高世仁の「諸悪莫作」日記

2016-05-30 再び公開された安田純平氏の画像

安田純平氏の画像がまた公開された。

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今回は写真で、日本テレビはこの画像を自称「仲介人」から入手したという。

《去年から行方が分からなくなっているフリージャーナリスト安田純平さんがシリア武装勢力に拘束されている様子を写したとされる新たな画像をNNNが29日、入手した。

 NNNが入手した画像には、安田さんとみられる男性がオレンジ色の洋服を着て、「助けてください。これが最後のチャンスです」と書かれた紙を持っている様子が写っている。

 (略)

 今年3月には安田さんを写したとされる映像が公開されていた。

 NNNに画像を提供したのは、国際テロ組織アルカイダ系の武装組織「ヌスラ戦線」から安田さんの解放交渉を請け負っていると主張する男性。》

http://www.news24.jp/articles/2016/05/30/10331377.html

共同にもその画像が自称「仲介者」から送りつけられたという。

《画像は仲介者経由で共同通信など複数の報道機関に送りつけられた。ネット上でも公開された。長髪でひげを伸ばした男性がオレンジ色の服を着て、手書きした紙を持っている。28日にヌスラ戦線が撮影したという。

 トルコを拠点とするシリア人支援組織の一員とされる仲介者によると、ヌスラ戦線側は「1カ月とか2カ月という短期間のうち」に日本側が解放交渉に応じなければ、安田さんを過激派組織「イスラム国」(IS)に渡すと脅迫しているという。身代金獲得が目的とみられ、交渉を急がせるために画像を公表した可能性が高い。》(カイロ共同)

 画像は、別の人物がフェイスブックにあげている。

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=122650181487415&id=100012273009803

 3月の動画の出方と同じパターンである。

 写真の安田氏は、髭や髪が伸び放題で、食糧を含めた待遇はよくないと想像する。まず、この点が心配だ。

 安田氏が、自分から「助けて」と訴えることをよしとしない人物であることは友人の間では知られている。3月の動画でもその種のメッセージは一切なかった。

 今回は、この文章を書くよう強要されたと思われ、眉根に皺を寄せた、すさまじい怒りの表情でカメラをにらみつけているのは、精一杯の抵抗と解釈する。

 私が最も憂慮するのは、こうした脅迫を自称「仲介人」が繰り返すことで、メディアの競争もあり、彼のグループに注目が集まり、結果的にその立場が強化されることだ。

 自称「仲介人」は金のことしか考えておらず、身代金を払わずに解決するという家族や友人たちの努力とは相反する。このルートだけがクローズアップされることが解決につながるとは思えない。

 事態はまずい方向に行っている。

2016-05-20 残すべき戦争の記録

カンボジアで伝統の絣を復興している森本喜久男さんが、日本での入院を終え、シェムリアップの村「伝統の森」に帰った。

FBには森本さんが村人に囲まれる写真が載っている。

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「伝統の森に帰ってきたわたしを、可愛らしいバーナーが、出迎えてくれました。嬉しいですね、感謝いたします」と森本さん。

よかったね。

ゆっくり静養して、もうひと踏ん張りしてください。

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放送関係者でつくる一般社団法人「放送人の会」は12日、「放送人グランプリ2016」に、NHK「クローズアップ現代」で今年3月まで23年間キャスターを務めた国谷裕子さん(59)、準グランプリにNNNドキュメント「シリーズ戦後70年 南京事件 兵士たちの遺言」(日本テレビ)を選んだ。

http://mainichi.jp/articles/20160513/k00/00m/040/032000c

南京事件」は尊敬するジャーナリスト清水潔さんが制作した番組だ。おめでとうございます。

この番組については、去年秋にこのブログで紹介してそのままになっていた。

http://d.hatena.ne.jp/takase22/20151019

あの番組を観て、兵士たちが書き残した「陣中日記」はとても貴重な資料だと思った。

それが、福島県の小野賢二さんという個人によって31冊が保存されてきたのだが、そのほかの膨大な日記は、顧みられぬまま散逸し廃棄されていったのだろう。こうした資料こそ公的な機関できちんと発掘、管理されるべきだ。

それこそ「世界記憶遺産」に登録してもいいのでは。

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戦争の記憶という点で思い出したのが慰安所だ。

17日(火)の朝日新聞朝刊に「慰安婦問題を考える~慰安所の生活 たどる」という記事が載った。

慰安婦問題で叩かれた朝日がこうした記事を載せるのは勇気がいったろうが、この記事を書いた一人は北朝鮮による拉致問題の取材でよく現場で会った北野隆一さんだった。

慰安婦の《境遇や移動経路が(略)詳細に追跡できる例はそれほど多くない。今回はその一例として、韓国の文玉珠(ムンオクチュ)さん(1924〜96)が語った部隊名や地名を手がかりに、多くの日本兵らが犠牲となったかつての激戦地ミャンマービルマ)を訪ね、足跡をたどった》というのがテーマだ。

文さんの証言は具体的で実にリアル。『文玉珠(ムン・オクチュ)―ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった 私 』(梨の木舎)は私のお薦めの本である。

http://d.hatena.ne.jp/takase22/20151228

この本を書いたのはライターの森川万智子さんで、私は面識はないのだが、去年、人づてに、ミャンマー慰安所だった建物がいま急速な開発でどんどん取り壊されていくのを憂慮していると聞いた。

森川さんが去年秋に新聞記者と現地を再訪したと聞いていたが、北野さんだったのか。

私は慰安所だった建物がいまも残っているということに驚き、森川さんが文さんの証言にもとづいて90年代から撮りためたミャンマーの映像を見せていただいた。

森川さんがミャンマーの田舎で「昔の日本軍慰安所はどこか」と聞くと、お年寄りがすぐに場所を教えてくれ、思い出話を聞かせてくれる、そんなシーンがあって、風格のある古い建物が画面に現れる。

ここが慰安所か・・・映像から当時の雰囲気が伝わってくる。

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写真はラングーンの慰安所、現在はYMCAの建物だ。こうした建物が各地に残っている。

http://fightforjustice.info/wp-content/uploads/2013/07/

(これはFight for JusticeのHPに掲載されている写真)

戦争の記録は、立場や解釈がどうであれ、残しておくべきだ。

オバマ広島訪問が話題になっている。

原爆ドーム広島県産業奨励館)は、1966年昭和41年)に広島市議会が永久保存することを決議するまで、20年以上にわたって保存か解体かでもめていたのだが、保存されたことはよかったと思う。

米国の人道の罪を糾弾する立場であろうが、日本が戦争を始めたこと自体が間違っていたと考える人であろうが、原爆ドームはそれを前にして考えるよすがになっている。

アジア各地に残る慰安所の建物もしっかり映像で記録しておくべきだろう。

2016-05-19 米国人ジャーナリストがヌスラ戦線から解放されるまで

先日、ヌスラ戦線から解放された米国人ジャーナリスト、カーティス氏をインタビューした日テレ特集を紹介した。

http://d.hatena.ne.jp/takase22/20160513

番組では「この男性は解放後、メディアの取材を拒み続けてきた」としていたが、実際は詳しい手記を『ニューヨークタイムズ』に載せており、テレビのインタビュー番組に家族ぐるみで出たりしている。

この人のケースは解放のための交渉代理人を買って出た人物とカタール政府筋のルートが両方あり、解放の過程も独特で、非常に興味深い。安田純平氏の今後を考える上で参考になると思うので、手記とその他の報道から事実関係を整理してみる。

なお、このカーティス氏はもともとTheo Padnosという名前なので、ここではパドノス氏と記すことにする。

http://www.nytimes.com/2014/08/25/world/middleeast/peter-theo-curtis-held-by-qaeda-affiliate-in-syria-is-freed-after-2-years.html?_r=0

パドノス氏はシリア国境に近いトルコの町に滞在し、毎日のように母親とメールをやり取りしていたが、2012年10月18日を最後に連絡が途絶えた。

家族は、ISに拘束されていたジャーナリスト、フォーリー氏はじめ他の同じような境遇の米国人の家族たちと連絡をつけ、情報を交換し励まあっていたところ、9カ月たって、シュライア氏というフォトジャーナリストがヌスラ戦線の収容所から脱出してきて、パドノス氏と同じ監房にいたと証言。ようやく消息が分かった。

2014年1月、クウェート人のガニム氏(Ghanim al-Mteiri)なる人物が、拘束中のパドノス氏の写真をもって『ニューヨークタイムズ』紙のスタッフに接触してきた。『タイムズ』紙はその写真をパドノス氏の家族にとりついだ。

ガニム氏はイスラム過激派(jihadi groups)の資金調達者として知られ、自分はパドノス氏の解放をお膳立てできると言った。パドノス氏の母親は指示されてトルコイスタンブールに行き、そこで怪しげな人物と2回会合をもったという。その人物は、会合を夜にすることにこだわった。

その人物は複雑な人質交換を提案した。パドノス氏の母親が、イラク政府が獄中にあった二人の女性(ともにイスラム過激派の妻)を釈放するようアレンジするならば、パドノス氏を解放すると持ちかけた。

このころから、家族のもとにメールと電話で身代金要求が寄せられるようになる。要求額はおよそ300万ドルから始まって最後は2500万ドルまで上がった。

困り果てたパドノス氏家族たちは、サマンサ・パワー米国国連大使カタール国連大使を紹介してもらった。家族によると、そこから事態が進んでいった。例えば、本人確認のための質問(博士論文のテーマは何だったか、など)をパドノス氏に送ることができたという。

2014年7月、パドノス氏が両手を縛られ、自動小銃もつ男の下に座らされ「命があるのは3日間だけだ」と助けを求めるビデオを家族が受け取った。家族はパニックになったが、カタール主導の交渉に大きな変化は見られなかった。

そして8月に事態が急転する。フォリー氏の処刑ビデオがYouTubeにアップされてわずか6日後にパドノス氏が解放されたのである。

中東政治の専門家によれば、カタールは過去、イスラム過激派武装勢力を支援したことがあったが、現在は米国の重要な同盟国であり、フォーリー氏殺害の後、ISISのような集団には反対しているとの断固としたメッセージを送るために、より強くパドノス氏の解放を保証するよう動いた可能性があるという。

ランド研究所(RAND Corporation)のブレナン氏(Rick Brennan)は、「フォリー氏の斬首の結果として変化が起きている」という。「カタールの関心は、テロとの戦いにおける同盟国と見られることを確実にすることだ。米国人または西洋人の斬首はカタールの利益にはならない」と語る。

ISによるフォーリー氏殺害でパドノス氏の解放を急いだのは、ヌスラ戦線ではなくカタール政府だったと解釈する専門家は多い。

パドノス氏のケースで興味深いのは、自称「代理人」との接触とカタール政府の関与という二つの筋がともに登場していることだ。結局、後者の線で解放されたもようだが、身代金が支払われたのか、については不明だ。カタール政府米国政府も払っていないという立場だが、7月の明らかに身代金交渉が進んでいることを示唆する2014年7月のビデオは何なのか。

詳しい分析は今後におくことにして、時系列で解放までを整理しておく。

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1)パドノス氏は1968年生まれ。マサチューセッツ大学比較文学の博士号を取り、刑務所で囚人に詩を講義するなどしていたが、イラク戦争が泥沼化していた2004年、欧米以外の価値観を理解したいとイエメン首都サナアに留学してアラブ語とイスラム教を学ぶ。さらに、シリア首都ダマスカス宗教学校で勉強していたが、内戦がはじまり、新聞などに記事を書く。

イスラム過激主義に関する『アンダーカバームスリム』(2011)という本を出版した後、イスラム圏での滞在が困難にならぬよう、改名して母親の姓カーティス(Peter Theo Curtis)を名乗るようになる。アラブ語が流暢になったパドノス氏は、2012年秋からライターとして本格的に中東問題に取り組もうとしていた。

《現地で不自由しないレベルのアラブ語をマスターしていたというパドノス氏。本格派の中東問題のライターをめざしていたようだ》

2)2012年10月2日。

 シリア内戦を取材しようとシリア国境に近いトルコのアンタキアに行く。ある日、アンタキアの町で3人の若いシリア人と会った。ちょっとうさんくさくはあったが、「ここから自由シリア軍に物資を運ぶのが仕事だ」といい、一緒に連れて行ってくれるという誘いにのった。2~3日で帰れると思ったので、当時その町でルームシェアしていたチュニジア人にも行き先を告げなかった。10月18日の母親へのメールを最後に連絡が途絶えた。

トルコシリアへの越境方法が分からずにいるところに、トルコにいるシリア人、またはシリアと取り引きのある人がアプローチしてきたり、知りあったりというパターンはよくある》

3)オリーブの農場を抜けて有刺鉄線をくぐり、国境を越えてある廃屋に入った。翌日、ビデオカメラでインタビューされた後、いきなり押し倒され、ピストルで脅されながら手錠をされ縛られた。

 彼らは、アルカイダだといい、もしパドノス氏の家族が身代金(250gの金と同額のお金)を払わないと1週間以内に殺されると告げた。

《3人ははじめからパドノス氏を身代金目的で誘拐している。しかも、どこかの組織のためというより単独で。250グラムの金はせいぜい1万ドルくらいだったらしく、誘拐に慣れていない「素人」だったのではないか。ただの物取りに近いと思われる。》

4)その夜、パドノス氏はその家から脱出することに成功。ミニバスを捕まえて自由シリア軍の司令部に着いたが、すぐに誘拐した3人が現れ、自由シリア軍のアジトに連れて行かれて地面に掘った穴に入れられる。

数日後、自由シリア軍は、パドノス氏の身柄をヌスラ戦線に渡した。

ヌスラ戦線はアレッポの小児病院を司令部にしており、監獄もそこにあった。常時、手錠をかけられ、殴打などの暴行を受けた。看守は棒で殴ったり(家畜の突き棒で)電気ショックを与えたりした。

 監房は光のない真っ暗な部屋で停電のため電球は日に数時間しか灯らなかったため、昼夜の区別がつかなかった。食事オリーブとハルヴァ(ゴマの菓子)で、看守は病院のトレーにのせて運んでくると床に投げ捨て、「おまえはブタだ、(床に這って)食え」と言って房から出て行くのだった。

 看守は数人いて、リーダーはトルコ語を話すクルド人だった。ときおり、外からトルコ人の集団がやってきて「囚人」たちを虐待した。パドノス氏も、目隠しされ手錠をされたままトイレに連れて行かれるさい、彼らに唾をかけられたり叩かれたりした。

 監房に入れられていたある「囚人」は、天井から手錠をされて吊るされ、「助けて!」と叫んでいたが、看守リーダーはそれを楽しんでいた。

 パドノス氏は「CIA工作員だと白状しなければ殺す」と脅され拷問された。痛みから逃れるため、そうだと認めた。12月のことだった。

《3人が現地出身者の自由シリア軍にコネを持っていたのは自然だが、この時点からパドノス氏の身柄は3人の手から離れ、自由シリア軍からヌスラ戦線へと渡っていく。身柄の移転にどういう取引があったのかは不明だが、ヌスラ戦線が組織として身代金目当ての誘拐を企図し、その実行を3人に依頼したとは考えにくい。ひどい暴行や拷問が続き「CIA工作員」の容疑者の扱いを受けていた》

5)2013年1月になると、イスラム教への改宗の誘いを受けるようになる。

 1月の第3週、パドノス氏の房にシュライア氏(Matthew Schrier)というニューヨーク出身の米国人フォトジャーナリストが加わった。

 シュライア氏は、2012年12月にアレッポトルコ国境を結ぶ道路上で、ジープに乗った顔にスカーフを巻いた3人の男たちに銃を突き付けられて誘拐されていた。

3月はじめにはスパイ容疑のモロッコ人戦闘員も同じ房に入ってきた。このモロッコ人に説得されてシュライア氏はイスラム教に改宗した。シュライア氏は、改宗はよい待遇を受けるための便宜的なものだったという。

2013年春から初夏にかけて、ヌスラ戦線は、パドノス氏とシュライア氏の拘束場所を、アレッポ郊外の一軒家、閉店した雑貨屋、倉庫、運輸省の支所の地下室と転々と移した。ときどき逮捕されて同じ監房に入ってくる人がいたので、どの辺にいるのかおよその検討はついたという。

《組織内のスパイ容疑者と一緒の房に入れられていることは、パドノス氏もこの段階までは、まだ「容疑者」という扱いだったように思われる。拘束場所がときどき替わるのは、安田氏を含む他の外国人ジャーナリストの場合も同じだ。》

6)2013年7月29日朝、脱走計画を実行した。まずシュライア氏が小さな窓から外に出てパドノス氏が這い出るのを手伝うという手はすだった。しかし、パドノス氏は体が突っかえて出られず、シュライア氏一人が逃亡に成功、トルコへと越境し帰国できた。

 この事件で、二人は訓練されたCIA工作員ということにされ、パドノス氏への扱いは酷くなった。常に目隠しをされ手と足は縛られた。その45日後(9月半ば)、パドノス氏はアレッポから6時間車に乗せられ、東部のデリゾール市の近くに送られた。新たな収容所は学校の校舎だった。

アレッポから遠く離れた東部に移され、待遇が大きく改善されたようだ。米国にいるパドノス氏の家族は、脱出に成功したシュライア氏によって、初めて現地での消息を知ることができた。》

7)2013年11月はじめ、ヌスラ戦線のトップリーダーの一人、カタニ師(Abu Mariya al-Qahtani)がやってきて、パドノス氏に、欧米がイスラムに対して犯した罪について語って聞かせた。

《カタニ師は、ヌスラ戦線の最高幹部の一人で、宗教部門の責任者であり東部デリゾール地域の軍司令官でもある。デリゾールへとパドノス氏を移動したのは、彼の扱いがカタニ師にゆだねられたとみられる。このときからパドノス氏は、スパイ容疑者から人質へと変わったのだろう》

パドノス氏は、「カタニ師が、ヌスラ戦線の資金を管理し、爆破対象をどれにするか、「囚人」を解放するか処刑するかの決定も行う」という評判を聞いた。

この収容所ではヌスラ戦線の戦闘員と仲良くなるようつとめ、秋には食事も改善され、目隠しと手錠つきだが房の外に出してくれるようになった。

 四つの独房があり、それぞれ狭いトイレ部屋くらいのサイズで、食事の差し入れ口のある鉄の扉がついていた。他の「囚人」を見ることはできず、互いに話すのは禁じられていたが、看守の隙を盗んで小声で話し合うこともあった。

 2014年3月、IS司令官がパドノス氏の両隣の房に入れられた。パドノス氏は彼らと宗教と政治について議論した。

 2014年5月までには看守たちともよい関係を築くことができるようになっていた。食事や水も十分与えられた。

8)2014年6月はじめ、収容所に変化があった。パドノス氏以外の「囚人」は全員別の場所へ移されていった。収容所で進んでいた建設工事は中断された。

 7月3日朝、パドノス氏は房から出され、夜、車でユーフラテス川近くの油田のそばの民家に着いた。カタニ師とともに戦闘員など200人以上が早朝、車(ピックアップ)を連ねて出発した。カタニ師は、「ISに囲まれている」とパドノス氏に語った。 

カタニ師はパドノス氏に戦闘員の服を与え他の戦闘員に混じるように言い、また、南西部のゴラン高原東端にあるダラア(Dara’a)に着いたら、家族のもとに返してやると約束した。パドノス氏はカタニ師の車に同乗するか、すぐ後ろの車に乗せられた。一団は10日間かけて政府軍の基地などを避けながら進み、首都ダマスカスの東20マイルの地点に着いた。その付近には自由シリア軍の部隊がいた。数日後、政府軍に見つかり、爆撃を受けてヌスラ戦線の戦闘員一人が死亡、車両6台が破壊された。

 7月中旬、カタニ師の部隊はダラアの郊外のサイダ(Saida)に着いた。カタニ師は毎日のように「すぐに故郷に帰してやる」とパドノス氏に言うようになった。

《この時期、デリゾール地域のヌスラ戦線はISから激しく攻撃され、劣勢に陥り、この地域を放棄して南部に逃れた。パドノス氏は客分の待遇でこの逃避行に同行させられたのである》

9)このかん、パドノス氏の動画が2回出た。

最初は3月。

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「私はボストン出身のピーター・カーティス、ジャーナリストだ。きょうは2014年3月30日。食べ物も待遇もパーフェクトだ」と穏やかな表情で、待遇がよいことをアピールしている。

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2回目はパドノス氏が「きょうは2014年7月18日」と言うビデオで、前回とは正反対の雰囲気。小銃を突き付けられ怯えた表情で「米国政府と友人のみんなへ。私の命を救える唯一の人、イブラヒム・アリバーシャがコンタクトしてすでに20日何もなされなかった。私の命は非常にあぶなくなっている。あと3日しかない。そのかん、何もしなければ殺される。みなさん何とかしてください。助けて下さい」と必死に訴えている。

《2番目のビデオは身代金交渉への圧力と見られるが、このあたりのやりとりについてはよくわからない》

10)2014年8月、監視つきながら5人の戦闘員と一緒に民家に生活していたパドノス氏は、ある朝、再び脱走を試みる。監視人が寝ているすきに、自由シリア軍が管理する病院に逃げ込み、「アイルランドジャーナリストだ。助けてほしい」と告げる。自由シリア軍となのる男に部屋に招かれ待たされていると、15人のヌスラ戦線の戦闘員がやってきて連れ戻された。

 それからはベッドルームに閉じ込められたが、カタニ師は監視人がパドノス氏に制裁を加えることを許さず、より親切な監視人に交代させた。しばらくすると、居間で戦闘員と過ごしたりできるようになった。

《2012年10月の誘拐直後につづいて自由シリア軍に助けを求めて失敗している。シュライア氏だけが成功した脱出計画を入れると3度目の逃亡失敗なのだが、それほど厳しい罰を受けていないのは、

11)8月後半、パドノス氏のいる民家に5〜6人のヌスラ戦線幹部が会議にやってきた。そのほとんどが、携帯電話にジェイムズ・フォーリー氏(8月19日にISに殺害される映像が公開された米国人ジャーナリスト)の処刑動画をもっていて、笑いながら「これを見たか?ISが人々にどんなことをやるか分かったか?こんなことをされたらうれしいか?」と聞いてきた。

 2014年8月24日の午後、カタニ師が突然やってきて言った。「荷物をまとめろ。お前の母親のところに返してやろう」。カタニ師と数人の戦闘員と車でゴラン高原に向かい、クネイトラ(Quneitra、レバノン、イスラエル国境に近い町)の近くにくると、UN(国連)のマークのある白いトラックが2台、アイドリングして止まっていた。非武装地帯国連の基地で健康チェックを受け、米国政府の代表者と会った。

 パドノス氏は、のちに、カタールが解放処理を援助してくれたことを知った。

 数日後、ヌスラ戦線が、パドノス氏を受け容れてくれた国連基地を攻撃したと聞いた。

国連の声明によれば、パドノス氏の身柄は、ゴラン高原国連平和維持軍に、現地時間午後6時40分に引き渡されたという。》

2016-05-17 サハリン残留邦人の共同墓地ができた

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 今がちょうど旬のミヤコワスレ

 承久の乱佐渡に流された順徳天皇が都をなつかしんだといわれる。

 その中でも紫の強いこれはエドムラサキ。

 同じ植物でも、ブタクサ、イヌフグリなど酷い命名もあるなか、優雅な名前で得をしている花である。

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 東京五輪招致の「コンサル料」問題。「正当な支払い」で押し通す方針らしい。

 テレビで、スポーツ評論家のT氏は「問題ない。他の国もみなやってる。過去ではなくこれからのことを考えよう」などとコメントしていた。「みなやってる」ならいいのか。

 シンガポールの事務所がペーパーカンパニーだったり、ドーピング問題で逮捕されている「黒い」人物が登場したり、コンサル契約書は見せられないと隠したり(もしかして、ないんじゃないか?)いかにも怪しげだ。国会でしっかり追及してほしい。

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 先週、サハリン残留日本人の墓地がやっとできた。

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 《戦後、樺太(現ロシアサハリン)残留を強いられた邦人らを祖国で供養しようと、NPO法人「日本サハリン協会」(東京)などは14日、札幌市南区の藤野聖山園に共同墓所を建立し、落成式典と慰霊祭を行った。残留邦人らでつくる「サハリン日本人会北海道人会)」の会員ら約120人が参列し、赤いカーネーションを献花した。

 共同墓所は当初、経済的理由で墓を持てないサハリンからの永住帰国者のために計画。その後、帰国がかなわず亡くなった残留邦人の家族らが「樺太関係者の魂の集まる場所にしたい」などと要望し、残留邦人も含めた共同墓所とした。建設費400万円は寄付金で賄った。》(毎日新聞)

http://mainichi.jp/articles/20160515/k00/00m/040/114000c

 

 1989年から戦後処理の取材のためサハリン(樺太)に通った。残留邦人の里帰りと残留朝鮮人韓国の留守家族と日本で再会する事業が実現しはじめていた。

(残留朝鮮人については、新井佐和子『サハリン韓国人はなぜ帰れなかったのか―帰還運動にかけたある夫婦の四十年』が詳しい)

残留邦人がどこに何人いるのかを調べにサハリンの各地を回って日本人や朝鮮人を訪れ、「戦後初めて本土の日本人に会った!」と大歓迎された思い出がある。毎晩、家に呼ばれて宴会になり、当時亡くなったばかりの美空ひばりの歌を一緒に歌ったものだ。

http://d.hatena.ne.jp/takase22/20100508

 報道も里帰りの動きを後押しして、一時訪問から永住帰国へとすすみ、現在は、134世帯303人が永住帰国している。

 共同墓所は、日本とサハリンに見立てた高さ約2メートルの墓石2本を並べ、両国自由な往来を象徴してカモメを彫ったという。私も少額だが寄付させていただいた。

 サハリンに通うなかでテレビでは初めてとなる北方領土(クナシリ)の取材にも発展し、本当に実り多い時期だった。そこでは朝鮮併合、戦後責任領土問題と大問題が複合しており、勉強させられた。また、ソ連崩壊の直前でもあり、社会主義はこういうふうにしてダメになっていくのだな、と実感できたのも収穫だった。

 お墓ができ、とりあえず永住者に安心していただいてよかった。

2016-05-14 五輪誘致の巨額「裏金」疑惑の解明を

takase222016-05-14

いやはや、あきれましたね。

正月の家族旅行のホテル代や子どもの誕生祝いのレストラン代、さらには画材店での178万円にのぼる買い物などを政治資金から支払っていた舛添都知事

公用車週末別荘通い」に続く『週刊文春』のスクープだ。

笑ったのは舛添氏が都庁の男性職員に「ごちそうする」とマクドナルドに誘った話。

店の前まで来たときに舛添氏、自宅にクーポン券があるのを思い出し、男性職員に自宅に取りに行かせて、その間、SPとマックの前で待っていたという。せこすぎて言葉もない。

高級ホテルへの宿泊など豪勢な海外出張については擁護していた「とくダネ」の小倉キャスターも、「マック事件」を「都庁の経費も、そのくらいしっかりと節約してもらいたい」と皮肉。

「調査結果」を明らかにしたという13日の会見が、まるで子どもの言い逃れで聞くに堪えない。一連の事件は、公私のけじめがないことで共通している。

即刻辞任すべし。

猪瀬前知事がお金の問題で辞任したことで行われた都知事選で、もともと金銭疑惑だらけの舛添氏だけは選んではならない候補者だった。

選挙前、『赤旗』が重大疑惑を報じたが、大きな争点にならず、舛添氏は圧勝したのだった。

http://d.hatena.ne.jp/takase22/20140121

週刊文春』の記事によれば、「小誌取材班は、現在公開されている舛添氏の三つの政治団体の収支報告書(12年〜14年分)を徹底的に精査した」という。

そしてそこに載っている出費項目、例えば

「2013年1月3日 会議費用 237,755 龍宮城スパホテル三日月」

が事実かどうかを一つ一つ調べていったのだ。

この取材は、特別なたれ込みや情報ルートがなくとも、やる気と根気があればできる。

こうしたスクープが、取材スタッフが充実しているはずの新聞やテレビなどのマスコミからどんどん発せられてよいのではないか。

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また、お金にまつわる疑惑。

海外から、2020年東京五輪を巡る、招致委員側による“巨額「裏金」疑惑”がとびこんできた。追及されて、日本オリンピック委員会も支払いを認めた。

日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長は13日、約2億3000万円をシンガポールコンサルタント会社「ブラックタイディングス」に送金したことを明らかにした。(略)

疑惑はフランス検察当局がロシア選手のドーピング違反のもみ消しに絡んだ汚職の疑いがある国際陸連前会長のラミン・ディアク氏の捜査の過程で浮上した。フランス検察当局からJOCに照会はないという。3都市の争いは直前まで接戦で、ディアク氏は東京が招致を勝ち取ったキーマンの一人。ブ社代表のイアン・タン氏はディアク氏の息子、パパマッサタ氏と近い関係とされる。》(毎日新聞

http://mainichi.jp/sportsspecial/articles/20160514/k00/00m/050/124000c

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【ラミン・ディアク氏】

もし、賄賂五輪を招致したとなれば、エンブレム騒動などとは比べものにならない大きな問題だ。

電通の関与を海外メディアが報じるなか、日本のメディアの扱いが小さいのは、電通に遠慮してではないかと取りざたされている。

http://lite-ra.com/i/2016/05/post-2239-entry.html

あるいは、東京五輪が「国策」であることへの忖度なのか・・

マスコミは、海外支局を使って多面的な取材ができるはずだ。

その取材力をぜひ発揮して徹底的な解明をしてほしい。