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あれぐろ・こん・ぶりお

February 28(Tue), 2006

沖縄旅行記2

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 画像は万座毛。改めてきてみると本当にきれいな海の色にビックリです。

 こうした色の海は本州では見ることが出来ないでしょう。やっぱり沖縄亜熱帯に属するんだなぁと思わずにはいられない瞬間です。

 万座毛までは那覇から高速を使えばすぐに着く距離。

 この日も天気が良くないかな、と心配されたんですけど、高速を降りて峠を越えたら非常に良い天気で驚きでした。そんなに高い山じゃないんですけどねぇ。海沿いの天気は良く分からないもんです。

 天気が良いもんだから海がきれいに見える。光が海の中に差し込むことで、海の青さが鮮やかに眼前に広がります。

 ただの海なら大して珍しくないんですけど、珊瑚礁によるものなのか、砂浜の色と、水がきれいだということがあって、あの美しい色が出るんでしょうねぇ。

謝罪会見したものの

表示できません - Yahoo!ニュース

民主党永田寿康議員による謝罪会見が今日、ようやくありましたね。

 ニュースは永田議員の謝罪の回数や、頭を下げた時間をテロップで表示したりと、完璧なワイドショー化。なにやら不謹慎な気がするのは気のせい!?

 ところで、ニュースを見てたら某番組のコメンテーター大谷昭宏は傷つけられた名誉は回復しないから、永田議員議員辞職は当然だというコメントをしていたけど、管理人は全く正反対に、永田議員は辞職する必要がないと思う。

 まず、武部勤自民党幹事長の次男が純然たる私人かどうかが疑問。前回言った通り、武部次男は公人に準ずる立場じゃないかなぁ。

 報道でもそうだけれど、良くモノサシとして使われるのが「公益性」が存在するかどーかだろう。武部次男に矛先を向けると、それは公益性から反するかどうか、を考えると反しないんじゃないか?裏を返せば、政治家の家族は残念ながら私人として生活するのは不可能だと思う。政治家本人との間に私人として線引きするには近すぎ。

 

 今回の件で言えば、自民党という、一政党幹事長の次男に過ぎないから…という理由で、武部次男が私人だと考えるのかもしれないけれど、自民党の場合、党総裁はすなわち内閣総理大臣となるから、実際に党運営をするのは幹事長ということになる。

 自民党という組織が、一政党であるにもかかわらず、長期間にわたり政権を担っていたために政党機能としては異常なほどの政策立案能力を有しているのは政治学での指摘の通り。

 自民党の部会における政策形成が事実上、国会の委員会における政策形成以上に重要な意味を持っている。(今は公明党との政策協議もあるけど)

 自民党という一政党であるにもかかわらず、実際政治に及ぼす影響は国会に匹敵する一方、一政党であるがゆえに国会の様に監視の効かない部分もまた存在する。そう考えると、自民党幹事長という職に就く以上は、疑惑をもたれてもしょうがない地位であることを実は国民が認識しなくちゃいけない。テレビとか見てると、ちょっと、自民党幹事長という立場を軽く考えすぎてると思うんだけどなぁ。

 逆に、疑惑を指摘されたら、当人が全く潔癖だったら、完全に情報を公開して完膚無きまでに反論すれば済むことだし。


 引っ掛かるのは、あのメールがガセだったとしても、ガセメールを永田議員に持ち込む理由はどこにもないところにある。永田議員はかつての辻元清美田中眞紀子のように世間の注目を浴びる存在ではなかったから、「出る杭は打たれる」的な要素はなかった。

 なら、そもそも陥れる必要がないのに、あんなガセメールを作るのは余程の暇人以外の何者でもないはず。邪推しない限り、ガセメールを作る目的がハッキリしないのだ。

 そう考えると、武部幹事長とと堀江元社長の間になんらかのグレーな噂があったと邪推してもおかしくはない。

 それに加えて、結局、疑惑の解明が武部サイドの身の潔白の証明ではなくて、永田サイドのメールの真偽によってなされたと言うこともある。武部サイドから、指摘を受けたどこを探してもそんな形跡はないとオープンにしてしまえば、疑惑は解決するのに、相手を自滅に追い込む手段が何とも…と思わせられる。

 もっとも、記者会見で、一応の区切りはついたから、あとは懲罰委員会でなんらかの懲罰が決定され(本会議場での謝罪とかあるのかな)、終わりじゃないのか?

 昨日の繰り返しだけれど、確かに拙速で幼稚だけど、それは間違いの問題で、非合法の問題ではない。法を犯したわけではないんだから、辞職をする必要ないし、そもそも「議員辞職」という行為の重大さを考えないといけない気がする。


 それにしても、民主党、頼りないなぁ…。あんなセンセーショナルなことをしなくても、いくらでも内閣を攻撃できる材料があったのに。伊藤公介・元国土庁長官の疑惑だってまだあったし、これでうやむやにされたら堪らないなぁ。

 そう考えると、一方が自滅すると、とたんに緊張感のない国会になる二大政党制は良くない。民主以外の野党が小さすぎて代わって追求しようにも、世論は認識してくれないもんなぁ。こうなると議会政治がそもそも成り立っていないんじゃないだろうか、という疑問が湧いてきてしまった。あしたからどーなりますか…。

February 27(Mon), 2006

「ホウ・レン・ソウ」って必要だよね

 といっても、八百屋で声を潰したオヤジさんが言い、オリーブの妻(←もう、誰だか分かんない人多数だな)が力を発揮するために食べるあの野菜のことではもちろんなくて、報告・連絡・相談の「ホウレンソウ」です。

 報告と連絡って被るところもあるとは思うんですが、でも始めて言い出した人はなかなかイイ語呂合わせを考えついたもんです。

 いや、なんでこんな話題になったかといえば、バイトの話になるのです。来月から新メニューが導入されるんですが、その研修が全然予め連絡されないという困った状況です。

 もしかすると、自分だけ知らないってことも大いにあり得る話なんですが、シフト表に書き込みがあるわけでもなく、掲示が出ているわけでもなく、これはもしかしてぶっつけ本番で調理するんじゃないかという予感がしてきました。

 これだから…って言いたくはないんですけど、フツーの会社であれば「ホウ・レン・ソウ」は常識だと思うんですが、だから…(以下自粛)とこんな時は思ってしまいます。

 明日、出勤日じゃないけど様子見に行ってみようかなぁ。


 ホウレンソウが必要といえば、今日、民主党の永田議員は謝罪会見をすると思われていたのにもかかわらず、明日だとかでガッカリ。これも野田国対委員長鳩山幹事長らと永田議員の間できちんとホウレンソウが出来ていなかったことが失敗のモトだ。

 あと、話は変わるけれど、「謝るタイミング」は非常に重要だと思う。遅きに失すると「今更謝っても遅いよ」と思われるし、早すぎると「やっぱり悪かったんだ」とも思われる。

 ただ、気になることは、この問題で自民党公明党の側は永田議員議員辞職を求めていると言うことだ。これはちょっとやり過ぎだろう。

 自民党武部勤幹事長の息子が公人か私人か、という問題で、大勢は私人だといっているが、それはちょっと問題があると思う。

 これがまだ社会に出ていない子どもなら確かに問題なんだろうが(子どもならそもそもこんな問題は起こらないけれど…)、社会に出てしまい、ましてや父親は自民党幹事長である。何らかの繋がりが発生していないか疑惑がもたれてもしょうがないと言えばしょうがないのだ。

 政治家、とりわけ与党幹部においてプライバシーはどこまで守られるのか、という問題があると思う。

 で、永田議員は別に誹謗するために(結果として信憑性の薄い)メールを採り上げたわけではないのだから、その点は「ゴメンナサイ」と相応のケジメでもって報いればイイと思う。重要なのは永田議員は間違っただけであり、犯罪をしたわけではない。(もっとも、西村眞悟のように逮捕されても辞職しない厚顔もいるが…辻元清美ですら疑惑の段階で辞職したのにも関わらず、だ)

 間違ったら議員辞職であれば、人間は可謬性があるのだから誰もが議員辞職する事になるし、アジア外交、BSE、建築偽装、防衛施設庁談合天下りライブドア事件と間違い続けてきた小泉政権自身と与党国会議員の責任者の方々も同様だろう。

 話が長くなるからこの辺で…。

 

沖縄旅行記ー麥ぞ詈

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 ってことで、いつまでも予告しておきながら一向に載せないと愛想を尽かされかねないので、沖縄行ってきたことをちょこっと書きます。

 とはいえ沖縄、今回で実は3回目。実際は離島に行きたかったモノの、メンバーの予算制約がある中で、本当だけで断念せざるを得ませんでした。宮古石垣・西表etc.といった島に行ってみたかったんですけどねぇ。Dr.コトーやちゅらさんの世界はどんなもんなんだろうって気もしましたしね。

 初日はあいにくの雨が降る中、首里城見学。首里城を登ると良い眺めなんですが、景色と一緒に友人が写ってしまったので、ここでは首里城そのものをUP。

 とはいっても首里城姫路や松山城のように昔のままある、というわけではありません。アジア太平洋戦争沖縄日本国内で唯一の地上戦を経験した地であることでも分かるように、戦災によって壊滅的被害を被り、20世紀末に修復されたものです。

 おかげで、というのも変な話ですが、今では那覇のシンボルとして復活し、首里城公園一帯は観光スポットとして定番化しています。

 どうでもいい豆知識ですが、首里城公園の売店には先日紹介したちんすこうを作った新垣菓子店の流れを汲む「新垣カミ菓子店」の商品が販売されているそうです。カミ菓子店のちんすこう、ちんるいこうは他の土産物屋さんでは扱ってないので気がついたら買ってみるのも悪くないかも。

 ANAで取り扱っているという話も聞いたんですが、見てみたけど無かったなあ…。

 首里城公園からずーっと坂を下っていくところに工場があるんですけどね。一瞬見ただけでは絶対に分からなさそうなところがちょっぴり「通」な気分が味わえます。そんなのいらない人は公園の売店で。

 首里城の話に戻してみると、石垣はきちっとタイルのようにビッシリと組まれている。きれいに切り取って積み上げたんでしょうね。もっとも、この石垣すら修復済みのモノだと思われるので何とも言えないんですが、しかし、当時と同様に再建していると思うので、多分、同じでしょう。

 首里城自体は、さほど大きな城ではありません。写真にある建物は天守閣とは言わないみたいなんで、城の造りは日本よりも中国の影響を非常に強く受けているのでしょう。場内にいてガイドしてくれる初老の男性たちが当時の装束をまとい、ところどころ説明をしてくれます。恰幅の良いおじさんが着ると結構映えますね。写真撮れば良かったな。

 天気が良ければ、そのあとの石畳の坂道とかも行きたかったのですが、この日はあまりの雨に断念。写真で見るとそうは感じないんですけどねぇ…。

 やっぱり旅行は晴れに限るな。

February 26(Sun), 2006

もうすぐ3月。

 トリノももうすぐ終了。冬のオリンピックは終わり、春の足音が聞こえるもうすぐ3月。管理人も大学を卒業する身分です。

 日本勢は荒川静香の金メダルで一面フィーバー。社説にまでこのことが書かれるとは思ってもみなかったために、かなりビックリ。

 そんなに浮かれなくても良いんじゃないのかなぁ。

 今週は、「偽メール問題」の進展があるんじゃないでしょうか。それにしても民主党は対応悪すぎ。こういう調査が必要とされるものがは共産党は得意ですね。恐らく、情報源の秘匿を守ることで、相応の信頼感を得ているんでしょう。ムネオハウス事件の時も、共産党佐々木憲昭議員はよくよく調べて証人喚問で質問してましたねぇ。

 このことは沖縄旅行記と共に今週考えてみたいですね。


 ところで、この時期。どこもかしこも歓送会が多く開かれますね。こんな時期はやっぱりちょっと感慨深い気分になるんでしょうか、ぼんやり考えてしまいます。

 学校でも、部活でも、サークルでも、バイトでも…いろいろ人間関係ができ、そうした人たちとの「付き合い」が積み重なっていくわけですが、卒業は大きなターニングポイントだなぁ。そのコミュニティから出なくちゃいけなくなる。

 人間は保守的な生き物だから、一度、その世界で安住できてしまえば次のステップを踏むことはなかなか難しいんですが、それでも自分が成長するために、後ろばかりを振り返らないで、前を向いて歩かなくちゃいけないわけです。

 とはいえ、残り学生生活はあと1ヶ月。総まとめ、という言い方はよくないとは思いますが、今までできた人間関係を大切にして次のステップを踏む力にしたいですね。

現代思想は難解なんかじゃない―高田明典『世界をよくする現代思想入門』を読む

世界をよくする現代思想入門 (ちくま新書)

世界をよくする現代思想入門 (ちくま新書)


 「現代思想」という言葉を聞いて、すぐにアタマにイメージが広がる人ってほとんどいないんじゃないかな。哲学・思想の中でもどのへんからが現代思想か判断するのは学者によってマチマチだし、そもそも何を言っているのかが分からない。

 このあたりを勉強している人にとっては「当たり前」で、これといって全く難しいことはないんですが、まず一般の、いわゆる「フツーの人」にとっては意味が分からないことこの上ない。

 そもそも現代思想の目的っていったい何なんだ?という疑問さえ湧いてくるヒトもいるでしょう。そうした疑問に対して著者は現代思想の目的を「世界をよくするため」だとします。

 そして、「世界をよくする」ために各自がそれぞれの思考を展開している。だから、人によって表される概念や言葉がマチマチで、結果、何も知らない読み手は混乱してしまうというのです。

 では、「世界をよくする」という目的がハッキリ分かっていれば、思想家によって異なる概念や言葉も、目的が同じであれば、その目的を達成するための手段に過ぎないとわかり、現代思想を身近に感じることができる、としています。


 管理人の専攻分野である政治思想・理論でも現代思想の概念を援用したりしてこのあたりを一通り押さえておかないといけないと思っていたので、思いこみの修正やきちんと理解していなかったことが分かったのでヨカッタです。はい。

 「基礎付け主義」やウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」とその帰結。「構造主義」とか「脱構築」などなど。現代思想を彩る、重要且つ予備知識ゼロな人でも読めるように、身近な例を挙げ、分かりやすい言葉で説明している本ですね。

 そしてその結果、たどり着いた帰結は、あまりにも当たり前な感じも受けますが、「そもそも論」から説き起こしてみることで、実は非常に説得力を持つことが分かり、現在議論されている様々な問題に対して自分なりに考える第一歩となることでしょう。


 巻末にかかれた、用語辞典とブックガイドもこれから勉強したい人にはオススメです。

 逆に、知っている人にとっては、今更読まなくても良い感じではあります。

February 23(Thu), 2006

takashi19822006-02-23

ちんすこうのお味はいかが?

 沖縄旅行の旅行記でも書こうかと思いましたが、お土産に買ったちんすこうがもう無くなりそうなので、慌ててフォト。

 数少ない沖縄のお菓子の中で真っ先に思いつくのが「ちんすこう」であることに疑いの余地はないでしょう(笑)

 写真は一番最初にちんすこうを作ったちんすこう本舗新垣菓子店の「ちんすこう」。ちなみに下記のアドレスから新垣菓子店に飛びます(←余計なお世話)

http://www.chinsuko.co.jp/index.html

 お土産物屋に行くと、いろんな菓子店から出ているちんすこうがありますね。例えば、ゴマとか紅芋を混ぜてあったり、泡盛を混ぜてあったり…。でも、どれも味は今ひとつで、ちんすこうって大して美味しくはないな…。と思っていたんですが、ここ、ちんすこう本舗新垣菓子店のちんすこうは美味しい。

 味は普通の一種類だけなんですが、とても甘くて、日本版クッキーみたいな感じです。

 確かに、ラード、小麦、卵、砂糖だけで練り上げ、焼いて作るのだからクッキーと変わらないと言えますね。バターの代わりにラードってところかな。

 サクッとした歯触りなんですが、パサパサし過ぎず砂糖の甘さが拡がります。ただ、砂糖がまぶしてあるような下品な甘さではなく、そこのバランスが非常に良くできているといったところです。

 ここの新垣菓子店が400年前だか(←箱には「伝承400年」と書いてある)170年前だか(←ガイドにはそう書いてある)よく分かりませんが、ともかく最初に作ったとのこと。その後、3つに分家してしまい、新垣と名の付く菓子店でそれぞれちんすこうを出しているようです。

 本家新垣菓子店と新垣カミ菓子店とがあるらしい…。ただ、ちんすこう本舗のと比べて、本家〜は手作りのため出数が少ないし、カミ菓子店の方も、首里城公園の売店で買える他は工場でしか売ってないとか。

 管理人は旅行最終日の開店時間に工場の方に直接行ったら、まだオープンして無くて結局買えずじまいでした…。悔しいな。

 というわけで、食べ比べをしてみたい今日この頃です。

February 22(Wed), 2006

沖縄体験記(予告)

 実は、日曜から今日まで沖縄に旅行してました。

 なので、ヒマな春休み中にもかかわらず、更新していなかったわけです。沖縄のことは明日以降にUPできればなぁ…。デジカメできれいに撮れていれば良いんですけど、まだパソコンには繋いでないのでどう写っているか大いに不安。

やっぱり貫禄の勝利か!?

 女子フィギュアスケート・ショートプログラム。やっぱり安藤美姫より荒川静香や村主章枝のほうに点数は高くつきましたね。

 ミキティって呼ばれて「マスコミ」の注目を集めてはいたモノの、(でも健闘してると思うんですが)結果8位。今日のフリーでどうなる事やら…。

 管理人、見たい気持ちも山々ながら、沖縄疲れからか多分見ることなく夢の世界へ行ってしまうと思います…。明朝のニュースが楽しみだ…。

 やっぱり2度目は強い。初めてと2度目はかかるプレッシャーが異なるであろうことは容易に想像がつきそうですね。もっとも、初めてだと普段以上の力が出てしまう、ということもあると思うんですが、純粋体力勝負ならいざ知らず、フィギュアの場合は舞台に近いモノがあるから場数が効いてくると思うんだけどな。

 それにしてもここにきてマスコミ荒川へのフォーカスの切り替えには呆れんばかり。

 そんなんでよく恥ずかしくないな、と思うのは管理人だけなんでしょうね…。

日本における「サルトル」か―竹内洋『丸山眞男の時代』(中公新書)を読む

丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム (中公新書)

丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム (中公新書)

 いきなりですが…。

 丸山眞男という名前を人文・社会科学系統の学生で知らない人がいたとしたら、その人は「もぐり」だろうと思います。少なくとも社会科学をやる人間は必須ではないでしょうか。

 好む、好まざるに関係なく、丸山眞男を押さえておくことが人文・社会科学系統の学生ならば「たしなみ」でなくてはならない。少なくとも、大学生が「知的インテリ」だとされた時代(1960年代まで)はそのように考えられていた。

 そうした大衆に大きな影響を与えた丸山眞男の時代を本書では採り上げています。

 とはいっても、著者の竹内洋は歴史社会学・教育社会学を専攻とする関西大教授のため、丸山の思想を詳述すると言うことはなく、専ら、丸山の思想形成に与えた外的環境、つまり丸山眞男の周辺で起きた社会の動きを歴史的に叙述していくという姿勢で一貫されています。


 冒頭に、社会科学で系統の学生で丸山眞男を知らない人がいたら「もぐり」だ、と書きましたが、実際に管理人の周りに丸山眞男の著書を読んだことがないのは当然で、名前すら聞いたことがないという学生の方が多いのではないでしょうか。

 とりわけ著書を読んだことがあるという学生は大学で課題とされるか、あるいは政治思想、政治哲学でもゼミで学ぼうか、という学生に限られてくるのではないかとさえ思ってしまいます。

 読書離れが指摘されて久しいですが、事は中高生に限らず、本来であれば「読むことがたしなみとされる」大学生でさえ読まないのが現状のようです。

 ただし、読む人は相変わらず読んでいる。これもまた事実です。普通の人の読書離れが進んでしまった、つまりここでもほどほど読書をした層がごっそりと抜け落ちてきたとも言えるでしょう。(統計的裏付けが欲しいところです)

 管理人が初めて丸山の名前を知ったのが高校2年の時だったでしょうか。国語の教材で「であることとすること」が掲載されていたのが最初だったと思います。

 その後、『日本の思想』を読んでみたりしましたが、当時は分からないことだらけで理解することさえ覚束なかったと記憶しています。

 今、多少、政治思想の勉強をして丸山の著作を読み返してみると考えさせられるところが多いです。今にして思えば、当時の国語の先生も丸山の著作をどこまで理解しているか、という疑念が湧いてきてしまうのですが…。


 話がずれてしまいました。しかし、管理人の世代はともかく、学生運動に携わった世代であれば丸山眞男の何らかの著書に接し、丸山眞男自身がそうした大衆に絶大な影響力を持った知識人であったといえるでしょう。

 繰り返しになりますが、本書の構成は丸山眞男の思想形成における社会的な要因を挙げています。ただ、丸山のファシズム的な思想や行動に対する嫌悪感を彼の助手時代に経験した「右翼によるヒステリックな恫喝」がトラウマになっていて、それが原因である。というように述べているわけですが、そこはいささか飛躍しすぎかなとも思います。

 著者自身は1942年生まれということもあり、あまり戦前の記憶がないから、そうした結論に達するのかもしれませんが、もう、10年くらい先に生まれてきた世代(管理人の祖母もこのくらい)に話を伺ったりすると、個人的な経験と共に時代的な雰囲気ということも非常に強く印象に残るそうです。

 丸山を取り巻く環境、よしんぼ、国家主義的な側で盛んに喧伝した箕田胸喜などはとても歴史社会学的に考証していますが、丸山に関しては余りにも個人の内面に論点が当てられすぎる傾向があるといった印象です。

 もっとも、今までの丸山眞男論が個人的要因にはあまり触れてこなかったというのもあるからこそだともいえるのでしょう。

 とはいえ、「なぜそんなに丸山をみな持ち上げるのか」という丸山世代ではない人間にとって、丸山眞男の方法論がそれまでの日本の思想研究を大きく変える契機になったことは分かるに違いありません。

 ヨーロッパの政治思想研究の方法・手段を使って、日本の政治思想を研究する。このスタイルを初めて使ったのが丸山眞男だったと言えます。従ってヨーロッパの学問体系を学んだ人間にとっては丸山の日本政治思想史研究はとても理解しやすかった。言い換えれば、それまでの日本の思想研究はヨーロッパの学問研究の方法・手段からは外れていたとも言えるでしょう。


 戦後、一躍「進歩的知識人」の先頭に立つ丸山に対する吉本隆明や梅原孟らの批判も今日になっては隔世の感がありますが、彼らが(思想的にはぶれてないものの)現在主張することは奇妙なことに丸山に近いことを言っているのは歴史の皮肉と言うところでしょうか。とはいえ、今なされる丸山批判が実際は昔からあったことの蒸し返しに過ぎないことが確認できるのは参考になって良いです。

 ともかく、丸山の持った懸念が現代社会になってまた甦ってきたとも考えられます。吉本や梅原は自身の文脈から、今の方向性に警鐘を鳴らしていますが…。丸山の側から流れをこちら側に引き寄せたかったのかもしれませんが、実際に起こっていることは吉本や梅原の側をさらに通り越して、反対側へと向かいつつあるのかもしれません。

 さらに、後半では安保闘争後の学園紛争と丸山眞男の関係についてページを割いています。安保闘争まで学生運動に絶大な影響力を与えた丸山眞男が、その後、彼らとはその方向性が徐々にズレ始め、学生運動をする連中から逆に反発を食らうようになる。この過程を当時の社会背景と絡めて説明するのは非常に説得力を持ち、良く書けていると思います。

 最後は簡単な大学アカデミズムと文化人論の社会学的分析に丸山眞男の時代と位置を当てはめ、結論付けをしています。

 現代知識人論としても面白いし、丸山論としても面白いですが、実は戦前の国家主義を押さえる上で資料の豊富さと共に分かりやすさから、戦前期の日本の思想ないしは社会風潮を知るには参考になるでしょう。

February 18(Sat), 2006

一億層中流の崩壊@三浦展『下流社会』を読む

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

 出版不況といわれる中で、結構売れているらしい。帯には50万部というんだから、ベストセラーに違いないだろう。

 著者の三浦展は―これで名前を「あつし」と読ませるのかというのはともかく―いわゆる学者ではなくて、マーケティングアナリストである。

 だから、という言い方は適切ではないのかもしれないけれど、アカデミックな分析と言うよりは、非常にアクチャルな分析が行われている。あくまでも「私見」の域を出なくて、説得力に欠ける面も否定できません。


 冒頭で50万部売れた、新書部門での売り上げの1位云々…。ということは、裏を返せば「下流社会」という謳い文句に多くの人びとが反応していると言うことだろう。

 通常国会でも民主党だけでなく、公明党の側からも「社会格差」を政府に対して問いている現状に加えてマスメディアを中心に格差が拡大しているという指摘に多くの国民が共感をしているようだ。

 貧困の指標となるジニ係数ではまだ格差は拡大していない、と政府は主張しているが、それはおかしな話だと思う。

 小泉内閣は「規制緩和」「自由競争」を旗印にして、閉塞感を持つ大衆に訴え政権の座に就き、アメリカ流の新自由主義的政策に梶を切った。

 つまり、みんな一律で豊かになりましょう、というこれまでの日本社会から、今後の社会は貧富の格差は出るけれど、国民全体で見れば社会の富は増大するからそれでイイじゃないか。という方針に転換したわけです。

 だとすれば、小泉流改革の成功に付随して「貧富差の拡大」は避けられない。避けられないというよりも、「自己責任」の下に貧富差の拡大する社会こそ終着点であるとも言えるでしょう。

 貧富差・所得格差は自由競争が進展している結果ゆえに起こる現象だから、政府は反論しないで、「むしろこのことこそが活力ある経済を生むことになる」のだ。と(マクロ経済的な)原理原則から言えば主張しないとオカシイ訳です。


 上述した話と、『下流社会』での話は多分にリンクしてくることになります。

 「下流」という言葉は著者の造語らしいのですが、意味するところは中流を維持する意欲がない人を指します。

 それまで、一律で豊かさを享受してきた社会で育った青年層(団塊ジュニア)から下にとって、これからの社会を生きて行くにはいくつかのパターンが存在するというのです。

 出世意欲のある上昇志向タイプ、出世意欲はなく趣味を充実させようとするタイプ。この二者はどちらもホワイトカラーで、個人の能力が高いことが前提とされるようです。それにたいして、生活するために働くしかないタイプ(ブルーカラーに多いという)、仕事に就かず、「自分のやりたいこと」を追求していくフリータータイプ。

 「お金はいらない」から「自分のやりたいこと」だけをやりたい、というのは下流に分類されるという。

 実際に、自分のやりたいことを追い求める人びとは下流化しているのが「事実」だというのが著者の主張。結構過激なことを言っているんですけどね。

 そうした理由は、もともと自分の育った環境は中流だったから、飢餓感に欠けるというのが大きいようです。

 戦後世代は働かないと生きていけないし、働けば右肩上がりに定年まで昇給し、社会も良くなっていく。という、将来に夢を持てた世代だったけれど、今の若年層は自由競争で上に上がるにはがむしゃらに働かなくてはいけない、働いたところで、リストラに遭うかもしれない…、というように「戦後的価値観」が喪失した時代であるといえます。

 だったら、もっと「自分らしい生活」があるんじゃないか、という結論に達するのは当然の成り行きでしょう。しかも戦後と違って、下流でも「生活していくこと」は可能なために、消極的ないしは積極的に「下流化」していくというのです。

 だから、自分らしさを追求する人たちは下流に、自由競争社会で出世意欲のある人は上流に…となるのです。裏を返せば、中流を維持する人が少なくなる、とも言えます。さっきの例で言えば、能力はあるけど出世意欲がない人、生活するために働くしかないと割り切る人くらいしか(所得水準で言うところの)中流に踏みとどまれない。

 すると、企業は収益を確保するために「上流向けの商品」を開発するようになる。例えばトヨタレクサスのように…。

 しかも、生まれ育った環境が中流だったため、生活スペースもある。それで向上意欲が低く、(そうした人たちだけの)狭い社会の中で生きていく…著者は養老孟司の言葉を借りて「バカの壁」と言って問題化している。といったところでしょうか。


 以前、紹介したように、イングルハートの「脱物質主義的価値観」に共鳴するところが多い論理展開です。消費社会論などと非常にシンクロしているように感じます。

 さらに、こうした論理展開は近頃増えてきた社会学のテーマと近似している(山田昌弘の『希望格差社会』など)から、興味があれば本格的な社会学の本を読んだらいいのではないでしょうか。さらに言えば、『嗤う日本のナショナリズム』(北田暁大)や『カーニヴァル化する社会』(鈴木謙介)、『生きづらい私たち』(香山リカ)などともこのテーマの話は親和性があるでしょう。これらの著作に興味のある人は一読するのも良いかもしれません。

 とはいえ、内容的には硬派の著書と言うより結構軟派で、雑誌に掲載されても良いくらいのレベルです。でも、結構刺激的な分析をしていて私見としては相応に面白い。とも言えるでしょうね。

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

生きづらい<私>たち (講談社現代新書)

生きづらい<私>たち (講談社現代新書)

February 17(Fri), 2006

希望・不格差社会

 国会では武部勤自民党幹事長の次男に3000万送るように依頼したメールがあるとかないとかの大騒ぎ。

 堀江(元・社長)と武部次男が同窓だったとかなんとか…って話なんだろうけど、この騒ぎ、ハッキリ言ってどうでもイイ。

 ライブドア事件は、ここでも再三再四指摘しているけど、公正な競争下が謳われる新自由主義的な市場万能主義の中で、公正な競争が実際には行われていないということが問題だろう。

 きちんとした監視がないから、田んぼの中の案山子にスズメが平気で案山子の上に乗ってしまうように、監督機関があって無いのと同じ状態なのが問題だろう。

 結局、「努力した人が報われる社会」というのを大衆に向かって宣伝しながら、意地の悪い言い方をすれば、実際は運のいい人・声のデカい人・相手を出し抜く人が儲かっていくシステムになる。

 だけど、下流の人はそれでもイイって言うんだから解せないよなぁ。彼らがどこまで深く考えているのか、というのもさることながら、彼らの置かれた社会状況が伝統的政治的無関心層の拡大をもたらしているのではないか…という気がしてくる。

 だれがフィードワークしてくんないかな。最近の格差社会論とこの辺りは密接にリンクしてくると思うんだけれど。

 あ、『下流社会』読んだから感想書きましょう。そのうちに(笑)。

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

フィギュアだったりスピードスケートだったり…。

 男子フィギュアの高橋大輔、結局8位止まり。19歳じゃあ、しょうがないか。雰囲気に飲まれたんだろうな。それを克服するだけの強いメンタルが今回のトリノ五輪日本人選手には欠けていると思うんだけどな…。高橋の髭はどーよ!?というのは今回さておきね。

 男子フリーの時の高橋の音楽がラフマニノフピアノ協奏曲の第2番。管理人はそっちに気が向いてしまいましたね(笑)。この曲使う人多いなぁ。でも、数あるピアノ協奏曲の中では一番ロマンティックかな。シューマンのと良い勝負。とはいえ両者の方向性は違うんだけど。

 この難曲を89歳で弾いたルービンシュタイン。超人的だよね。演奏も詩情に溢れ、枯れきってないという驚嘆すべきモノ。


 今大会から新たに採用された種目のスピードスケート女子団体追い抜き。これもメダルに届かず。というより、何でもかんでもメダルが採れるんじゃないかという共同幻想にとらわれていたんじゃないか?

 いざオリンピックが始まってみれば世界との壁の大きさに慌てふためくといった印象。

 メダルに一番近いって言われた、加藤条治にしてあの結果。長野でのメダルラッシュ以降、どうも自信過剰というか、実力の過大評価があるんじゃないのかな。

 長野オリンピックでのメダルラッシュは開催地という「例外」であったからこそなのに、それを自身と勘違いした、彼らと彼らを取り巻く環境が余りに無自覚。

 でも、男子フィギュアに比べて女子はまだ期待ができるかな。若手選手のメンタル的な弱さを見るにつけ、安藤美姫より村主章江や荒川静香の方が期待できるかも。

 舞台慣れって重要だと思う。

 発表でもそうだけど、人前に出て何かやるとき、やっぱり場数を踏んであると無いとの差は大きい。もっとも、演劇や授業なんかでちょこっと経験したに過ぎないんですけどね。

 

February 14(Tue), 2006

takashi19822006-02-14

大植英次のブルックナー第7番〜大阪フィルハーモニー交響楽団第43回定期演奏会

大阪フィルハーモニー交響楽団 第43回東京定期演奏会

2月14日(火) 19:00開演  サントリーホール

武満徹ノスタルジア(独奏:長原幸太)

ブルックナー交響曲 第7番 ホ長調

指揮:大植 英次

 朝比奈隆の没後、音楽監督を引き継いだ大植英次による多分2度目の東京定期。多分、2度目で良いんじゃないかなぁ。それ以外にも東京での特別演奏会はあったと思うんですけどね。

 朝比奈&大阪フィルとの最後の東京定期は確か第40回で、翌年の第41回は若杉弘によるブルックナーの第3番を聴いた記憶があります。

 第42回東京定期はマーラーの復活か第6番だったような気がするんだけどなぁ。都合つかなくて行けなかったと思います。

 本拠地、大坂では大植が振る回はチケット完売するようですが、今回のサントリーホールは当日券が残っていました。でも客の入りは90%を超えていたな。95%近くまで埋まったんじゃないだろうか。

 もっとも、朝比奈の時は定期公演の他に特別公演もしたにも関わらず、完売し、サントリーホールの入り口には「チケット譲って下さい」ってプラカード持ったヒトがいましたっけねぇ…。ちなみに管理人は、チケット1回逃したきりで、あとは全部ゲットしてます。

 最後の新日本フィルとのブラームス・チクルス(4つの交響曲全曲演奏会)も全て取れたし。

 気合いがあれば、ちゃんと取れるのです。最後のブルックナーの8番もね。


 さて本題へ。

 大植体制になってから、ややもすれば迫力一辺倒だった大阪フィルの音色がとてもよく練られるようになってきた、という話を聞きます。大植のコントロールによってオーケストラが非常にバランス良く演奏するようになったということですね。

 そんなわけで、今回の目的はそうした評判が果たして本当なのか、という確認と、朝比奈の下で培われてきたブルックナーの伝統がどう変わっているのか、という確認です。

 ちなみにどうでもイイですけど、2階席の最前列中央に音楽評論家で、朝比奈を激賞していた宇野功芳が来てました。よく似てるなぁ…とおもって、休憩時間に談笑しているところを近づいて見ると、やっぱり本人。

 声掛けてみれば良かったかなぁ…。でも、著書持ってなかったんだよねぇ。


 武満のノスタルジアは相変わらず分からない曲。やっぱり管理人と武満は相性が悪いらしく、この曲の素晴らしさが分からず、退屈してしまいました。先週の話じゃないけど、伊福部さんの方が良いなぁ。

 ただ、ブルックナーに武満の音楽ってプログラミングとしてはなかなか秀逸ですね。形而上的な世界観が非常に似ている。そこは素直に感心してしまいました。

 この曲の解釈としては、テンポは結構ゆっくり目なのではないかな。

 ヴァイオリン独奏の長原幸太はしっかりとした音色を聴かせて大したモノです。なんせ、管理人より1つ年長なだけですからね。そうはいっても、この曲が分かり難いのは、曲に内在している「水や霧の感覚」や「穏やかで哀歌的な気分」の表出にどれだけ成功しているかと言えば、疑問です。

 結局、どうしたいのかはっきりと分からない音楽でした。分かるようになるまでもっと繰り返し武満を聴いてみようかなぁ…。

 後半の、ブルックナーの第7番。この曲は、朝比奈・大阪フィルとの演奏と都響との演奏を聴いてます。他にも誰かの7番を聴いてる気がするけど…。

 都響でやったときは、木管をそれぞれダブらせて演奏してました。今回は指示通りだったのかな。つまり、二本ずつってことですよね。

 版も朝比奈の時のハース版とは違ってノヴァーク版だったようだし。

 途中まで、ティンパニ鳴らしすぎてないか?といった若干の違和感はあったのですが、第2楽章でシンバルトライアングルティンパニの強打で、ハース版っぽくないとハッキリと認識。

 とはいえ、カラヤンはハース版を基調としながら、同じ箇所でシンバルトライアングルを加えたりと紛らわしいですけどね。

 隣の人はスコアを読み、演奏中に書き込みをしながら聴いていたけれど…。ちょっと気になってしまいました。


 ブルックナー聴かない人はチンプンカンプンでしょうが、ブルックナーは生前、なかなか世間から認められなかった作曲家だったため、彼の弟子たちが何とかして自分たちの先生の作品を世間に認めさせようと思って、ブルックナーの作品を当時の流行に合わせて派手な音色に勝手に編曲してしまったのです。

 その甲斐あって、ブルックナーの音楽(正確に言うと、弟子たちが手を加えた音楽)は次第に聴かれるようになるのですが、ブルックナーは晩年、「やっぱりモトのまま演奏して欲しい」なんて言って亡くなったという曰く付きの作曲家です。

 20世紀に入って、そうした「ブルックナーの遺言」を実行しようとして、弟子たちが手を加える前の楽譜作りが始まりました。そのひとの名前がハースだった為、「ハース版」が出来上がるのです。

 第二次大戦後、ハースの仕事に対して考えを異にする人が同じように楽譜作りを始めます。その人の名前がノヴァークだったことから「ノヴァーク版」が出来上がるのです。

 どちらも、ブルックナーが望んだ「モトのまま」の形を目指して作ったのですが、ブルックナー本人が他界して数十年と経っていたし、ハースとノヴァークで編集・校訂方針の違いがある(だから、ハース版に満足せず、ノヴァーク版を作ってしまった)ため、どちらも「原典版」を謳いながらその原典版が2種類(以上)あるというまどろっこしい結果になったのです。


 閑話休題

 演奏は尻上がりに良くなっていく感じ。1、2楽章は今ひとつだったけど、3、4楽章は出色でした。

 第1楽章も、冒頭の弦の合奏は非常になめらかで、バランス良く響いていたのですが、どうもこの楽章全体を通じて、「痒いところに手の届かない」感じがしてしょうがない。

 テンポがちょっとせかせかとしてしまって、全休符から次の曲想へ移るのに間が足りないから、ブルックナー的な響きが圧殺される傾向にあったのは事実でしょう。ブルックナーの休符に使い方は独特だから、そこを体に馴染ませるくらいのことは必要なのかもしれませんね。

 第2楽章も途中までかなり良い演奏をしていました。しなやかさとメリハリの良さが、荘厳さには欠けるものの、自然の美しさを歌うような効果を上げて(本来の曲想とは違うのだろうけれど)、充分楽しめました。

 ところが、展開部が終わる頃から、なんだかフォーカスがぼやけだして、何が言いたいのかよく分からなくなってしまう。テンポをいじるのは良いんだけれど、それが何を表すのかが的確に伝わらないから、聴いていてピンぼけた印象を与えてしまうのでしょう。

 第3楽章以降は、そのメリハリがプラスに作用している。とくにスケルツォですから、緩急ある演奏は牧歌的な側面を際だたせ、ブルックナーを聴く醍醐味を堪能させられます。

 そして最後の第4楽章も、もともとロマン的な側面が強いために、大植の解釈に良くマッチして、コーダへ向けてどんどん高揚していきます。

 コーダはまさにクライマックス。ここだけ聴けば凄いと思うに違いない。だから、終演後の盛り上がりも凄かったです。

 管理人も凄いと思った。けれど、なんだか今ひとつ感動できなかったんだよなぁ。美しい音楽が鳴ってはいたんだけれど、抜けきった感じがなかったからだろうな。そうした演奏が出来るようになるためには、歳をとる意外に途はないのだろうか…。

 とはいえ、大植英次の実力は素晴らしい。ブルックナーよりマーラーに力を発揮しそうなタイプだと思った。次回はマーラーあたりを希望。

 同曲の完璧無比な演奏といえばヴァントにトドメ。ここまで指揮者の意図を完全に再現した演奏も稀なのではないだろうか。いや、脱帽。ただ、この完璧さが人によっては「ツメがきつすぎる」という印象を与えるのもまた事実だろうな。

 朝比奈のブルックナー指揮者としての実力が最良の形で表された演奏。ブルックナーの眠る、聖フロリアン教会での「伝説となった」ライブ録音。

 ブルックナー演奏を得意としたN響名誉指揮者も務めたマタチッチ。スケール雄大にして適度にロマン的な演奏は、7番にピッタリ。

ブルックナー:交響曲第7番

ブルックナー:交響曲第7番

 管理人が実演で聴いた演奏。余計な力が抜けていながら、目一杯の音とスケール感が得られるのは、朝比奈の集大成であろう。フロリアン教会の演奏と比べると、ロマン性は後退したが、彼岸のような神々しさがある。

 

February 13(Mon), 2006

取り立てて記事にするようなことはなく@バイト・結婚式・トリノ五輪

 このところ、面白いトピックはありませんねぇ。本は読んでるから、レビューでも乗せてみようとも思ったんですが、この数日の身の上を。

 水曜からずーっとバイトで土曜まで。このバイトをいつまで続けるんだろうという一抹の不安を覚えながらも、働いてしまっています。

 ただ、このバイト、4年近くやっているわけですが時給が10円しか上がってない。研修期間が終わったばかりのヒトと、時給で10円しか差がないと何だかイヤになってきますね。

 成果主義。これは確かに必要です。なぜなら仕事が出来るから残業しなくて済む人の給料が少なく、仕事が出来ないから残業して、その分、残業手当をもらっていた。という悪平等のようなかつての賃金体系はよくないと思う。

 その一方で、査定項目に現れない地味な仕事をいくら覚えていても、それは全く昇給には還元されない。ただ、誰かがそれをやらないといけない仕事だったりするわけです。

 管理人のバイト先も、長くいるヒトしか知らないような「小技」の類はいっぱいあるんですが、それは査定項目に一つもないため、関係なし。これ以上昇給しようと思ったら、バイトながらにして役職に就かなくてはいけない。

 役職に就くくらいバイト先で働くなら就職した方が良いでしょう。役職に就くと、最低週何日以上は出勤とか、繁忙期は必ず全部出るとかあるし、やらないと示しがつかないし。

 だらけないんであれば、経験って大事ですよね。同じ仕事をしても、丁寧だとか、早いとか、気配りが出来てるとか。でも、関係ないなら一生懸命やるのがバカらしいとも思えてくる。

 かつてのソヴィエト連邦でも同じことが起こって結局、スターリン的な共産主義は崩壊した。それと似ているのかなと思ってしました。


 あとは先輩の結婚式とか。管理人、結婚式は保育園以来、人生2度目です。ただ、今回は披露宴からじゃなくて二次会からですが…。結婚式の二次会。いろんなヒトがいて、凄く緊張します。あーいう場所で身なりも含めて立ち振る舞いをしっかりしないといけない歳になってきたということでしょうか。「どーする、どーするよ俺」みたいな。


 テレビではトリノでのオリンピック真っ盛り。成田童夢、今井メロ兄妹は残念ながら予選敗退。個人的にはどうでもイイが、この兄妹、非礼を承知で書くけれど、名前から推して知るべしな印象を受けてしまった。

 純粋で一生懸命なのは良しとするんだけど、実年齢よりも精神年齢の方が幼い印象を受けてしまった。どうも、こういったタイプは苦手です。近くにいたら、世間や常識を勉強しろ、って言ってしまいそう。

 ともあれ、オリンピックに出る人たちは努力もさることながら才能の世界だから、管理人とは次元を異にしているのは間違いなさそう。

 それを考えると、これまでの社会は才能が無くても努力である程度の挽回ができるそこそこまともな社会だったとは言えそうだ。

 ところで、オリンピック報道で思うのが、当たり前なんだけど日本人ばかりが報道される。やっぱりメダリストのパフォーマンスを見てみたいと思うのは管理人だけなのかな。ハーフパイプも金メダルを採ったショーン・ホワイト(Shaun White)のパフォーマンスをちょこっと流していたけれど、やっぱり凄いもんな。ニュースではちょこっと流れてただけだけれど、そのちょこっと流れていただけでも、あれを見れば日本勢が全員予選落ちなのはむしろ納得というか当然な気がしてきたし。

 そうした本来のスポーツの祭典といった彼ら選手のパフォーマンスを見るには、NHKとかでじっくり見る他ないのか。なんだか、「ニッポンのメダル」ばかりにフォーカスが当たりすぎていて、結果が伴っていないことも含めて、とても虚しさが漂ってくるんですけどねぇ。上手い具合にダイジェストしてくれないモノか。せっかく受信料払ってるんだからさぁ。

February 09(Thu), 2006

ゴジラのような日本音楽界の巨峰@伊福部昭さん追悼

 毎日の記事から。

訃報:伊福部昭さん91歳=作曲家 映画「ゴジラ」も作曲

伊福部昭さん 「ゴジラ」などの映画音楽北海道の原野を思わせる雄大な民族色豊かな交響的作品などによって幅広い人気を持つ作曲家伊福部昭(いふくべ・あきら)さんが8日、東京都内の病院で直腸がんのため死去した。91歳。自宅は世田谷区尾山台2の7の7。葬儀の日取りなどは未定。

 北海道釧路生まれ。北海道帝大専門部卒。アイヌ音楽や樺太のギリヤーク民族の音楽を研究、「民族の特異性を経て普遍的な人間性に至る」ことを作曲理念に据え、ほぼ独学で民族色豊かな作品を作り出した。1935(昭和10)年、「日本狂詩曲」でパリのチェレプニン賞に入選。同曲は翌年米国でも演奏され、国際的な脚光を浴びた。来日したロシア出身の作曲家、チェレプニンに近代管弦楽法を師事。「土俗的三連画」、「オホツク海」など独自の交響作品を次々に完成させた。

 時代の趨勢(すうせい)にかかわりなく民族的な作曲姿勢を貫き、「釈迦」などを作曲。東京音楽学校講師、東京音楽大学学長などを務め、故・芥川也寸志、故・黛敏郎、松村禎三、故・石井真木、三木稔など多くの作曲家を育てた。

 また、約400曲の映画音楽を作曲、なかでも54年、東宝映画「ゴジラ」では、重厚な行進曲風のテーマで強烈な印象を与え、以来「ゴジラ」シリーズの多くの音楽を担当、大きな人気を得た。

 ここ数年、体調を崩していた。「ビルマの竪琴」で毎日映画コンクール音楽賞。紫綬褒章。勲三等瑞宝章。03年に文化功労者。【梅津時比古】

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ほかにも

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とか。


 遂にこの日が来てしまったというべきか…。伊福部昭さんが亡くなった。

 まずは心より合掌。素晴らしい音楽をありがとうございました。


 伊福部さんの音楽は現代を生きながらにして「現代音楽」ではない音楽、といったら適当かな。ただ、生きながら、という言葉を過去形にしなくてはならないのが辛い作業ではありますが…。

 伊福部さんは二重の意味で中央と地方という関係が常にあったように思う。

 まずは、西洋音楽という分野における中心たる「ヨーロッパ」と周辺たる「日本」。さらに日本の中でも西洋文明の輸入口であった「東京」に対して、開拓使が置かれ、まだまだ広大な原野が拡がった「北海道」という中心と周辺の関係。

 しかし、そうした関係にあっても伊福部さんは自身の作曲理念をブレさせず、それを突き通した。その点がこうして今でもその曲が不滅の生命力を持つ理由だろう。


 新聞にも書いてあったが、「民族の特異性を経て普遍性に至る」という作曲姿勢に、そのことが集約されるのではないか。伊福部さんの音楽を聴けば分かるが、そこにあるのは必要に繰り返されるオスティナート(オスティナートという言葉自体が音型反復という意味なんだけれどね)と非常に土俗的なリズム。

 特にアレグロ楽章はその傾向が強い。マリンバとのラウダ・コンチェルタータの終楽章やシンフォニア・タプカーラの終楽章(こっちはヴィヴァーチェだけど、ほぼ同じと考えて良い)はその内在するエネルギーが爆発して聴き手に凄いインパクトを与える。

 現代音楽が、シェーンベルクの十二音技法やストラヴィンスキー新古典主義などの流れからどんどん進んでいって、「音楽」からは外れいく(と少なくとも管理人は思っている)時代趨勢の中で、どの民族であっても「音楽」に託す根源的な精神を伊福部さんはすくい上げ、作曲に反映させていったのではないだろうか。

 ややもするとこの話はプリミティブ(primitive)なモノ、さらに言えばレヴィ・ストロースの様な方向へと突き進んでしまいかねないんだけれど、そこまで深くは考えなくても、音楽が「音楽」であるためのその精神の根幹を表現していったように思う。

 太古から人間が喜びを体で表現していた時代、そうした時代から音楽はあった。その音楽の持つ生命力を伊福部さんは五線譜に表現していったのではないだろうか。だから伊福部さんの音楽には野太い生命力が漲っている。


 武満徹の日本音楽、とりわけ東洋の時間感覚を西洋音楽による書法を以て表現した功績は大きい。ただ、そこへ至るまでには、伊福部さんら先人が時代制約の中で築き上げた知的遺産の積み重ねがあることは間違いない。

 それを考えると、長齢を得ることが出来た伊福部さんが後世に残した財産は計り知れないほど大きなモノがあるだろう。

宙-伊福部昭 SF交響ファンタジー

宙-伊福部昭 SF交響ファンタジー

 数々の映画音楽も手がけた伊福部さんの代表傑作にゴジラを挙げることには論を待たないとおもう。ここでも強烈な「伊福部サウンド」は健在である。思えば、伊福部さんも東京からは遠く離れた北海道で生まれ育った境遇であった。村にアイヌ民族の友達がいたことも、氏の音楽哲学に活かされているのだろう。

譚 ― 伊福部昭の芸術1 初期管弦楽

譚 ― 伊福部昭の芸術1 初期管弦楽

 21歳にしてチェレプニン賞を受賞して一躍注目を集めた日本狂詩曲。「.夜曲」の冒頭から始まる弦の旋律、「.祭」の終結へ向けての螺旋を描きながら上昇していくようなオスティナート。全てはここから始まった。

 伊福部サウンドの再現という点ではやや物足りないが、1000円という値段は魅力。興味の無かったヒトも買ってみることをオススメします。ゴジラのテーマも最後に収録。片山杜秀氏の充実した解説は簡単な伝記にも匹敵するほどだ。

響-伊福部昭 交響楽の世界

響-伊福部昭 交響楽の世界

 好みから言えば、山田一雄のように揺れ動き、強奏する演奏のほうが伊福部サウンドには合っていると思う。アレグロで突っ走る広上だが、逆に、曲に内在する舞踏感は引き立つようにも感じられる。こうしてみると、主要曲がみな録音されている邦人作曲家は伊福部さんくらいなモノではないか?

 管理人が一昨年行ってきた、伊福部さんの卒寿を祝うコンサート。「白寿のコンサートもやりたい」と言われて顔をほころばせる伊福部さんの姿が懐かしい。

February 08(Wed), 2006

takashi19822006-02-08

とっても下らない話。略して「クダバナ〜」。

 昼下がりにやってる「ごきげんよう」のノリで。

 写真は、チョコレート。ヨックモックのチョコレートです。ここの板チョコは濃厚なチョコで美味しい。ここまでなら値段と味が釣り合ってる限界でしょうか?

 新宿伊勢丹の地下に行くと、高いチョコ売ってる店ありますけど、あんな高いチョコどーする気かな。明らかにチョコに期待する以上のものを期待していると思うんだけど。


 まあ、そんなことで、管理人は甘いものが好きです。食後とかに甘いものがあるとムシャムシャと食べてしまうほど。

 ただ、無ければ食べないので、単に甘党ですが、常人の範囲内。

 とはいっても、小洒落た居酒屋に行くとデザート食べたくなりませんか?凄くそそられると思うんだけどなぁ…。

 チェーン店の中では土間土間は雰囲気とコストパフォーマンスのバランスが良くて好きです。あと、坐・和民とか。値段は同じ(!?)だけど、こっちも重宝。

 北海道に旅行するときは、うおや一丁ばかりです。あの居酒屋、札幌限定なのかな。あそこで初めて入ったときには感動したな(笑い)。だってお通しにエビとか出るんだもの。

 こっちだと、枝豆とか、もっとやる気がないとポップコーンとか。ふざけやがって、なんて思っちゃいますね。


 もっとも、野郎友達とサシで飲むときとかは和民とかさくら水産とか。さくら水産、安すぎでしょう。生魚が好きだからさくらは非常に重宝。ご飯か焼きおにぎりなんぞ頼んで、つまみを食べてればお腹もいっぱいになるし。

 

 居酒屋もチェーン店が多くなってきたけど、色々特色があって良いですね。とりわけ、都内の繁華街は凄いな。前、歌舞伎町秋田に何店舗かある居酒屋があったり。百花繚乱な感じです。

 そんなこと言っても、最近はめっきり飲めなくなったので…(以下略)。


 チョコレートから居酒屋雑感になってしまった(笑い)。

 皇室典範とか、非姉歯の偽装物件とかあるけど、またそれは次回以降で。

February 07(Tue), 2006

takashi19822006-02-07

2月9日は肉の日なのか?

 それとも毎月29日は肉の日なんだろうか…。

 写真は今日食べた焼き肉。去年、教育実習で知り合い、友達になったRくんと(何だかデスノートみたいだな)近所にあります、安楽亭(これも関東ローカルだな)にて焼き肉を食べながら歓談。

 暫く振りに会ったので会話に花が咲きまくり。ここ半年以上、酒の量を減らしていたため、もう最近はすっかりお酒イラナイような体になってしまいました。もう、少量でも酔いが回るというか…。暫くたばこを吸ってなかったヒトのヤニクラみたいなもの、といったら伝わりやすいのかな。

 なので、最近は専らお酒よりもご飯を食べながら歓談している方が多い。年寄り臭いんだけれど、暮れ以降あまり体調が良くないから、その方が都合が良いのです。

 それにお互い大学が違うし、都合が悪く、晩夏or初秋以来、顔を合わせることがなかったのですが幸いにしてスープの冷めない距離よりは若干遠いくらいの距離だったので、再会となったわけです。


 でも、やっぱりヒトと会って話すと新鮮な発見があって良いなぁと改めて思いましたねぇ。もう、新年度からの身の振りとか、近況とか、とりとめのない話ばかりだけれども、楽しいですね。うん。

 それに、友達もまた酒に強くないので、しっかり食べて一人1500円で済んじゃう。居酒屋だとこうはいかないでしょう。その割には安楽亭に3時間くらい居たんだけれど…。

 ま、今日は火曜で空いてたから許して下さい。安楽亭の社員の皆さん。

出題者と解答者@DEATH NOTE10巻

DEATH NOTE (10) (ジャンプ・コミックス)

DEATH NOTE (10) (ジャンプ・コミックス)

 デスノートも漸く10巻に到達。最近は以前のような無く子も黙るような勢いは下火になった感じはするんだけれど、それでも週刊少年ジャンプの人気連載には違いないな。

 なんてったって、今度、映画化するんだからその人気は大したモノだ。

 ただ、一部・二部で話を分けるとはいえ、長い話をどうやってまとめるのか、腕の見せ所だと思う。原作が良くできていると、映画化するのも大変だろうな。ただ、デスノートをドラマやアニメじゃなくて映画にするのはある意味で順当かな。映画ならR指定とかにも出来るし。

 ライト役は藤原竜也でしょ。管理人と同い歳。大したモノですねぇ。イメージとしては藤原竜也か成宮寛貴が合ってるかな、と思ったら案の定だった。そーいえばリュークはどうするんだろうね。安っぽいCGとかになるのかな。そーなったらイヤ。

 第二部になってから、ライト(=キラ&L)にニアとメロという構図になり、しかもこの10巻ではライトの側でもゲパルト(!?)が起こるから登場人物同士の思惑が交差しまくりで、一気に追わないとわからなくなっちゃう。

 そこが、最近、「面白くなくなった」というヒトが出てきた原因だろう。正確に言うと面白くなくなったのではなくて、週刊連載だけの読者は混乱して、話の筋が分かり難くなっているのだと思う。

 第1部までは、ジャンプだけ読んでも充分に分かるんだけど、さすがに第2部になると単行本を読んで、流れを掴まないとアタマの中で辻褄が合わないもんなぁ。作者の大場つぐみは、ガモウひろし説もあるけれど(←ホントかい)、緻密に作っているなぁ。大したモノだ。

 あれでついて行けないヒトは、推理小説やサスペンスは読めないね。

 今回もライトのズル笑いは健在というかますます、少年誌の主人公とは思えない活躍ぶりをみせる。これは凄い。友情・努力・勝利のジャンプ三本柱に真っ向から勝負を挑んでいる。

 利用するものは何でもご利用。ただし、話が進まないから、徐々にライトは追い込まれているようになっているのだけど、ここで追いつめる側が八方ふさがりだと、話はそこで終了しちゃうから当然といえば当然。

 話はズレるけれど、問題の制作者はやはり解答者に比べると不利なわけだ。詰め将棋みたいなもので、問題を作るヒトのエネルギーと、その問題を解くヒトのエネルギーだったら後者の方が楽なのが普通。

 それを考えると、ライトは大変なんだろうな。と、マンガのキャラクターに真面目に感想をつけてみたくもなる(笑い)。

 魅上くんも出てくるし、タッキーこと高田さんも出てくるし。

 どうでもイイでしょうが、管理人は松田さんがオススメです。あのキャラクターは光っている。最後まで死ぬなよ、松田さん(笑い)。

February 06(Mon), 2006

takashi19822006-02-06

2005-2006シーズン有終の美@都響定期演奏会感想

東京都交響楽団第623回定期演奏会Aシリーズ

2月6日(月)開演19:00 東京文化会館

指揮/ヤン=パスカル・トルトゥリエ

ヴィオラ/ブルーノ・パスキエ

リスト:交響詩前奏曲

バルトークヴィオラ協奏曲

バルトークオーケストラのための協奏曲


 2005-2006年のシーズンは今回で終了。「東京都交響楽団らしく年度単位のプログラミングなんですね。一回券ばかり買っていた→半年の定期会員→年間定期会員と徐々にバージョンアップしてますが、はたしていつまで続くことやら…。

 でも、管理人くらいの世代が支えないと日本のクラシック音楽界は立ち枯れしちゃうんじゃないのか?と思うので(教養主義の没落が大きな原因かも!?)、都合がつくかどうか分からないものの、頑張って定期会員を続けるつもりではいます。

 来年度も頑張れ都響ヨーロッパオーケストラの来日公演だと1万円を優に超え、下手すると3万円くらいしてしまう中、都響安価な価格設定は本当に素晴らしいことだと思う。「本場」志向の強い人に言いたい。将来、本場と遜色なくなるためにも国内オケを聴け!!


 昨日のガヴリリュクに引き続き今日もコンサートになってしまったのですが、まぁ二日連続でも許してください。明日はデスノートの感想でも書きますから(笑い)。

 さすがにフルネ・ラストコンサートとは違って、今日は満席ではなかったですね。でも、ガラガラって言うわけではなくて、定期会員でそこそこ埋まっている感じ。75%いかないくらいではないでしょうかね。でも、東京文化会館は2500人収容なので単純に75%の入りでも1900人弱は居るじゃないですか。これを常時85%くらいの入りにしたいものです。まぁ、関係者じゃないんですけど…。


 最初の交響詩。出だしから弦を中心に非常に鳴りが良く、安定した展開をみせます。指揮者のトルトゥリエ(日本人には読みにくい名前だ!)はいま一番脂ののっている年代でしょうか、オーケストラのコントロールが非常に良くできています。14歳の時にパリ音楽院でヴァイオリン部門の第1位を獲得しただけあって、弦に対する配慮が非常に良く感じられてます。先月の若杉の時とは明らかに違う。

 指揮者が弦に明るい人間だと、団員のボウイングに対する姿勢が格段に良くなる。弾かせるべきところ、抑えるべきところをきちんと抑えてしなやかな都響弦楽器の特長が非常に生かされている。恐るべし、トルトゥリエ。これは3年ごとドコロではなく、毎年、それがダメでも隔年くらいで呼べばいいのでは?

 ただし、棒振りは端から見ていて上手くない。とはいっても指揮棒を使わないんだけど…。なんだか踊っているというか、手をばたつかせている感じがして、機能的ではないです。分かり難いところもあるし。

 ただ、反対に「分かりやすい」指揮法なら良いのか、ということですが…。伝えるべきものがないのに指揮法ばかり上手くてもダメだし、ピアノヴァイオリンとは違って生身の人間相手だから、人格などの単純に「技術」を超絶した要素が大きい職業でしょう。


 リストの音楽は、ロマン派音楽家として交響詩という一ジャンルを確立しただけあって、とても主観的。それがあまりに私小説的ではなくほどほどに分かりやすいので、リストの交響詩の中でもこの「前奏曲」(レ・プレリュード)はオススメかも。

 バルトークヴィオラ協奏曲ソリストのパスキエはバルトークに愛着があるのかなぁ。管理人は無いですね(苦笑)。渋いというか、この良さが分からないのです。

 パスキエも盛りを過ぎてしまったようで、ニュアンスに不足するし、音も出てない。でも、終わった後、指揮台の上からトルトゥリエは「ブラボー」って言っていたので良かったのかな。だとすれば、(そうは思わないんだけど)、この曲自体が効果の上がりにくいものだということですね。

 ラストのオーケストラのための協奏曲。これもリストの時と同様。アンサンブルは非常に均整が取れてます。内声部が充実していて、それでいて重すぎないのはやはりトルトゥリエの薫陶が良かったのでしょう。それに、いつもは不満が残る木管がとても良かったのが大きな収穫。

 だとすれば、耳が良いから、木管へきちんと指示が出せるのでしょう。

 曲自体も、1944年の作にしては難解さはなく、分かりやすく効果の上がりやすい曲になっています。ただ、その一方で、当時、親ナチス化した母国ハンガリーに反対し、アメリカに亡命して、貧困と白血病の中で作曲した曲だけに非常に精神的には重たい、ただし、そこには救いを見いだす音楽です。

 死を前にしながら、最後は生命力の具現化を音楽で表現したバルトーク。そこを抉るような演奏だったか、といえば、その点は弱かったものの、不満が残るほどでもなく、安心して聴ける演奏でした。

 めでたしめでたし、といった演奏会で良かったです。

バルトークに師事したこともあったというショルティの「オケコン」。

February 05(Sun), 2006

takashi19822006-02-05

浜松の覇者・再び@アレクサンダー・ガヴリリュク ピアノリサイタル


彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール

日時: 2006年2月5日(日)15:00開演

ハイドンピアノソナタ 第32番 ロ短調 Hob.将-32

ブラームスパガニーニの主題による変奏曲 イ短調 op.35

ムソルグスキー組曲「展覧会の絵」

アンコールは以下の通り

モシュコフスキー:スパークルス

ラフマニノフプレリュード 嬰ト短調

ラフマニノフプレリュード ト短調

ラフマニノフ(コチシュ編曲):ヴォカリーズ

リスト(ホロヴィッツ編曲):ラコッツィ行進曲

メンデルスゾーンホロヴィッツ編曲):結婚行進曲

モーツァルト(ヴォロドス編曲):トルコ行進曲


アレクサンダー・ガヴリリュクピアノ


Errors公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団

(C) 2001-2005 Saitama Arts Foundation

 あー、アンコール、一曲抜けてますねぇ。何だったかな。8曲やったらしいんですけど…。まさかそんなにやるとは思ってなかったので油断してました。すいません。

 第4回浜松国際ピアノコンクールを16歳にして審査員満場一致の一位に輝いたウクライナの新星ガヴリリュク。あれから6年経って、今年で22歳になるのですが、いやぁ、凄かった。

 特に深い意味はなかったんですが、ショパンコンクールライブのCDを聴いたりしていたもので、良い意味で比較になったという気がします。

 浜松の優勝から一年と程なくして、交通事故にあって重傷を負ったという知らせから後遺症などが心配されたんですが、現在はそんなことを感じさせない素晴らしいパフォーマンスでした。ガヴリリュク、恐るべし。


 ハイドンは、管理人がそんなにハイドンピアノ曲に明るくないので何とも。交響曲ならまだしもハイドンピアノ曲って退屈感があって好きじゃないんですよね。だから疎遠になったままというか…。ただ、ガヴリリュクのピアノも「古典派」というフレームを意識してか大崩れさせない演奏です。古典派やっぱり形式美でしょう。それを生かすような演奏スタイル。しかし、モトの曲がつまらないな。

 交響曲弦楽四重奏は渋くて味わいがあるのに。

 ブラームスは思い切りの良さが光っています。もともと難曲とされていただけにそれが際だっている。ただし、弱音のペダルの使い方はもっと工夫の余地がありそう。ともあれみずみずしい感性ですよね。管理人は若い奏者だと、とかく「みずみずしい」という表現が好きですが、「枯れた」音楽が、長い人生経験の賜であって、それを獲得できるのが長い経験の積み重ねだけしかないとすれば、若い内のみずみずしさ、大胆さ、思い切りの良さは若者の特権でしょう。

 フォルテは非常に伸びやかに聞こえてます。ただピアノになると渋さに不足するというのかなぁ、全体的にブラームスいぶし銀感とは違う演奏。「ブラームスっぽさ」を求めているとすればの話ですが…。

 ただし、この主題変奏の中盤辺り、客席の前方で咳き込んでいる女性がいて、管理人は演奏に集中できなかったということもあって、あまり何も言えないんですけどね。

 喘息なのか風邪なのかよく分からないんですけど、ともかく、咳が出そうなのなら予めマスクをしていってノドを乾燥させないようにするとか、ハンカチで口元を抑えるとかした方がイイと思う。

 もちろん、咳をするな、なんて非人道的なことを言うワケじゃないし、咳をするヒトに来るなとも言わないんですが、他の聴衆の人びとに迷惑を掛けないだけの自分なりの心遣いはあってもイイと思うのです。


 休憩を挟んで、ムソルグスキーの展覧会の絵。たけしの誰でもピカソでもこの曲の「プロムナード」が使われていたくらいですから、イントロを聴いただけでも万人が分かるポピュラーな曲。管弦楽バージョンはオーケストラ魔術師と呼ばれたラヴェルによる編曲でもともとムソルグスキーによる作曲はピアノ曲なのです。

 ともかく、しなやかで柔軟性のある演奏。ブラームスのように内省的な演奏が求められないので、今のガヴリリュクの持ち味が存分に発揮。

 粒の揃ったタッチと、ダイナミズムが非常に効果的に作用して聴き手を引き込みます。方向性は、一枚一枚の画に物語性を描出する方法なのですが、各曲へ移る際に、もう少し踏みとどまって欲しいですね。その方がもっとはっきりしたと思う。あれ、もう移っちゃうの?とちょっと戸惑ったですね。


 アンコール曲は、その量も(8曲優に30分は超えている!)さることながら、好きな曲を弾いているからとてもリラックスしていたようだ。

 やっぱり、ウクライナという文化圏からラフマニノフには特性を示しているように思う。メンデルスゾーンモーツァルトも編曲で賑やかになっているので、「ガヴリリュクらしさ」が発揮されていると言えばいいだろうか。

 ともかく、浜松の1位は伊達じゃないな、と思わせた。なによりコンサート経験は演奏の深化に寄与するところ大だから、このまま行けばブレハッチよりも良いんじゃないか。

February 04(Sat), 2006

先祖返りに捉えられる悲哀

 世間的にはどうでもいいベタ記事なんだけど社民党が再び、自衛隊違憲とする党宣言案を採択したとする記事。

表示できません - Yahoo!ニュース

 ただ、世の中便利なもので、こーいうときにネットは大変重宝するなぁ。実際のところはどうなのかと確認してたところ、特段そういったことではないみたいだ。


安全保障

 核兵器の廃絶を始め、最終的にあらゆる軍事力の保有が否定された非武装の世界を目指します。北東アジア地域の非核化と対話・協力を基盤にした総合的な安全保障機構の創設、そして東アジア共同体の実現に努力します。自衛隊の改編・縮小、日米安全保障条約の平和友好条約への転換、在日米軍基地の整理・縮小・撤去を進めます。国連の集団安全保障活動であっても、自衛隊がこれに参加して海外で武力行使することを認めず、憲法9条に基づき、国際貢献については非軍事・文民・民生を基本に積極的な役割を果たします。


 いわゆる「問題の箇所」というのはここなんだけど、別段、新聞記事のように「自衛隊違憲」を訴えているわけではないようだ。それが証拠に、「自衛隊の改編・縮小」に留まっていて、廃止までは主張しない。

 ただ、やっぱり先祖返りに写るというか、メディアからすれば先祖返りにしたいんだろうな。「あー、あそこは又バカなことをやってるよ」みたいなね。

 ただ、これしきのことはソフト化路線になった共産党も主張しているからなぁ。これでいわゆる「先祖返り」をしても全く意味をなさないばかりか、むしろ支持を減らしてしまうだろう。

 ボッビオの指摘の通り、政治的なるものは左右の対立であると考えれば、自民民主ともに中道右派民主は異論があるかもしれないが)的性格を持っているから、それとコントラストをなそうとするのは一面では意味があるだろう。だけど、それが極端すぎて人びとから乖離してしまっているのではないか。

 もう少し踏み込んでいえば、ユートピア的な国家像を掲げるのは問題がない。しかし、今ある現状の中でどうするか、という視点を決定的に欠いている。

 実際に、安全保障アメリカとの間で日米安保がある。そして、9条を持つ日本国憲法と共に自衛隊が存在してしまっている。

 こうした前提でどうするか、過程を考えなければならないだろう。

 日米安保を維持したまま、次第にアジアと連携していくとかね。大枠のフレームを変えなくても、徐々にコミットメントを変えていくということなら可能ではないのか。

 (ただ、中国とは規模が非対称で難しいかも。韓半島ASEANとの関係を模索した方が現実的だとおもう…。)

 バスケみたいに軸足は変えなくても、重心は変えることができると思うのだが。

 自衛隊も、専守防衛なら可能とする村山見解で充分よかったと思う。少なくとも、イギリス労働党ドイツ社会民主党軍事力の否定はしていない。

 つまり、安全保障政策の一点が西欧の社会民主主義政党フォッサマグナのごとき断層をみせているのだ。どうも、日本の左派政党は「権力を自分たちでコントロールしていく」という意思が希薄だ。何らかの形で中道左派というもので政権を作ろうとするなら直面しなくてはいけない問題なのだけれどね。

 それに、そこが一種の胡散臭さに繋がっているのではないかなぁ。理論的に正しいことは重要。ただし、それを実現させるための架橋を考えることも重要だと思う。それを言わなくて理想論ばかり言っても、宗教と変わらないでしょ。

February 02(Thu), 2006

凄いと言うから聴いてみた@ショパン・コンクール・ライブ2005山本貴志

山本貴志I

山本貴志I

 ショパンコンクールで入賞した山本貴志のCDを聴く。

 いや、なんで興味を持ったかと言えば、褒めてる記事を見つけたので、ちょっと気になったからなんだけどさ。

 凄いと言ったのは、ピアニストの鈴木弘尚(HPhttp://hironao.exblog.jp/)。自身で綴る日記によれば、凄いと言うよりも、



本当に素晴らしかったです。

あれほどの心を持った日本人のピアニストの演奏を近年聴いたことがあったかどうか?



 ということなんだけど。まぁ、要は凄いってことでしょ。

 ショパンコンクールはその名の通り。

お探しのページが見つかりません|マクセルホールディングス

 審査対象となる課題曲はオール・ショパン。他のコンクールでは課題曲は選べたりするんだけれど、ショパンコンクールの場合はそうはいかないみたいですね。

 ショパンコンクールといえば、ポリーニアルゲリッチブーニン、なんかが一位を獲ってますね。日本人では中村紘子内田光子横山幸雄とかかな。もっとも、日本人で最高位は内田光子の第二位。

 でも、あくまでも「ショパン」コンクールだからなぁ。「ショパン弾き」であっても、ベートーヴェンモーツァルトはまた別だと思う。私見だけれど、管理人は中村紘子ベートーヴェンは全く採らない。以前出た、ベートーヴェン協奏曲(全集になったか?)で5番「皇帝」を聴いたときは、ガッカリしたもんな。安心して聴けるのはショパンだけって感じするし。

 逆に内田光子ショパンコンクールでこそ二位だけど、今は凄まじいピアニストだ。モーツァルトピアノソナタやテイトが指揮をした協奏曲。あるいは、シューベルトの作品群。トドメはクルト・ザンデルリンクと組んだベートーヴェン協奏曲。これらは文句なしに凄い。意地の悪い言い方になるが、ベートーヴェン協奏曲を中村と内田で聴き比べてみればすぐ分かる。その後の研鑽の差なのかなぁ…。

 また、上位で入賞しても、パッとしないのなんかゴロゴロしている。その逆に下位入賞でものし上がったりね。典型的なのは1985年に5位で入賞したルイサダだろうな。

 この時の覇者はブーニンブーニンが凄いのは言わずもがな。なんだけど、2位から4位よりもその後の活躍は著しいものがある。

 だから、きっかけにはなっても、所詮はきっかけだとも言える。裏を返せばこれを上手く自分の糧にすればいいのだけどね。

ショパン:名演集

ショパン:名演集

 「ショパン弾き」っていうと管理人は(CDだけど)コルトールービンシュタインリパッティなんかの印象が強いです。今生きてるヒトだと、ブーニンやルイサダじゃないかなぁ。

 その辺りが印象的なので、この山本貴志の演奏はちょっと意外だった。

 鈴木弘尚が「あれほどの心」という形容はまさにぴったり。舟歌の叙情性、非常に繊細な音楽。以前、鈴木弘尚のコンサートから受けた彼の理想とする音楽への志向からすると、山本貴志のこういった音楽性は非常に心の琴線に引っ掛かるんだろうと思う。

 もちろん問題点は、そこにあるとも言える。そうした美徳は言わばコインの裏表で、裏返すとショパンの情熱が後景に退いてしまう。

 ダイナミズムが不足するところがあるから、スケール感ある大きな音が出ない。俗っぽく言えばボリュームに欠けるのだ。

 それが端的に表れているのが英雄ポロネーズだろう。老大家ならいざ知らず、まだまだ若いのにあれでは大人しすぎる。

 老大家と呼ばれるピアニストがそれでも聴かせてしまうのは、怪しい言い方になるが精神性が深く、技術的ハンデが乗り越えられるからだろう。もっとも、晩年のルービンシュタインは大人しいなんてことはCDを聴いていて少しも思わないけど…。

 でも、ショパン弾きとしては目指す音楽性が面白いから頑張って欲しいなぁ。案外、ショパンよりもモーツァルトシューベルトに適性を示すかもしれない。曲は簡単だけど、モーツァルトのピアニズムを完全に表現するのは難しそうだけど。

 今回の覇者ブレハッチの演奏はそれとは対極。最初の一音を聞いて「ああ、ショパンの音がする」と思わせる。確かに、2位なしの1位なのは納得だ。ルービンシュタインの衣鉢を継ぐといえば大げさか。直接の関係はないんだけど、粒の揃った音、曲に対する構成感やスケールが似ている。

 ただ、今ブレハッチを聴くなら迷わずルービンシュタインを推すけどね。でも、期待の新星で良いのではないかな。

 モーツァルト・イヤーなのにショパンについてでした。

ショパン 24の前奏曲集

ショパン 24の前奏曲集

ショパン:ポロネーズ全曲

ショパン:ポロネーズ全曲

 このへんのお歴々は「自分の音」を持っていて一音聴いただけで、彼らの世界に吸い込まれる。凄まじい磁場を持ってるね。ちなみにコルトーリパッティはモノラル録音なので一般にはオススメできず注意が必要。でも、聴いて欲しいなぁ。

ショパン:17のワルツ

ショパン:17のワルツ

 最新のデジタル録音にして、同期の二人。天才肌のブーニンに対してルイサダは知性と感性のバランスが良いと管理人は勝手に思っている(笑)。この二人も自らのショパン像を塑造していて素晴らしい。

February 01(Wed), 2006

近時のニュース雑感@NEWSと東横インと防衛施設庁と…。


 というわけで、ゴチャゴチャみていくと、色々問題があるようですね。


 ニュース繋がりで一発目はNEWS。内に引き続きまたメンバーの誰かが飲酒→自粛だと。アイドルなのに早稲田だとかMARCHレベルの大学を合格している割には、学ばないなぁ。

 芸能人は、世間ズレがウリでもあるんだろうけど、あくまでも法律の範囲内であることが重要だろう。「法律は最低限の道徳である」って言葉もあるくらいだし。

 芸能界はマス・メディアという媒体を通じて成り立つワケだ。だから当然、マスメディアはその名の通り、不特定多数の大衆に対してアウトプットする。そうした普通の人が持ち得ない媒体をツールにする職業は公的性格を、否応なしに帯びてくる。

 今回の一件はそうした自覚に欠けるのではないだろうか。

公共性 (思考のフロンティア)

公共性 (思考のフロンティア)

分かりやすいですよ。いずれ詳しく(もう、こー言ってばっかりだな)


 自覚に欠ける、の続きは東横インの社長の会見。

 あそこまで、本音を言ってハッキリ言って呆れ果てた。世の中にはホンネとタテマエがあって、あーいった事件があって記者会見をしているのに、まったく悪びれる様子も反省する様子もなく、いけしゃあしゃあと言ってのけるその根性に、この人にはパブリックなものに対する認識が欠けていると思った。

 パブリックなものに対する認識は公共性でそのうちにもっと考察すると思うけどね。

 ただ、これは公共性の欠如と共に堀江ライブドア事件と同様、後発企業がその業界でのし上がっていくために生じた歪みが存在しているように思う。

 これと同様な構図として佐川急便事件があるだろう。宅配業に後発して参加した佐川急便ヤマト運輸に追いつくために、政界へ資金提供をしたというのが佐川急便事件。

 ということは、資本主義経済のとりわけ新自由主義路線において前提視される「公正な競争」というのは果たしてどこまで可能なのか、といった根本的問いがありそうだ。

 ライブドア事件、それより以前の耐震強度偽装問題、これらは市場原理の中で「きちんとした監視」だ行われていなかったことを端的に表している。

 だから適切な規制と監視(ただし、管理ではない)は必要なのだと思う。こうした考え方は「第三の道」路線で明確に示されているとおり。

第三の道―効率と公正の新たな同盟

第三の道―効率と公正の新たな同盟

ブレア政権にとっての理論的支柱とされるアンソニー・ギデンズ。ギデンズの意図をブレアはどこまで汲んでいるかという疑問はあるが…。


 防衛施設庁談合と、防衛庁の省への格上げ問題は格上げしない方が良いだろうってこの事件だけでも思わせるに充分だ。

 だいたい「小さな政府」路線を志向するのに防衛庁が省へと昇格したら規模が大きくなるのは必須。彼らの掲げる時代潮流に逆行する。

 大体、今のままで不満だから内閣府の一庁からそこからは独立した省になりたいのだろう。防衛省になった場合、内閣を構成する大臣が必要になり、防衛庁長官とは異なり、首相との関係は直属の上司になるわけでない。

 そうすると、シビリアンコントロールの厳格化からは明らかに後退することになる。

 軍が大きな力を持って国政に影響を与えているのは、アメリカ中国を見れば容易に分かるだろう。

 自民党はなにゆえ、政治の影響力を進んで下げようとするのか…。

 かつてアメリカアイゼンハワー大統領が退任挨拶で「軍産複合体」(military-in-dustrial complex)と言及したように、軍隊が大きくなると軍隊の意向が産業界に影響を及ぼすようになる。

 しばしばそれが不要な軍事介入の始まりになった例は事欠かない。


 皇室典範の改正で、久しぶりに自民党を追われた平沼赳夫が絶叫してた。

 125代2600年続く天皇制を安易に変更して良いのか。という問題意識だとおもう。そこまで考えるのなら、125代と2600年も合わせて考えた方が良いと思う。歴史学では実在が疑われる天皇が何人もいるのだから。

 それと共に、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と日本国憲法にはあるから国民意識の高まりは必要だろうな。

 でも、勝谷誠彦旧宮家を復活云々はナンセンスの極み。天皇家ですら既に憲法の枠内でしか存立し得ないことをはっきり認識するべきだろう。形式的には民間人になった男性がいるとして、そのヒトが愛子内親王に代わって継承する、という行為が受け入れられるとは到底思えないのだが…。

 ま、火急の問題じゃないし、ゆっくり考えれば良いんじゃないのか。

これから読むのはキツいな。もっと易しいのが良いんだけど、手頃なものが見あたらなくて…。

山本貴志I

山本貴志I

今日買ったCD。感想はまた次回。管理人より年下だった。orz