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1998-06-17

青空

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 サイレンが鳴ったので私は山の向こうに雨が降りだしたことを知った。庭の茄子に水をやる手を休めて、霞がかった北の山頂を眺めた。また今日も会えないのかな。私はエプロンの裾で手を拭くと、錆びた赤い井戸に目をやり、溜息をついた。




「止まないな」


 彼の部屋で私はいつも週末を過ごす。古い畳の匂い、遠い過去の出来事のようなサッカー中継ホイッスルの音。寝そべった彼の大きく太い爪先。


「進んでる?」


 テーブルで黙々と作業を続ける私に、退屈そうに声をかける。煙草が嫌いな私の為 に我慢している指先がもどかしく踊る。湿り気を帯びた休日の空気はふたりの間にぽっかりと浮かんだまま、柔らかな弾力をかもしだす。


 うつぶせになったままいびきをかき始めた彼に、私は立ち上がって毛布を掛けてあげた。頭を持ち上げて二つ折りにした座布団を枕を入れてあげる。その時、薄く目を開けて、彼は私に小さなキスをした。


 日曜日の窓辺はいつも雨に煙っている気がする。雨は静かで景色の輪郭を甘くする。でも雨降りは嫌い。彼がダムに行かなくちゃいけなくなるから。金曜日の夜に降り出してしまうと、私の一週間は丸々無駄になってしまうような暗い気持ちになった。電力会社で働く彼はダムが仕事場だ。放流のために徹夜することも珍しくない。私は仕事の都合で会えなくなるくらいで機嫌が悪くなるような年じゃないけど、放流のためのバルブがどんな形をしているか、彼はいつになっても教えてくれない。




 家の庭に井戸があることに気がついたのは、ほんの数年前の時のことだ。改築までそこは分厚い木の板で覆いがされていた。身近な場所にそんなものがあったことを知った私はとても驚いた。


「なんで隠していたの?」


 父は笑って言った。


「隠してなんかいないよ、もうずいぶん前に枯れたままだから、人が落ちたりしちゃいけないと思って封をしたんだ。お前もまだ小さかったしな」


 私はその赤く錆びた井戸を見て、何かに呼ばれるような気持ちになった。忘れてきた想いがそこに静かに満ちているような、そんな不思議な気持ちだった。誘われるように歩いていってのぞき込むと、そこには水面どころか、乾いた黄色い地面が大人ひとり分ぐらいの背丈の底にただ平然と横たわっていた。日も当たらなかったせいか草もなく苔もなく、乾いた土の普通の地面だった。私はそこにいつの日か再び水が満たされる日を想った。



 彼の部屋には大きな滝の絵が掛けてあった。昔、泥棒だった頃に美術館から盗んだという。ナイアガラみたいな瀑布が俯瞰で描かれていて、控えめな虹と黒い渡り鳥が飛んでいる。古びた額縁に納まったそのコローに似た油絵は、確かにそんな冗談も言いたくなるような変な重みがあったけど、彼にはそんな度胸も器用さもないことぐらい私にはわかった。でも自分のコイビトが昔、本当に絵画泥棒だったとしたら、何だかロマンチックでいいなぁとは思った。


「たくさんの水がオレには必要なんだよ」
「たくさんって? どれくらい?」
「たーくさんさ。一生掛かっても飲み干せないようなたくさんの水。それが必要なんだ」
「それをどうするの?」
「支配する」
「他に水が欲しい人がいたら?」
「あげないよ」
「じゃ、愛している人がその水を飲みたいって言ったら?」
「オレと一緒の時だけ、こっそり飲ます。でもちょっぴりだぞ」
「その愛している人が智久に内緒で飲んじゃったのがわかったら?」
「殺しちゃうかな、きっと」


あっさりとそんなことを言う。


「どうしてそんなに水が欲しいの?」
「透き通ってて嘘がないからな。体だってほとんどは水でできてるんだぞ」


 壁の絵を眺めて私は言った。


「‥なんか、あんまりぴんとこないよ」
「おとぎ話をしてるんじゃないぞ?」
「だからダムに勤めたんでしょ? いつかすべての水を自分の自由にするために」
「そうさ」


 当たり前のような顔で彼はいつもそう言う。




 空は鉛色にのっぺりとしていて、私は憂鬱だった。青空のない週末は私の顔から笑顔を消してしまう。ダムにいくら水がたまっても、この井戸が潤うことがなければ、雨なんか何度降っても意味がないと思った。


「‥冬子? 冬子!」


 台所で母が呼んだ。私はいつものように庭の茄子に水をやっていた。私は他にもトマトやパセリやバジルに水をあげなくちゃいけなかったけど、その声色にいつもと違う響きを感じて、すぐに向かっていった。


「‥なぁに?」


 のれんをあげて勝手口から中をのぞくくと、床に母がうずくまっているのが見えた。私はただならぬ空気を感じてサンダルを脱ぎ捨てすぐに駆け上がった。


「呼んだ?」


 母は寒さに凍えるように両腕を抱いていた。何かが焦げたような匂い、床が濡れている。私は辺りを見回した。油の入った鍋が、シンクから飛び出して湯気をあげている。


「おかあさん!?」


 救急車を呼んで、病院に連れていった。火傷は大きくひどかった。


「適切な処置を行いました。ただ、お年をめしてらっしゃるので、跡が残るかも知れません」


 医者はそう言った。母は両腕をミイラみたいに指先まで包帯を巻かれて、家事はもちろん、食事もトイレも、かゆい背中もひとりじゃどうにもできない日々が続いた。


 白い壁に額を当てて、私は窓際で揺れる観葉樹の葉の影を見つめた。週末だというのにまた雨が降り始めていて、また今週も智久に会えないんだなぁと思った。母の包帯を換え、軟膏を塗り、布団を敷いてあげた。私は傘を差して裏庭の井戸に向かった。


 木の蓋を外し、中を仰ぐ。その昔、山の向こうの雪や雨は地層で研がれ、地下の水脈を伝って、この井戸を静かに満たしたのだ。それはきっと透き通った冷たい水だったに違いない。山間にあの巨大なダムが建設されるまでは。


 下水と水道が完備され、井戸が枯れた。川はコンクリートで土手を固められ、この街の水はダムから放たれる水だけがすべてとなった。降雨量によって取水量は厳しく管理される。グラフと照らし合わせて決められただけの水が毎日放流される。まるで私たちの生活そのものをコントロールされているみたいな気持ちになる。でも、その大きな蛇口を握ってひねるのは他でもない私のコイビト、智久の仕事だ。




 夏の夜、汗ばむ寝苦しさに目が覚めると、激しいのどの渇きと共に井戸が水でいっぱいになっているのを感じる。飛び起きて階段を駆け下り、つっかけで勝手口から出ていくと、月明かりの中で井戸がじっと私を見ているのがわかる。「その時が来たよ」と私に言っている。焼けた喉を我慢してそっと蓋を開けると、そこにはいつもの退屈で薄っぺらな地面が拡がっている。そのたびに私は何かを司る大事な瞬間に間に合わなかったんだなと残念に思う。ため息をついて蓋を閉じる。だけど、井戸はきっといつか静かに満ちる日が来るだろう。そんな気がしてる。




 私は塗りかけの絵の手を休めて、彼の滝の絵の下に置いて眺めてみた。暗い部屋で塗ったせいか、色がちょっとばらついて見える。いくつかの色面は塗り直さなくてはならなかった。突然ガラス窓ががたがたと震えだした。放流を知らせるサイレンの音だった。


「あ」


 と私は言った。それは別れの印と言ってもおかしくなかった。


 彼は舌打ちするとふらりと立ち上がった。いつの間に起きていたのか、それともサイレンの音に敏感なのか、壁際まで歩いてゆくと電話機を手に取り、電話線を根本から抜いてしまった。


「いいの?」


 背中から ぎゅっと抱かれて、私は慌てた。


「ん、筆、絵の具ついちゃうよ」


 彼は首元に鼻先を埋めてじっとしている。私はいつものやさしい匂いの中にいる。


「行かなくていいの?」


 心にもないことをそんなふうに聞いてみる。


「どうして? こんなに晴れてる」


 薄暗い部屋でキスをしながら、私はそっと筆を置いた。窓の外で「青空」の降る音が聞こえる。

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