇか」
「あんたたちの言ったとおりの痣があるじゃない」


 そういう他愛のない喧嘩だった。木星人たちはいらなくなった僕の体を、すぐそばの家の屋根へ放り投げてしまった。2つの太陽が強く照りつけていて、僕はぐったりしたままじりじりと背中を焼かれた。そのままタコの干物になるものとばかり思った。でも違っていた。その家は肉屋だったんだ。そこの主人は僕を見て、最初驚いていたけど、そのボリュームと新鮮さににんまりとした。屋根から僕を引き下ろし、水でよく洗うと、冷たい金属の台の上に乗せて、なんだかエンジンのついた機械を抱えあげた。音を立ててガソリン臭い歯が回転し始め、僕の体は‥


 と言うわけで、僕は今、細切れのマリネである。主人の手で17個の包みに分けられて、おとなしくグラム単位で店先に並んでいる。蝿たちがやってきて、僕の上で汚い両手をすりあわせる。僕はぴくりとも動けない。売れ残ってそこいらの犬に食われたりするのだけはごめんだと思う。水銀風呂がなつかしい。間違って、通りすがりのあいつが僕を買っていってくれないかなと想像するだけの毎日である。

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1997-09-09

コワントロウ

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 白く上る煙が、僕の前でスパイラルを描いた。君の透き通ったそのドレス。僕はがっかりしてその目を閉じた。
「どうしていつも嘘を?」
「嘘じゃない」
「あまりに見え透いてる、そのドレスみたい」
「つまらないわ」
「本当のことを言えだなんて言わない。でもつまらない嘘に付き合うほど出来がよくもないんだ」
「綺麗じゃない、その方が」
 君は長いまつげをひらひらさせてそう言う。
「綺麗? 嘘が?」


 何かの練習みたいに君はいつも嘘をつく。これは嘘ですって札をぶら下げたような嘘だ。ぴったりと体に張り付いた君のそのタイトなドレス、なにもかも透き通ってて見えてしまっているのに。


 アシュトレイが変わる。時間が巻き戻る。僕の煙草の煙は天井に薄く広がってゆく。


「覚えてる? 君と初めてこの店に来たときのこと」
「覚えてるわ」
「コワントロウを飲みたがってた」
「そうね」
「強い酒は苦手だったのに」
「そうでもなかった」
「今でも飲む?」
「ほかのを飲むわ、コワントロウは飲まない」


 君の座っていた席が君の重みを残したままぽっかりと浮かんでいる。それを見て、僕は遠い気持ちになった。僕らはまた同じところを回っている。あの日と変わらず、同じところばかり回り続けている。ぐるぐるぐるぐる‥。


「名前、知らないな」
「必要かしら」
「君を表すものであれば」
レイナ
レイナ? どんな意味?」
「聞きたいの?」
「聞きたい」
「私を表せば何でもいいんでしょう」
「そうだけど」
 君はちょっと考えてこう言った。
「冷たい魚で、レイナ。‥変かしら」


 グラスの向こうの瞳、シーツ越しの肌、誰かの指輪。何か越しでしか、僕らは愛しあうことができなかった。透き通った君の鱗に触れることができなかった。でももうそれも終わり。彼女は新しい水槽で泳ぎだした。コワントロウの底で僕は目を閉じた。

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1997-09-07

グラウンドの影

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 11月のグラウンドの、白く輝く砂の上で君を見た。もう会えなかったはずなのに、小さな日傘を片手に、真っ白な袖のないワンピースを着て、2本の足でゆっくりと歩いていた。僕の時計は5月で止まったままだった。読みかけの本を中途半端に構えたまま、遠くを歩く君の姿に見とれていた。長く黒い髪、小さく淡い唇、細くて白い腕、かわいいお尻。どこから見たってあの夏の君だった。僕は名前を呼びたくて仕方がなかった。愛しいあの名前を呼びたくて仕方がなかった。でも喉が乾いてひりひりして、声なんか出なかった。湖のほとりに染みだした水を吸うアゲハ蝶のように、君はその白いワンピースの裾をひらひらとなびかせて、踊るように歩いていた。ホントは僕に気づいていたのかもしれない。でも僕には、驚いて蝶が逃げて消えてしまわぬよう、ただ息を殺して見守ることしかできなかった。


 あの夏、君が消えたあの夏、馬鹿みたいに大きな太陽が、今にも落ちてきそうだった。煙草屋の角でさよならを言った後、君は本当に溶けて消えてしまった。僕を驚かそうとしてそんなことをしたの? だとしたら僕は負けたよ。降参する。もうあの太陽はいなくなっちゃったから、この遊びも終わりにしよう。僕の負けだからもういいだろ? 次の遊びをしよう。


「校庭のけやきにね、大事なものを隠したの」
「大事なもの?」
「それをね、覚えておいてほしいんだ」
「僕に?」
「そう」
「いつか、僕が掘り起こしに行くの?」
「そこにあるってことを覚えててくれるだけでいい」
「覚えておけば、いいんだね」
「そう」
「覚えておくよ」


 それが約束だったみたいに、君はその夏のうちに消えてなくなってしまった。僕だけにくれた、小さな遺言だった。


 君は僕の前を何度も通り過ぎた。バレエのようだと思った。そこが舞台で、僕は一人だけの観客。何度も回って、そのスカートの裾を揺らし、空に向かって細い指先を花のように開いた。ふたりの距離は縮まることはなかったし、目も合わなかったけど、僕は悲しくはなかった。


 気がつくと霞のように君は消えていった。約束の場所だった。僕はその何かを掘り出そうとはしなかった。君の顔が少しも寂しそうには見えなかったから。あたりはもう真っ暗だった。僕は上着のポケットから、出せずじまいだった手紙を取り出した。蛙の輪唱、遠い明かり、山の上に浮かんだ優しい色の月。僕は用具室に立てかけてあったスコップで穴を掘り、その手紙を埋めた。そうして1本のタバコに火をつけ、胸の奥まで吸い込んだ。その気持ちは雨に染み、やがて土に還ることだろう。そしていつかこのけやきの葉になり、日の光を受けることだろう。そう思うと少しうれしくなった。


 5月で止まったままの時計の針が、そうしてそっと動き始めた。

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