13歳で拉致されたもう一人の日本人

 きょうはめぐみさんが北朝鮮工作員によって拉致されて39年になる。

 新潟市横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されて39年となった15日、同市中央区の市民芸術文化会館で「忘れるな拉致 11・15県民集会」が開かれた。
 めぐみさんの父・滋さんと母・早紀江さんは体調を考慮し、自宅のある川崎市から中継で参加。めぐみさんら拉致被害者の早期救出へ思いを一つにした。
 集会は新潟日報社と県、新潟市が主催し、市民ら約650人が来場した。滋さんは「大勢の方に駆けつけてくださり、ありがたい」と来場者に感謝。早紀江さんは「40年近くたっても会えない。政府は力を合わせ、自分の子どもだったらどうするだろうという思いで拉致被害者を取り返してほしい」と求めた。
 集会には佐渡市拉致被害者曽我ひとみさんらも出席した。》新潟日報

 NHKのインタビューに答えて早紀江さんは「10月、11月、12月のクリスマスと、思い出があるだけにこの時期が来ると悲しくなります。めぐみを迎えてあげたい、その場で倒れてもいいくらい会いたいと思っています」と言っている。滋さんはきのうで84歳、早紀江さんは80歳。お二人の胸中を思うと切ない。

 きょう午後、うちの会社でも拉致問題の勉強会を開き、番組企画ができないかアイディアを出しあった。近年、拉致問題の「風化」が加速している。とくに20歳代の若い人たちの知識の欠如には驚く。新潟の集会のテーマが「忘れるな拉致」というのもうなづける。若者が観たくなるような拉致に関する番組を作らなければと思う。
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 先週末は、カンボジアから森本喜久男さんが帰国して恒例の報告会をやるのに合わせ、1泊で京都に行った。
 法然院という銀閣寺の近くのお寺で毎年、カンボジアの彼の村「伝統の森」で織られた作品の展示販売会と報告会がある。今年は19回目で、写真家の内藤順司さん(『いのちの樹 森本喜久男 カンボジア伝統織物の世界』を出版した)との対談が行われた。
 「伝統は守っちゃいけない。作っていくもの。大量生産ではない、『こころ』をこめたモノづくりの時代がやってくる」と持論を熱く語った。50人を超す参加者には若い女性の姿が目立ち、質疑も盛り上がった。対談が終わっても森本さんを囲んで話が続き、「本物」を求める気持ちが伝わってきた。
 法然院は多様な催し物に場所を提供することで知られている。タクシーの運転手さんに行く先を法然院と告げると、「何年か前、そこで寺越友枝さんの講演会があって、かみさんと行きました」という。
 おやおや、寺越友枝さんの息子さん武志さんの「清丸事件」は、私たちが初めて全国放送で「拉致」と断定した因縁の事件だ。ここで話はまた拉致問題になる。
【失踪当時の武志さん13歳】
 石川県の寺越武志さんは、1963年、二人の叔父、昭二さん、外雄さんとともに「清丸」という小さな漁船で漁に出かけ帰ってこなかった。漁といっても、夜、岸から数百メートルのところに刺し網をしていつもなら朝戻ってくる。その夜は風のないベタなぎで遭難は考えられない。三人を探すと、数キロさきに空っぽの船だけが漂っていた。船の前方に何かにぶつかったような破損個所があった。不思議ではあったが、3人の葬式も済ませた。武志さんはわずか13歳。めぐみさんが失踪した歳と同じである
【舳が大きく破損していた清丸】
 ところがそれから24年経った1987年、北朝鮮から、元気でいるとの手紙が突然届いた。昭二さんはすでに亡くなり、外雄さんと武志さんは亀城(クソン)という地方で家族を持ち、旋盤工として働きながら暮らしていた。
 武志さんのお母さん、友枝さんは、当時の社会党の代議士のつてで北朝鮮にわたり武志さんと劇的な再会をとげる。そして、63年の「清丸事件」は、遭難していた武志さんたちを通りかかった北朝鮮の船が救助したという「美談」に、母子の再会は北朝鮮の配慮のもとでの感動話にされた。
【四半世紀ぶりの母子再会】
 しかし、取材すると、これは美談などではなく、どこから見ても「拉致」であるのは明らかだった。最も可能性が高いのは「遭遇拉致」。つまり夜、日本の領海に侵入してきた工作船が「清丸」にぶつかった。事態発覚を恐れた乗組員たちが武志さんたちを拉致したのだろう。
 1997年4月、荒木和博さん(現・特定失踪者問題調査会代表)が同時に取材を進めており、情報交換しあって、荒木さんは5月初め発売の『正論』6月号に記事を載せ、私たちは5月10日、テレビ朝日ザ・スクープ」で放送した。
 これに対する北朝鮮側のリアクションは予想を超えた。北朝鮮はメディアを通じて、反動勢力の嘘と激しく反論したうえ、武志さん本人に拉致を否定する談話を発表させ、さらには武志さんを地方の旋盤工からいきなり平壌市職業総同盟副委員長という要職に出世させ、一家を平壌の高級幹部のみが棲む高層マンションに移したのだった。
 当時、拉致だと日本で騒ぐと、拉致被害者が危害を加えられたりするのではないかと危惧する声があったが、私たちは武志さんの身の上に起きたことから、「むしろ日本側が拉致だと騒いだ方が、被害者たちは大事にされる」と反論したものだった。
 母親の友枝さんは、1997年3月に拉致被害者家族会が作られると、これに加わり一緒に活動した時期もあったが、武志さんに反対される。武志さんは北朝鮮に家族がおり、これからもそこで暮らしていかねばならないのだ。日本に帰りたいとは言えずましてや「拉致」などと言えるはずがない。「後ろを振り返らないで、前だけを見ていこう」と武志さんに言われ、運動から手を引いた。
 先月、AbemaTVというネットテレビに出演してこの「清丸事件」について語ったら、スタジオの若いゲスト、コメンテーターたちは目を丸くして「信じられない」と驚いていた。しかし、事実は小説より奇なり。非常に強い関心を示したのも若い彼らだった。拉致啓蒙の可能性を感じた。
 めぐみさんも武志さんも、13歳という若さで北朝鮮に拉致された。しかし、その後の運命は大きく異なり、めぐみさんがいまだ消息が分からないのに対して武志さんは日本の家族とも再会できた。しかし、武志さんも友枝さんも「拉致」を否定し、北朝鮮のリーダーの恩に感謝しながら生きていかざるをえない。本人と家族が拉致を否定する「清丸事件」は、政府認定の拉致事案にはいまも含まれていない。

 昨日は雲に隠れていたスーパームーンが見事だ。北朝鮮でも見えているだろうか。
 武志さんには『人情の海』という自伝がある。武志さんが奴隷の言葉でどんなことを書かされたのか、関心のある方は邦訳がネットにあるので参照されたい。http://araki.way-nifty.com/araki/files/terakoshi.pdf
 (写真は、寺越友恵『北朝鮮にいる息子よ わが胸に帰れ』(徳間書店)より)