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1997-10-28

明日から、あなた。

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 電車に揺られながら、窓の外を泳ぐ桜並木を眺めていた。真新しい日差しの中で、黄色い帽子の小学生が新しいランドセルを揺らして、お母さんの手に引かれていた。ふとあなたのことを思った。私は左手の、あの時とは違う薬指を眺めた。


 会社に入ってから知り合った彼とは、もう2年のつきあいが続いていた。
「結婚とかさ、オレ、まだあんまり考えられないんだ」
 聞いてもいないのにいいわけじみたことを言う彼に私はやさしく微笑んだ。
「こうしていられたら、別にいいの」
 そうして強い腕の中でカールしている彼の髪を撫でた。汗も乾いて、程よい眠気が全身に広がっていた。私は彼がホントのことを言っているのがわかった。週末に1度だけのデート。会社が離れているせいもあるけど、それに不満はなかった。私の他に好きな人がいるようにも見えないし、私に対して割り切ったつきあいを求めるほどすれた人ではなかったけど、彼は自分の正直な気持ちを伝え、それを私に受け入れてもらいたかったんだと思った。


「ねぇ」
「んー?」
「好きって言って」


 うとうとしかけていたあなたに、私はついそんなことをつぶやいた。言ってしまってから恥ずかしくなった。彼はとろんと薄目を開けて、私の顔を手繰り寄せてキスをした。ゆっくりと唇を触れ合わせ、やさしく舌を這わせた。私は目を閉じて彼の想いを感じようとした。でも、なんだかそれはどうでも良さそうなキスだった。終わるとすぐにいびきを立てて彼は眠ってしまった。明日、早いんだもんね。寝顔をのぞき込みながら私は自分にそう言い聞かせた。


 彼と駅で別れてからすぐに高橋さんの携帯に電話をかけた。何でもいいから誰かと話しをしたかった。高橋さんは大学のテニスのサークルで知り合った先輩だ。何度かデートをして、1度キスをした。今でもときどき二人で会っては飲みに行ったりする。


 コールは長く、7コール目につながった。
「あ、私ですけど」
「え? あぁ、久しぶり、どうしたの?」
 電話の向こうは騒がしかった。女の子が高橋さんをちゃかす声もたくさん聞こえた。聞き取りにくいのだろう、私は大きな声で何度も同じことを言わなくてはならなかった。こんなことなら、かけなければよかったと私は後悔した。
「ごめんなさい。用事はないんです」
「あ、待って、ねぇ、切らないで。今、外だろう。どこにいるの」
 声を聞きたかっただけだったので、少し迷ったが、私は正直に言った。
「‥横浜です」
横浜? よかった。横浜なら、オレも今そばなんだ。ね、ちょっと待っててよ」
「いえ、またかけます。今度にしましょう」
「いや、今迎えに行くよ」
 結局、待ち合わせの約束なんかして、駅前のロータリーで拾われた。
「すみません」
 と私は言った。
「いや、会いたいと思ってたんだ。最近連絡なかったし」
 と高橋さんは言った。
「しばらく仕事が忙しかったから。でも、会えてよかった」
 思ってもいないことを私は言った。声だけの方が本当はずっとよかった。
「僕もさ」
 高橋さんの服からは煙草の匂いがした。私といるときは吸っているところを見たことがないから、誰か他の人の匂いなんだろうなと思った。一緒に女物の香水の匂いも混じっていた。私は車の窓を少し開けた。隙間から夜の匂いがすっと忍び込んできて、春なんだなと私は思った。


「人から聞いたんだけど」
 高橋さんが言った。
「何か結婚するんだって?」
 私はびっくりした。会社では誰にも言ってないのに。
「まだですよ。もういい加減そういう年だねとは、よく言われますけどね」
 それを聞いて高橋さんは意外そうな声を上げた。
「あれ、そんなのんきな話しだと思わなかったけどなぁ」
「第一、もらい手がいないもの」
 と私ははぐらかした。
「はは、じゃあ、彼はどうなる」
 目をのぞき込むように高橋さんは言った。私は笑って見せた。
「‥どうなんでしょう。私の方が聞きたいです」


 スピーカーから小さな音でジャズピアノが流れていて、同じように夜の街も流れていた。私はシートを少し傾けた。高橋さんはひざ掛けを貸してくれた。夜は静かで広かった。窓の外を走る街の明かりを眺めながら、このままずっと朝が来なければいいのにと思った。少しずつ眠気がやってきて、私はうとうとした。信号が赤に変わり、車が息を潜めた獣のようにおとなしく停まった。見上げると、月が大きく昇って満月だった。信号を待ちながら、高橋さんは突然に私に覆いかぶさり、キスをした。私はびっくりしたけど、胸を押さえつけられて動けなかった。


「行っちゃダメだ」
 と高橋さんは言った。
「まだ、人のものになんかなるな」
 子供みたいにそう言って、窓の外に目をやった。
「好きだったんだぜ、こんなんでもさ」
  寂しそうな横顔だった。私は何も言えなかった。




 それからまもなく彼は私の両親に会いに来た。ナフタリン臭い、見慣れないスーツを着て、床屋まで行きたての頭で、何度も玄関の前で咳払いをした。


「今日はご両親に大事なお話があって、おじゃましました」


 私にさえ、何の前振りもなく突然日曜日にそう言ってきた。底抜けに晴れた夏の日だった。父は血相を変え、母はおろおろした。私はうれしかった。彼のそういう突飛なところが好きだった。いつも私をわくわくさせてくれた。私は圧倒的に胸をときめかせながら、彼の立った小さくも華々しい舞台を見上げた。何度もどもりながら彼は真摯に言葉を並べた。父親は腕を組んで彼を見おろしていた。母親はそわそわと何度もお茶を入れ直した。彼はたくさんの汗を顔に浮かべ、何度も額を低く畳に押しつけた。父は黙ったままだった。汗は落ち、畳に吸い込まれて、いくつもの小さな染みになった。私は見慣れない彼の姿を見て涙が出た。彼の真摯さがまるで自分に向けられたものじゃないみたいに感動した。たまたま帰っていた妹まで、私にもらい泣きして柱にかじりついていた。そうして、私たちは無事婚約をした。


 こじんまりとした、それでいて優しい色の家で、私は彼と彼の間に出来るのかもしれない子供たちのことを思った。私にちゃんと家族や家庭ができるのかしら。全然わからなかった。思い浮かぶのは、カーテンから漏れる日差し、笑い声、温かいクリームシチューの匂い、仲良く並んだ大きさの違う自転車、青い空の下に誇らしげにたなびく洗濯物。あまりにつたなくて、未熟な自分がおかしかった。


「オレは認めないぞ」


 最初はそう言って聞かなかった父も、最近ではずいぶん丸くなった。一時期なんて、新聞を広げ、背中を向けたまま、口だって聞いてくれなかった。今ではすすんで式場の手配をしてくれている。頼んでいないのに子供の名前の画数まで、本を買い込んで考えている。


 私は約束の時間にまだ余裕があることを確認して駅を降り、さっき見えた桜並木の下へ向かった。二列に並んだ幼稚園児達が手をつなぎあって、沿線を歩いてくる。黄色い帽子、新しいスモッグ、ビニールのバッチ、お揃いの靴。小さな体にずいぶん大きな鞄を下げて、園児達は歩いている。三つ編みだったり、鼻たれだったり、小さな顔立ちに将来が有望だったりなかったり。なんて小さくて、なんてかわいいんだろうと思った。私が彼と結婚して、子供ができたら、いつかこんな風に歩くのだろうか。待ち遠しくもあるけど、何か想像がつかない。立ち止まっていると、気づいた保母さんたちが私に会釈した。私も慌てて返した。勢いがよすぎて眼鏡が落ちそうになった。幼い声を上げながら、とろとろと進んでいく黄色い帽子たちの背中たちは、アヒルの子みたいだと思った。


 日差しは水玉のようにまんまるでおおらかだった。風に乗っていろんな花の匂いがした。クモの巣に光る朝露にいくつもの私が映っている。結婚式はもう明日だ。なんか実感がない。彼のことを「あなた」とか呼んじゃうのかな。何だか不思議で恥ずかしかった。結婚式場をいくつも回って、もう充分ってくらい結婚式には詳しくなった。でもちっとも詳しくならないのは結婚そのものについてだ。一緒に暮らしたいと私は言った。彼がそれに応えてくれた。それがすべてで全部のはずなのに、結納とか、お色直しとか、引き出物とか、入籍とか、新婚旅行まで、いろんな人が埋めるべき枠と、見積もりを持ってやってきた。何かワープロの代筆ソフトみたいだ。人からもらったときに自分は絶対やるまいと誓った「結婚しました」のような写真付きのハガキ、それも二人の名前の間が薄い色のハートで塗ってあるようなそんなものでさえ、私たちの知らないところで500枚も刷ることが決まっていたりする。もちろん父の計らいだ。当日、式場に行ってみたら、ドライアイスサーチライトゴンドラで登場なんてことにもなりかねない。それを思うと頭が痛かった。


 桜並木のトンネルを抜けながら私は空を見上げた。桃色の花びらの合間にのぞく日差しは涼しげで柔らかだった。絶え間なく散りゆく花びらの中で、私はもう一度、二人の家のことを考えた。
 小さな犬、まんまるのやかん、学校からもらってきた古くて大きなオルガン。庭にはバジルを植えて、あなたが釣った魚を焼く。赤い屋根の小さな家だ。
「ごめんなさい」
 時間に遅れ、駅で待ち疲れていた彼に私は駆けていった。
「いや、今来たとこだよ」
 彼はやさしい笑顔で迎えてくれた。私はうれしかった。
「行こう、みんな待ってる」
 私は彼の腕を取った。明日歩く、赤い絨毯の上を思い浮かべた。

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1997-10-19

失くした半分

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 落ちてきそうに大きな月の下で、半分に切り取られた太陽のことを思い出した。君の持っていった僕の半分を、今ならぎりぎり許してあげられる。あの夏に落ちた穴の底から、切り取られた空と切り取られた半分の太陽を見上げて、僕もずいぶん年をとった。残りのかけらもぼろぼろだ。いつになったら僕は僕に戻れるのだろう。暗黒の時代にピリオドを打てるのだろう。真っ白い太陽がからからと笑っている。


 神社の裏山に君は僕を誘ったんだ。大事な秘密があるからっていくつもの誓いをかわさせて、真夏の太陽の下へ連れ出した。君は虫かごを持ってこいとは言わなかったけど、きっと僕はカブトやくわがたの集まる木を教えてくれるものとばかり思っていた。いつもそういう特別な秘密を教えてくれたからだ。でもそうじゃなかった。


 色の白い女みたいな奴だと初めて君を見たとき思ったよ。目が大きくて、真っ黒な髪の毛を他の子とは違う感じに切り揃えてた。大人の前ではいつも黙ってにこにこしているいるくせに、僕と二人でいる時は急に威張り始めたりする、ちょっとませた子供でもあった。転校してきた理由も家庭の事情が複雑だから、という噂だった。彼が僕をどう思っていたかは知らない。でも、行きも帰りも彼は僕を待っていた。望んだ訳ではないのにいつも二人だった気もする。そしてそうしたときにしか見せない彼の性格を、僕は他の生徒よりずっとたくさん知っていた。多分一番知っていたんじゃないかと今でも思う。


「 ねぇ、何度も聞くようだけど」
 いつもみたいに細く長い指先を僕の手に絡ませながら、そう聞かれた。
「僕のこと好きかい?」 
「‥嫌いじゃないけど、でも、どういう意味?」
 彼はいつも二人きりになると僕と手を繋ぎたがった。振り払ってもまた手を取る。寂しがり屋なのかも知れないけど、ある時は物陰で蹴飛ばされたりもするので、僕は何か言われる度にいちいち警戒する癖がついた。
「女の子といるときみたく好きかって意味さ」
 いたずらっ子と言うより、いつも機転の利く悪魔のように笑う。
「女といるみたいに? 女となんかいるよか、楽しいに決まってるよ」
 それを聞いて、僕は不自然なくらい鼻息を荒くした。
「そうかい?」
 と彼は言った。小学生の間では女の子と遊ぶような奴は、友達がいないか、スケベかのどちらかだった。ホントは、がさつな男の子たちと品のない遊びに興じるより、女の子とおままごとや、お茶とお菓子を前に静かに漫画を読んだりする方が、僕にとってずっと贅沢で楽しい時間だった。でもそれはみんなには内緒だった。


「君は? 僕といて楽しい?」
 そう切り返すと彼はまた大人みたいな溜息をついて、答えまでの時間を引き延ばした。
「‥まぁまぁだな」
 とふてくされたように言いながら、嫌そうに笑った。その間、彼はゆるんだ僕との指の間をまた握りなおして密着させた。僕はいつものことなのでさせたままでいたが、手にかいた汗が、慣れないデートをしている時みたいに気になった。彼の言葉と行動の間にはいつも何らかのずれがあった。綺麗だと言って捕まえた大きなアゲハ蝶の羽をむしってしまったり、好きという女の子の机に、体中に油を塗った裸の男の写真の切り抜きを入れておいたり、道を歩く猫を抱き上げ、やさしく構ってから、川に放り込んだりした。それ以外にも彼の行動にはいろいろわからないことが多かった。でもそれはきっと大人になってからもわからない種類のずれだろうな、と子供の僕は思った。それより、じらした挙げ句に言う彼のyesでもnoでもない答えが、幼い僕にはとにかく大人っぽく見えたものだ。


「ねぇ、まだ? どこまで行くの?」


 息を切らせながら、神社の裏山を登っていった。彼はその声にちらりと腕時計を見たが、返事もせずにただ熊笹の中を進んでゆく。こんな彼は珍しかった。僕は仕方なくその背中を追った。半ズボンから伸びた足が切れて痛がゆい。家の風呂に入ったら、きっとすごくしみることだろう。泥のついた靴や靴下を見て、剣幕になる母親の姿も目に浮かんだ。


「疲れちゃったよ、少し休もうよ」
「黙ってついてこい、秘密、見たいんだろ?」


 そう言って彼は僕の前に人参を吊した。でも実のところ、僕は秘密なんかどうでもよかった。神社の裏山にあるものなんか、カナブンしかいないくぬぎの木か、雨に濡れた大人の雑誌がせいぜいなのだ。男の子と遊んでつまらないと感じるのは、そうした想像を裏切らない世界の狭さだった。いつも決められた庭の中で遊ばされているみたいに感じられた。しかし彼は強い足どりで裏山を登っていった。その間、何度か腕時計に目をやった。気圧や気温も計っていたが、それは多分格好を付けただけだろう。僕は額や首に伝う汗を拭った。


「間に合ったみたいだな」


 小さく開けた土の上に出て、彼は満足そうに腰に手をやった。セミや鳥たちが僕らを取り囲むように激しく鳴いていた。そこには黒いごみ袋に包まれた何かがあった。彼はにやにやしながら屈み込んで、その包みに手を伸ばした。汚れがないことから察するに、それは彼が事前に用意したものに違いがなかった。僕はまた何かの死体だったらどうしようと思って、少し警戒した。実際そういうことも何度かあったのだ。僕が怖がるのをおもしろがって、彼はよくそういうことをした。しかし中から出てきたのは白いろうそくと板ガラス2枚だった。


「行くぞ」


 いつになく明るい面もちで彼はそれを持ち、薮の向こうへ向かった。土地の管轄が変わるのか、そこには錆びた鉄条網が貼られていた。しかし、しゃがんで薮の下からのぞくと、うまい具合に子供が一人くぐり抜けられるだけの穴が空いているのだった。きっとこれも彼の仕業なのだろう。僕は黙ってついていった。金網を抜けると薄暗い森の中から途端に世界が開けて、高い丘の上に出た。僕は驚いて思わず声を上げた。街の全部がそこから見渡せた。学校や僕の家も見える。そんな場所があることなんてまったく知らなかったし、予想もしなかった。僕はなんだかいい予感がした。

「どうだい?」
 自慢げに彼は言った。
「‥すごい」
 と僕は言った。
「さて」
 と彼は言って、ろうそくを地面に刺し、ポケットからマッチ箱を取り出し火をつけた。僕は何をするのかわからなかったけど、その火が消えないように両手で覆って風を妨げた。
「消すなよ」
 と彼は言って、そっと立ち上がり、ガラス板を持って帰ってきた。
「こうやってあぶるんだ」
 両手でガラス板の端を持ち、ガラスにすすをつけた。煙たかったけど、ガラスはみるみる黒くなった。
「いい、オレがやってやるよ」
 僕の不手際が許せなかったのか、彼は僕の分も結局自分でやってしまった。
「間に合わなくなる」
 彼はそう言う間、何度も空と時計を見た。普段見慣れない火を見たせいもあり、僕は儀式めいた彼の行動に胸を高鳴らせた。


「持ってきな」


 程良く黒ずんだガラス板を持って彼の後についていった。気のせいか、辺りがほんのり暗くなって来た気がした。あんなに晴れていたのに? 見上げると雲ひとつない。鳥の声も聞こえなくなった。
「これで見るんだ」
 彼が言って、僕もそれに習った。
「あ」
 僕の胸は黒いガラス越しの太陽でさらに高鳴った。
「月?」
「太陽だよ、日食なんだ」


 そこには見慣れない欠けた形の太陽が輝いていた。何度もガラスを外して見比べたけど、光が強すぎてガラスを通さないとその形はわからない。僕はやきもきした。
「どうだい?」
 と彼は言った。
「‥すごい」
 ガラスから目を離せずにまた同じことを言った。
「もっとよく見たいかい?」
「うん」
「そこだと位置が悪い、あまりよく見えないだろう?」
「うん」
「少し下がってごらんよ、そう、そう、いや、もう少し左だ」
 言われるままに下がったり、横に歩いてみたりしたが、特に視界が変わっているようには見えなかった。
「こ、こっち?」
「あと一歩前」
「こう?」
「そう、そこ! そこで前に飛べ!」


 ガラスを手に見上げたまま、僕は飛び上がった。飛ぶなんて行為に何の疑問も持たなかった。そして次の瞬間、何が起こったのかわからなくなった。着地するはずの地面が消えて、僕は両足から黒い何かに吸い込まれていった。


「うわぁああああー」


 尖ったものや、べたべたしたものや、粉っぽいものに触れながら、僕はその中に吸い込まれていった。やたら長い時間に感じられた。やがてどすんと大きな音がして、それが底についた自分の尻餅だということに気がついた。


「ははははははは‥」


 空から笑い声が降ってきて、僕は打った背中で呼吸もままならなかった。やっとのことで、その方を見上げた。ずっと向こうに光る丸い輪と両手を組んで笑っている君がいた。僕はやっと自分が落とし穴に落とされたことに気がついた。僕は何度も咳込んだ。擦り傷もずいぶんあった。持っていたガラスも割れて、地面についた肘に刺さっていた。そっと抜いてみたが痛みはなく、生温い血がしたたり、泥汚れの間から流れて落ちた。


「ひどいよ」
 立ち上がって僕は言った。
「ここから出してよ」


 彼はにやにやして何も言わなかった。いつもの残忍な目を輝かせて、逆光の中に立ちはだかっていた。穴は深かった。身長の3倍はあったから、4メートル近くあったんじゃないかと思う。彼がいつどうやってこの恐ろしく深い穴を掘ったのか、僕にはまるで見当がつかなかった。土の壁はひんやりとしていた。僕は心の底から少しずつ怖さが吹き出してくるのを感じた。


「助けて、ねぇ、助けてよ」
 あまり媚びるような声を出すのも、彼をつけあがらせるだけだと経験上わかっていたけど、もうそんなことにはお構いなしだった。
「助けてよ、ここから出してよ、お願い、お願いだから」
 そういう哀願の声を、まるで香水でも浴びるみたいな恍惚の表情で、彼は祈るように両手を広げ、天を仰いだ。
「何でも言うことを聞くよ」
 たまらず僕は言った。
「早くここから出してよ」


 切れた肘から、心臓の鼓動に合わせて痛みが始まっていた。僕は生きている。血は指先まで伝い、地面に落ちて吸い込まれる。今は生きている。でもこれからも生きていけるのか? 僕はどんどん弱気になってくる自分をもう抑えられそうになかった。


「君を半分くれ」


 突然、彼はそう言った。
「何? 何をくれだって?」
 聞き間違いだと思って、僕は耳に手をやって聞き直した。
「半分だけ、君をくれ」
 僕は口を開けたまま、シルエットの君を見上げた。
「‥どうやって、あげたらいいかわからない」
 慎重に僕は言った。
「半分でいいんだ、半分で‥」
 彼が何を言っているのか、僕には理解ができなかった。しかし現実問題、今ここから僕を引き上げてくれるのは彼しかいそうになかった。真剣な顔つきで僕は言った。
「わかった、あげるよ。半分でいいんだろ? あげるから、僕をここから助けてよ」
 やれやれと言う風に彼は首を振った。
「わかっちゃない、君は全然わかっちゃないんだな」
 そう言ってふらりと穴のそばからいなくなった。
「考えてものを言ったほうがいい。また明日来るから、そこで考えておきな」
 僕は混乱した。この穴の中に明日までいろだって? また明日来るからそれまでに考えておけだって? 肘からこんなに血が出ているって言うのに?


 僕は叫んだ。泣いてわめいて、取り乱した。懇願、憎悪、絶望、ありとあらゆる言葉を放った。だけど何も起こらなかった。世界は薄暗い青空を広げ、黙ったままだった。


 不吉に暗い太陽が穴の底の僕をのぞき込んでいた。このまま、こんな薄暗い穴の底にいて、腹をすかせて死んでしまうのかと思うとやるせなかった。「僕の半分」ってなんなんだ。何でそんなものを彼は欲しがったんだ? いくら考えてもわからなかった。肘を上げて汚れた傷をなめた。金属のような味がした。腹が減ったと思った。欠けた太陽を見上げて、何度もため息をついた。僕は惨めな気持ちの中でやがて考えることにも疲れ、膝を抱えて両目を閉じた。自分の息が膝の間でやたらと熱く感じられた。やがて日は陰り、虫の鳴き声が聞こえ、土の匂いと湿り気が体を芯から冷やしていった。


「‥た、ここだ、ここにいたぞ!」


 辺りはとっくに夜になっていた。慣れない眩しさの中で顔を上げると、大人たちが穴の上に集まって懐中電灯の光を注いでいた。


「○○君だね?」


 返事をしたくても声が出なかった。乾いた喉で何度も頷いた。寒くて体中が痛かった。


 その日の内に僕は助けられた。母親は泣いて僕を抱きしめた。僕は安心させようと笑って見せた。父親は毛布にくるんだ僕をおぶって山を降りた。僕は安心してその背中で眠った。麓で赤いパトランプが回転しているのが見えた。僕は揺られながら、暖かな布団のことを考えた。


 その後、何事もなかったみたいに普通に学校生活は続いた。あの夜、彼に連れられて山に登ってああなったんだとあらゆる大人に説明したはずなのに、それきりだった。何事もなかったみたいに夏休みが終わって、終わってみればいつもの夏休みと変わりがなかった。肘には長く鮮やかにあの時の傷が残っていたけど、誰もその日のことを聞きたがらないので、僕も自分から進んでは言う気がしなかった。見た目はともかく、痛みさえ嘘や夢のように今では思えてきた。


 居心地の悪いまま、彼と二人で帰る日々も続いていた。僕は感情を閉ざしたまま、彼と手を繋いで、毎日、帰途へ着いた。そうすることがいいことだとは思えなかったけど、他に違った方法を探す労力の方が僕にはばかばかしく思えた。いつしか彼は転校してしまった。でも本当は死んだって話を誰かから聞いた。たぶん本当に死んだ気がする。




「ねぇ」
 と抱き寄せた腕の中で恋人が甘えた。
「月ってどうして欠けるの」
「半分は太陽が持っていったんだ」

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1997-10-11

ステレオフォニック

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 レモンの形は心臓に似ているねとか何とか言いながら、君はその窓から出ていったのだ。あまりにさわやかな笑顔だったので、そこが3階だと気づかなかった。まるでプレゼントを渡し終えたサンタクロースみたいな顔で、君は永遠へと飛び立った。葬式が終わった次の夜に、二人の天使がやってきた。天使たちはあらかじめ決まっていたみたいに僕の部屋に住み着いた。


 両腕に裸の女の子が眠っている。僕はまた狼のことを考えた。森の向こうから狼がやってきて、狩人がその鳴き声を聞く。耳を澄まし、そして歩き出す。獲物はこっちだ。なぜならそれは声が聞こえた方角だから。でもそれは本当のことなんだろうか。その声を信じてライフルを持った狩人は狼をしとめられるだろうか。声がした方向に必ず狼はいるんだろうか。僕はその答えを知っている。狼のいる場所を探すことができる。そしてそれはそんなに難しいことじゃない。彼女たちと暮らしていれば、自然と答えに導かれてしまうものだ。


 ところで昔、僕は絵を描くのが好きだった。放課後、真横から当たるオレンジ色の太陽の中で、いつも理由のない石膏デッサンに明け暮れた。実のところ絵なんかどうだっていいのだ。家に帰らなくてすむ理由と、学校に残れる理由と、親からお金をせびれる理由が欲しくて、美術部に入った。そんだけなのだ。


 校庭から聞こえる体育会系のかけ声、へたくそな吹奏学部の練習、4時きっかりに始まる屋上の演劇部の発声練習。美術室は他のどの部屋より静かで、変なものがいっぱいあって、先生が先生らしくなくていい。僕は勝手にコーヒーを淹れて、写真雑誌の裸の載っているページばかりを眺めて過ごした。それにも飽きてしまうとヌードばかりを切り抜いて、100号の壮大なコラージュを作ってみた。なぜかそのコラージュ都知事から賞を取って、美術館に飾られたりした。ぼーっとして、ふと思い立って何かを作り上げ、またしばらくぼーっとするのが僕の創作スタイルだった。女の子部員後輩は言う。


「何でいつもそんなことを思いつくんですか」
「手を動かしているうちに何かできあがっちゃうんだよ」


 言ってみていやらしいなと思ったが、それはまんざら嘘じゃなかった。僕という空いている肉体があって、それを利用して何かが降りてくる、そんな感じだった。そんな風に思いつき思いつきで作ってたまった作品を、その後輩が整理して個展風に展示してくれたりもした。もちろん見に来てくれるのは近所の主婦とかばかりだったけど。


「辛かったの?」
 天使の右が僕の耳を撫でながらそう聞いた。いつも唐突なんで何を言われたのか1回聞いただけじゃわからない。
「辛い? 何が?」
「彼に死なれてしまって、つい、そんなたくさん絵を描いたんでしょう」
 僕は笑った。
「全然そんな絵じゃないよ、ただの絵だ、趣味の」
「レモンの絵は? 描かなかったの?」
 天使の左が聞いた。
「レモン‥、描いたかも知れないけど、別にそういうつもりで描いたわけじゃない」
「ふうん」
 天使たちは不満そうだ。


 それからその高校は、彼が死んでしまったこと以外は何のメリハリもなく卒業してしまった。アトリエに通っていたせいもあるけど、友達らしい友達も高校にはいなかった。だから高校時代で連絡を取り合うのはその後輩の女の子ぐらいしかいなかった。彼女は美術の道をあきらめて、普通の大学に通っていたけど、ときどき僕の描く絵を見に家に遊びに来た。そして昔と同じように個展の手配をしてくれるのだった。


「僕の絵なんて見ても多分ちっともおもしろくないと思うんだ」
「そんなことないです。きっとみんなこれを見たら、もっと他の絵も見たくなると思いますよ」
「そうかなぁ」


 僕は半信半疑だったが、彼女のマネージメント的な才能もあり、その個展は成功を収めたのだった。冗談でつけた25万の値札にその場で小切手で切る客もいたくらいだから、成功と呼んで間違いではないと思う。テレビや活字でしか見たことないような偉そうなじいさんたちもどこから聞いてきたのかやってきて、それらしい偉そうなことを言って帰っていった。普段会えない友人たちから最近よく電話や手紙が来るなと思ったら、テレビでもちょっと紹介されていたらしい。にわかな有名人だった。


「それでもあなたの心は虚ろだったのね」
 と天使の左が言った。
「虚ろ? どうして?」
「彼のことが頭から離れなかったわけでしょう?」
 僕は驚いて天使たちの顔を見比べた。
「‥どうしてそう思う? 思い出すこともときどきはあったけど、普段は別に普通だったよ。一時も頭から離れないなんてことはなかった」
「がんばって忘れようとしてたのね」
 と涙目になって天使の右が言った。
「よほど辛かったのよ、わかるわ」
 僕は面食らったが話しを続けた。


 個展が終わって、お礼も兼ねて二人で食事に行ったんだ。お金はあったからね。ちょっとめかし込んでいくようなところさ。彼女はわりと地味な感じの娘だったから、ずいぶん緊張していたよ。体をこちこちにして、ワインのグラスで乾杯って時も、合わせたグラスがかちかちって震えちゃうくらいなんだ。そんで、その日、僕は彼女にキスをした。横浜にある秘密のビルの屋上に昇っていろいろ話していたら、ちょっと風が冷たくて、肩を抱いたらそうなっちゃった。僕には彼女がいたけど、それはそれで悪くないとそのときは思った。


「彼女には悪くないけど‥」
 と天使の右が言った。
「そうそう」
 と天使の左。
「問題はそのビルの屋上が何階の高さに当たるかってことよね」
「もちろん3階だったんでしょう?」
「悲しすぎるわ、そういう偶然」
「辛いよねー」
 僕は落ちついて言った。
「何階建てかは忘れたよ、でも10階とかそのくらいは高かったよ。3階じゃなかった」
「10階? それは確かなの?」
「詳しく覚えてないよ。でもそのくらいの高さだ」
 それでも天使たちは言うのだ。
「本当は9階でしょう。9階ならわかるわ、3の2乗だもん」
「33階っていう線もあるわね、どう?」


 彼女はそれで僕が彼女の気持ちに応えたんだと思った。仕方ないよね。僕が逆の立場だったら、同じようなことを考えていたような気がするしね。ただ問題はその先だった。家に呼ばれて遊びに行ったんだ。お菓子とか出されてさ、個展のことをお母さんなんかにおもしろおかしく話した。そうしたらそこにお姉さんが帰ってきたんだ。僕は頭を殴られたみたいにくらくらした。
 お姉さんは彼女の双子の姉だった。それは聞いてて知ってた。でもそこでどういう訳か思いきり恋に落ちちゃったんだよ。ひどいよな。今でも理由はよくわからないんだ。でも部屋を空けて僕に照れながら挨拶するお姉さんを見て、僕はひとめでこれだ!って思っちゃったんだよ。


「双子‥」
「双子って、あたしたちみたいなことを言うのかしら」
 天使の右がそう聞いた。
「どうだろう、天使も同じ卵から生まれたりするの?」
「うーん、ちぎった雲から生まれるから、同じ卵と言えば同じだけど」
「それだと天使全員が双子になっちゃうよね」
 と天使の左。


 それから3人でなかよく遊ぶ日がちょっとの間続いた。でもやっぱり無理があった。ふとした隙に、3人より2人のほうが楽しいと思ってしまってばかりだった。僕はもうお姉さんに首ったけだった。そのうちお姉さんだけを呼び出して、何度かデートをするようになった。


「悲しいでしょう、そんなの」
「妹と同じ顔しているんですものね」
「キスしたのに」
「思い出しちゃうよね」


 3度目のデートの帰りに好きだと言った。妹さんも好きだけど、それとは違う気持ちだ。あなたに初めて会った時すごくどきどきしたし、そのどきどきは今も続いたままなんだと言った。でも振られた。お姉ちゃんには好きな人がいたんだ。残念だけど、仕方ないと思えた。そしたら、妹の方ももう会ってくれなくなっちゃたんだ。


「怒っているのね」
「そうなんだ」
「比べられて、放っておかれて、また帰ってきたのが気に入らなかったのよ」
「そうだね」
「レモンをあげたら?」
「レモン?」
「きっとわかってもらえるわよ」
「レモンで?」
「あなたの背負った悲しみが、それでそっと伝わるはずよ」
「別に悲しみなんか伝えたくないよ。数少ない友達をなくしたくなかっただけだ。ただ、原因は自分なんだけどさ」
「まず、わかってもらうのが近道よ」
「レモンが近道ね。それも歯形付きの」
「歯形‥」


 そうしてその妹がいなくなってしまってから、僕の才能と呼ばれるものや、お金や、浮ついた人達もいっしょにみんなみんないなくなっちゃったんだ。何かのおとぎ話か、ドラマみたいだった。新人作家気取りがあっと言う間にただのプーに戻っちゃった。でも僕はそんなことはどうでもよかった。もともと画家になりたかった訳でもないしね。それより彼女に会えないのが気がかりだった。今もまた昔みたいに会ったりしたいんだよ。でも電話にさえ出てくれない。どうしたらいいんだろう。


「大事にしなかったのに?」
 と天使の右。
「自分で壊しておいて、また時間をもとに戻そうって言うのね」
 と天使の左。
「都合よすぎるよな、確かに」
 僕は言ってみて情けない気持ちになった。
「飛び降りた彼は、あの教室に戻って来れた?」
「いや‥、そうだな。うん、そういうことだよな」
「あなたが大事に思ってあげてれば、あの窓から出ていくこともなかったんじゃないのかな」
「‥‥‥」
「欲しいものを欲しいという気持ちは素直だと思う。でもそれを選んだときに、選ばれなかった他のものを傷つけたり、捨てていることをもっと知るべきだわ」
「そうだね」
「そして選んだことであなたがちゃんと成功するのは義務だってこともわかって」
「傷つけたり、捨てたものに失礼だもんな、わかるよ」
「わかるの?」
「わかるよ」
「じゃあ、レモンを買ってきなさいよ」
 と天使の右。僕は溜息をついた。
「今すぐよ、新鮮なレモン」


 声をそろえ、両耳からまくしてたてられた。二人の声は両耳の間でひとつになり、僕の頭の中でぶつかって砕けた。裸のまま僕はベッドを追放された。さっきまで二人ともやさしく僕に甘えていたのに、どうしてこうなっちゃうんだろう。仕方なくジーンズをはいて、落ちていたしわくちゃのシャツを着て外へ出た。真っ暗で、冷たい夜の風が僕の髪の毛をめちゃくちゃにした。温かなベッドが懐かしい。とても惨めな気持ちだった。レモンを持って帰れば、天使たちは望み通り時間を巻き戻してくれるだろう。だけどこんな夜中じゃレモンを売っている店なんかない。コンビニだってないのだ。僕は煙草に火をつけて、さてどうしたものかと思った。アスファルトの上で震えながら、いくら考えても何も思いつかなかった。


 狼がやってくる。森の向こうから大きな白い牙を光らせて。果たしてそれは声がした1点からだけやってくるのだろうか? 答えは違う。狼はいつも1匹とは限らない。複数の狼が声をそろえて鳴いたとき、狩人は鳴き声の中心に1匹の狼のイリュージョンを見る。ステレオと同じ原理だ。狩人は、どこにもいない狼を探し、森をまっすぐ進む。彼が狼に出会うとき、彼は初めて挟み撃ちにあったことに気づく。その時にはもう手遅れだ。狩人がレモンを探しに夜の街をゆく。僕のレモンはイリュージョンじゃないといい。

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1997-10-05

左利きなら、多分そう。

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「人捜しをして欲しいのよ。報酬ははずむわ」


そう言ってマギーはきらきらしたスパンコールの仕事着でオレのオフィスへやって来た。マギーは踊り子でオレの恋人の親友だ。よく一緒に飯を食ったり、同じベッドで眠ったりした。その日のその仕事さえ引き受けなければ、きっと今もそういうことが続いていただろう。


「リングを盗まれてしまったの。母親の形見のリングよ。他のものならともかく、どうにかして取り戻したいの。あのリングがどれくらい大事か、ねぇ、わかるでしょう?」
 オレはいつものように両足をデスクの上に投げ出し、興味なさそうに爪の先をヤスリで整えていた
「手がかりはあるわ。今どこにいるかもだいたい見当がついているの。きっとすぐにみつかるはずよ
「じゃあ、何故自分で探さない?」
「いつも寸での所でかわされてしまうから」
「いつも、って言ったのか? 今」
「えぇ、言ったわ」


 その時点でオレのアンテナは確かに反応していたはずなのに、引き返さなかった。別にマギーだってほろほろと涙を浮かべてたわけじゃないし、いつもしていたという指輪がそんな重要なものだったなんて話しは、長いつきあいの中で一度だって聞いたことがない。なのにオレはその仕事を引き受けた。何で引き受けてしまったのか、自分でも見当がつかない。とにかくそこでオレの運命はがったんと音を立てて、違うレールの上に切り替わったわけだ。おそらくマギーの運命も。

 オレはマギーの言う手がかりを手に西へ向かった。背の高い、面長の男。眉間に大きな傷があるから、それを何らかの形で隠しているだろうと言うこと。女に目がないこと。酒と煙草はいっさいやらないこと。金目のものに限らず、その人のもっとも大事なものを好んで盗むと言うこと。名前は偽名のみならず、いっさい語らないこと。そして決定的なのはその写真を持っていたという事だ。


「少し古い写真だけど、ないよりはましでしょう」
 そう言ってマギーは微笑んだ。
「指輪、期待しているわ。本当に大事なものなんだから」


 かっこうつけたままのオレのこめかみにキスをして、マギーは去っていった。それがオレが見た生きたマギーの最後だった。きっと誰かに尾けられていたんだろう。その夜の内に彼女は全身を切り裂かれ、赤く冷たい固まりになってごみ捨て場に放置されていた。


 写真は確かに古かった。変色しているし、隣で笑っているマギーを見たって、それが10年近く前のものだってことはすぐにわかる。痴情がらみ? まさか、マギーはそんなバカな女じゃない。オレは西の町のモーテルを回り、聞き込みを始めた。


「人を探しているんだ。この顔に見覚えはあるか?」
 反応はよかった。掃除婦は写真を一瞥すると、少年に見せるような目でオレに微笑んだ。
「あんた、そいつを捜しているのかい?」
「金を貸しているんだよ」
「金? それがあんたの一番大事なものだったのかい?」
 嘘を見破るようにモーテルの掃除婦は言った。
「会ったことあるのか?」
「‥‥‥」
「頼むよ、オレの女が殺されたんだ。こいつが犯人かどうかは分からない。でもきっと大事なことを知っているはずなんだ」
「さっきまでこの部屋にいたよ」
 オレは愕然とした。ここにいた?
「冗談だろう?」
「いたよ」
「どっちに向かった!?」
「知らないよ、知ってても言わないけど」
「おい、人が死んでいるんだぞ」
「それはこれとは別件だね」
「何故わかる」
「殺しはやらないよ。あたしも昔、あいつを愛していたからね、それくらいはわかる。」


 頭がくらくらした。さっきまでこの部屋にいただって? オレは慌てて掃除婦の手の付けていない手がかりを探した。浴槽の髪の毛、布団に付いた体臭、灰皿の吸いがら、何かの食べかすだっていい。しかしないのだ。何ひとつない。プロの仕業だ。残されているのは女のものばかりだ。


「頼むよ、ヒントでいい。この写真と今のあいつは似ているかい?」
「似てないね。あたしじゃなければまずわからないだろうね」
「今はどうなんだ? 太ったのか? 髭を生やしているとか」
「いや、至って普通さ」
「顔の傷を治したとか」
 そう言うと薄汚いベッドをなおしながら、掃除婦はげらげらと笑った。
「そんなのあてにしちゃいけないよ。その傷はあいつのお得意の変装だからね、増えたり減ったり思いのままさ」
「じゃあ、この顔はあてにならないってことだな」
「体型や背丈だって、あいつは自由自在だよ」
「まさか」
「本当さ、女としけ込むときだって、行きと帰りで別人だからね、大抵は」
「じゃあ、あんたはどこで見分けてた? 声か?」
 そう言うと掃除婦は手を止めて、天井の一点を見つめ、思い出すようにこう言った。
「‥左利きなんだ。左腕であたしを抱いたら、多分そうさ」
 指輪を取り返したいだけで、そいつに恨みはない。ただ殺された女のことについて何かを知っているはずだから、それを聞きたいだけだと言っても、掃除婦はそれ以上何も教えてはくれなかった。それどころか
「程々にしときなよ。あんた、あいつを追っかけ始めたら、男だろうと女だろうと二度と戻れないところにいっちまうよ」
 なんて、不敵に笑うのだった。 


「はぁ、その方なら存じております」
 その次に会ったのは劇場の支配人だ。概略を伝えると、背の高い男は手を前に組んだままそう言った。
「お得意さまでございます。昨日も美しい女性の方を連れてオペラをごらんになって行かれました」
「この顔で間違いないか?」
 オレはさっそく写真を取り出して見せたが、支配人はぽかんとした顔を見せた。
「さぁ、この方は存じませんが‥」
「よく見てくれ。あんたぐらい背が高くて痩せてて、こう傷があるはずなんだが」
「いえ、当劇場にいらっしゃるお方は白人ではございませんし、背もどちらかというと私よりはこれくらい低くいらっしゃいますし、傷なんてまったくございません。りりしい顔していらっしゃいます」
「じゃあ、なぜオレの探している男だとわかる?」
「大事な指輪を盗まれたとおっしゃいましたよね」
「あぁ」
「その指輪を見たんです。昨日」
「そいつの指にあったってことか」
「その通りでございます」


 確かに目立つ指輪ではあった。ベッコウをくり貫いた巨大な指輪だったからだ。そんな成金風の黒人がはめていたなら、気の利く奴なら目に留まるのかも知れない。
「指輪だけど、どの指につけていたか覚えているかい?」
 と試しにオレはそう聞いてみた。
「そうですね、あの方はアクセサリーがお好きでいらっしゃるんですが、たくさんつけた指輪も左手だけにはなさらないんです。左利きなのでおそらくじゃまにしたくないんでしょうね。右手の小指につけていらっしゃいました」
「‥左利きか。いまどこにいるか、見当がつくかい?」
「‥‥‥‥」
「頼むよ、人が死んでいるんだ」
「それはおそらく別の事件ですね」
「なぜ、わかる」
「あの方は泥棒ですが、人を傷つけたりはしないからです」
「わかった。話しだけでも聞きたいんだ。オレも手荒なまねはしないよ、約束する。どこにいるのか教えてくれ」
「はぁ、もうそろそろ劇も終わるので、出ていらっしゃるかと思いますが」
 オレはまた殴られたような気持ちになった。ここにいるだって? 
「ここにいるって言ったのか?」
 オレははやる気持ちを抑えられなかった。
「いらっしゃいます。しかしお客様、劇が終わるまでお待ちください。これだけは命令です」
「待てるかよ」
 厚いドアを蹴やぶろうとすると、とたんに大男が4人集まってきて、オレの手足を取り、身動きできないように押しつけてしまった。
「私があなたに協力したように、あなた様も私たちのルールに従ってもらわねば困ります。わかりますか?」
 オレは口の端から泡を吹きながら、わかったわかったと言った。オレの体をバラバラにするのなんか、訳なさそうな4人組だった。オレは起こしてもらい、上着の汚れをはたいて劇が終わるのを待った。ドアが開き、たくさんの客が中から出てきた。オレは黒人で、女連れで、右手に大きな指輪をつけた男を探した。出口はひとつしかなかったが人数が尋常じゃなかった。2000人はいたんじゃないか? オレはめまぐるしく眼を動かし、匂いそうな男を探したが無駄だった。ほとんどすべてが指輪をつけた女連れの黒人だったからだ。


 オレはすっかり落ち込んで、その日の調査をあきらめた。ホテルのバーに行き、バーボンを頼んだ。マギーが死んでしまっている今、べっこうの指輪を見つけて喜んでくれる人も、ギャラを振り込んでくれる人もいないわけだが、後味の悪さがあとへ引けないオレのプライドをくすぐった。それに死体解剖の結果、マギーを殺したのは知人の犯行であり、ナイフの傷はすべて左腕から振り下ろされた角度に位置していたと聞かされたせいもある。


「何か、おつくりしましょうか」
 空になったグラスを見てバーテンが言った。
「じゃ、こいつを頼む」
 オレは悪びれて、指輪と男の写真を見せた。バーテンは笑った。オレも笑った。でもバーテンは言ったのだ。
「御相席なさいたいのですか? お呼びしましょうか?」
 くわえていた煙草は唇についたままぶら下がった。オレは言葉が出ずに目を丸くしたまま何度もうなずいた。歩き出したバーテンの姿を目で追うと、店の奥の折れた向こう側へと向かった。しばらくしてバーテンは帰ってきて、コースターをオレの前につきだした。裏返してみるとメッセージが書いてあった。


「さっそくのお誘いですが、私はお酒が飲めないもので、相席にはご遠慮させていただきます。また機会がありましたら」


 オレは立ち上がり、奥の部屋へ走っていった。バーテンが呼び止めたがもう全速力だった。真鍮の飾りのついた来賓用のドアを開けて、中を見た。オレは途端に酔いが覚めてしまった。ドアの向こうには今は使われていないホテルの旧館の廊下が広がり、砕けたコンクリート壁からはちぎれた夜空が広がっていた。吹き込んできたかび臭い突風と、突然のことに驚いたコウモリが飛び交って、バーの中は大騒ぎになった。テーブルの花瓶が床で砕け散り、ろうそくの火が消え、真っ暗になった。ぎいぎいと鳴きながらたくさんのコウモリは客の頭を噛み、倒したグラスの酒に火をつけてしまった。


 オレは蝶ネクタイを引きちぎり、手がかりを探した。ドアはもうひとつあった。非常口だ。オレはロックを外し駆け下りた。上からのぞき込むと先を走る男が見える。あいつだ。もう逃がさない。オレは得意の早降りで、階段を飛んで降りた。しかし、男の先には車が待っていた。オレはわきからコルトを出し、走り去る青いスポーツカーのテールランプを二つとも割った。タイヤを狙った結果そうなった。スポーツカーは夜の街に消えてしまった。


 オレは道路に落ちた赤いプラスチックの破片を拾い上げた。特徴のある形状は見覚えがあった。70年代のコルベットのものだ、間違いない。なぜならそれはオレの子供の頃からの憧れの車だったからだ。それくらいはわかる。この街はそんなに広くない。テールランプの壊れた青い古いコルベット、明日にでもそいつを見つけて見張ればいいのだ。奴はそこに必ず帰ってくる。そう思った。


 ホテルの戻り、フロントに電話を掛けた。
「モーニングコールを頼む」
「かしこまりました。お留守の間、ことづてが入っておりますが」
「聞こう」
 そう言うとフロントはテープレコーダーに接続した。ざらざらした音の向こうで、か細い男の声が聞こえた。
「相席できなくて残念でした。追いかけられるのは昔からどうも苦手でして。私に何かを望むのでしたら、おやめになった方がいいです。僭越ながら地下にプレゼントを残して置きました。お気に召すと思います。それでは」


 地下には駐車場があり、オレを待っていたかのようにぴかぴかに磨かれたコルベットが停められていた。テールランプはどちらもとっくに直っていて、銃撃戦をした後とはとても思えなかった。なぜか右ハンドルだった。オレは憧れの車のシートに身を沈め、新車の匂いを深く吸い込んだ。財布からマギーの写真を取り出して眺めた。


「どうする?」 


 マギーは笑っていた。オレは左腕で恋人の肩を抱きながら、この車でドライブするのも悪くないなと思った。

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