チェルノブイリからただいま

ウクライナチェルノブイリ原発事故の「今」を取材してきた。
6日に出発しきょう帰国したら、成田空港は気温21℃とぽかぽか。もう桜が散り始めているのに驚いた。
むこうはとても寒く、雪や霙が降っていた。あまりの寒さに、戸外のインタビューでは、私が持つマイクがぶるぶる震え、通訳に笑われるほどだった。
久しぶりの取材現場だった。

 一昨年5月にイランとアメリカを取材して以来、海外に出るのは2年ぶり。会社の経営建て直しが喫緊の課題で、取材に出ることがめっきり少なくなっていたのだ。

今回は2回目のチェルノブイリ事故取材で、最初に行ったのは90年。「チェルノブイリ救援・中部」という愛知県を拠点にしたNGOの現地派遣団に同行したのだった。
 派遣団員(といっても計2人だが)の坂東弘美さんが、その現地訪問記を『とどけウクライナへ』という本にまとめている。
 今回、キエフにあるチェルノブイリ事故博物館を訪れたところ、その本がガラスケースに陳列してあって、一瞬なつかしさにひたった。
 「救援・中部」は救援活動を継続しており、ウクライナの首都キエフには日本人駐在員を置いている。その駐在員が竹内高明さんで、94年からずっと駐在しているという。竹内さんには「菜の花プロジェクト」を一日かけて案内していただいた。
 このプロジェクトについては、あらためて書く。

今回、驚いたのは、ウクライナの人びとの「フクシマ」への関心の高さだ。
小さな子どもから、田舎の農家のおばあさんまで、非常に詳しく事態を知っている。こちらが日本人だと気づくと、近づいて「お悔やみ申し上げます」「チェルノブイリの二の舞にならぬよう祈っています」と語りかけてくる。
涙ぐんで心配してくれる年配の人もいた。

かつてチェルノブイリ事故が起きたときには、日本人は、ソ連の技術の低さや秘密主義などを一方的に非難し、揶揄していた。ある意味、他人事だったわけだが、今や、あの事故処理と人びとのこれまでの経験は、我々が実践的に学ばねばならないものとなった。
週末のテレビ放送が終わったら、《チェルノブイリの教訓》をこの日記で連載していきたい。
(放送予告はツイッターでします)