黒い薬(2)

 ゲンノショウコである。
 山形の郡部で育った祖母は、結婚した警察官の祖父と樺太に渡り、次女の私の母が樺太庁に勤めていた父と職場結婚結婚すると、祖父が亡くなった後ずっと我が家にいた。戦後、父がシベリアに抑留されていた中での混乱の引き上げの時は祖母無しにはどうなっていたかわからないほどの存在感だったに違いない。最終的に引き揚げてきた父の仕事の関係で函館に住むことになったが、母が結核で長期に入院したときも、本当に助けられた。
 口数は少なかったが、ひとときもじっとしていることのない人だった。母が元気になり、家事をしなくても良くなると、好きな山歩きに毎日出かけていた。山形育ちらしく山菜に詳しく、小さな背中一杯に季節の物を背負って帰って来た。蕗、蕨、ぜんまい、筍、茸…みそ汁におひたしに、漬け物に、父の酒の肴に…。我が家の食卓に祖母が採ってきた山菜の乗らない日は無かった。その中のゲンノショウコである。
 採ってきてから干されていたゲンノショウコが古い釜に溢れるほど入れられ煮出され始める。そのころは家の真ん中にあったストーブも煮炊きに使われたが、炊事などのための鍋がとぎれると、祖母がたちまち現れてゲンノショウコの釜が乗せられた。強い匂いが立ちこめるが不快だと思ったことはない。我が家の匂いだったのだろう。やがて、黒い煮汁を残して出がらしのゲンノショウコは引き揚げられる。その後も釜はストーブに掛けられ続け、もっともっと黒くなりながら煮つめられた。その間、焦がさないようかき混ぜ続け、釜を火から遠ざけたり火に掛けたり、祖母は他のこともしながら煎じ続けるのである。そしてやっと瓶に三分の一ほどにまで煮詰められたドロドロの黒い薬が出来上がるのである。
採ってくるところから、瓶に詰めて出来上がるまで一人の山形出身の年寄りが水と火力だけで、なんの装置も学問的な根拠もなくつくったものである。しかし、そこに込められた経験値やてまひまも、自分のつとめのようにたんたんとやってしまいかつ代償を求めない素朴さもすごく価値のあるものだったことに気付いたのは、だらしないことに三十才になってからだった。(続く)