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テラ・スコラ 山の分校

2017-12-06 国境を越える旅第2弾 その10

12月1日午前0時35分のフライトで、生徒たちは無事に帰国しました。

今回の旅はほんとうに様々な人たちとの出会いがありました。

異国に到着早々、コンポンプルックの水上村のお宅にボートから上陸し、みんなで料理を作って一緒に食べたごはんのおいしかったこと。

孤児院経営している日本人女性からも、いろいろ貴重な力強いお話を伺いました。

ゴミの山で廃品を回収している人たちを見て、なんとか彼らに雇用の場を提供したいと頑張っているタクヤさんの、「自分楽しいからここで暮らしています」という、肩の力が抜けた、気持ちのいい生き方も、生徒たちには心に響いたことと思います。ここの日本語学校で学ぶ子どもたちの真剣な表情とたくみ日本語にも驚かされました。

プノンペンでも日本語学校の生徒たちと交流しましたが、彼らは来年には日本にやって来て、介護士の資格を取るための勉強に挑み始めます。彼らにとって、日本は果たしてどんな国として心に刻まれてゆくのか、彼らの夢と希望の実現に少しでも近づく日々を祈るばかりです。

地雷被害者支援のNPOの方々の「義足を付けるのはほんの入り口に過ぎない」というお話も心にのこりました。何より、当事者の大学2年生ソンポンさんが、明るく自信に満ち、時には若い女性らしい恥じらいも見せながら生徒たちと語り合ってくれたことは、予期していなかったプレゼントでした。

もちろん、道を歩いていて、バスに乗っていて、買い物をしていて、レストランに入って、お寺に参詣して。。。たくさんの人々と出会いました。言語としてはほとんど通じないにしても、それ以外にもいろんな“言葉”があることを、生徒たちは実際に学んだことと思います。

そして、それもこれも、ブンティがいたからこそ可能であったことで、彼の存在抜きには今回の旅は成立しませんでした。8歳でカンボジア難民として来日し、さまざまな困難に立ち向かって来た彼の半生の物語は、生徒たちにとって、恐らくこの旅の最大のインパクトのひとつであったと思います。“カンボジアのお父さん”と、生徒たちは呼んでいるようですが、そのお父さんとの再会を約して、今回の旅は無事終了しました。

(この項終わり)

2017-12-05 国境を越える旅第2弾 その9

カンボジアではほとんど車をチャーターし、びっちりとスケジュールが組まれていましたが、ベトナムは2泊ですし、当初より、自由行動ショッピングがメインと決めていました。宿をとったのはベンタインという市の中心部で、ここからは町一番の繁華街、ドンコイストリートやベンタインマーケット、旧大統領官邸、戦証博物館と、すべて徒歩で廻れます。

カンボジアというのは思いのほか物価が高く、それは主に商品のほとんどが輸入品だからですが、いうまでもなく、カンボジア内戦の後遺症で、自力でモノを生産する能力がまだ整っていないのです。特産の胡椒や石鹸、カンボジアシルクなどを除くと、お土産品はベトナムの方が圧倒的に安くて豊富です。みなもそれを待ち焦がれていたかのように、いっせいに街に飛び出してゆきました。私自身はもうお疲れで、ずっとホテルに籠っていたので、どんなものを買ったのかはわかりませんが、いったんホテルに戻ってモノを置いて、また出かけた人が多かったので、そうとう買い込んでいたと思います。旅に出て、親しい人へのお土産を探すのも大切な仕事ですから、その為の時間も十分に取りました。生徒たちも、そしてそれを受け取る側の人たちも、きっと満足してもらえたのでは。。。

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最後の夜は Huong Lai という日本人経営するレストランで食事しました。ネットでまったく偶然に見つけた、ベトナム家庭料理のレストランですが、行ってからわかったことは、ここはストリートチルドレンなど、貧困層の若者の自立を支援するためのトレーニングレストランとなっているのだそうです。働いている人たちは、すべてそういった過去を持つ若者たちです。オーナー日本人男性ともお会いしましたが、ほんとうに穏やかで感じのいい方で、ああ、苦労している人って、顔に出さないもんだなぁとしみじみ思い入りました。2001年からやっているそうで、これからはホーチミンに入るたびに必ず行くことになるでしょう。もちろん料理もおいしかったです。“最後の晩餐”がこんな素敵な店でとれて、私たちはほんとうに幸運でした。

2017-12-01 国境を越える旅第2弾 その8

11月28日、いろんな出会いがあったカンボジアに別れを告げ、“国境を越える”日です。セントラルマーケットにあるバスターミナルを、午前8時45分に出発しました。お世話になったブンティともここでお別れですが、みなもう“来年も必ず来る”人ばかりだったので、あっさりしたもので、じゃあまた、くらいの感じでバスに乗り込みました。ところが実は、私もこのルートで国境越えするのは初めてなので要を得ず、けっこうモタモタしてしまったのです。

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4時間ほど変哲のない国道1号線を走ると、カンボジア側の税関に到着します。ここで全員、荷物を持ってバスを下りて出国手続きですが、そもそも私たちのパスポートを直前にバスの車掌が集めてしまっていて、私たちはパスポートがないのです。どういうことだろうと不安になっていると、その車掌がオフィスのところで私たちを手招きしています。どうやらここでは、前もって車掌が代行するみたいで、あとはひとりひとり窓口のところでハンコを押してもらって、無事に出国です。

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カンボジアの税関を出てしばらく歩くと(国境らしき表示物は見当たりませんでした)、今度はベトナムの税関があります。ここでしばらく並んで入国手続きを済ませ、外に出ました。もちろんここはすでにベトナムの領土です。

プノンペンからのバスを下りるときに、また同じバスに乗るのか聞いてみると、同じだという答えでした。私の経験上からいうと、国境を越えると、待っていた、つまりベトナムのバスに乗り換えることが多いのですが、確かにバスのフロントには、ホーチミン行きと書いてありました。しかし、そのバスがなかなか見当たらないのです。おかしいなぁとしばらくウロウロしていると、おっさんがひとり近づいて来て、ヒドイ英語でどこに行くのかと尋ねます。乗って来たバスを探しているのだといってもなかなか意思疎通ができません。そのうちにそのおっさんが、このバスに乗れといって、これまでとは違うバスを指さし、しかもかなり乱暴に押し込められました。プノンから来たバスは半分くらいしか人が乗っていなかったので、こっちのバス一台に乗り換えるのかと思ってしぶしぶ従いました。中国ではよくあることです。するとくだんの車掌が私たちを見つけて、おーいこっちだぁーと呼んでいます。

みんなまた荷物を担いでゾロゾロと下り、最初の水色のバスに乗り換えました。こっちの車掌がさきほどの男に何か文句を言っています。どうやら私たちは騙されるところだったようで、ホーチミンに着いてから、新たな料金を請求されるところでした。そんなこともありましたが、とにかくその後2時間ほどで無事にホーチミンに到着し、TAXIでホテルへ。もうすっかり暗くなっていましたが、煌めくネオンと遅くまで徘徊する人の波が私たち一行を待っていました。やれやれ、どうやらカンボジアよりベトナムの方が手ごわそうです。

2017-11-30 国境を越える旅第2弾 その7

ブンティの知り合いで、小さな日本語学校を任されている人がいて、27日はそこを訪問しました。行ったときには7名ほどの生徒さんしかいませんでしたが、ここは“介護留学”を目的として設立されたところのようで、経営者日本人です。ここでまず初歩の日本語を1年間学び、その後日本に行って、2年ほど介護と日本語と両方を学び、その後に本格的に介護の職に就くという道筋のようです。

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日本語の方はまだまだという感じでしたが、今はみなスマホという“武器”を持っているので、それであれこれ画像などを出しながら、けっこう盛り上がっていました。その後に街に出て、屋台でお昼を食べたり、ちょっとした買い物をしたりでそれぞれ親交を温めたようです。

そして、その彼らも招いて、夜はカンボジア最後食事会をブンティの連れ合いのけいこさん(そもそも彼女が私の30年来の知り合い)が経営するカフェレストランで開きました。すると(私たちとしては)突然、地雷被害者義足を作っているNPOの方たちだといって、6人ほどの人を紹介されました。生徒の中に地雷被害者の問題に関心を持っているというレポートを書いてきた人がいて、彼女のためにブンティがわざわざ呼んでくれたのです。

ソンポンさんという若くて美しい女性も義足でしたが、とても快活で、生徒たちの質問にもてきぱきと答えてくれ、感動的な出会いでした。このEXCEEDというNPOはスタッフ全員がカンボジア人ですが、日本から物的にも技術的にも多くの支援が届いているそうです。

「義足を付けるのは入り口に過ぎない。ふつうの人と同じ、いい人生尊厳を持った人生を歩んでもらうために、私たちは頑張っている」とおっしゃる言葉が印象的でした。

2017-11-29 国境を越える旅第2弾 その6

ワット・プノンに行った日の午後、トゥールスレン虐殺博物館を訪れました。1975年4月ポルポト軍がプノンペンに入城して民主カンプチア政権が成立して以降、3年半の間に100万とも200万ともいわれる同胞が無残に虐殺された暗黒の現代史を後世に伝えるための施設です。

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ここはかつて高等学校の建物でしたが、“政治犯収容所”として、14,000〜20,000人ほどが収容され、尋問拷問を受けて後、処刑場(キリングフィールド)へと送られていったところです。現在わかっている生存者はわずか8名といわれています。

カンボジア内戦、クメール・ルージュというのは、生徒たちからはあまりに遠い世界ではありますが、カンボジアを訪れる以上、避けては通れない問題だと思っています。この施設には40か国語以上の音声ガイドが整っていて、生徒たちはひとりひとりイヤホンを耳に施設内を回りました。凄惨写真も多く、途中でリタイアする人が出るかもしれないと思っていたのですが、2時間ほどもかけて、みなしっかりと向き合ってくれたようです。

単に、クメール・ルージュが酷かった、ポルポトの狂気だったということではなく、あの時代の世界の流れの中で、なぜ?誰が?このカンボジアの悲劇を生みだしたのかを、この先もずっと考え続けてゆきたいと思っています。

そして夜は、同行してくれているブンティの話を聞く場を設けました。それまで生徒にはいってなかったのですが、実は彼のおじいさんは、当時プノンペンの共同通信社で働いていた人で、“キリングフィールド”から奇跡生還を遂げ、後に孫のブンティと共にカンボジア難民として来日した人だったのです。その時8歳だったブンティは、当時の戦乱や飢餓も記憶の中にあり、銃口を突き付けられ死を覚悟したこともあったそうです。おばあちゃんがパンツの紐に隠してくれた金の鎖を資金としてタイ領まで逃れ、空路バンコクから成田に到着したのです。

以降もさまざまな困難を乗り越え、20年ほど前にカンボジアに戻り、今こうやってむつみの生徒たちと、楽しく笑い転げながら旅を続けているという現実が、生徒たちに強烈な印象を与えたことは間違いないでしょう。

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