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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

  ラヴフール(www.lovefool.jp) 

本「ゲームクラッシュ秋号(付録CD) 」

takanabe1998-10-16



溢れるほどのいろんなものから好きなものだけをチョイスして組み合わせることが出来る時代、あるいは組み合わせ方そのものまでが「表現」のひとつとされる時代、ものを生み出すデザイナーよりも、在りもの素材を切ったり貼ったり加工したりするエディトリアル的な才能が必要とされているきらいがありますが、それだけじゃないこともまた事実です。様々なツールの進化により、誰にだってそれらしい見栄えの幕の内弁当は出来ちゃったりする分、ときどきにしか出会えない愛のこもったおにぎりは、昔よりずっと価値が上がってきたように感じられます。


最近、気がつくのはそういうおいしいおにぎりの魅力で、音楽にしろグラフィックにしろ、新しいハイテク機械にしろ、用途やシーンが明解で、込められたメッセージは骨太なのに、装飾が極端に少ないスリム(単純に安かったり)な表現がお気に入りです。例えて言えば、くすぐるような文字で「好き」って書いてあるだけのラブレターみたいな感じかなぁ。


僕にとって表現は「快楽」に繋がるひとつの愛のカタチなので、見たり感じたりするときにやっぱり単純に気持ちよくない奴は嫌いです。例えば映画を見るのでも「痛いの」「怖いの」「グロテスクなの」「後ろ向きなの」はかなりの確率で選外。お金払ってわざわざ気分悪くなりたくないからってだけなんだけど。


ビデオゲームはそう言った意味からすると「快楽」をあらかじめ前提にしている部分が多くていいね。みんなのポケットの中の、たった100円か200円を入れてもらうためだけに、大のオトナが束になって1年とか費やした知恵を、3分間にぎゅっと凝縮してつぎ込んで出来てるわけだから、気持ちよくさせないはずがない(はず)です。


迫り来る無数の敵機をたった一機の戦闘機でけちらしたり、普段はできないような身のこなしで強そうな格闘家をノックアウトしたり、はたまた自転車のペダルを漕いで自由に空を飛んで見せたり。


その中でも「音」は快楽に向けてのベクトルに特に重要だね。味気ないCGに人間的な感情の息吹を吹き込むのは、ドキドキするような効果音やテーマ曲の占める割合が多いはず。今でこそ容量が大きくなって、オーケストラや生声のコーラスだって入れられるようになりましたけど、ファミコン時代は効果音も含めて同時に3種類の音しか鳴らせなかったんで、そこに注がれる作曲家たちの知恵って言うのはホントにすばらしいものだった。おにぎりの究極を見せられている感じがした。米と塩と梅干しと海苔だけでこんなに感動できていいのか?って思えた。自分を疑いながら繰り返し何度も吟味したし、そういう種類の感動が自分はやっぱり好きなんだなと確認できました。


この本は付録としてファミコン時代のゲーム音楽が7曲も入ったCDがついていて、当時モノラルだった音もさりげなくステレオ化してあったりする部分はあるにせよ、おにぎりがいかにシンプルで骨太な料理であることを知らしめてくれます。仮にノスタルジーを抜きにしても、ここから溢れ出す音の粒は、世界レベルの記号表現としての「楽しさ」(大きな○の中に・を二つと-を書けば誰でも顔と認識するような)を感じられることでしょう。「スーパーマリオ」の今なお健在な名曲ぶりはもちろんことながら、「ゼルダの伝説」の荘厳さ、「スーパーマリオ3」のタヌキマリオを想像させる遊び心いっぱいなアレンジ。例えそのゲームを知らない人が聴いたって、この曲のついたゲームがつまらないはずがないとうならせるような珠玉の音源ぞろいです。強いて例えると「10才も年下の子にされるしどろもどろな告白」(しかも朝のホームとかで)とか、「バーチャファイター」(最初のカクカクしたやつ)を初めて見たときのような、懐かしさとうれしさと素朴な強さで、なんか見ているこっちが勇気がわいてくるような感じ?


ゲームに限らずこれからあらゆる面で大容量化、処理の高速化が進んでゆき、作り手の頭の中にあるものをそのままストレス無しに外で再現できる時代が確実にやって来るでしょう。そうしたなかで生まれる「矛盾」も「不都合」も内包したまま存在する新しい世界が、今世の中にない種類の感動や感慨を生むことは間違いないにしても、その一方でおにぎりの重要さの価値を見失わないようにしておきたいものです。そんな時代の今だからこそ僕はおにぎり側の表現者であり続けたいし、そういう場所をいつかどこかにつくれれたらいいよなと思うのです。